闇堕ち少女と悪魔少年
午前6時半。
イギリスの首都、イングランドはロンドン。
その廃アパルトメントの一室。
都会の喧騒に身を包まれ、私は目を覚ます。
今日は日曜日。
人々は朝早くから街を出歩き、休日を謳歌している。
しかし、皆がそうとは限らない。
例えば私、魔術師エレナ・オズボーン。
魔術よりも剣が得意なこと以外は、いたって普通の魔法使いだ。
普通じゃないのは、むしろ私の相棒の方。
「ふぁ~ぁ……。おはよう、エレナ……」
彼の名はフェネクス。
微塵も教育を受けないで幼少期を過ごしてきたせいか、彼と出会うまでその逸話は聞いた事が無かったが……何やら有名な悪魔らしい。
「おはよう、フェネクス。昨日はよく眠れた……訳ないよね」
「エレナが大興奮で学校の話をしてくれてたからね。楽しそうで何よりだよ」
「うん。初めての学校、すっごく楽しかった。ありがとう」
「いいんだよ、エレナが楽しかったなら」
「でも……良かったの?あのまま私が無所属の魔術師でいれば、フェネクスもいちいち学院に出頭しなくても良かったのに」
「仕方ないよ。強い悪魔の宿命ってやつだからね」
私が行った、そしてこれから行く学校というのは、魔術学院と呼ばれる魔術師専門の研究施設のことである。
子供から大人まで「魔術師」と呼ばれる存在の大半所属している、とんでもなく大きい組織……の支部のようなものだと魔術教授に言われたが……やはり学が無いせいか、私にはあまり理解できなかった。
世の子供達は普通に通っているらしい「小学校」というところにすら、私は行った事が無い。
そもそも身分証明書すら一つも見当たらない辺り、私がこの世界に生まれたことになっているのかどうかも怪しい。
そして、そんな私をある程度教育してくれたのは、今目の前で大きな欠伸をしながら歯を磨く男の子なのだ。
「……フェネクス、大好き」
「あれれ?エレナ、今日はいつに無く積極的だねぇ」
「こんなお父さんが欲しかったなって思っただけ」
「……ほーんと、現代人の割に苦労してたよね。お姉ちゃんって」
「うん。今でも夢に見るよ」
……私は6年前、悪魔に唆されて実の両親を手にかけた。
肉体と精神に自由を与えず、奴隷のようにこき使って、しまいには同世代の子供達は皆こうではないのだと理解した私を用済みだと言って、儀式の素材にしようとした両親。
一度は殺されてしまった私の命を、その悪魔は文字通り再び燃え上がらせてくれた。
子を子とも思わない両親から私を救い出してくれたのが、何を隠そうフェネクスと名乗った少年のような悪魔。
そこで現れたのが天使だったら、きっと今みたいに私は人間らしい人生を謳歌することはできていなかったと思う。
あそこで火に放り込まれそうだった私を助けてくれたのが絵に描いたような正義マンだったら、自らの手で親への復讐するなど、許してくれなかっただろう。
悪魔だから良かった。
あそこで私を助けてくれたのが「悪魔」だったから自らの手で復讐できたし、こうして今も相棒でいてくれるのも、主従関係にある「悪魔」だからだろう。
弟みたいに可愛くて、でも「普通のお父さん」みたいに頼りになって。
私を唆してくれた悪魔は、私の両親よりもずっと素敵な「人」だった。
「大丈夫?涙出てるけど」
フェネクスは、朝っぱらから無意識に涙を流していた私の頬を手で拭い、湿ったその手の水分もとい私の涙を得意な炎の魔術で蒸発させる。
「……ごめん。優しいね、フェネクスは」
「謝る事じゃあないさ。それに、僕は優しくなんかないよ。今日は僕も色々登録しなきゃいけないからね。多分、丸一日かかると思う。エレナはどうする?講義が終わったら先に帰ってる?」
「ううん。フェネクスの手続きが終わるまで、大書庫で本読んでるよ。もしかしたら、便利な魔術が見つかるかもしれないし」
「そう。もしかして、僕と一緒に帰りたい……とか?」
「うん」
「そう。契約してるとはいえ僕は悪魔なのに、そんなに信頼してもらって嬉しい限りだね」
「……ずっと前から言ってるけど、私はフェネクスのこと昔から大好きだよ?」
