王子様、真実の愛のために奔走する
細かい事は気にしない方のみどうぞ。
「マルグレーテ・フィルミネル! 私は真実の愛を見つけた。故に、そなたとの婚約を破棄するッ!!」
第一王子がそんな風に告げたのは、国王夫妻が外遊でいないパーティーでの事だった。
参加していた貴族たちのそれぞれの会話によって会場は賑やかであったけれど、その一声によって場は水を打ったように静まり返り、そして視線は一斉にそちらへと向けられた。
大勢の前での婚約破棄。
令嬢に問題があったのであればまだしも、婚約破棄の理由は真実の愛ときた。
王子の隣に低位貴族の娘でもいればわかりやすかったが、しかし王子の隣には誰もいない。
であれば。
――相手は平民か。
周囲がそう思うのも無理はなかった。
ここにいていいのは給仕や警護を除けば貴族たちだけで、平民がいていい場所ではない。それに給仕や警護をしている者たちの身分とて、決して低いわけではないのだ。多くの貴族たちが思う教育の行き届いていない平民、という存在はこの場には決しているはずがないのである。
あまりにも堂々と宣言する王子の姿は、宣言内容がこれじゃなければきっと立派に見えたのだろう。
けれども。
周囲の貴族たちの目に、明らかな失望の光が宿る。
今まで優秀だと思っていた第一王子だけれど、優秀だと思っていたのはまやかしであったか……と。
「婚約破棄、確かに承りました」
そんな中、マルグレーテは静かにそれを了承し、すっと一度静かに礼をする。
「あぁ、それからそなたには国外追放を言い渡す。今この瞬間を以て、そなたがこの国にいる事は許さぬ。早々に出ていくがよい」
「……ご随意に」
そのあまりにも暴君のような言葉に。
あっさりとマルグレーテは頷いて、そして周囲は騒めいた。
マルグレーテが一体何をしたというのだ。
真実の愛だかなんだかしらないが、お前の方こそが出ていくべきではないのか。
そんな風に周囲の貴族は先程までの第一王子へ向けていた評価をあっさりと書き変えて、これからは第二王子派へ鞍替えしようと頭の中で考え始める。
そこへ、新たなる人物がやってきた。
第二王子である。
「兄上、貴方と言う人は……このような場でそのような事を言って、ただで済むと思っているのですか。
貴方に次の王たる資格はありません。貴方こそ、この場から立ち去って下さい。
この事が国王陛下に伝われば、どうせ貴方には罰が下るでしょうから」
「言われるまでもない」
はっ、と鼻で嗤うようにして、第一王子は周囲で見ていた貴族たちの視線をものともせずに会場を突っ切って行った。
その様子は、恋に狂った男、というのはどこか違う気もしたのだが……
会場にいたほとんどの貴族たちはその事に気付かなかったのである。
第一王子があまりにも堂々とした足取りで出て行ったのに対し、マルグレーテは静かに出ていった。
第一王子の言いがかりにも等しい宣言など無視したところで問題ないとは思うけれど。それでも今はまだ彼は第一王子なのだ。その言葉を無視するわけにもいかなかった。
――と、まぁ。
ここまでは、予定通りであった。
第一王子――ミハエルは会場から出ると堂々とした足取りを更に速め、さながら駆け出すくらいの勢いで移動を開始していた。
パーティーに相応しい服装であったけれど、あらかじめ用意してあった荷物を回収するととても王族とは思えない勢いで上だけ脱いで、荷物の中から別の上着を取り出す。
一見すると貴族が着るようには見えない黒い服を着れば、上半身だけはあまり貴族に見えない。やたら顔の良い平民……と言い張れなくもないだろうか。
そこから次の場所へ移動する――その前に。
「マルグレーテ!」
「ミハエル様!」
やや遅れてやって来たマルグレーテの手を、ミハエルはそっと取り、そのままエスコートするかのように歩き出す。
「急ごう。ここからは時間との勝負だ」
「はい」
やや速い移動ではあるものの、ミハエルがエスコートしてくれているからか、マルグレーテの足取りも危なげなく動いている。
王家の家紋のついていない馬車を事前に用意しておいた。マルグレーテに乗ってもらい、ミハエルは御者として馬車を動かした。
かくして。
この日、国から一人の王子とその婚約者であった令嬢が消えた。
それはある意味で一大ニュースであるはずなのだけれど。
マルグレーテの両親でもあるフィルミネル公爵夫妻は娘がいなくなったのを王族の命を聞いただけとしれっと受け流していたし、第一王子の行方も杳として知れなかった。
大勢の前で婚約破棄宣言までしたのだから、まさか二人一緒に国を出ていったとは思わないだろうけれど。
実際その事実を知っている者は数名いる。
前述したフィルミネル公爵夫妻。第二王子ラドクリフ。この他にも密かに協力している者たち。
だがそのたった数名だけで、それ以外は知らないままだ。
外遊から戻ってきた国王夫妻がその事実を知った時、取り乱さんばかりの勢いで探せと言ったのは国王の方だ。王妃はミハエルの愚かな行為に「何という事を……」と嘆きはしたものの、それ以上の行動には移らなかった。王妃という立場上、人の目がある場所で怒り喚くわけにもいかないだろうし、かといって子を想う母として捜索を早くというにしてもだ。既にその命は王が下している。
であれば、下手に取り乱すより平静を装うしかなかったのだ。
……とはいえ、実のところ王妃も共犯である。
実際に知らないのは国王だけだった。
国王アーガスはどこぞへと消えた王子はもとより、国外追放を言い渡されたマルグレーテも大至急捜すようにと指示を出した。
とはいえ、仮にまだ国内にいるならまだしも、国外に行った後となれば捜して見つけたとしても、本人が望まない場合戻ってくる事もないだろう。
マルグレーテの両親はというと、
「しかしもう追放を言い渡されてどれだけ経過したと思っているのですか……」
などと捜索に消極的な姿勢ですらあった。
その言葉に、アーガスは「ぐ、むぅ……」と思わず呻く。
本来は、もう少し早くに戻ってくる予定だったのだ。
ところが道中、大きなトラブルこそなかったものの、小さなあれやこれやで少しずつ時間をとられ、気付けば本来予定していた日より数日遅れて戻ってくる事となってしまったのだ。
もし、本来予定していた日に戻ってきていたのであれば。
