第七話 "狩猟"
そこは未発達な世界だった。
秩序が無く、ルールが無く、国が無く、
ただひたすらに、殺し合いだけが、諍いだけが起こる世界。
猟鬩世界スコルベマタンジャ。
多くの獣類が跋扈し、それを打ち倒すため、各地で"狩り"が行われた。
均衡は保たれていた。
獣と狩人。殺し、殺され、まるでそれが秩序であるかのように、奇しくも世界の均衡は一定だった。
────"狩り"陣営に、その男が現れるまでは。
この世界の狩猟の基本。膂力と敏捷で獣に遥かに劣る狩人は、普通、猟銃や毒、罠、不意打ちを基本として殺しにかかる。それが当たり前だ。そうして狩人は生き残ってきた。
対して、"光の狩人"雄々嶋は、
圧倒的な力を持つ獣相手に、真正面から、素手による闘争を仕掛けた。
この世界の狩り陣営の大半を占める"闇の狩人"たちは、そんな雄々嶋を嘲笑っていた。
たまたま弱った獣にとどめを刺せただけだ、そんな馬鹿げたやり方がいつまでもうまく行くわけがない、と。
雄々嶋は彼らと衝突した……わけではなく、
森の奥の奥、閑散とした僻地に居を構えた。
人の寄り付かぬ地。つまり、獣のよく出没する場所。
雄々嶋はその力を存分にふるい、そして今日も、大敵をたった一人で待ち受ける。
────天を裂く咆哮。空を覆う牙翼。
ソレは何かに取り憑かれたように、昏い眼で、
地に映るひとつの光を目掛けて舞い降りる。
悠然と迎え撃つ光の狩人。
闇を纏う翼を前に臆すことなく、
腰をわずかに屈めて────
<"光幻撃">
対峙するは巨大な体躯をもつ魔樫鷲。
退治するは貧相な左腕による回し打ち。
ズン、と重い音が響き渡る。
拳による打ち込みだというのに、
剣を持っているかのような動きだった。
『ふぅーー……』
細い息を吐き、仕留めた魔樫鷲の上に座る。
まだピク、ピクとかすかに動いているが、雄々嶋は気にも留めてない様子だ。
静寂。先程までのざわめきが嘘のようだ。
小鳥が側の木枝に止まり、チュ、チ、と小さく鳴き始める。
『おォ〜、雄々嶋ぁ、やっぱお前すげぇーなぁー。闇の狩人の精鋭たちでも舌を巻く相手だっていうのによー、一撃かぁー』
荒々しい足音。小鳥たちが、逃げてしまった。
『……古屋薙。いや、儂はそんな大層なものじゃないぞよ。現に、少しずつ衰えている。老化を、感じてきたな』
『そんな年齢でもねぇーだろ。それによ、大物仕留めたってのに、哀しい顔をしやがって』
『………。これが哀しみでなくてなんだと言うのだ。儂のこの腕は、儂が耐え抜いた修練の数々は、この手を血に染めるために成したものでは無い。だが残酷なのは、儂が力を振るわねば、どこかで必ず血の雨が降る。……………儂が、力を振るっても』
痩躯な男だ。だが、遠巻きで見ただけでも、その体に秘めたる並外れた実力が伺える。
彼が光の狩人と呼ばれる所以。
彼は普段から黒装飾を身に纏っている。返り血が目立たないためだ。
普段は黒いフードを深く被っている。
……そして。
その力を振るうとき、その拳から、その魂から、
天を震わせるほどの聖なる力が漏れ出るのだ。
黒い装飾によく映え、見るものはその極光に目を細める。絶望の空に輝く希望の星。
雄々嶋は死体に座ったまま、拳を握ったり、開いたりを繰り返している。
今までの闘いの日々。
この手に掴めたもの、掴めなかったものを、再確認するように。
『難しいこと考えてるなぁー。人ぁ繁栄するため獣を狩る。獣ぁ食べるため人を襲う。単純明快な世の摂理だろ。それで、いいじゃねーかぁ?』
普段から楽観的な彼らしくもなく、語気を強めてそう言い放った。雄々嶋は、それに言い返すこともなく、ゆっくりと席を立ち、しかし首を垂れたまま、森の奥に歩き出した。