「ありがとう。……さ、そろそろ行こうか!もう時間だよ、エレナ!」
「あっ、時間!?ど、どどどどどうしよ……行こ、とにかく行かなきゃ!」
私はフェネクスの手を引いて、一緒に魔術学院へと走り出した。
隠し道を通り、学院へと向かう。
そして教室棟前でフェネクスと別れ、今日行われる講義の表を眺め、目当ての講義を心待ちに、時間まで私は校内の探検を始めた。
1ヶ月後。
私達は廃アパルトメントから寮へ住処を移し、遂に公的な組織に所属している「魔術師」としての第一歩を踏み出したところであった。
魔術学院にも少しは慣れてきてフェネクスから教わった魔術以外も少しは使えるようになり、やっとフェネクスも学院所属の悪魔としての登録やら何やらも落ち着いてきたようで、学内でも一緒に過ごせる時間が増えてきたように感じる。
「ねぇねぇ、知ってる?あの入り口が無い屋敷の話」
「知ってる知ってる!ずっと前からあるけど、どんな人が住んでるのか誰も知らないんだって~!」
「あっ、あの子も新入生じゃない?」
……私は足早にその場を去る。
この手の人間の会話は、聞いているだけで虫唾が走るのだ。
6年という、これまでの人生においてそこそこ長い時を過ごしたフェネクスというパートナーがいても尚、やはり根本的な人間不信は治らないらしい。
しばらく新たな友人は出来なさそうだ。
そんな中。
学院を通してだが、私個人へ依頼なのか手紙が届いた。
「エレナ。君宛てに手紙が届いてるよ」
「え?私に?」
「うん。学院からだから、怪しいものじゃないと思うよ」
フェネクスから受け取った封筒を開け、中の手紙に目を通す。
「なになに……『拝啓、エレナ・オズボーン様へ。この度は突然のご連絡失礼します。貴方は幼い頃に両親を亡くされていると聞きました。私は、その両親のかつてを知る者です。つきましては、貴方が生まれてから最後に会った時まで、両親と過ごした日々のお話を聞かせては頂けませんか?勿論、覚えている範囲のみで構いません。7月22日、教室棟南側隠し階段奥の防空壕、その先にて。重ねて、突然のご連絡失礼しました。敬具』……だって。……コレ、本当に大丈夫?」
「前言を撤回しようか。ちょっと『匂う』ね、コレ」
「うん……でも、気になっちゃうかも」
「そうだね。怪しいのは確かだけど、あの酷い両親を知る人間に話を聞く機会なんて、これが最後かもしれないんだし」
「……私、行ってみるよ。一緒に来てくれる?」
「勿論だよ。それがエレナの選択なら」
「ありがとう、フェネクス」
私はテーブルに杖とレイピアを置き、ベッドに飛び込む。
「お疲れ。最近、ずっと張り切ってたからね」
「う~ん……楽しいけど、ちょっと頑張り過ぎたかも~……」
私は掛布団をかけて、それに包まって伸びをする。
そして、ベッドの側をふらふらとうろついていたフェネクスを捕まえ、抱き枕にしてやった。
「うわっと。どうしたの急に」
「えへへ……。ねえフェネクス、今日は一緒に寝ない?」
さらに私は、決して広くはないベッドにフェネクスを引き摺り込む。
炎の魔術が得意……というか、炎そのものが本体のようなものだけに、とてつもなく抱きしめるととても温かい。
「いいけど狭くない?僕のベッドも寄せようか?」
「狭い方がくっつけるから、このままでいい」
私はフェネクスを強く抱きしめ、そのまま意識を手放す。
「暑苦しくないならいいんだけど」
「寂しかった。フェネクス、ずっと忙しそうだったから……講義中も終わった後も、ずっと一人で……」
「ごめんね、登録が色々と面倒だったんだ。『ソロモン72柱』の名を冠する悪魔は事情が複雑なんだよ」
ソロモン72柱。
「ゴエティア」という書物に記されているらしい、強力な悪魔達の名前。
そこに記されている悪魔の名前は、他の悪魔とは一線を画す特殊な魔術や超能力を使える者にのみ学院と他の悪魔を介して「何らかの理由による死によって空席になった場合に限り」次の最有力候補に与えられ、力と名前を繋いでいくのだそう。