二人を捜し出すにしても、まだ見つかる可能性はあったはずだ。
まさか王妃がそれとなく誘導し、帰還までの時間を稼いでいたとは思っていない国王は、まんまとそれらすべてに引っかかり大幅に予定が遅れての帰還となったのだ。
国王が国にいない事は、本来ならば何かあった時に手の施しようがない事になりえる可能性もあるので、戻るのが遅くなるというのは焦る原因ともなるのだが。
しかしアーガスには優秀な二人の息子がいたために。
そして優秀なる部下たちもいたために。
予定より遅い帰還であっても最近の情勢は特に荒れているわけでもないからこそ、アーガスはそこまで焦りもしていなかった。国王代理としての権限をミハエルに一時的に与えていたのもあって、帰ったら国が滅んでいました、などという事はないと信じていた。
確かに国は滅びてはいない。
いないけれど、しかし肝心のミハエルは大勢の前でマルグレーテに婚約破棄を突きつけたというではないか。
ラドクリフはそんな事を仕出かした兄に、部屋に戻って頭を冷やせ、という意味でこの場から立ち去れと告げたが、まさかそのままどこぞへと出奔するなど思ってもいなかったようだ。
とはいえ、それを責めるわけにもいかない。
そのような事をやらかしたミハエルをパーティー会場にそのまま居続けさせても、周囲の貴族たちとて困るだろう。だからこそ、ラドクリフが悪いわけではない。むしろそのままにしておく方が、王家の威信に関わってしまう。
それにその時の言い回しも、実際そこまで間違ってはいないのだ。
下手に第二王子が兄を優しく宥めようとしていたのであれば、頼りないと周囲の目には映った事だろう。結果として、それはやはり最終的に王家の威信に関わっていたに違いなかった。
兄だから、などという理由で下手に優しく言い聞かせるような態度に出るわけにはいかなかったのだ。あの場で明らかに間違っている兄の発言を、弟は毅然とした態度で向き合わなければならなかった。
……まぁ、あくまでも表向きの話である。
あの場でのあれらの発言は全て仕組まれていた事なので。
表向き平静を装おうとしているアーガスを、ラドクリフも王妃も冷めた目で見ていた。
アーガスはどこを捜せだとかいう指示までは出していなかった。手がかりがない状態なのでそれは仕方がない。
恐らくまずは国内の、国境付近の町や村で聞き込みをして情報を探るしかないはずではある。マルグレーテらしき人物を見かけたかどうか。見かけていたなら、そこから続く隣国へ捜索の手を伸ばすはずだ。
と言っても、隣国でこちらが好き勝手できるはずもない。
だからこそ、内密に捜させて、もし見つけたのなら速やかに確保せよ、と言うだろう事は簡単に想像できた。
本来ならばそうなのだが。
しかし数日あったわけで。
「父上、念のため捜索の手を広げておりましたが、兄上はさておきマルグレーテ嬢らしき人物に関しては、メルベーシア国へ続く村の方へ向かったという目撃情報がありました」
「そうか! ではまずはそちらを重点的に捜すのだ」
そう指示を出す王の言葉に、すぐさま兵士たちが動き出す。
一筋の希望が見えた、みたいな反応をしたアーガスに、ラドクリフはそっと王妃と目配せし合った。
周辺を捜索する兵士たちには申し訳ないが、思い切り嘘である。
まぁ適当なところで王妃が兵士たちに新たな命を下して引き上げさせればいいだろう。
アーガスがそう簡単に諦めるとは思っていないが、そればかりにかまけて執務を疎かにされるのも困るからだ。
せめて、彼が王位を退くのであれば後はもう勝手にしろとしか思わないのだが。
そう、王でなくなりさえすれば、後はどうとでもできるのだ。
故に、今はまだ。
ラドクリフが示したメルベーシアという国とは全然違う方向に存在している隣国から、更にもう二つ程離れた国、ヴェドジェ。そこに、ミハエルとマルグレーテはいた。
ミハエルはコツコツと貯めていた個人資産でもってこの国に小さな屋敷を購入し、そこへマルグレーテを連れてあのパーティー会場から脱出したのである。
ラドクリフからの手紙には、王がマルグレーテを捜索しているという文面があり、思わず眉間に皺を寄せて手紙を危うく握りつぶしそうになったものの。
見当違いな場所を捜すように誘導したとの事で、流石にここまで手は伸びてこないだろうと思い直す。
国を追い出された令嬢が、親の助けもなしに一人で国を出ようとしたところで。
ここまで来れるような事、そもそも予想などできるはずがないのだ。
徒歩での移動となれば到着までにまだまだもっと時間がかかっただろうし、途中でドレスなどを売り平民用の服にかえて、残った金銭で乗合馬車を使うにしても。
それでもまだこの国に到着できる余裕はない。
ミハエルは事前にいくつかの場所に王に内緒で用意しておいた馬を用意し、必要な休憩以外は移動が続けられるようにしておいたからこそ、周囲の予想を裏切る早さでこの国にたどり着いたのだ。
それにマルグレーテはすぐさま馬車に乗せたのもあって、外から彼女を見かけたなんていう人物、出るはずがないのだ。休憩のために途中宿をとったけれど、その時はあらかじめ用意してあった荷物で貴族令嬢に見えないように変装していたのもあって、実際に途中でそうとバレる事はなかった。
「あとは、ラドクリフが王位を継ぐだけか」
「……本当に、よろしかったのですか……?」
「構わない。言っただろう。真実の愛をみつけたと。君の方こそ、本当に良かったのかい?」
「勿論。お父様もお母様も、快く送り出してくれたのですよ」
「そうか……」
ふ、と口の端が緩むのを感じて、ミハエルは気を引き締める。
真実の愛のために、ミハエルは名を捨てた。王族であるということすらも。
今の彼は別の名を名乗っている。
そして、それはマルグレーテも同様だった。
彼女もまた貴族令嬢である事を捨て、今は何の身分もない平民として生きている。
この国では生まれ故郷と異なって、身分と言うものがそこまで幅を利かせているわけではない。何年か前に共和国制へと変わり、王族や貴族という者たちの身分が絶対というわけではなくなったのだ。
ミハエルは数年前から商会を密かに立ち上げて、そうしてコツコツと個人資産を貯めていた。
王族という身分を出さない、商会長としての彼はやり手の商人として知られている。