『……雄々嶋?おい……』
奥には、獣の棲む森には似合わない、整然とした空間があった。
木を加工して作られた簡単な椅子にテーブル。そして、傍に添えたキャンバスに、無骨な筆を添えていた。ぷる、ぷると、微かに指が震えている。
『……また、描いてんのかぁー……』
『………』
古屋薙の声が聞こえているのか、居ないのか。
彼は何かに取り憑かれたように、震える指でキャンパスに筆を迸らせる。
『……ずいぶんと描き進めたもんだなぁー。いつの間に、ここまで描いたんだぁー?』
壮大な絵だった。
大きなキャンバスを、その隅々まで満たす大自然。
描かれた森には木漏れ日の新緑の光が差し、
きらきらと、川に反射している。
どこまでも続く高原、よく澄んだ群青の空。
だが、その絵には、何かが足りなかった。
描かれた世界。こんな麗しい世界にあって然るべき、生命の息吹が、この絵にはなかった。
………そう。
このキャンバスには、一つとして、生類が映っていなかった。
『儂は、長くは生きられんだろう。故に我が願いを、この絵に籠めてから逝きたいのだ。遠い未来、儂が夢見た幻想を、誰かが叶えてくれることを願って』
『……分かんねぇーなぁ。あっしは絵にゃ詳しくねぇからよ……でもよ』
古屋薙が着目したのは、この絵には不似合いな、一見大自然の風景と無関係に見える、立方体のキューブ。
キャンバスのど真ん中。決して大きく描かれているわけではないが、
ひとたび目に入ると、否応なしに人の心を奪う。
それは、これらに興味の薄い古屋薙も同じだった。
『こいつぁわかるぜー。えーっと……アレか!一心不乱にガチャガチャと動かして、一面、同じ色で揃えるパズルかぁー。懐かしいなー、昔、あっしもやったもんだー』
それは、真実、あの世界でルービックキューブと呼ばれるもの。壮大な大自然の絵の中心を飾るのが、そのパズルであった。
色は無い。ただその形と、一面九個の立方体を分かつ枠が描かれているだけだ。それでも、一目でソレであると分かるくらい、その造形は完璧だった。
『……古屋薙。お前にとっては退屈だぞ』
何を思ったか。古屋薙は、傍の椅子に腰掛け、
雄々嶋の絵画の様子を、つぶさに観察し始めた。
『退屈だなー。んでもまあ、ちっとだけ、見てみたくなった。その絵の完成をなぁー』
『……果たして、見せられるか否か……』
ぽつりと、そう呟いた。
側の古屋薙ですら、聞こえないほどの声量。
そうして、雄々嶋はもう一度筆を握り締めた。
ちらりと、魔樫鷲の死体と、頬杖をついて既に退屈そうにこちらを見つめる古屋薙の姿を見てから、
世界に色を付けるように、立方体を彩り始めた。
彩色には3日を費やした。
最初は見守っていた古屋薙も、最初の夜が明けた頃にその場を離れていった。
そして。
『おぉーい。雄々嶋ぁ、絵、完成したかぁ』
雄々嶋はキャンバスに背を向けていた。
絵を描いているときに使っていた椅子とは違う、大きな椅子に腰掛け、足を組み、木杖をついてそこに居た。
まるで、古屋薙を待っていたように。
『ん、おぉー。いい感じに、仕上がってるじゃねえかあ」
大きな絵の中心を飾る立方体。
彩色、陰影、こだわりにこだわられた跡が見える。
その立体感たるや、立体がそこに貼り付けてある、と言われても信じるほどに、リアルな仕上がりだった。
『すんげえーなあ。絵。世が世なら、雄々嶋、お前ぇーはこれで天下取れたんじゃねーか?』
『……そんなことはない』
『謙遜すんなってえー』
古屋薙が、戯れ半分に、キャンバスに映る立方体を掴もうと手を伸ばした。
当然、スカ、スカッとその手は空振る。
『んんーーー?待てよ、雄々嶋、この絵…………』
何かに気づいたように手を止め、
至近距離で、その絵を観察する。
