1.初めての友人
フランとセノの思い出回です。
「今日の満月はとても綺麗ね」
屋敷の者たちが寝入った夜更け頃。
フラミーニアは屋根裏部屋の窓から壁伝いによじ登り、屋根の上で夜空を眺めるのが日課だった。
一日中何をするわけでもなく、ただ閉じ込められ衣食住を与えられて生かされる日々。
公爵である父の思惑も分からないまま、ただ息をするだけの毎日だった。
朝一に一日分の食事と水を与えられ、使用人とは会話をすることすら禁止されていた。扉には厳重に南京錠がかけられ、外に出ることは叶わない。
フラミーニアの肌は透けるように白く、四肢は折れそうなほどに細かった。
暇を持て余したフラミーニアは与えられた服の裾や裏地を使って粗末な人形を作り、それに魔力を転移させて遊んでいた。
しかしそれも楽しくない。成人はまだ迎えていないが、人形遊びに興じる年齢はとっくに過ぎている。
「あの人は十八歳、成人になったら部屋から出してくれるって言ってたけど……あと二年もある」
ふぅ、と息をつきながら手作り人形を握りしめる。
外の世界のこと。未来のこと。気にならないわけではない。何度もこっそりと外へ出てみようかと考えた。
しかしその度に一歩が踏み出せずに萎縮してしまうのだ。
知らない世界へ飛び込みたいと思う反面、知るのが怖いと思ってしまうのは、フラミーニアがまだ幼いからだろうか。それとも弱いからだろうか。
カタン、と音がしてハッと体を起こす。月明かりに照らされて一匹の小型犬が屋根に飛び移ってきた。
痩せ細ったフラミーニアでも抱えられそうなほど小柄な体。三角の形をした小さな耳。柔らかそうなふわふわの深緑の毛。意志の強そうな、凛とした金色の瞳が特徴的だった。
「あっ……こんばんは。あなたは犬? 本物は初めて見た……」
絵本の中でしか見たことのない犬という動物を目の前にしてドクドクと胸が高鳴る。
警戒されて逃げられないように、咄嗟に両手を広げて笑顔を作った。
「私、フラミーニアって言うの。私の初めてのお友達になってくれないかな?」
品定めをするようにじっと見つめてくる小さな犬。こういう時は餌で釣るのが良いと思いついたフラミーニアは、気落ちしながらも穏やかな声で話しかけた。
「お腹空いてるかな? といっても今日の分のご飯は食べちゃって無いんだ……。ごめんね。また明日来てくれたらご飯取っておくから一緒に食べない? 良かったらまた会いに来て?」
深緑色の犬は小さく頷くと、ピョンと屋根から飛び降りて行ってしまった。
「行っちゃった……。明日も来てくれるかな」
フラミーニアはこの屋根裏部屋に連れて来られて初めて、心臓が煩くて眠れなかった。
次の日。いつものように屋敷が寝静まった頃、屋根の上に行くと深緑色の犬が待っていてくれた。ユラユラと尻尾が揺れている。
「来てくれたの……っ? すっごく嬉しい! ありがとう……」
抱き締めたい衝動をぐっと堪える。これで警戒されて逃げられたら立ち直れそうにない。慎重に一歩ずつ距離を縮めていく。
籠に詰めた今日の分の食事を見えるように差し出した。
「今日のご飯はサンドウィッチだったの。こっちは野菜が挟んであって、もう一つはお肉。犬って何が好きか分からなくて、全部取っておいたの。あなたは何が好き?」
籠を置いて少し後ろに下がる。害がないということを示す為だった。
犬はゆっくりと近づいて籠の中を見ると、再び顔を上げてフラミーニアを真っ直ぐに見つめる。夜空に輝く星のような金色な瞳がキラリと煌った。
「お前、馬鹿なの」
何処からか低い声が聞こえて周りを見渡す。こんな夜も遅い時間なのに、起きている人が居たのだろうか。
「こっち。俺だよ」
「えっ、あなた……!」
目の前にいる小型犬を目を見開いて凝視した。
「犬が喋ってる……! 犬って確かワンと鳴くのではなかったっけ?」
「話せる動物くらい、何処にでもいるよ」
「そうなんだ、知らなかった……!」
「犬すら見たことなかったのなら、そうかもな」
何度もパチパチと瞬きをする。
人語を話す犬は面倒臭そうに目を細めている。