マルグレーテも今はもうマルグレーテという名を捨て、違う名を名乗っている。
そんな彼女は彼の妻となった。
この国に来てすぐに、届けを出して夫婦となった。
真実の愛、とミハエルが言った相手はマルグレーテその人であった。
……婚約者だったのだから、わざわざ婚約破棄などしないでそのまま結婚すればいいだけの話だったのかもしれない。けれど、できなかったのだ。
ミハエルがあのような茶番を繰り広げたのには勿論理由がある。考えなしに言うはずなどない。
国王夫妻が不在の時の、パーティー。それは元々実行されることが決まっていたものなので、国王が不在であろうともミハエルやラドクリフがいたために問題もなく行われていた。
もし国王が……ミハエルにとってはもう父とも呼びたくないあの男がいる中であのような宣言をしていたのなら。
事態は間違いなく最悪へ進んでいた。
国王不在の場である事こそが、重要だったのだ。
彼女の――マルグレーテの身を守るために。
ミハエルは彼女を逃がすために、あの場であのように大々的に宣言をした。
こっそりと秘密裏に逃がす事も勿論考えたのだけれど。
しかしその場合は、マルグレーテの両親が彼女を匿っていると思われるだろうし、そうでなくとも彼女の親類縁者にも捜査の手は及んだだろう。
ラドクリフがアーガスに告げたメルベーシアという国は、神殿国家とも呼ばれている。身寄りのなくなった者たちを受け入れている事も知られている。
だからこそ、行くアテのなくなったマルグレーテが向かったと言われても何も不審に思われなかった。
突然向こうの国に捜索隊を乗り込ませるわけにもいかないから、まずは周辺で聞き込みをし、密かに向こうの国に兵を送る事は考えられるがそれも事前に対策済みだ。
次期国王としてミハエルは他国へ外交に行く際、ついていく事もあった。
ラドクリフは行かなかったが、しかしミハエル経由で知り合った彼ら彼女らと手紙のやりとりをするようになった。ラドクリフはもとより他国の文化に興味を示していたのもあって、手紙のやりとりは各国で行われていたのだ。お互い国の機密を漏らすような事はせず、普通に友好を深めていた。
国の重鎮と呼ばれる者たち以外にも、各分野の学者と呼ばれる者たちとも手紙を送りあっていたので周囲はラドクリフの趣味が文通であるとすら思っていたに違いない。
ラドクリフ経由で、メルベーシアの国にもこちらの事情を密かに説明してあるので、アーガスの手の者たちが向こうの国に行ったとしていいように翻弄してくれることだろう。
あちらの巫女姫様は、マルグレーテの身に迫る危険にとても胸を痛めてくれて、協力を申し出てくれたくらいだ。
表向きミハエルたちの味方はそう多くないように思えるが、かつてミハエルが築いた人脈と、またラドクリフが繋げた友好とで、密かな味方は実のところかなりいる。
まぁ、相手も慈善事業ではないので見返りは必須だったが、それはミハエルが築き上げた商会からどうとでもなるので。
このためにミハエルは着々と商会を大きくしていったといっても過言ではない。
ともあれ。
アーガスが何をしたところでここまで彼の手が迫る事はないだろうし、後はさっさと彼には王の座から退いてもらうだけだ。引退して余計な時間を与える事は逆に悪手のような気もするが、退位した後の王の権力は決して絶対的なものではない。
勿論無力とまではいかずとも、彼の妻となっていた王妃が裏で手を回すだろう。母は、間違いなくミハエルとラドクリフの味方だ。
王妃と王子二人が王を裏切った、と思われそうだが実際は違う。
王が、王妃の敵に回ったのだ。そして王子の敵にも。
――事の発端は、と言えば、ラドクリフやミハエルが生まれる前までさかのぼる。
当時まだ王子だったアーガスは、とある女性に激しく恋焦がれていた。
侯爵家の令嬢、フロレンツィアである。
彼女はマルグレーテの母だ。
アーガスが彼女を見初めた時には既に公爵家との婚約が結ばれており、王家が下手に介入しようにもいい口実が存在しなかった。
生まれて初めての恋、それも燃えるような熱情はしかし行き場を最初から失った状態のまま、決して手に入らないものとされてしまったのだ。
幼い頃のフロレンツィアは身体が弱く、あまり人前に出る事がなかったからこそ、幼い頃にアーガスと出会う事もないまま、ある程度の年齢になりそれなりに体調が改善されてから出会う事となったのも、きっと悪かったのだろう。
幼い頃のフロレンツィアは具合が悪くなるとすぐに吐くような娘であったが故に、到底人前に出せるものではなかったのだが。
それでも当時に王子と顔を合わせていたなら、目の前で吐くような女にアーガスがそこまでの執着を抱くことはなかったのかもしれない。
だがそんな部分を知らないまま、ただただ美しく成長したフロレンツィアを見初めてしまったアーガスの燃え盛るような恋は、消化されるような事もないままますます彼の中で燃え上がっていたのである。
密かに、婚約者であるマルグレーテの父を亡き者にしようと目論んだ事もあった。
どうしても手に入れたかった女が、既に誰かのものというだけでアーガスの中では狂おしいまでに嫉妬の炎も燃え上がっていたのである。
だが、憎き相手である令息は優秀で、アーガスの企みを知ってか知らずかギリギリのところで神回避し続け、そうして最終的にフロレンツィアと結婚したのだ。
それでもアーガスは諦められなかった。
表向きは自分の婚約者となった令嬢と上手くやっていたけれど、心の中はフロレンツィアだけしかいなかった。王族として、政略結婚の意味は理解していたため婚約者を蔑ろにするような事はせず、心の中でひたすらにフロレンツィアだけに恋焦がれていた。
いっそ結婚した後であっても。
今からでも公爵となった憎いあいつを殺して、未亡人になったフロレンツィアをどうにかして側妃あたりに迎え入れられないか、と画策したこともあった。
心、というのは人の目で見る事はできないが故に、アーガスのそんな執着にまみれた心には誰も気付かなかったのだ。アーガスが上手いくらいに取り繕っていたというのもある。
心の内さえ知らなければ、アーガスは少なくとも良き王であった。
そうこうしているうちに、フロレンツィアは子を産んだ。
マルグレーテである。