かの悪魔達に関する詳しい情報は魔術学院によって世界規模で隠されてこそいるものの、ファンタジックな存在としてはかなり世界的に有名な、72柱の神にも近しい悪魔。
そして今、私に抱きしめられているフェネクスは何を隠そう、今となっては珍しい、初代のまま今まで生き残っている72柱の悪魔なのだ。
そんなに凄い悪魔が自ら学院へ出向いてきたのだから、さあ大変。
所属の登録やらデータ収集やら、色々と面倒になるわけだ。
「私の方こそ、我儘いってごめん」
「仕方ないよ。君は人間性が形成される幼少期の大部分を、あの親の元で過ごしたんだ。……むしろ今、ちょっと寂しがり屋なくらいで済んでいるのがマシなくらいだよ。あんな環境で生きていたら、人格が破綻していない方が珍しいくらいなんだから」
「私、えらい?」
「えらい。えらいに決まっているさ。こうしてちゃんと学校に通って魔術の勉強が出来ているのも、僕がいない時間があっても耐えていられるのも、剣と杖の手入れを欠かさないのも、本当にえらいよ」
周りの人からしてみれば変わっているであろう私の倫理観について黙っていたのは、フェネクスが気を遣ってくれたのだろう。
「えへへ、ありがとう。……ねえ」
私は目から下を隠すように、掛け布団を引き上げる。
「何?」
「……フェネクスは、私と契約したままでいいの?」
「どうしたの、急に」
「学院に行くようになってから、色んな人を見た。そこら辺を歩いていても気付けなさそうな普通っぽい人もいたし、私のダディとマミィみたいに酷い人もいた。でも……私より剣の扱いが上手い人もいたし、色んな魔術を覚えてる人もいた。服屋さんの看板に写ってるモデルさんみたいに綺麗な人もいたし、私よりもスタイルが良くて堂々としてる子もいた。……フェネクスは、私の悪魔になって後悔してないのかなって、気になっちゃった」
「君との契約を後悔した事は一度も無いよ。最初は君の死後に魂を貰うって目的の為だけに契約をした。それは本当のことさ。でも、両親が君を奴隷のように扱っていた上に僕が君を唆したとはいえ、実の親を自ら手にかけるその覚悟の強さと残忍な性格。社会に適合している正義マン達からしてみればドン引きもいいところだろうけど、悪魔の僕からしてみれば、エレナは限りなく最高に近い人間だよ」
フェネクスは私より小さな手で頭を撫でた。
「……ありがとう、フェネクス。私と契約してくれて」
「僕の方こそ、君と出会えて嬉しいよ」
そして、そのまま私はフェネクスを抱きしめて眠りにつく。
今は7月14日の夜、待ち合わせの日は8日後。
明らかに怪しいが、それが罠だったとしてもいい。
両親の情報をちらつかせてくる相手が何者なのか、私には知っておく必要があるのだ。
そして8日後。
私は慣れた手つきでレイピアと杖を腰に納め、フェネクスの手を引いて部屋を出る。
「さ、行こっか」
「うん」
今日は休日、魔術学院にしては珍しく何の講義も無い日だ。
寮の廊下は、暇を持て余した魔術師達が行き交っている。
こんな日を指定してくる相手のことだ、私達や学院の事についても知っているのだろう。
教室棟の南側、その壁面に少し透けている部分を見つける。
「ここかな……?それっ!」
腰からレイピアを取り出し、壁を一突き。
すると、壁はみるみるうちに消失し、ちょうど一般的なイギリスの成人男性がギリギリ二人並んで入れる程度の道が現れた。
そして私達は透けた壁の奥へ進む。
特に何もない廊下が続く。
何も無いと言っても、いわゆる一般的な防空壕のような横穴や物資倉庫のような閉ざされた部屋はいくつか存在している。
道を奥へ奥へと進んでいくと、だんだんと道幅が広くなっていく。
そして廊下を抜けた先にある扉を開けて先に進むと、そこには入り口が存在しない豪邸として一部の界隈では有名らしい庭園を囲む塀と同じ高さ、同じ色の塀があった。
「……ここは……写真で見た例の変な家かな……?こんなところに続いていたなんてね」
ここは私とほぼ同じ時期に入学した魔術師達の間でそこそこ話題になっている例の屋敷、その庭園と思われる。