「それより、これお前が食えば。全部取っておいたって、つまり今日何にも食べてないってことでしょ」
「あなたに会えるかもって思ったら、それだけでお腹いっぱいになっちゃって。良かったら一緒に食べない?」
「なにそれ。……あぁ、分かったよ。俺は肉」
屋根の上の平らな部分に腰を落ち着けて、籠からサンドウィッチを取り出し、清潔な紙の上に乗せた。
「どうぞ」というと、犬はかぷとパンにかぶりついた。
フラミーニアも自分の分を取り出して口に運ぶ。
時間が経ったサンドウィッチは乾燥してパサパサだったが、いつもの食事の何倍も美味しく感じた。
「誰かと食べるご飯ってこんなに美味しいんだね。ありがとう、今日も来てくれて」
自然と頬が綻んで笑顔になる。横を見ると、そこにあったはずのサンドウィッチは無くなっていた。
「あれ、もう食べたの?」
「うん。ご馳走様」
「早いね。私の分も食べる?」
「要らない。ちゃんと食べないと倒れるよ」
そう言って隣に並び、伸びをして寝そべった。
(私が食べ終わるまで待っててくれるんだ。優しいな……)
フラミーニアは胸に温かいものが広がっていくのを感じながら、食事を胃に収めていった。
その日から不思議な犬ーーーセノは天気の良い日は頻繁に遊びに来てくれた。
「夜中にこんな所にいて、飼い主さんに怒られない?」
「俺は自由の身だから」
くあぁ、と口を大きく開けて欠伸をしながら横に並んで座る。
セノは特別何をするというわけでもなく、ただフラミーニアの側にいてくれた。
「風が湿ってるね。星も見えないし、明日は雨かなぁ……」
「そうかも」
「雨の日はセノに会えないから寂しいよ」
セノの小さな前足を人差し指でちょんと突く。
「またすぐ止むよ」
「……うん」
「俺も用事があるときは来れないけど、出来る限り来れるようにするから。だからメソメソすんな」
「うん。セノ、大好きだよ」
深緑色の毛が生えた小さな耳がピクンと動く。顎を上げて目を細め、ツンと視線を逸らす仕草がフラミーニアは好きだった。
フラミーニアはこうして好意をよく言葉で示す。セノはその度にこうして照れるので、反応が見たくて口にしている節もあるが。
「そういう言葉は大事な時に使えよ」
「セノといるときはいつも大事な時だよ」
「はぁ、もういいから黙って」
あんまりしつこく言うと、セノは顔を真っ赤にして帰ってしまうことがある。
フラミーニアは話を変えた。
「ねぇ、抱き締めても良い?」
「俺はぬいぐるみじゃない」
「ちぇ。駄目かぁ」
本当は膝に抱いて柔らかそうな毛をわしゃわしゃと堪能したいのだが、セノは決して許してくれないのだ。獣扱いされるのを異様に嫌っている。……獣なのに。
「じゃあキスするのは?」
「はぁっ! 駄目に決まってるだろ」
「んーじゃあ百歩譲って膝枕!」
「嫌」
「……お願い。セノと触れ合いたいの……。体温って凄く心地良いから」
手を合わせて瞳を潤ませる。じぃぃぃっと見つめ続けると、諦念したセノが溜め息を吐いた。
フラミーニアの太腿に乗り上げ、ゴロンと横になる。
「セノ大好きっ!」
「……うるせ」
目を閉じてそっぽを向くセノの耳が小刻みに揺れている。可愛くて愛おしく思うのと同時に、大切な人を失いたくないと思ってしまう。
「もし……もし私の見た目が変わったら。例えば髪が変な色になったり目が違う色になったら、セノはどう思う?」
「何それ。歳を取って変わっていったらってこと?」
「まぁ、そんな感じ」
「フランはフランなんでしょ? 別に何も変わんないよ。見た目なんて、生き物ならみんな毎日変わっていくものだから」
「うん……そっか。そうだよね」
足から伝わる体温が心地よい。
低くて掠れた声を聞きながら、何となく真っ暗な夜空を見上げた。
もし【魔力転移】を行使して、見た目が退化してしまったらセノはどう思うのだろう。そんな仄暗い感情をどうしたら良いか分からなくてセノに直接聞いてみたが、やっぱりセノはセノだった。
じわりと心の氷が溶けていくような不思議な感覚が胸を支配する。
「逆にフランは?」
「私?」
「俺の見た目が変わったら気持ち悪いとか思う?」