己が恋焦がれ、どうしても手に入れたい相手とそのような事をした公爵にますます殺意が芽生えたが、しかし生まれた相手がマルグレーテであった事で。
王の欲望は、おぞましい方向へ向かう事となる。
すくすくと成長していったマルグレーテは、フロレンツィアそっくりに育っていったのだ。
フロレンツィアは既に他の男のものになっているが、しかしマルグレーテはまだ無垢なまま。
年も身分も、申し分ない。
上の王子と年齢が釣り合う事もある。
だからこそ、アーガスはミハエルとマルグレーテの婚約を結ぶことに決めた。
そしてそれこそが、アーガスが王妃や王子たちを敵に回すきっかけとなったのである。
その時点でも、アーガスの企みはまだ誰も知らなかった。
知らなかった、が……知ってしまった者がいた。
幼い頃の王子二人である。
兄弟仲も良く、二人は自由時間でよく一緒になって遊んでいた。
他に遊び相手がいなかったというのもあったのだろう。
ミハエルがラドクリフの手を引いて、城の中を探検したり、なんていうのは遊びの中でも微笑ましいものであったので。
城の外に脱走するような事もなかったために、周囲の大人たちは温かく見守っていたのだ。
ところがある日、二人は王の隠し部屋を見つけてしまった。
王の私室のその更に奥に巧妙に隠されていたそこを、見つけ出してしまったのだ。
王が執務で私室にいない間にこっそりと忍び込んだだけなら、特に問題はなかっただろう。
しかし問題は、隠し部屋を発見してしまった事だ。
簡単に見つかるはずのなかったそこを、ミハエルとラドクリフは一体どんな偶然か発見してしまったのである。
そうなれば、まだ幼い二人にあるのは好奇心。
行かないなんて選択肢は当然なかったし、それ故に。
見つけてしまったのだ。
王が計画しているおぞましい今後の事を。
既に他人の者となってしまったフロレンツィアに未練がないわけでもないが、彼女そっくりに成長していくマルグレーテをアーガスは新たに手にいれようと画策していた。
ミハエルと婚約させ、王家に入る事を決め、他の男を近寄らせないようにして。
そうして、ミハエルと結婚した直後に。
初夜を迎えるより先に、アーガスは。
ミハエルを、殺す算段を立てていた。
祝いのワインに毒を仕込む。
本来毒杯として使われる毒を。
それとは別に、違う毒を近くに用意してその毒で死んだのだと誤解させるように。
結婚した当日に未亡人になったマルグレーテは、その時点でならまだ家に帰れる。
けれど、第一王子が死んだとなれば次の王にはスペアであるラドクリフが。
本来王としての教育を受けていない第二王子がそうすんなりと王となって上手くいくはずもない。
それもあって、どうか王家のために、とラドクリフの暫定的な婚約者として近くに置いたまま、他に有能な令嬢がいるのであればそちらをあてがい、マルグレーテはなし崩しに王の側妃へ。
まぁもっと細かく色々と書かれていたのだが、大雑把に言うならばそんな計画だった。
大雑把にみるだけなら穴もありそうな計画なのだが、しかしもう何年も前から立てていた計画らしく、まだ幼い王子には理解できないような部分すら詰められている。
王子の死因は毒であるけれど、しかしその死んだ理由が他殺ではなく自殺であるのなら。
そこまで追い込んだのはマルグレーテ、という風に持っていって、他に嫁にいけないように仕向けるなんて計画も一応は立てられていた。
父上の日記かな? で気軽に開いたそれに、二人の王子は戦慄した。
ただの冗談だと思いたかった。
けれどもし本気なら。
ミハエルは、いずれ父に殺される。
その事実はまだ幼い王子の心にはあまりにも酷なものだった。
ラドクリフも、自分がいるからミハエルが死んでもいいと思っている父に対し恐怖した。
隠し部屋には、いくつかの物が置かれていたけれど、そちらに最初は目を向けていなかった。だってあまりにもあからさまにドンと置かれていた日記らしきものの存在感が強すぎて。
だが改めて周囲を見れば。
幼い王子は小さな悲鳴を上げて、逃げ出すしかなかったのだ。
恐らく女性が刺繍したであろうハンカチ。
女性が使っていたであろう小物。
丁寧に保管されているらしき糸……に見えたそれが後から考えたら髪の毛であると知って。
この時点でそれが誰のものであるのか、幼くとも賢い二人の王子は薄々気付いてしまったのだ。
それに、壁に飾られた人物画。
肖像画、ではない。
あくまでも人物画だ。
そこに描かれているのはミハエルとラドクリフ、二人の母――などではなく。
マルグレーテの母であるフロレンツィアであった。
二人は慌てて部屋から逃げ出して、隠し部屋を元の状態に戻して隠し部屋なんてありませんでしたよ、という最初の状態に戻す。
そうして悲鳴を上げたい衝動を抑えながら、二人は執務中の王妃の元へ駆け込んだのだ。
本来なら、仕事中の母親のところへ行くなんてやったら邪魔をしてはいけないと叱られる案件である。
けれども二人にとっては一大事であったが故に。
そして普段ならそれらをやんわりと止める他の者や王妃も、王子二人の様子があまりにもおかしいものだから。
まるで城の中で死体でも見つけたのかと思うくらいに真っ青な顔をした二人が、泣きそうなのを無理に堪えて助けを求めるようにやって来たとなれば。
遊びで邪魔をしに来たわけではないとわかる。
王妃は執務中であったけれど、それでも我が子に何かがあったのだと察して一度手を止めた。
そうして何があったかを聞けば。
正直すぐには信じられないような内容だったが、子どものつく嘘にしてはあまりにもどうかと思うもので。
王妃は国王が私室へすぐに戻れないような状況を作るべく、数名に指示を出してそれから平静を装いながらも王子二人を伴って王の私室へと向かった。
王妃も隠し部屋の存在は知らなかったのだ。
政略で結ばれたものであっても、彼女は王と上手くやっていると思っていた。
心を通わせているのだと信じていた。
だが――
隠し部屋で見つけた王の日記。
執務で鍛えられた速読であっという間に読み込んだそれを見て、彼女は崩れ落ちそうになった。倒れなかったのは根性とか気合とかいう以前に、ここで倒れたらここに連れてきた息子二人が心配するし、倒れた王妃を運ぶために人を呼ぶとなれば流石に大ごとになってしまう。
そうなれば、アーガスがこの隠し部屋に立ち入られた事に気づくかもしれない。