『……この絵、なんか、おかしくねえかあ?』
勿論おかしい。この絵には生気がない。
だが、そんなこととはまた別に、明らかにおかしなものが、有る。
絵画ゆえ、こちらに見えている立方体の面は3面。
その3面に……
『一応、もう一回……』
今度は指で立方体をなぞるようにして、何かを数え始める古屋薙。
『何度数えても……一色、多いぞ、雄々嶋あー』
『……ああ』
『ああ、じゃなくてだなぁ、これ……』
……そう、古屋薙が気づいたとおり、この立方体には、視えているだけで7つの色があった。
『これ、見えてない面にも、まだ色があるんかあー?本当は、8色だったり……』
そう古屋薙が尋ねると、雄々嶋は首を横に振った。
古屋薙は、この道具を、自分がガチャガチャと動かす様を想像しかけて、すぐにやめた。
そんなもの、するまでもない。
────七色のルービックキューブ。
恒久に完成することのない魔界のパズル。
解かれるためにあるはずのその立方体。
外面は描かれていても、その存在意義はがらんどうだ。
『んでもまあ、いい絵じゃねーかあ。あっしは絵に込められた思いってんのを推し量ることにゃ長けてないがよ。友人、連れてきてやろうかあ、色んな人に、見せてやろうぜ』
古屋薙が笑いかける。しかし、雄々嶋はまた、首を横に振った。
『これはまだ完成ではない。……完成には、程遠い。そして、これは誰にも見せない。お前だから、見せた』
『おおい、まじかよ、これが、完成じゃないだとおー?もう、手を入れるところなんてないように見えるがよ。公開もしねーのかあ、もったいねえなあ。何が気に食わねーんだ?』
『この絵はこの世界だ。はた目には、律され、よき体系に見える。ただ実際は、この通り、この通りだ。儂は虚しい。儂が愛すべき世界は、この体たらくなのだから』
『この通りって、お前……』
悲しい眼のまま、雄々嶋はこちらを見つめる。
お前なら分かるはずだ、という眼だ。
古屋薙はもう一度眼を凝らし絵を見る。
雄々嶋の予想通り。
風を読み、地を知り、そして獣を仕留める古屋薙の眼には、世界をだれよりも知る彼の眼には、この絵の3つめの違和感が露わになった。
キャンバスの中の世界には未来がなかった。
その樹々も、川も、土も、空も───
一見綺麗な体系に見えて、崩れかけの、不安定な状態だった。
この木が枯れたら、次の木は育たない。
この水が途絶えたら、周囲は砂漠となるだろう。
生類が居ないのもそうだ。
この世界には、歴史はあれど、
これから紡いでいくはずの展望が無いのだ。
『………これが、今の現状を示唆してるってことかぁ?』
雄々嶋は答えない。
『あーー……わっかんねえな。なぁ、難苦よお』
『……?』
『む……!?』
いつの間にか、古屋薙の隣に、紫色の体毛をした獣が居た。
雄々嶋が目を見開く。自分をして、この距離まで獣の存在に気づかなかった。
そして何故か、狩人であるはずの古屋薙が親しげにその獣と話し、獣は不思議そうに首をかしげている。
『なあー?お前も、わかんねえよな。こいつ、昔からよくわかんねーんだ』
『……ムーー……』
今度は、相槌を打つように首を縦に振りながら、
トコトコと、周囲を歩いている。
はじめは、古屋薙の言ってる言葉を理解できずに首をかしげているのかと思った。
だが、どう考えても……どう考えても意思疎通ができている。
『……フ』
動揺と不可思議はどこかへ飛んで行った。
雄々嶋は小さく笑うと、側にある川で、筆についたままだった赤色を洗い流した。
古屋薙は、その後、難苦とよばれた獣と談笑しながら、森をあとにした。
雄々嶋は腰掛けたまま。それから筆を握ることもなく、その後ろ姿を見送った。
………そして、2ヶ月後。
