2.新生活(1)
薄暗く下水の異臭漂う地下水路をひた歩く。
何度も繕い直した粗末なワンピース。
全身の毛が抜け落ちた頭皮は見窄らしく晒され、美しかった若草色の瞳は汚れ、黒く染まっている。
魔法を行使したことで受けた代償はあまりにも大きかった。フラミーニアは性別の区別がつかないほど醜い姿になっていた。
真っ暗な地下水路の壁に手を付き、膝下が汚水に浸かりながらも必死に前へと進む。
金銭も私物も何も持っていない。あるのは醜悪な姿になった身ひとつだけ。
雨風を凌げる立派な屋敷。
毎日三食運ばれてくる食事。
定期的に渡される飾り気のない服。
そして唯一会話をして心を通わせた人。
何もかもを手放しても、それでもフラミーニアは足を止めなかった。
ーーこれからは誰かの為に生かされるのではなく、自分のために生きていく。
気がつくといつの間にか朝になっていたらしい。
所々に空いている天井の穴から陽光が差している。
今何処にいるのだろう。一晩中、汚水の中を歩き続けていたせいか、それとも全ての魔力を転移したせいなのかわからないが、頭痛が酷い。方向感覚もよくわからなくなっている。
ーーとにかく人目がつかないところへ出なくちゃ。
この先にある光を信じてフラミーニアは歩き続ける。
すると漸く出口が見えた。暗闇から見る陽の光に包まれた出口は、まるでフラミーニアが求め続けていた自由な世界への扉のように見えた。
胸を弾ませながら躊躇うことなくその光の中に飛び込む。
すると目の前には大きな川が現れた。川幅は広く、流れは穏やかだった。周りは深い森に囲まれており、人の気配は無い。
無事に王都の外へ出ることができたのだ。
「やっと外に出られた……」
川の上流へ向かって進んだところで、ホッとしたのか突如全身の力が抜ける。フラミーニアは川の浅瀬に情けなく座り込んだ。
依然として頭は鈍器で殴られたようにズキズキと痛む。
疲弊した体は一度座るとなかなか立ち上がることが出来なかった。
(まずは何か食べるものを探さないと。それに住む家、あとは仕事も探さなくてはならない。やらないといけないことは山ほどあるのに、体が、動かない……)
痛む頭を抑えながら何とか立ちあがろうと試みたがなかなか上手くいかない。立とうと足を踏ん張っても、膝から崩れ落ちてしまう。
このままここで朽ちていってしまうのだろうか。
そんな悪い予感が頭をよぎった時だった。
「朝っぱらからこんなところで入水自殺なんてやめてくれる? 見ているこっちの気分が悪いわ」
透き通った声が聞こえてハッと顔を上げた。
陽に透けて輝く銀髪に凛とした菫色の瞳。肩につくほどの短い髪を耳にかけた絶世の美女を目の前にして、フラミーニアはポカンと口を空けた。
「天使……? あ、私ついにお迎えがきてしまったの……」
「死んでないわよ。まだね。死にたいなら他所でやって。貴女の死体で土壌の質が悪くなるのは困るのよ」
冷めた物言いの美女は川の水を木の桶に汲むと、さっさと立ち去ろうとする。
「天使さま、待って……!」
初対面の人に対してどう話しかけたら良いのか、勿論知りもしないフラミーニアは思いつくままを言葉にする。
振り返りもしない美女に最後の力を振り絞って叫んだ。
「私が死んで悪魔になったらお友達になって……! 私、ずっと貴女の側にいるから! ずっとずっと寄り添い続けるから!」
「貴女何を言っているの? 気持ち悪いこと言わないで頂戴」
整った顔を大きく歪めた美女が振り返る。
どうやら言葉選びを間違えたようだ。
「貴女、死にたいの? 生きたいの?」
「生きたい! 出来れば悪魔ではなくて、生きて貴女とお友達になりたいっ!」
濁った瞳と菫色の瞳が交錯する。
何も持たない醜い自分だが、希望だけは捨てなかった。
数秒見つめ合うと、美女は諦めたように大きく溜め息を吐いた。