それだけは、あってはならない。
そう思った結果だった。
王の私室のその奥にあった隠し部屋は、すべてにおいて醜悪な存在で。
自分の欲を叶えるために、たった一人の少女を手に入れ囲うためだけに練られた計画のために、自分の息子を殺そうとしているという事実に。
王妃はブチ切れた。
王妃も王家に入った以上、時として冷酷な判断を下さねばならなくなる、と覚悟はしていた。
だがそれは例えば生まれた王子の出来があまりにも悪すぎて、このままでは王家の威信も民からの印象も悪くなり、国が荒れかねないと思うような場合だ。
けれども王妃のそれは杞憂で、ミハエルもラドクリフもまだ幼いながらに王家の人間として問題のない育ち方をしていったのだ。
これから先がどうなるかはわからない。けれど、このままいけば何も問題はないと思っていた。
だから、身内を切り捨てるような事はしなくていいのだと。
そう、思っていたのに。
まさか息子ではなく伴侶を切り捨てるしかないと判断する日がくるとは夢にも思っていなかった。
大体アーガスがフロレンツィアを好いていたなど、王妃からすれば青天の霹靂である。今ここで初めて知ってピシャンと雷にでも打たれたかのような衝撃を受けたくらいだ。
婚約者時代、アーガスの態度は決してそんなものを感じさせなかったし、結婚した後だって自分の事を妻として愛してくれているようだったので。
だが、表向きはそうであったとしても、これが。
この隠し部屋こそが彼の本心そのものなのだろう。
日記の中はフロレンツィアへの執着と、新たにマルグレーテへ向けたおぞましい欲望がほとんどだが、ちょっとだけ自分の事も書いてあった。
愛なんてない。愛していない相手とこれから先も共に歩まなければならない事への苦痛。
故に求めたのがマルグレーテ。
心を通わせていたと思っていた。
けれどそれは、王妃だけがそう思い込んでいただけ。
その事実は、王妃の胸を無残に切り裂いたのである。
目の表面に膜がはって、そのままいけば涙が零れ落ちた事だろう。
けれどそうなる前に、彼女は一度ぎゅっと強く目を閉じた。
泣いてたまるか。
愛する人の裏切りに心が痛いのは確かだけれど、泣いてたまるか。
こんな奴のせいで、泣いて、たまるか……!
幸せだと思っていた今までが全部ハリボテだったと知って心がとても痛いけれど。
でももう、彼女は親から守られていた子供ではない。今は親となり、子を守らなければならない立場なのだ。
母として、王妃として。
子を、国を、守らねばならない。
このままいけば、ミハエルは殺される。
どうせ死ぬのだから、と教育に手を抜いたりするようであるならば王妃も疑惑を持ったかもしれない。けれど、そんな様子はどこにもなくて、将来アーガスの後を継ぐのはミハエルであると周囲の誰もが疑う事などなかった。
そんな王子が死んだとして。
勿論国としては悲劇であり、また親である王や王妃にとっても悲劇に映るだろう。
それが王の計算通りであるなどと気付くことなく。
ラドクリフが急遽次の王になる、となれば。
勿論王妃として既に教育をほぼ終えているマルグレーテの存在は、頼りない次の王を支えるためと考えれば有用ではある。
ある、けれども、この国に限った事ではないが、年上の女性が妻というのは貴族社会ではあまり良い事ではないとされていた。一つ二つ程度上でまだお互い若いうちであるならばいいが、下手に子が出来ない場合、数年経過しただけであっという間に女性は子を産む事ができなくなるからだ。
後継ぎが確実に必要とされる家では、故に嫁は夫となる者と同年齢か年下を選ぶ傾向にあるし、王家もまたそうであった。
なのでこの場合、アーガスが目論んでいたのは、ラドクリフの嫁となる相手の教育係としてマルグレーテを引き留める事、であろうか。
そしてその間にアーガスがマルグレーテをどうにかして手中に収めようと……そう上手くいくとも思えないが、最悪既成事実を作るなんて事もあり得る。
実際王の欲望まみれの野望日記にはそんな事も書かれていた。
王妃とフロレンツィアの仲は悪くなかったし、もし王妃教育にラドクリフの妻として選ばれた令嬢の助けになってほしい、と頼めばフロレンツィアは王妃もいる事だし断りはしないだろう。
結果として、猛獣の前に無防備なウサギを放り込むような事になるなど思いもせずに。
知ってしまった以上、そのままにしておくわけにもいかない。
このままいけば、間違いなく何の罪もない息子が殺され、またマルグレーテも婚約者を失った直後その父親に……となるかもしれないのだ。
見過ごしてはならない。
危うく自分の爪で皮膚を傷つけそうになるくらい強い力で王妃は拳を握り締めていた。
まずマルグレーテを無事に助けるにしても、今の時点でアーガスはマルグレーテに何かをしたというわけでもない。このおぞましい日記を公開すれば王は失脚するかもしれないが、それにしたって色々と問題である。
たったそれだけのために犠牲になりかけていたミハエルと、マルグレーテに向けられる好奇の目を考えるなら、これを公開すれば一発で王を追い落とせるけれど、同時にミハエルやマルグレーテに無粋な連中が口さがない事を言うかもしれない。命が守れても心が守れないとなれば、その手段は本当に最後の手段にするべきだ。
他に、もっと二人が無事に済む解決策を考えなければならなかった。
王妃は動揺する二人の息子に対して、この事は見なかった事にしなさい、と告げた。
そうして、普段通りにとも。
今できる事はあまりにも少ない。
下手にこちらが警戒した様子を見せて、この事を知った、とアーガスに悟られるのも問題である。
そういった事を二人の王子に説明し、王妃はマルグレーテにもいずれ真実を明かさなければならないけれど、それはやはり今ではないと告げた。
マルグレーテの両親にだって説明しなければならないが、タイミングを間違えると最悪すぐに婚約の解消だとかで動いて王が凶行に及ばないとも限らない。
狙いがマルグレーテに向かっているが、もし公爵家が動いた結果、王家が公爵家と敵対し最悪公爵家が負けた場合。
フロレンツィアとマルグレーテ、両方が王の手に落ちる可能性すらあるのだ。
もしそうなった場合、フロレンツィアが手に入ったなら王は、アーガスは。
果たして王妃の存在を必要なものとしてくれるだろうか……?