新月の夜だった。
国も街もないこの世界では、
夜には当然、明かりなんてない。暗闇だ。
『……古屋薙』
『おお〜、雄々嶋ぁ、久しぶりだなー、何してんだあ、こんなところで』
『……ただ、この辺りをうろついていただったが……尋常ならざるざわめきを感じてここに来た』
古屋薙の姿は血塗れだ。明らかに尋常ではない。
対照的に、古屋薙の顔はいつもよりにこやかだ。
辺りに広がる殺風景。
ここに寄り付く前から、雄々嶋は嫌な予感をひしひしと感じていた。
その脳裏には、もう一つの確信めいた予感がよぎっていた。
……彼は、その予感が外れることを祈っていた。
『まさかとは思ったが……その、まさかか。古屋薙……』
『ん?なんだよお、わっしの仕事を忘れたんかぁ?』
よく見ると、古屋薙は、両手に頸を持っている。
右手にはたくさんの獣の頸。
そして、左手には、……数人の人間の頸。
辺りに充満する、死の臭い。
すっかりこの臭いに慣れてしまった雄々嶋ですら、顔を顰めるほどの悪臭。
『儂の思いは……やはり、届かずか』
『んん〜〜?いやいや、あっしもバカじゃねぇ。届いてるぜー。お前は、アレだ、この世界の均衡が、揺らぎ、危険にさらされていることを嘆いているんだろお。近いうち、この世界で奇跡的に保たれている人間と獣共のバランスが、崩れてしまうだろうと』
否定も、肯定もせず、雄々嶋は古屋薙をただ見つめる。
『────だからよ、こうしてやってんじゃねーかあ。あっしの本業は狩りだ。だが今回は興が乗って、つい殺りすぎちまった。だからよ、こうやって帳尻合わせをして……』
『もういい。期待をした儂が愚かだった』
『……おい、なんだあー、どうしちまったんだよ、雄々嶋あ』
踵を返し立ち去ろうとする雄々嶋を、無理矢理に引き止める。雄々嶋はため息をつき、また口を開いた。
『儂は言ったはずだ。毎日毎日、血の雨が降るこの世界には堪えられぬと』
『あー…あれかあ。いや、待てよ、それはお前えが諦めた夢見事じゃねーかあ。今更、あっしに押し付けられてもなあー』
『………………確かに、その通りかもしれん。だが古屋薙、その力なら成し遂げられるはずだろう。お前になら、託せるかもしれない、と思っていたのだ。この夢見事を。世界が笑顔あふれる場所であって欲しい。殺しも戦いもなく、人と獣が共存できるような。……古屋薙。お前にとっては辛いことかもしれんが、闘争に、殺戮に快楽を感じる今の自分を捨て、共存に、平和に喜びを受けられる者となれれば、儂はこの上なく、嬉しい』
『期待してくれてんのは嬉しいがよぉー、ちと厳しいなあー。人の気質はそう簡単に変わるもんじゃなかろうて。それによ、あっしのどの辺にそんな期待ができるところがあったんだあー?自分で言うのもなんだけどよ、ずーっとこういう性分じゃねぇかよ』
『……儂もそう思っていた。だがあの日……お前が難苦という獣に、親しげに手を振っていたあの日。もしかしたら、と、そう思ったんだ』
古屋薙が目をぱちくりさせる。
そして、ああー、と合点のいったように手を合わせる。
未だ両手に掴んでいた死体と首が、ボトボトと地面に落ちる。
『おお、難苦かぁ。なるほどなあー。あいつぁ、すげえ。あっしはよ、知っての通り、強くて、速え奴と闘うのが大好きでな。たがあの獣はまだ幼体だ、そして途轍もない才能を秘めていてなあ。
矢継ぎ早に、古屋薙は、難苦という獣の凄さを説いてゆく。曇りなき満面の笑みで。
曰く、難苦は幼体でありながら成体の魔獣並みに疾いと。
曰く、残機を持っていて、それは群れのよく交流のある仲間たちが倒れるたびに、その魂を吸い取りその分だけ溜め込める能力があるとのこと。
曰く、・・・
雄々嶋の体が、ぷるぷると震えている。