豪邸とはいえ庭園はそこまで広くないのか、塀はその全てが辺りを見回すだけで視界に収まる程度。
一般的なビルの2階にあたる程度の高さをもつ純白の塀、話に聞いていた通りだ。
道の脇を彩るように植えられた花畑に加え、小さな川まで流れている。
「あの柵の中、こんな感じだったんだ。素敵なお庭……。お手紙に書いてあったことだと……このお屋敷の中で待ってるって事かな」
私はフェネクスと手を繋いだまま、気持ち遅めに庭を進んで行く。
咲き乱れている花々は、私達を歓迎してくれて……いるようには見えないが、それは確かに手入れされていた。
……この先で待っているであろう人が、私達を歓迎してくれることを祈ろう。
「エレナ。一応、杖か剣のどっちかはいつでも構えられるようにしておいてね。ちょっと、嫌な予感がする」
「私も今同じこと言おうとしてた。フェネクスも気をつけてね」
やけに胸騒ぎがする。
花々からは視線を感じるし、それにしては屋敷がやけに清らかに見えるというのも、少し妙だ。
まるで屋敷が私達を誘い込んでいるような、「とっとと入らんかい」と催促しているような、この感じ……。
こんな場所で待ち合わせをしようというのだ、相手は只者では無いだろう。
屋敷の玄関扉を開け、内部へ足を踏み入れた。
家具はすっかり埃を被っており、ところどころに蜘蛛の巣が張られている。
今にも化け物が現れそうな雰囲気の屋敷をさらに奥へ進み、吹き抜けになっている階段を上って奥の部屋へ。
さらにその奥へ行くと、もう一つ大きな扉があった。
そして、その扉を開けた先。
「お待ちしておりましたぞ、フェネクス様。そして……エレナ様」
そこでは、私を待っていたと言う老人が安楽椅子に揺れていた。
老人はそのまま、私の方へゆっくりと近づいてくる。
「君が僕達をここへ呼んだのかい?お爺さん」
「ええ、そうですとも。……エレナ様。手紙にもお書きしたのですが……早速、両親のお話を聞かせて頂いてもよろしいですかな……?」
ゆっくりと側へ近寄ってくるお爺さんは、ひどく弱っているように見えた。
私は老人の耳元に口を近付け、まだ幼かった頃の苦いだけの思い出を全て吐き出した。
話している間に自分でも辛くなったのか、途中からポロポロと涙を溢してしまっていたことは後からフェネクスに指摘されて気付いた。
「……終わりかな。お爺ちゃん、これでよかったの?」
「そうでしたか……本当に、あのバカ二人がご迷惑をおかけしました……貴女の貴重な幼少期を奪っただけではなく、人殺しにまでしてしまった……」
「あのさ。さっきから気になってたんだけど……君は一体何者なの?さっきからエレナの話ばっかり聞いて、自分は何も喋らないじゃあないか」
「ああ、これはこれは失礼しました。エレナ様、フェネクス様。私は……かつてエレナ様の両親に魔術の手ほどきをした者です」
老人は、かつて私の両親を魔術の世界に誘った張本人なのだと言う。
「でも、どうしてそんな事を?お爺さん、エレナの両親と何か関係あるの?」
「あの二人が私に望んできたのです。路地裏をうろついているだけの荒くれ者ではなく、『強い悪魔と契約してロンドン裏社会を掌握したい』という野望を果たすために、どこから聞きつけたか私の元へ訪ねてきました。……現行政府へ少なからず不満をもっていた私は、冗談も交えて彼らに少しばかりその方法を教えたのですが……まさか、本当に我が子を犠牲に実行へ移してしまうとは」
あの「生かさず殺さずやっぱり生かさず」みたいな酷い育て方は両親の性格故に仕方ないものだとして……両親に私を儀式の素材にさせたのと、そして私をフェネクスと出会わせたのは、元を辿ればこの老人だということだ。
「……君は本当にとんでもない事をしてくれたみたいだね。『悪魔フェネクス』が人前に姿を現したのは、遠回しに言えば君のせいなんだよ?自分で言うのも大事件だよ、大事件。僕にあった学院の人達の顔、凄かったんだから。この世の終わりみたいな顔してたよ。まあ、あの夫婦に召喚されたからエレナに会えたからいいんだけどさ」