明確に危険なのはミハエルだ。
そしてマルグレーテも。
だが、王妃もそうなった場合命があるかも危うい。
行動に移るのは、細心の注意を払いタイミングを誤らず時期を見なければならないだろう。
ミハエルもラドクリフも、まだ幼いと言っていいくらいなのに、流石に感じるものはあったのだろう。あまりにも真剣な表情の母に強く言い含められて、とにかくいつも通りを心掛けた。
そうこうしていくうちに成長して、自分たちにもできる事が増えてくれば、とれる手段も増えるし選択肢は広がる。
マルグレーテも遅れてアーガスがやろうとしている恐るべき計画を知らされて。
その頃にはミハエルとの仲もかなり深まっていたのもあって、相当なショックを受けたようだけれど。
けれど、それ以上に。
いくら父親だからとて、愛する男を殺して自分がその立場になろうなんて、と怒りが上回った。
アーガスとミハエルは親子ではあるけれど、けれどミハエルはアーガスではないし、アーガスもまたミハエルではない。マルグレーテにとって愛とは何か、と聞かれてもまだわからない部分があるけれど。
それでも、自分が一等好きなのはミハエルだ。アーガスという男については、そんなミハエルの父親であるという事実と、現国王である、という当たり前の事実だけしかマルグレーテにはない。
もし、あの男の計画通りに結婚式を挙げた後、祝いのワインあたりに毒を仕込まれてミハエルが殺された後で。
ミハエルのかわりに自分ではだめだろうか? などとアーガスに言われたとして。
恐らくマルグレーテはその瞬間アーガスの横っ面を引っ叩く自信しかない。だってあまりにも不謹慎が過ぎるではないか。
いいわけないだろう、と間違いなく言ってしまうに違いなかった。
大体何が悲しゅうて弟のラドクリフを勧められるならまだしも、自分の父親と同年代の男を勧められなければならないのだ。マルグレーテが年上の男性が好みであるだとか、そういった何かがあればまだしもそうではない。マルグレーテが好きなのは、もう一度言うがミハエルだ。
仮にラドクリフを勧められたって、彼は彼でミハエルのかわりになるはずがない。
王には人の心がないのだろうか、と真剣に悩んだ程でもあった。
だから、まぁ。
アーガスの計画に乗っかる振りをしつつ、あの男の目論見を台無しにしてやろうと思ったのだ。
ミハエルは次代の王としての教育の合間に密かに商会を作り、それらを経営して資金を増やして。
マルグレーテもまた、素知らぬ顔で王妃としての教育を受け。
ラドクリフも表向き、次の後継ぎになる必要がないからこそ、相応の教育しか受けていないように振舞った。
この中で最も忙しかったのはミハエルだ。
彼は商会を作り資金を増やすだけではなく、自分がいなくなった後ラドクリフが頼りない王とならないために、自分が受けた教育をそっくりそのままラドクリフに教えていたので。教師をこちら側に引き入れるとなると、こちらの動きがアーガスにバレてしまう可能性が高い。だからこそ、密かに教育をとなるとこの方法が確実だったのだ。
アーガス本人を亡き者にしてしまえば、別にそんな事をしなくてもいいのかもしれない。
けれどもこの国は。
アーガスの治世で支えられてきたこの国には、彼の痕跡がいくつもある。
アーガスが死んだからとて、この国でマルグレーテが普通に生活し続けるのはある意味で酷だろう。アーガスのおぞましい思いを知ったフロレンツィアもそうだ。
日々何気ない暮らしを送っていても、ふとした瞬間アーガスの影が感じ取れるような場所で。
本人がいないからとて、気にせず今まで通りに生活を続けられるか、という話なのだ。
それに、ミハエルが王になりマルグレーテがその妃となれば、アーガスの気配が最も色濃く残る場所で暮らさなければならないのだ。
城を壊して新たに建てる、など流石に無理がある。
正直ミハエルも、父親の存在を内心で受け付けられなくなっていた。
王になったなら、今現在の国王の私室もいずれ自分が使う事になるのかもしれない。冗談ではなかった。
部屋を改装したところで、かつてアーガスの部屋であった、という事実そのものが。
どうしても。
生理的に。
受け付けられなかったのである。
ある程度成長した結果、ラドクリフの婚約者も決まった。
こちらは伯爵家の令嬢で、幼い頃から才女として名高い存在であった。
彼女であれば、王妃とするには身分的にギリギリで、だが優秀なので急に王の座がラドクリフに転がり込んでもどうにか彼を支えていけるだろうという理由で選ばれたのだ。
理由はさておき、ラドクリフはこの婚約者とそれなりに上手くやっていた。
ある程度信用できると判断した時点で、ラドクリフの婚約者もこちら側に引き込んだ。
つまりは、ミハエルとマルグレーテはこの国を捨てて出ていく予定なので、次の王妃としての教育をマルグレーテが密かに彼女に教える形となった。
王妃が直接彼女の面倒を見ると、やはり何かを察知される可能性が出てしまう。王妃になるわけでもないのにどうして王妃が面倒を……? と何も知らない者がもし目撃すれば確実に勘繰るだろう。
自分が次期王妃になるなんて荷が重すぎる、と言っていた伯爵令嬢であるが、アーガスをいつまでも王にしたままなのも問題があると指摘したのも彼女である。
今はまだいいけれど、もう少し年をとれば。
老人と呼ばれるくらいの年齢になって、若い頃は抑えられていた理性の箍が外れた場合。
王という権力を利用して、フロレンツィアやマルグレーテに似た女性を無理矢理囲うかもしれないという、とても嫌な可能性を口にしたのだ。
顔立ちがそっくり、となるとそういないけれど、髪や目の色が同じとか、雰囲気が似ている、という女性であればそれなりにいる。そういったちょっとした共通点だけで汝はフロレンツィア、囲うべし。みたいな事になれば、最終的にとんでもない事になるのは言うまでもない。
密かに味方を増やしていって。
そうして、王妃が王と共に外遊へと向かい。
その隙にミハエルとマルグレーテは逃亡したのだ。
これが、あの日パーティー会場で行われた茶番劇の真相である。
マルグレーテの両親も、娘が消息不明となった事に心を痛めた振りをしつつ領地に引っ込み、その後はこっそりと引継ぎをして新たな当主に親戚を置いた後は、そっと国から脱出した。