────そんでな、成長したあやつと血みどろの殺し合いをしてみたくてよ、放っておいてんだ。
難苦ァ、今や獣として、所帯を持ってる。いやァ、楽しみだあ。……アレの家族諸共皆殺しにしてやった時、どんな化け物が産まれるんだろーなぁ』
『……古屋薙』
『こだわる理由は他にもあるぜー。アイツ、ちょっとだけ、雰囲気が昔殺しそこねた女に似てるんだ。万が一にも逃げられたくねえからよおー。難苦の住処も囲いも行動の傾向も、全てを把握しておきたくてな。まあもうすでに、アイツはその時、すべてをかなぐり捨ててでもあっしを殺しにくるだろぉとわかってるけどなあー』
『……………』
………その言葉を最後に。
雄々嶋の目が変わった。
────獣を、狩る時の眼だ。
『おおー?雄々嶋ぁ。……はっはァ、なるほどなぁ。今夜はついてるねえ、あっしも、お前えとはそりが合わねえと思ってたんだ』
古屋薙が弓と短刀を構える。
返り血に塗れた碧の装具。
『儂はお前のような化け物とも共に生きていきたかったのだがな。ここに、不可能と結論付ける』
雄々嶋の拳が迫る。
一撃で、意識を刈り取る威力の拳撃。
まっすぐな、雄々嶋の気勢がそのまま乗っている。
『よく言うぜえ。叶えられぬと身を以って知っている理想を、そんな化け物に託しかけたくせによぉ』
古屋薙は難なく、短刀の柄でそれを弾く。
小さな柄で的確に雄々嶋の手首を捉え、軌道を逸らす。そして右手に持った鏃で、伸びた腕を突き刺した。
『鏃で攻撃とは……おかしなことをするな。お前の歪な人間性を指し示すようだ』
古屋薙の扱う鏃は特別製だ。
弓の攻撃を命中させ、命を奪った相手の魂を吸い取り、強靭になる。
本数が限られることと、毎回回収せねばならないために扱いが難しいが、古屋薙は好んで扱っている。
彼はその鏃を、“祢姆”と名付けた。
『歪に見えるかあ、一貫してるつもりなんだがなあ。自分を曲げてんのはどっちだあ?あの筆、折れる日も近いと思うけどなあ。お前の折れた心みたいによ』
接近戦は不得手のはずだ。ましてや、相手は雄々嶋。
それなのに、古屋薙は嬉々として至近距離の鬩ぎ合いに応じている。
矢継ぎ早に打ち込まれる拳、蹴り、肘打ち。
そのすべてを捌きながら、ざく、ざくと雄々嶋に鏃を突き刺してゆく。
そのたびに雄々嶋は魂の力を吸われ、鏃は強固さを増す。
『はっは、雄々嶋ァ、どうしたあ?随分と衰えたじゃねェかあ』
『……』
雄々嶋の連撃は、どれも届かない。
はた目には互いに血まみれの二人。
だが、片方は無傷だ。
『そりゃあそうだよなぁ。あっしは毎日毎日獣と、そして人間と殺し合いの毎日だ。対してお前は、森に篭って筆を握ってばかりで、ははァ、あの日はそんな歳でもねえだろと言ったが、まさか、本当に老いてしまったのかあ?』
先程とは一転、古屋薙の連撃が雄々嶋を襲う。
防戦一方だ。一撃ごとに血が舞い、黒みを帯びていた古屋薙の返り血が、少しずつ鮮やかに洗い流されていく。
『……ああ、そうだ。儂は老いた、闘いの果てに。つまり────』
雄々嶋の眼の灯火は消えていない。
左腕でなんとか古屋薙の攻撃を凌ぎながら、反撃をうかがっている。
古屋薙もそれを察し、反撃に備えて少し後ろに下がった。その時……
『────この理不尽にまみれた世界で、生き延びてきたということだ!!!』
退いた距離を、一瞬で無に帰す神速の一撃。
拳は一直線に、古屋薙の腹を貫いた。
『ぐ、げぇ……っ!?』
鏃で防御に回った古屋薙。
その防御をも貫く渾身の一撃。
……いや。極限まで強固に育った鏃は、雄々嶋の拳に籠められた力を吸収しきれず、破裂したのだ。
その衝撃波と、雄々嶋の鉄の拳が、古屋薙に突き刺さる……!!