「国のやり方が嫌いでも、あの二人に魔術を覚えさせたのはどうかと思うけど……でも、あの調子ならどうせいつかは殺されてただろうし、おじいちゃんが二人に儀式を教えてなかったら、私は生き返れなかったし、フェネクスにも会えなかった。……だから、ありがとう……なところもある、かな」
「……私には勿体無い言葉でございます。エレナ様、フェネクス様」
老人は帽子をさらに深く被り、声を震わせた。
「……で?僕達を呼んだのは、あの夫婦の話を聞くためだけなの?わざわざこんな屋敷にまで呼び出すくらいなんだから、もっと違う目的があるんでしょ?」
「……はは、流石にフェネクス様、もうお察しでございましたか」
「えっ、なになに?」
そして老人はゆっくりと立ち上がり、銀色の杖を突きながらこちらへ手を伸ばす。
「エレナ様、フェネクス様。……私めに、少々その力をお貸し願えませんか」
「……どういうこと?詳しく聞かせて、おじいちゃん」
「私めは、先ほどより現行政府へ不満をもっていると申し上げております通り……この世界を変えたいのでございます。……この世界は理不尽に塗れている。一々説明しては長くなります。ですから、エレナ様、フェネクス様。共に、世界を変えましょうぞ!理不尽など存在しない世界を、共にここから作りましょうぞ!」
老人は立ち上がると、ゆっくりと私の方へ迫って手を取ろうとする。
しかし、私はその手を振り払って後方へステップ。
感情を操るなどと言っていた。
前々から私もフェネクスも予想はしていたが、本当にただの人間ではないのだろう。
「ごめんね、おじいちゃん。その手は取れない」
「……何故、ですか。エレナ様。貴女は『理不尽にも』不幸な幼少期を強いられたと、そうではありませんか……!?同じような子供が、これから先も生まれてしまって良いとお思いなのですか……?お考え直し下さい、エレナ様!フェネクス様も、何か……!」
「いや、多分無駄だと思うよ。お爺さん」
「……私は、思ったより外道なんだよ。よりよい世界とか、みんなの安心とか……そんな事はどうでもいいんだ。皆、正義とか平和とか、そういうのが好きだけど……でも、私はフェネクスと一緒に生きていられればいいの。本当に、他の人がどうなったところで私にとってはどうでもいい事なの。だから、わざわざ今の日常を壊してまで、おじいちゃんに力は貸せない」
老人が言う理想の世界が実現したら、もしかしたら皆が理不尽に嫌な思いをすることは無くなるかもしれない。
ただ正直、この後に生まれる子供達の話をされても知った事では無い。
私はもうこの世に生まれてから理不尽な不幸は味わってしまったし、私にとって理想の世界は、フェネクスと一緒に死ぬまで一緒にいられる世界なのだ。
「そ、そんな……エレナ様……!」
「それに、世界を相手に立ち向かうなんて、あまりにも無謀だもん。おじいちゃんにはそれをしてでも作りたい世界があるのかもしれないし、さっき言ってたおじいちゃんの理想の世界は、もしかしたら本当に良い世界なのかもしれない。でも、私はそれに命を懸けられない。だから、ごめん」
そして、私は念のため杖を手に取って後退。
「……だってよ、残念だったね。この子は世界より僕の方が大事だって」
それに合わせて、フェネクスも扉の側まで後退した。
「……エレナ様、フェネクス様……!分かりました、てっきり組んで頂けるものとばかり思っていたので……そうではなかった場合のことを考えておりませんでした……。ですが、このまま私の話した理想の世界について他の者に喋られてしまっては困りますな……そうだ、閃きましたぞ」
老人は床から杖を放して曲がっていた腰を伸ばし、こちらへその先を向ける。
それと同時に私は杖を、フェネクスは右腕を構えた。
「エレナ!」
「分かってる!」
「貴方がたには、ここで消えて頂きます」
老人はそう言い終えると、安楽椅子に揺れていたのが嘘だったように俊敏な動きで同時に呪文を唱え始める。