マルグレーテの捜索に意識を向けていたアーガスが気付いたころには、本当に愛していたフロレンツィアすら国から消えているという寸法である。
タイミングを見て、王妃がアーガスに退位を促しラドクリフを新たな王にとした事で、アーガスは国王ではなく元国王、先王となった。引退し隠居生活を送るだけ、となれば本来ならば残りの人生を気ままに、と言えるのだが、しかし本来思い描いていた状態とはとても言い難い。
マルグレーテは国から出ていき、メルベーシア周辺を捜してもそれらしき人物の情報が入ってこない。たまにそれらしき情報が出ても、更に調べると全くの別人であるという事実。
更に、気付けばフィルミネル公爵家も代替わりをしたようで、領地に引っ込んでいたと思っていた夫妻もまた、いっそこの機会に娘を捜す旅に出た、などという噂が流れてくる始末。
マルグレーテの捜索に力を入れていたアーガスを、即位したラドクリフがそこまで気になるならメルベーシアに直接出向いてきては? などと進言し、アーガスはまんまとその言葉に乗ってしまった。
アーガスが目論んでいた当初の予定では、ラドクリフは王となるべき教育を受けていないのでさぞ頼りない存在になるかと思いきや、実際のところミハエルからみっちりしごかれていたのもあって、即位したばかりであっても何も問題はないくらいになっていたのだ。
ラドクリフが思っていた以上に優秀だった、とアーガスは思っているが、実際ラドクリフは相当な苦労をしたのだ。こいつのせいで。父親がマトモだったら、こんな事にはならなかったのに……! という思いがあるのは言うまでもない。
それもあって、メルベーシアへ向かう途中で適当に事故に遭って死んでもらうように計画を立てていた。
ラドクリフの妻となった女が指摘したように、そのうちフロレンツィアやマルグレーテに似た女性にまで手を出すようになればおしまいだ。そうなる前に、処分する必要があった。
しかし表向き彼は国王としては問題のない王だったので。
精神を病んだ、と誰もが思うような奇行に出たり言動がおかしいなんてこともなかったので。
マルグレーテの捜索だって、内心では血眼になっているのだろうなと思うものの、周囲にはそうと思わせないよう徹底していた。もっと心の赴くままに昼夜問わず周囲がドン引く勢いで捜すようにしていたのなら、異様な何かを周囲も感じ取ってくれたはずなのだが。
なので、実際どれだけ頭がおかしいと身内が思っていたところで、周囲から見たアーガスはいい王様なのだ。世の中間違ってる、とラドクリフが吐き捨てたのは言うまでもない。
おかしくなった王族を幽閉する塔に閉じ込める理由もないし、毒杯なんてもってのほか。
そうなれば後はもう、引退後の生活で旅行とかちょっと外に出た時に不幸な事故に遭ってもらうしかない。
正直な話ラドクリフもまたミハエルのようにアーガスの存在があちこちにちらつくような城で暮らすとかイヤだなぁ……と思っているのだけれど、だがしかしミハエルやマルグレーテのように直接的な被害を受けるわけではなかった。確実に狙われていたのはミハエルとマルグレーテだ。アーガスの狙い通りであったなら、最終的な尻拭いは全部自分に降りかかっていたも同然なのだが。
まさかこんな形で父親を殺す事になろうとは……なんて思う事もまだあるけれど。
だがあの日、かつてあの時、父親の本性を知らないままであったなら。
きっと今よりもっとひどい事になっていたはずなので。
どう足掻いたところで、アーガスがあんな事を考えた挙句実行しようとしていたのであれば。
きっとこうなるのはどうしようもない運命だった。
「――どうやら父上は死んだみたいだ」
「まぁ」
娘を捜すのだと言っていたマルグレーテの両親ではあるけれど、そもそも娘の居場所はわかっていた。
それ以前に身の安全も確保されているので、あくまでも悲壮な雰囲気を出すのは国内だけで充分で。
娘を捜す振りをしつつ周辺の国を適当に見つつ、最終的にミハエルたちのいる国へと既に到着済みである。
それもあって、マルグレーテの精神も大分落ち着きを見せていた。
あの日、国を出るまで正直気が気じゃなかったのだ。
それよりもずっと前にアーガスの企みを知らされてからというもの、マルグレーテは常に試されているような気持ちだった。ちょっとでも国王に不信感を持たれたら。もし、既に彼の目論見がバレている事が知られてしまったら。
王妃教育なんて自分には必要ないのではないか、と思いつつも、しかし手を抜くわけにもいかず、ただひたすらにミハエルと結ばれる未来を信じて疑っていないと思わせなければならなかった。
マルグレーテは優秀な女性ではあったけれど。
しかしその精神はまだ未熟な部分も多い、年頃の少女だった。
そんな少女にアーガスの欲望を何事もなかったかのように無視し続けるというのも中々に大変だったのだ。敵対派閥の令嬢とか、純粋にマルグレーテの事が気に食わない令嬢からの嫌味だとかの方がまだどうにかなると思える程には。
もし、アーガスの計画が上手くいっていたならば、自分の純潔はあの男に奪われていた可能性すらあった。
もし、アーガスの計画が上手くいかずミハエルが生き延びたとしても、あの男がそう簡単に諦めるとも思えず、あの手この手でマルグレーテを手に入れようとしたに違いない、と思えば。
いくら国を離れたところで、彼が生きているというその事実だけで恐ろしい事だった。
ラドクリフの誘導で、実際にマルグレーテがいる国とは正反対とも言えるメルベーシア周辺にアーガスがいるとなっても。
いつか、ここにはいないとなって、他の国を手当たり次第に移動してマルグレーテを求め続けるのではないか。フロレンツィアの事も諦めた、とは完全に言い難い。どちらかが見つかれば、もう向こうはなりふり構わない可能性がある。
広い世界で、そう簡単に遭遇するはずなどない――そう思いたいが、万が一の可能性というのが常に付き纏うせいで、マルグレーテの心はちっとも休まらなかったのだ。
両親と再会して多少落ち着いたけれど。
