第二十三話『女たちの別れ支度』
春の夜風が、少しだけ冷たくなってきた。
清洲城の台所では、ねねが包丁を握っていた。いつもよりも静かな手つきで、大根を刻んでいる。
「……あの子、また草履抱いて寝とったな」
隣では、おしのが静かに味噌を溶いていた。
「日吉丸さま、なにか思い悩んではる……そんな顔してました」
「……信長さまの密命、聞いてしもたんやろな」
ふたりは言葉にせずとも、感じ取っていた。
──何かが近づいている。
戦、という言葉を使わずに、それでも確かに迫ってくる“別れの気配”。
「だからや。せめて、今できることを……」
ねねは、炊き立ての飯を握り、包みに詰める。
「もし明日、出陣言われても、空腹で倒れたらあかんでな」
おしのも、自分で縫った守り袋を差し出した。
「これ……山の麓で拾った小石と、村の土です。あの川べりの桜の香りも、ほのかに残ってるはず……」
──そのとき、ふすまの影からもうひとりの女が現れた。
「随分と……良い嫁気取りですこと」
千鶴だった。
その艶やかな小袖と、淡い紅の唇が、夜灯の下でやけに妖しく見えた。
「わたくしにも、準備はございます」
そう言って差し出したのは、手ずから調香した香油と、文。
「この香を肌に塗っておけば、野戦の塵も、疲れも紛れるでしょう。
そして──この文は、もしもの時、日吉丸さまに届けていただけるように……」
「……よう、そんな落ち着いて物言えるな」
ねねが、静かににらむ。
「戦なんて、ほんまに起こってほしくない。
あのアホが、草履持ってヘラヘラしとる姿を見とるだけでええんやて」
「ええ、それが……いちばんの幸せです」
おしのの言葉に、三人は沈黙した。
その夜、日吉丸は廊下で三つの包みを見つける。
包みには、それぞれ小さく名が記されていた。
──ねね:おにぎり三つ、干し柿、手ぬぐい。
──おしの:お守り袋、香り袋、小さな布の花。
──千鶴:文、香油、小刀。
「……なんや、なんで、こんな……」
日吉丸の目頭が熱くなる。
「わし、まだなにもしてへんのに……みんな……」
そのとき、背中に気配がした。
「……見た?」
ねねだった。
「見た、けど……なんか、ずるいわ。みんな、優しすぎる」
「それはな、あんたが“優しくされたい顔”しとるからや」
ねねはくすっと笑って、そっと肩に布団をかけた。
「……忘れんといてな。
わたしたち、あんたの“帰り先”やから」
「……うん」
日吉丸は、三人の気持ちを胸に抱きしめるようにして、その夜を過ごした。
──戦が来るかどうか。
そんなことは、まだ誰にもわからない。
だが確かに言えるのは──
愛されているということ。
そして、守るべきものがあるということ。
それが、日吉丸を“男”にしていく。