しかし、向こう詠唱を終える前に、私とフェネクスは魔術を発動まで終えて後退した状態から攻撃へ移った。
「【火の玉】!」
「【不死鳥の羽】!」
私は杖の先から小さな火の玉を発射し、フェネクスは羽のような形で空中を飛んでいく炎を右手に生成して飛ばす。
「甘いですぞ、エレナ様、フェネクス様……」
「甘いのは君の方だよ」
私の「火の玉」はまっすぐな方向へ山なりに飛んでいくだけの単純な魔術だったためあっさりと回避されてしまった。
「ごあっ!?」
しかしフェネクスが出した燃える羽は、老人の首元で爆発。
「『不死鳥の羽』は、決して標的を逃がさない。僕の目が黒いうちはね」
「や、やりますな……フェネクス様!」
それに合わせて老人は宙返りで後退することで爆風のダメージを和らげる。
それでも、少しよろけるくらいには衝撃が全身に響いてはいるようである。
「【拡散する炎】」
「うっ!」
さらに、フェネクスは小さな炎の球を部屋中に飛ばして老人を牽制。
「さあ、エレナ!今の内に逃げるよ!」
「うん!」
フェネクスに手を引かれるまま、私は屋敷の階段を飛び降りてすぐに扉をこじ開け、花が並んでいた庭へ出る。
すると、庭の植物はあっという間に一つに集まって巨大な人型の怪物と化した。
「ゲホッ、ゲホ!それッ!ここからが本番ですぞ!これは私がかねてより研究に研究を重ねて用意した魔導兵器が一つ!!名前はまだ未定ですが、それは貴女がたを葬ってからでも遅くはないでしょう!」
そして2階の窓からガラスを割って飛び出した老人は、ちょうど胸元にぽっかり空いた穴へ飛び込む。
やがて木の幹と花々は老人が内側へ入り込んだ穴を塞ぎ、それはまさに老人を全方位の攻撃から守る巨大な鎧となって私達の前へ立ちはだかった。
「えっ、このタイミングで木と花のゴーレムって……バカ?僕、さっき炎の魔術使ったよね?……普通に燃えるよ?」
しかしフェネクスは全くもって動じていない様子。
そして、それは私も同じだった。
「フェネクス!私を天高くまで連れてって!」
「了解!ほら、乗って」
フェネクスは姿をいつもの人型から本来の不死鳥へ戻し、私をその背に乗せる。
「む……そんなに高く飛んで、どうする気ですかな?塀を超えて逃げたところで、私めはいつまでも貴方がたを追いかけ続けますぞ!」
老人は私達がてっきり塀を超えて逃げようとしていたと思ったのか、戦いの最中だと言うのに捨て台詞を吐いた。
しかし、フェネクスをわざわざ不死鳥の姿に戻してまで空高くへ昇る理由として、「逃げるため」は、何と言うか……理由として弱すぎる。
わざわざフェネクスに姿を切り替えさせる手間をかけておきながら、ここで私達の命を狙っている敵を放っておいて逃げるようなつまらない真似はできない。
フェネクスは普段こそ人間の姿だが、本来の姿は全身が溶岩のように真っ赤な羽に包まれた怪鳥。
人間の姿を保つことには何も違和感こそ無いものの、姿を変えるそのタイミングだけは、やはり肉体の違和感がどうしても誤魔化せないらしい。
「よし、これくらいの高さで大丈夫だと思うよ。さ、行っちゃって」
フェネクスにわざわざそんな事をさせて、この状況で私がやることと言えば一つ。
「ありがとう、フェネクス。とうっ!!」
私は腰からレイピアを取り出して、自由落下の勢いに体重を乗せてさらに急降下。
植物ゴーレムの全長が塀をギリギリ超えていないということは、ビルの2階よりは小さいということになる。
そして今、私が飛び降りたフェネクスの高度は、大体ビルでいうと5、6階くらい。
普通の人……どころか、不死鳥のフェネクスみたいに命に関わる力や、そうでなくとも重力か何かしらの力に関する特殊な力を持っている悪魔と契約して力を分けてもらっているか、或いはそれに並ぶ程に重力の管理が上手な魔術師でも無い限りは、飛び降りたら簡単に死んでしまうような高さだ。
「……な、まさか、エレナ様……!?あ、ああ、嫌だ……」
「そぉーれっ!!【火閃】」
私はレイピアに炎を纏わせて空中で狙いを定め、着地点を絞る。
目標は老人が飛び込んだ、植物ゴーレムの胸部。