「……はぁ、本当なんて最悪な朝なのかしら。もういいから、ついてきて。どうせ何も持ってないんでしょう」
「ありがとうっ。天使さま……!」
力を振り絞って立ち上がったフラミーニアはよろよろと美女の後をついていく。
先程まで全ての力を使い果たしたと思っていたのに、不思議と気力が湧き上がる。
数分歩くと木材で出来たログハウスのような家に着いた。
「ここが私の家よ。私はね、鼻が利くの。汚れた人は家に入れたくないわ。消毒消臭をするから、裏へ来て」
「うんっ」
大人しく美女についていく。言われるがまま汚れたワンピースを脱ぎ、水が張ってある樽に身を沈めた。
「あったかい……」
もくもくと白い煙が上がる。今まで湯に浸かったことのないフラミーニアは感嘆の声を漏らした。
長時間汚水に浸かり汚れきった骨の髄まで、温かさが染み渡っていく。
「はい。これ匂い消しのハーブ」
「わぁっ」
樽から溢れるほど山盛りにハーブの葉が積まれ、湯に浮かぶ。
「ちゃんと頭から爪先まで綺麗にしてよね!全く、どうしたらこんなに汚れるのかしら」
「一晩中、地下下水の中を歩いてたの」
「げすいっ?!」
よくそんな所歩けるわね……と悍ましいものを見るかのように顔を顰める天使。
湯に浮くハーブを心許ない頭に乗せた。
「ピカピカにするから、そうしたらお友達になってくれる?」
「絶対に嫌だわ!」
「私いい匂いがするように頑張るから!」
「ちょっと、私のことなんだと思ってるのよ。私は虫じゃないんだけど!」
頭上から熱めの湯をかけられて、樽から湯がザブンと溢れ出た。
自然と笑みが漏れる。上を見上げると空には雲一つない青空が広がっていた。
身綺麗にして服を借りたフラミーニアは、やっと美女から家に入る許可を得た。
家の中はあちこち薬草と思われる葉や根が散乱している。石臼や目盛がついたガラス製の容器があったり、火を焚く釜も置かれている。
案内されるがままカウンターにある椅子に座った。
すると美女は奥から茶色い乾燥した根と石臼を持ってきて煎じ始めた。ある程度の細かさになると土瓶に入れ、水と共に煮出す。
「少し待ってて。薬草茶を作ってるから」
メリッサは白い柔らかなパンを皿に盛り、フラミーニアに差し出した。
「ありがとう。天使さまは薬屋さんなの?」
「そうね、薬師よ。それより天使さまはやめて頂戴。私はメリッサよ」
「私はフラミーニア」
二人向かい合って腰をかける。薬草の青々しい香りがたちこめてきた。
「とりあえず、貴女が自殺しようとした経緯を教えてくれるかしら。ここまでしてあげたんだから、教えてくれても良いでしょう?」
「死のうと思っていた訳ではないの。何から言えば良いのかなぁ……」
「全部よ、全部」
「誰にも言わないでくれる?」
「こんな森の中で暮らしているのだから、言う相手も居ないわ」
そっか、そうだよねと納得する。フラミーニアは静かに話し始めた。
「まず、こんな外見になったのは魔法を使った代償なの。体が退化するとは知っていたんだけど、まさか毛が全てなくなるとは思ってなくて……」
「そうだったの。てっきり髪を売ったのかと思ったわ」
「髪って売れるんだね」
「綺麗で長ければ高く売れるそうよ。でも女性が髪を売るなんて、よほどの貧困で困ったときくらいじゃないかしら」
「そうなんだ。メリッサは物知りだね」
誰かと会話できる楽しさがじわりと胸に広がっていく。フラミーニアは無意識のうちに頬が綻んでいた。
ほわほわとした気持ちになりながらパンを千切って口に運ぶ。小麦の芳ばしい香りがした。
「それで、フランの魔法って?」
「【魔力転移】」
「えぇっ! それって魔力を自由自在に移動させるっていう……」
「そうなの。第三者同士の間で移動させることもできるし、私の魔力を与えたり、逆に相手から魔力を奪うことも出来る」