「うーん。正直今までほとんど人や動物と関わったことがないからよくわからないんだけど。でもセノのことが大好きなのは変わらないと思う」
「……そっか」
短く返事をしたセノはそれっきりフラミーニアに背を向けてしまった。
***
知ってしまったのは、偶然だった。
フラミーニアはいつものように自作の人形に魔力を転移させ遊んでいた。つい興味本位でいつもより多く魔力を移動させてみると、人形から見える景色や音が魔力を通して感じることが出来たのだ。
「【魔力転移】ってこんなことも出来るんだ。ただ……ちょっと魔力を使いすぎちゃったな」
短くなった髪の毛先を掬いながら、小さく息を吐く。
自由に動き回る小さな人形を窓から外に出す。
「へぇ。この屋敷、こんなに広かったんだ。庭もお花が沢山咲いていてとても綺麗……」
人形と連結した魔力から頭に映像が流れてくる。屋敷の周りを一周した後は屋敷の中に入った。
沢山いる使用人にバレないよう、換気口に入ったり絨毯の下に隠れて時をやり過ごす。
そして一際重厚感のある扉の中に入った。
他の部屋とは明らかに意匠が異なる部屋。分厚い本が所狭しと並び、真ん中には大きな執務机が鎮座している。
そこには髭を蓄えた初老の男性と、成人前と思われる男の子が居た。
「父上、本当にこの計画を進めるのですか」
「ああ。上手くいけば国家を揺るがす大発見になる」
歳の異なる二人の男性はいずれも銀髪で鮮やかな緑瞳をしていた。
見た目の特徴から、初老の男性は公爵家当主デレッダ公爵であり、男の子はフラミーニアの異母弟であると思い至った。
「まさか使用人が孕んだ子供が【魔力転移】を持って生まれるとは思ってもみなかった。やはり子は多いに越したことはないな。コルンバーノもよく覚えておきなさい」
「……その、異母姉はどうするのですか。魔法を有するのならば、もちろん代償もあるのでしょう?」
デレッダ公爵は手にしていた羽根ペンを置くと、ゆったりと椅子に背を預けた。
人形の魔力を通して聞こえてくる会話に、まさか自分が登場すると思ってもいなかったフラミーニアは体を硬くした。
「代償は"体の一部が退化する"ようだ。適度に休養を与えれば何も問題はない」
「異母姉を閉じ込めて【魔力転移】の実験をさせるなんて無理があるのでは? 異母姉とて一人の人間です。強制に従わせるのには限界があります」
「勿論説得はするがそれでも応じない場合は一本一本爪を剥ぐことも致し方ない。私の血を引いて世に生まれ落ちたのだ。唯一貴族のみに与えられる女神の祝福を、公爵家に還元することは当然の責務だ」
実験。爪を剥ぐ。当然の責務。
会話の単語が脳に張り付き、ぞわりと背に冷たい汗が伝った。
机に肘をつき、鋭く威圧する視線に耐え難くなったコルンバーノが下を向く。
「魔力転移のメカニズムの解明ができたら、魔法界でのヒエラルキーが一変することになる。遠からぬ未来、代償を払わず魔法を行使出来るようになる日が来るかもしれないのだ」
父の言葉は淡々として落ち着いている。まるで当たり前のことを説明しているかのように。
皺を伸ばすように指で眉間を押し、再び前を向いた。
「魔力が安定する十八歳になるまでは、フラミーニアには今まで通り屋根裏部屋で過ごしてもらう。実験についてはコルンバーノも携わってもらうから、そのつもりでいなさい」
「父上、もし仮に実験が失敗に終わって異母姉の魔力が尽きてしまったら……勿論公爵家の娘として面倒を見るのですよね?」
「フラミーニアには一切令嬢教育を学ばせていない。貴族の娘として生きていくのは不可能だ。用済みとなれば、市井に降りて貰う」
「そんな……その仕打ちはあまりにも酷いのでは……」
「手切れ金を渡せば問題ないだろう。まぁそれもすぐに下衆な奴らに絡め取られるだろうがな。教養も魔力もない者が生きていくなんて、そんな生温い世の中ではない」
会ったこともない異母弟のコルンバーノはフラミーニアの境遇を憂いていた。
しかし父の言葉に迷いも憂いもない。さも当然のような言い草だ。これから先、何を言っても父の意志が変わることはないだろう。
