第三十話『誓いの草履──天下を歩く一歩として』
信長の間に呼ばれたのは、ある快晴の昼だった。
雨上がりの中庭には鶯が鳴き、陽光に草の香りが混じる。日吉丸は、少しだけ背筋を伸ばしてその扉の前に立った。
「入れ」
信長の声は、以前よりもやわらかく、だがどこか重みを帯びていた。
「失礼します──日吉丸、参りました」
畳の間に入ると、信長は文を脇に置き、ゆっくりと立ち上がった。
「よう来たな、草履持ち」
「……はい。いえ、これからはそれだけやのうて、いろいろやれるよう、がんばりまっせ」
信長はふっと笑い、脇にいた侍女に手を振った。
差し出されたのは、見たこともないような艶のある、新しい草履。
「……これは……?」
「おまえのために誂えたものだ。これより先、おぬしが“仕える”覚悟を定めた証として」
日吉丸は、思わず膝をついた。
両手で草履を抱き、頬に当てるようにして目を閉じた。
──柔らかい。
──だが、芯がある。
──そして、確かに“信頼”が縫い込まれていた。
「……ありがとうございます。信長さま」
「この草履は、わしのためだけではない。
おまえが、いつか“誰か”のために立ち上がるとき、己の誇りとして履いてみせよ」
日吉丸の胸が熱くなった。
肩の傷がうずく。
戦場で流した涙と、仲間の声が蘇る。
ねねの涙、利家の叫び、千鶴の視線……
すべてが、この手にある草履へと繋がっていた。
「……わし、この草履で、天下を歩きます」
「ほう?」
信長が少し目を細めた。
「わし、ぜってぇ負けへんで。
信長さまの“天下”の先、そのまた先まで、見てまいます」
「……ほざけ、小姓。だが、面白い。
その大言、忘れるなよ」
「もちろんやがね!」
草履を両手で掲げながら、日吉丸は笑った。
小姓の身なれど、胸を張って、天下を見据えるその笑みは、確かに“未来”を映していた。
──これはまだ、ただの一足の草履。
だが、いずれこの一歩が、
──“豊臣秀吉”の名を刻む、最初の歩みとなるのだった。