「まさか……。そんな魔法、本の中でしか読んだことがないわ」
【魔力転移】によって国が滅びたという昔話は、実話かそうでないのかは未だに分かっていない。
遠い昔、【魔力転移】保持者である心優しい青年がおり、生活をより豊かにする為、人々に自らの魔力を分け与えていた。
しかしその特異な魔法に目をつけた権力者は青年を誘拐し、妹を生贄にして強制的に【魔力転移】を行使させ続けた。
敵対する相手から全ての魔力を奪い、自らの物にする。圧倒的な力である魔法を制した権力者は、遂に王族にまでその刃を向けた。
自分のせいで国が滅んでしまうことを恐れた青年は自ら毒を飲み、命を絶ってしまう。そして【魔力転移】によって多大な魔法を手にした権力者と王家は相討ちとなり、その国は隣国に吸収され滅びたという、今ではお伽噺となっている物語だ。
メリッサは驚きながらも静かに話を聞いてくれた。
一度立ち上がり、煮ていた薬草茶をこしとり、コップへと移す。
「はい。セキショウの薬草茶よ。健胃や冷え性改善にも効果があるわ」
「ありがとう。……少し苦いね」
「まぁ、薬草茶なんて皆そんな味よ。……それで? どれだけ魔法を使ったらそんな外見になるのよ」
「全部使っちゃった」
「ぜんぶぅっ?!」
ガシャンとコップをテーブルに叩きつけて立ち上がったメリッサをまぁまぁと宥める。
基本的に魔力は少しでも残っていれば時間の経過と共に元に戻る。しかし、ゼロに何を掛けてもゼロになるのと同じで、一度枯渇してしまった魔力はもう二度と手にすることは出来ないのだ。
「全部って、もう二度と魔力は戻らないのよ?!」
「うん。知ってる。だけど、この魔法を持っていると私は私として生きていくことが出来ないから……」
フラミーニア眉を下げ悲しそうに笑う。良くも悪くも利用できる【魔力転移】。この珍しい魔法を使って悪事を目論む者がいてもおかしくは無い。
それに魔力には必ず痕跡が残る。魔力持ちは移動すれば必ず空気中に微量な魔力が残ってしまい、逃げても隠れてもすぐに追跡されてしまう。
つまりフラミーニアは自分の魔法を悪用されることを恐れ、全ての魔力を捨てて逃げてきたのだ。
「フランの事情はわかったわ。とりあえず無事に逃げ出してこれた、ということよね。辛かったでしょう」
フラミーニアの事情を理解したメリッサは、それでも変わらない声色で話し続ける。
「確かにフランに同情はするけど、だからといって私が何もかも手を貸す義理はないわ。寝て食べて、体力が戻ったら出て行って頂戴」
「出て行っても、私とお友達になってくれる……?」
瞳を潤ませてじっとメリッサを見つめる。
紫色のアーモンドアイは凛としていて美しく輝いていて、まるで宝石のようだった。
「まぁ……たまに話し相手になるくらいならいいわ」
「ありがとう、メリッサ!」
「ぎゃあっ! ちょっとやめてよ!」
メリッサの華奢な体に飛びつく。メリッサから家と同じ薬草の匂いがした。
「とりあえず、その頭すっごく気になるわ。私の変装用のかつらがあるから、それあげる」
フラミーニアを引き剥がし、逃げるように奥の荷物を取りに行く。山積みになっている荷物を掘り起こしてかつらを取り出す。
メリッサから受け取ったそれを頭に被せてみた。亜麻色の髪のかつらは肩につく長さだった。
「やっぱり髪がある方が落ち着くね」
「それに悲壮感が軽減して良いわ。川にいたときのフランは見るに耐えなかったもの」
メリッサは立ち上がり、いろんな荷物でごった返している台所(らしき場所)で作業を始めた。
「今日はとりあえず休んでて。私は仕事があるから」
「本当にありがとう。いつかこの御恩は絶対絶対に返すね!」
のろのろと立ち上がり、服や紙や薬草やらでぐしゃぐしゃになっている荷物を端に寄せ、ソファーで横になる。
鳴り止まない頭痛の悲鳴を押さえつけるようにフラミーニアは眠りについた。