第一話『草履と、お鈴と、夢のはじまり』
――春の風は、どこか甘い。
けれど、尾張・中村の村を流れるこの小川のそばには、まだ雪解け水の冷たさが残っていた。
「日吉丸、またあんた草履持ってどこ行くの? 今度は誰の?」
そう声をかけてきたのは、豆腐屋の娘・お鈴だった。
干した晒の間からひょっこり顔を出したその頬には、米ぬかの粉がついている。
「うん、庄屋んとこの若旦那やて。今日もまた“ぬくぬく草履”持ってこい言うてさ」
「またぁ? あんた、それでよう怒られとるがね」
「ええがな。わしの“特製あったか草履”、評判なんやて。来年には、尾張中の草履温める男になっとるかもしれへんぞ?」
お鈴は呆れたように、でも、少しうれしそうに笑った。
「……ホントに、あんたは口ばっかり」
「口ばっかでええやないか。夢ちゅうのは、口に出したもん勝ちやて」
日吉丸は胸を張って言った。
襤褸同然の綿入りの羽織に、使い古した草履。髪は寝癖のまま、でもその目だけは、真っ直ぐだった。
「わしな、いつか天下取るで」
「……はあ?」
お鈴は呆れた表情を通り越して、ぽかんと口を開けた。
「天下て……、そりゃあの“織田信長さま”とか、そんなんがなるもんやろ? あんた百姓の子やがね」
「せやで。せやけど、なれるもんならなってみたいんや。でっかい城持って、女中に草履出させて、豪勢な湯殿で酒呑むんやて」
「……夢の見過ぎ」
「じゃあ、お鈴は? 将来の夢、なんかないの?」
お鈴は、ちらりと空を見上げた。
春の桜が、わずかに開き始めている。
「……わたしの夢?」
「うん」
「……」
お鈴は、ふと黙って、小さくため息をついた。
「――あんたの、婿さんになってくれることかな」
日吉丸は、耳まで真っ赤になった。
心臓が、どっかんどっかん暴れ出す。
「な、なにを……! そ、そんな……いきなり……」
「ふふっ。あんた、夢ばっか語るくせに、こういうのには慣れてないのね」
お鈴はにっこり笑った。
その笑顔は、春の陽だまりみたいに、あたたかくて、まぶしかった。
その瞬間、日吉丸は確信した。
――この子の手を、絶対に離したらあかん。
――この手を握るには、今のわしのままじゃ、あかん。
草履を温めるだけじゃ、足りんのや。
「……なあ、お鈴」
「なに?」
「わし、ほんまに天下取るで」
「うん、聞いた」
「ほんまに、ほんまにや。でっかい城建てて、豆腐いっぱい買うたる」
「……そしたら、わたし、豆腐屋やめて、あんたのとこ行くわ」
桜の花が、はらりと風に揺れた。
まだ咲き始めのつぼみが、日差しの中でほころびかけていた。
お鈴は、小さな布袋を差し出した。
「これ、わたしの手縫いのお守り。中には、お米と豆腐の乾き物、ちょびっと入れてある」
「食いもんかい!」
「うるさい。元気に働けるようにって、願いを込めたのよ」
「……ありがとうな」
二人は、川辺の桜の木の下で、小さな指切りをした。
「天下取ったら、迎えに来る」
「うん。あたしも、そのときまで豆腐、こぼさずに売っとく」
日吉丸の夢が、ほんの少し現実味を帯びた気がした。
それは、春の陽気のせいじゃなかった。
――あの笑顔が、わしの心を動かしたんや。
まだ草履ひとつもまともに売れんわしが、
未来を誓ってまうくらい、惚れてまったんやて。
(つづく)