メロウの町
「シフォンー!起きてー」
重たい瞼に手を伸ばし、少女は何度か手の甲を擦り付ける。
じわりと圧がかかり、少しずつ顔へ血液が巡るのが感じられた。
冬の甘い空気に混ざるのは、母が早朝から仕込んだスープの香り。
ベーコンと根菜類、葉物がブイヨンの香りに包まれている。…ポトフだ。
ぼんやりと取り留めなく思考が流れている間に、ゆっくりと目が冴えていく。
「……誕生日!」
ばっ、と勢いよくベッドから起き上がれば、カレンダーの今日の日付が目に入る。
赤マルで主張している今日は、冬の月・11の週の5日。
パンタレイの最北端に位置する町:メロウに産まれた少女…シフォン・ランビールの10才の誕生日だった。
(やっとおばば様から魔法を教えて貰える…!いそがなきゃ!)
身支度もそこそこに階段を駆け下りてキッチンへ向かえば、いつものように母が朝食の準備を進めていた。
柔らかいパンの焼ける芳ばしい香りに、シフォンのお腹が空腹を訴える。
「おはよう!お母さん!」
「おはよう、シフォン。また夜更かししたでしょう」
呆れ混じりの苦笑を受けて、シフォンは大きく首を振った。
いつもは沢山の本に埋もれて、ついつい夜更かしをしてしまう。だが、昨夜は中々眠れなかったのだ。
…変な夢をみてしまうほどに。
「今日はおばば様から魔法を教えてもらうの!楽しみだったんだから」
「…そうだね。もう10才だものねぇ…」
しみじみと向かい合う娘を見て、アリア・ランビールは優しく笑った。
パンを頬張るその姿は、まだ幼い。だが、確実にその背も表情も成長していた。
10年の月日は、あっという間に過ぎ去ってしまった。その1日1日が、アリアにとってのかけがえのない宝物だ。
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
「ご馳走様でした!だって、もうすぐリエフが…」
「シフォンー!」
シフォンが空になった食器を流しに置いた時、外から待ち人の声が響いた。
呼び声に窓を覗けば、溌剌とした中に芯の強さが滲む声の主が、遠目にも解る程手を大きく振っている。
赤茶の髪に太陽が反射して、焔を連想させるようだった。
「リエフは今日も元気ね。気をつけて行ってらっしゃい」
「うん!いってきまーす!」
手早く片付けたシフォンは、ふわりと軽やかに扉を開ける。送り出す母は、眩しそうに目を細めた。
✿
「おはよう!リエフ!」
「誕生日おめでとう、シフォン」
にっ、と笑った彼が差し出したのは、柔らかな赤白橡の色合いに満ちたリボンだった。
白金色のシフォンの長い髪は、いつも何かしらの髪留めで纏められている。
嬉しそうなシフォンが藍色のリボンを解く。再び纏めたそこには、高貴な暖色が映えていた。
「ありがとう!大事にするね」
2つ上のリエフは、シフォンにとって兄のようだった。面倒見の良いリエフと時々突飛な行動力を発揮するシフォンは、歳が近い子供達の中で1番長く同じ時を過ごしている。
どちらともなく1歩を踏み出し、同じスピードで歩を進めた。
「ばば様から教わった、共鳴の魔法をかけたんだ。シフォンが何処にいるかすぐに解る」
「すごい!魔法のリボン…!
…でも、私そこまで迷子になったことないと思うのだけど…」
「時々居なくなっちゃうから。でも、これで絶対見つけられる」
悪戯に微笑むリエフに、シフォンは少しだけ唇を尖らせた。
町のしきたりとして、10歳を迎えた子供は魔法の勉強を始める。
リエフが魔法を学んで早2年。シフォンは、彼が少しずつ高度な魔法を実践しているのだと実感した。
「来年のリエフのお誕生日には、魔法の贈り物するからね」
「楽しみに待ってるよ」
半年後のリエフの誕生日。夏の月には、どんな魔法が使えているのだろう。
そんな期待に胸を膨らませつつ、2人の足は目的地で止まった。
「おばば様、おはようございます!
シフォンとリエフです!」
町外れの森にある小高い丘の上に、賢女の住む館がある。四季に応じた花が咲き乱れ、裏手に広がる湖には水鳥が集まっていた。
穏やかな風が2人の来訪の報せを運び、門がゆっくりと開いていく。
「2人ともよく来たね。…シフォン、おめでとう」
「ありがとうございます」
賢女のゆったりとした声は、夕日の如く静かながらも身に響く。
幼い頃から見守られていたその眼差しに、シフォンは微かな懐古と大きな期待を返した。
2人を招き入れた館の門はゆっくりと閉まり、穏やかな日常を閉じ込めた。