剣先が幹に突き刺さる。
纏わせた炎は花々を焼き尽くし、幹はバナナの皮のようにスルリと剥がれていった。
膝から崩れ落ちる植物ゴーレム。
核となる老人が向き出しになったため、力を全身に行き渡らせる器官を失ったのだろうか。
そして今。
目の前には私とフェネクスを殺して自らの野望と計画を隠蔽としている老人、そんな私の右手には剥き身になったレイピア。
……やる事は一つだ。
「あ、あ、あ……エレナ様、もう一度!もう一度考え直し下さい!ヒッ、あ、嫌です、嫌だ、嫌だ……嫌だあああああああああああああ!!」
私は右手のレイピアを構え直し、老人の額を―――。
……翌日。
私とフェネクスは何事も無かったかのように、普段通りに学院へ向かった。
「う~ん!美味しいっ!モゴモゴモゴモゴ」
朝早くから食堂へ向かい、一番乗りでビュッフェから大量に取ったマッシュポテトとソーセージを頬張る。
「人殺しの翌日なのによく食べるねぇ」
「人間だもん、どんな時でもお腹は減るよ?」
「ふふっ。そういうところ、素敵だと思うよ」
「そう?モゴモゴモゴモゴ」
俗説……というか、いわゆる俗世間では残酷な現場を見てから数日は食が進まないというのがあるらしいが……。
そんなのは知った事ではない。
私はお腹が減ったのだ。
……構わずポテトを頬張る私の横で、フェネクスもナンをインドカレーにつけながら食べている。
「エレナ。……君は、満足できてる?」
フェネクスは頬をパンパンに膨らませている私を横目に、摘まんでいたナンを皿に置いて言った。
「どうしたの、急に」
「あのお爺さんに共感した訳じゃないけどさ。……エレナほどの目に遭ってきた子が、そういう『この世界に対する何かしらの思想』を抱かないのも珍しいなと思って」
「おじいちゃんと話してる時にも言ったけど、私は本当に周りのことなんてどうでもいいんだよ。だから世界がどうなろうと、私みたいに不幸な生まれの子供が増えようと、私にとってはどうでも良い事なの。……私には、そういう思いやりの心っていうか……意識の高さ?みたいなのが無いんだよ。私はただ、フェネクスが一緒にいれば、それで」
「……くくくくく……あっははははははははっ!」
「もう、フェネクスったら!何がおかしいの!」
「いやいや、僕も好かれちゃったものだなと思ってさ。だって僕、悪魔なんだよ?人間には崇められる事こそあったけど、ここまでパートナーとして好かれる事になるなんて思わないじゃん」
フェネクスはひとしきり大笑いした後、ポテトを頬張ったままの私の肩を抱き寄せた。
「んぐっ!ど、どうしたの?」
「……ありがとう、エレナ。僕のことを好きになってくれて。……僕の力を求めてやってくる人は皆、僕っていう存在そのものに関心はあんまり無かったみたいだったからさ。もう軽く二千年くらい生きてるけど、互いに利用し合う以上の関係を人間ともった事は今まで一回も無かったんだよ。だからとっても新鮮だし、嬉しい。……僕も愛しているよ、エレナ」
「えへへへ……ありがとっ」
私は残っていたポテトを全て胃に流し込み、いつの間にかとっくにカレーとナンを完食しているフェネクスと一緒に食器を返却口へ返し、空いた手を繋いで食堂を出る。
しばらくして、魔術学院のチャイムが鳴る。
「エレナ、今日は何をするの?」
「今日は……マンドラゴラの講義でも受けてみようかな?」
「へえ、マンドラゴラなんて今でも使われてるんだ……ねえ、僕もついて行っていいかな?」
「もちろん!さ、行こ!場所は教室棟の4階、あと10分で始まっちゃうよ!」
私はフェネクスの手を引き、階段を上っていく。
今日もいつもと変わらない、もはや慣れ親しんだ学院での日常が始まる。
私の名前はエレナ・オズボーン。
悪魔フェネクスの主人でパートナー。
その未来は、きっと人間の子として生きていた頃よりも遥かに明るいものとなるだろう。
R15指定になる内容は禁止ということで、かなりいつもより表現を抑えました。
マイルドな作品もたまにはいいよねということで。