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大型電光掲示板を明るくさせ続ける動画広告は、意味のあるループの中にいる。誰もその動きを止める方法を知らないし、眼中にもない。意識にもなければ、そもそも存在すらもさせていないかもしれない。
新発売の炭酸飲料の広告のあとには綺麗な白い歯を並べた女優を起用した歯磨き粉の広告。高機能の目覚まし時計の広告のあとにはご長寿ゲームの最新作の広告。弁護士事務所の宣伝かと思えば、次に明かりを撒き散らすのは劇場型の消費者金融。
濡れた地面や水たまりに、広告のさまざまな人、物、色が見えた。灰色の雲が空に広がり、降ってくる雨のせいで普段よりも世界の色の彩度が強くなっている気がした。
傘の内側にその雨が侵入することはない。
透明な傘の内側から、曲面を滑り落ちていく水滴を見つめてみる。綺麗な丸に見えるが、いくつかは楕円に広がり、そのまま地面に落ちていってしまう。
地面に落ちた雨粒をもう雨粒とは言えない。地面、草木、誰かもわからない誰かが着ている服、光り続ける自動販売機、様々な形の窓を含んだ建物。天使の涙に包まれて、溶けて、融合し始めたそれらは、憂鬱、疲労、眠気、少しの嬉しさを孕んだままこの街を覆う。嫌でもその匂いが自分を刺激した。
この雨は必ず雪に変わる。この場所では、この北白という名の市では、雨は雪に変わるのだ。
ビーカーの中、温かなコーヒー。上昇する湯気の匂いがこの部屋とのアンバランスさを明らかにしている。パッパッと照明が点滅する。交換の期日が迫っているようだ。
部屋の中をコーヒーの苦く柔らかい香りが埋め尽くしている。そのコーヒーの入ったビーカーを片手に持つ男。入れ物とその中身さえ違えば、その男を英国紳士のようだと言っても反対意見は出ないであろう。
「ボスから連絡はないのか、リュウ。相変わらずだな」
「そうなんだよ博士、ここ最近は連絡なしさ」
コーヒータイムの男とは違い、大きなソファに寝転んで、一週間前の新聞で顔を隠し、少し眠気を帯びた声で返事をする男。リュウと呼ばれる男。
ソファからガバッと勢いよく起き上がる。点滅する光が彼を等間隔に照らすたびに、黒の髪に混じった青の波が揺れる。退屈そうな顔に見えるが、髪と同じ色の瞳には、この世のすべてに向けられている懐疑心が消えないまま残り続けている。
「多くの創作物なんかだと『何もないことは良いことじゃないか』って博士みたいな主人公を支える脇役が言いそうなセリフが聞こえるはずなんだがな」
「俺は言わないぞ、リュウ。なぜなら俺は脇役じゃなくて、"俺も"主人公の一人だからな」
「……よく言うぜ」
この博士は冗談と本気を混ぜながら喋る。だから、本心を隠しているのか、剝き出しにしているのか全くわからない。
博士は、外出先でない限り、コーヒーを飲むときは基本ビーカーで飲む。——というかビーカー以外でコーヒーを飲んでいる場面がリュウの記憶にはほとんどない。
濁りの入ったサングラスを着け、新しいものを買えと何度も同僚に言われているのに、いつも同じスーツを着ている。——というかこのスーツ以外の服を着た博士がリュウの記憶にはない。一応クリーニングには出しているらしいが……。
暇な時間ができれば、日焼けしたケースに入ったディスクをテレビ画面で再生する。——というかこのディスクの映像以外で博士がテレビを観ている姿がリュウの記憶にはない。ちなみに、リュウは一度だけそのディスクの映像を博士と一緒に見たことがある。今のリュウの脳内には、古いロボットアニメのオープニングが浮かび始めていた。
新たな服を買わない限り絶対に変わらない姿で、味覚嗜好が転換しない限り絶対に変わらない飲み物と一緒に、故障でもしてディスクに不具合が起きない限り絶対に変わらない映像を今日も自分が満たされるまでこの博士は観る。
はずなのだが、今日は早めに戸締りするようだ。
「なんだよ博士、もう観るのやめちまうのか?」
「いやな、とうとうボスに怒られちまってよ。『お前は確かに幅広い知識を持ってはいるが、どれも古すぎる。イマのことについて知らなさすぎだ』、『せめて、昼と夜のバラエティーでも見てろ』とさ。で、今からその昼のバラエティーが始まるから一旦広げた店を閉じるってわけだ」
いつもとは違うリモコンのボタンがポチポチと押される。
「娯楽番組を見るだけで過去の塊みたいな男が変われるのかよ……」
再び、リュウはソファに倒れる。
奥に見えるいつもとは違う画面に照らされる博士がなんだか新鮮に見えた。自身の記憶が新たなものに更新されたことに対する少しの笑みで、顔に置かれた一週間前の新聞がふわりと舞う。
今日もこうやって一日が終わっていくのか……。
ジリリン、ジリリン。このラボの電話が鳴る。
受話器を取った博士は、いったい何年使っているのか本人にしかわからないくらいに古びた電話とお話しを始める。
もうひと眠りしようとリュウは夢の中に足を踏み入れようとした。
そのとき、リュウの腹に何かが落ちる。受話器だ。
何重にも巻かれたコードにつながれた本体を、博士が両手で大事そうに持ちながらソファのそばまで来ていた。
俺に用のやつか。そんなもん一人しかいない。