「コルンバーノ。これが研究者から送られてきた実験の要項だ。これを踏まえて施設を整える必要がある。目を通しておきなさい」
「…………はい。父上」
恭しく頭を下げ、退出するコルンバーノの影に潜んで人形を退却させた。
魔力を操作し、何とか無事に手元に人形が帰ってきた。元々粗雑なつくりだったが、更に汚れて黒くなり、あちこちがほつれている。
「そっかぁ……。そういうことだったんだ。うん。そうだよね」
心に大きな穴が空いたような虚無感。
悲しみや恐怖よりも、どちらかというと納得の方が大きかった。
何故衣食住を与えられ、何不自由なく生かされていたのか。
何故外にも出れず閉じ込められていたのか。
何故、十八歳になったら外に出れると言ったのか。
「私が生きているのは【魔力転移】のためだけ、なんだ」
不思議と涙は出てこなかった。
フラミーニアの価値は【魔力転移】だけだと言われても、自分でもその通りだとしか思えなかった。
実験なんて何をされるか分からない。抵抗した場合は爪を剥ぐーーつまり拷問してでも従わせるといった発言も、用が済めば市井に捨てると言ったことも恐ろしいと思った。嫌だと思った。
しかしそれよりもフラミーニアの心を深く抉ったのは、渇望だった。
父の言いつけを守り屋根裏部屋に引き篭もり、大人しく言うことを聞いていれば。魔法を上手く使えるようになればいつかーー成人になったら、父や家族に愛してもらえるのかもしれない……なんて。そんな淡く脆い期待、抱くだけ無意味だったのに。
フラミーニアに初めから愛情なんてなかった。求められていたのは身に宿す魔法だけだった。
このままでいいの?
確かに父の実験が成功して代償なく魔力を扱えるようになれば喜ぶ人は沢山いるかもしれない。だけどその喜ぶ人は、フラミーニアを愛してくれる人ではない。顔も名前も、知らない、フラミーニアという人間を見てもくれない人。
そしていずれ用済みとなった自分は愛されることも必要とされることもなく、一人きりのまま糸屑のように捨てられるのだ。
そんな未来を到底受け入れられるはずがない。
もう親鳥の温情を乞い待つだけの、鳥籠の中の雛鳥になんてならない。扉を壊して、自由に空を飛び回ってみせる。
ーー私は自分の選んだ道を進んで、自分が愛した人を幸せにしたい。だったら、こんな魔力……要らない。
フラミーニアの瞳が初めて鮮やかに色づいた瞬間だった。
無気力だったフラミーニアを突き動かしたのは、愛されたいという渇いた欲望だった。
そしてフラミーニアは外見の変化が大きく出ないように、ゆっくりと時間をかけながら【魔力転移】を行使して魔法に関する知識を集めた。
女神から賜る魔法は基本的には一人一種類だということ。
魔法にはそれに応じた代償がついてくること。
魔力は成人を迎える頃に力が安定すること。
魔力は一度枯渇したら再度取得できないこと。
魔力には残滓が残り、隠れたり逃げても追跡されてしまうこと。
それらを知ったフラミーニアは綿密に計画を立てた。
父の執務室に忍び込めば、大体の情報を知ることができた。予め脱走経路を調べ、夜中の地下下水なら誰にも会わずに王都の外へ出られそうだということを確認する。
あとはどうやって魔力を枯渇させるのか。
この不恰好な人形に全ての魔力を注いでみようか。でもこんな強度のない脆い人形では、流石に全ての魔力を受け入れられるように見えない。
「セノは……魔力、欲しいかな……?」
ふと金瞳の犬を思い出す。
人語を話す犬はもしかしたら元は人間かもしれない。例え仮に動物だとしてもそれなりに魔力を受け入れられるはずだ。少なくともボロボロの人形よりは良いはず。
基本的に魔力量は増えることはない。今の学問ではフラミーニアの【魔力転移】を行使する以外には方法はない。
魔力量は多ければ多いほど魔法の精度や威力が上がる。一般的に考えれば、もらって嫌なものではないはずだ。
それにフラミーニアには選べるほどの選択肢が無かった。
「セノ……大好きなセノ」
こうして十七歳の夜、フラミーニアは初めて自分の足で未来を歩き始めた。