マルグレーテより先にミハエルが見つかった場合だって、簡単に毒殺しようとしていた相手だ。マルグレーテを隠している、なんて思いこみで――実際確かに一緒に逃げたけれど――ミハエルが酷い目に遭わされるかもしれない。殺そうと思っていた相手なら、いくら実の息子であっても拷問とか……そこまで考えてマルグレーテは本当に心の奥底からアーガスが死んだという報せに安堵したのだ。
「どうする? あいつが死んだなら、変えた名前を戻す事もできる。貴族じゃない今より、折角合流した親と一緒になるのもありだと思うけど」
ミハエルの言葉に、マルグレーテはしかし首を横に振った。
「いいえ。いいえ。私だけが元に戻るなど。あの日貴方の手を取った事で、今の私があるのです。
それに、理由はどうあれ私は国を捨てました」
「それは俺もそうだ。王族であることを捨てた。本来守るべき民を見捨てたと言えばそうなる」
真実の愛のために、ミハエルは国を捨てた。
王族であることも捨てた。
それを無責任だと言われてしまえば、実際その通りなので何も否定できない。
「上の人間が変わろうと、民の暮らしはすぐに変わりません。勿論、劣悪な環境からマトモな人間がトップに立てば変わるしその逆もあり得ますが……貴方は次の王として、きちんと次に引き継いだではありませんか」
「それは、君もだ」
「えぇ、そうしないと安心して国を出られませんでしたから」
国を見捨てたと言えばそうだが、次に託す相手にきっちりと引き継いでいる。
やろうと思えば、何もかもを放り出してもっと早くに逃げる事だってできたのだ。
実際にそれをやるとアーガスもなりふり構わず行動に出そうだったからやらなかっただけで。
テーブルをはさんで向かい合っていた二人だが、マルグレーテが席を立ち、そっとミハエルの隣に座る。
取られた手は離れないとばかりに指を絡められた。
「名前も、身分も変わってしまったけれど。
それでも私、私だって。
真実の愛のために生きていこうと思ったの。
だから、だからね?
そんな風に言わないで。私の事を想って言ってくれているのはわかるけど。
でも、この先どんな事があったって、私がずっと一緒にいたいと思っているのは貴方なの」
王族と貴族であった時は、直接的にお互いの気持ちを口に出したりはしなかった。想いあっていたのは確かだが、あまりにもお互いの仲が良いとなれば焦ったアーガスが計画を変更して他の方法をとったかもしれなかったから。
アーガスに知られないように、周囲の助けを得て二人は密かにお互いへの気持ちを育んでいったのだ。
「それにね、お父様もお母様も、この国に来る前に貴族であることは捨てたの。だからそんな心配はしなくていいの。貴方だけが何もかも背負おうとしなくても、もういいの」
マルグレーテは知っていた。
もし逃げられなかったなら。
ミハエルはアーガスを殺すつもりだったことを。
王殺しの罪を背負ってまでマルグレーテを守ろうとしてくれていた事を。
けれど理由はどうあれ王を殺したとなれば、しかも実の父を殺したとなれば。
理由も事情もあったとして、無罪などでいられるはずがない。
事故に見せかけて殺そうとしたところで、アーガスの中でミハエルは警戒対象だった。マルグレーテの婚約者。アーガスが思う以上に仲睦まじくなられても困る。アーガスは決して表に出さなかったが、ミハエルの動向に常に注意を払っていたに違いなかった。そんな中、ミハエルがアーガスを害そうなどと考えて行動に移ろうとなれば。
果たして上手くいったかは微妙なところだ。
ミハエルもそれを薄々理解していたからこそ、被害も犠牲も最小限にしようとしていた。
周囲が密かに味方になって助けてくれていなければ、きっともっと大変な事になっていただろう。
「私にできる事はそんなに多くはないけれど。
それでも、これからも、ずっと一緒にいてね……?」
「君がいてくれさえすれば、それだけで充分だよ」
ミハエルの口から自然とそんな言葉が出ていた。
実際、マルグレーテは何もできないみたいな事を言うけれど、しかし王妃になる予定だった女だ。
人一倍努力をしていたし、時として休みを疎かにすることもあった。
だから、ミハエルからすれば今までの事もあるのでしばらくはのんびりとしてほしい気持ちだってある。
そうでなくとも、いつアーガスの気が変わって彼女に魔の手が忍び寄るか……なんて考えたら気の休まる時はほとんどなかったはずだ。
あの男の子であるという事で、マルグレーテがいつか、自分の中にあの男の影を見るかもしれない。
そういった不安は常にある。年を取っていくにつれ、あの男に似ていったらどうしようかという不安もある。
けれどマルグレーテはアーガスとミハエルは違うのだと言い切ってくれたから。
それだけで、充分だったのだ。
あとは健やかでいてくれれば何も言う事などなかった。
「その言葉、忘れないでね。これからはずっと一緒よ……?」
念を押すようにマルグレーテが言葉を重ねる。
ミハエルは今までもずっとマルグレーテの事を優先してきた。
そのために自分自身を切り捨てる事も手段の一つとして考えている事を、マルグレーテはうっすらと感じ取っていたからこそ。
いっそ呪いのようにずっと一緒なのだと重ねて言葉を紡いで。
それから、もう貴族でもなんでもないのだから、と意を決して。
淑女である必要などないのよね、と内心で開き直った上で。
そっとミハエルの唇に自分の唇を重ねたのであった。
今の今までずっと大抵の事はスマートにこなしてきたミハエルが狼狽えて顔を真っ赤にさせるのは、きっかり五秒後の事である。
元々この手の言い回しちょっとおかしくない? 系誤字報告は後回しにしてそのうちやってくつもりなんですが、ここキャラの名前間違えてんぞ、とかこのセリフこのキャラが言ってたら駄目じゃね? みたいな名前のミスとかも現在入院中なので即座に対処はできません。当面脳内補正でお願いします。
っていうか予約投稿なんでアレですが本日が手術日です。
大体の事は退院して体調がどうにかなってからゆっくりやってく予定です。お急ぎ便的なのは当面対処できませんマジで。
次回短編予告
ダメな王子と聖女様の話。
こっちは恋愛ジャンルではないなと思ってるのでいつものその他ジャンルになるはず。