『降参しろ、古屋薙。手ごたえはあった、武器も破壊した。命までは取るつもりはない』
正確には、古屋薙はまだいくつもの暗器を所持している。
だが、そのいずれも、雄々嶋の肉体に傷をつけるには至らないモノだ。
それを、雄々嶋は見抜いている。傷の量は雄々嶋が圧倒的に多いが、今、優位なのは間違いなく彼だった。
『は……は………ッ、は……雄々嶋…ァ、こんな、こんな程度で、“影の狩人”、超えたと思ってもらっちゃあ…困る、なあー…!!』
『影の……狩人?だと?お前は、闇の狩人ではなかったのか……?』
『ギ、ひひ……良いことを教えてやろうか、雄々嶋ぁ……“光”の対極は、闇じゃなくて、“影”なんだ……ぜえ……』
『なに……?』
震える指で、弓を再び番える。
普通の鏃だ。こんなものを射たところで、忽ち雄々嶋に叩き折られるだろう。
矢が放たれる。雄々嶋は一瞬身構えたが、
『おい、どこを、狙って……っっ!?』
『……うぎゃああああっっ!!!』
『……はっはァ、命中命中ー』
深夜とはいえ、これほどの激しい闘いだ。
気づけばたくさんのギャラリーが押し寄せていた。
無論、遠巻きに、面白半分に見つめているだけだったが、古屋薙はそのうちの一人を射抜いた。
『き、貴様、古屋薙ィ……!!』
『はぁーー、どんどんいくぜえー』
『ぐ……!!』
次々に放たれる矢。
雄々嶋は跳び、矢を一つ一つ掴んで、後方の人々を守る。だが……
『ぐぎゃあああ……っ!!』
一人、
『う、ぐおあ……!?』
また一人と、犠牲者は増え続ける。
『ちぃ……!』
たくさんの鮮血が飛び散る。慌てる雄々嶋は、その中で、不思議なものを見た。
殺された人々の血が、見間違いでなければ、古屋薙の方に、集まって―――
『ああーー、いい気持ちだあ、雄々嶋あ、もう少しで、良いものを見せてやるよおーー』
ズ、ズ、ズズ………
おぞましい音を立てて、少しずつ、血は古屋薙のもとに集まり、吸われてゆく。
『く―――』
もはや本人を止めるしかないと判断した雄々嶋は、古屋薙の方に駆ける。
しかし……
『あー、だめだ雄々嶋、大人しく待っておけってーー、そりゃ』
『く……!?』
『まだ、辛うじて息があるぞお。だが力任せに振りほどいたら、死んじまうかもなあーー』
古屋薙から投擲されたのは、複数の、さっきの獣たちだ。
半分ほどは屍になっているが、確かに、半分ほどはまだ、ギリギリ生きている。野生の生命力だ、ただそれも風前の灯火。雄々嶋の額に汗が浮かぶ。
強く投げつけられた獣の爪と牙が食い込み、離れない。
――いずれ死ぬ命だ。強引に吹っ飛ばせばいい。
単純な話だ。それでも、雄々嶋はなかなか、その決断を下せなかった。
……その迷いが、勝負の分かれ目だった。
『ぷっはあーー、溜まったぜ、雄々嶋あ』
そう言って、軽く息を吸い、
『<“堕威餐源赫躰”>……!』
聞き覚えのない詠唱だった。
古屋薙と付き合いの長い雄々嶋にとっても。
雄々嶋は宙に浮いていた。何が起きたか、分からない。
『ぐ、こ、これは……』
『さよならだあ、雄々嶋あ。お前と過ごした日々、悪くなかったぜえ』
雄々嶋は巨大化した古屋薙に握られていた。
べき、べきと音を立てて、その強靭な肉体の骨がへし折られてゆく。
『……!?う、が……!!!は、は……!』
『おおーい雄々嶋あ、なんて顔をしてんだよお。よく見ろこの顔を、お前えが求めた笑顔じゃねーか、お前も笑えよ、雄々嶋ァ、笑顔溢れる世界が欲しいんだろお?』
『く……ああ……こ、屋、……』
力が緩まることは無く。
雄々嶋の意識は、そこで途絶えた。
死ぬゆく際の雄々嶋の眼に最期に焼き付いたのは、
なんの因果か、かつての友の、屈託のない笑顔だった。
『くく。あっしの力で、圧死……なあんてなあ』
闘いは終わった。
そう思った刹那。そばの茂みから、何者かが飛び出してきた。
『んんーーー?おお、お前は……』
沢山いたギャラリーはみんな逃げてしまった。
残っているのは、ただ一人、……いや、一匹。
『ウオオーーー!』
一直線に、駆けて来る。
鋭い眼と牙。空高く跳び、巨大化した古屋薙に臆すことなく、首を狙い迫り来る。
『……難苦ァ、おい、なんでお前がわっしに牙を剥くんだあ~?』
古屋薙は知る由もない。
今宵、古屋薙が狩った獣と人々。
そこには難苦の両親、そして、善くしてくれた人々だった。
森のはずれの集落。雄々嶋がいつか夢見た、人と獣が共存する世界。
局所的だが、確かに、そこにはあった。それを、知ってか知らずか、彼は奪ったのだ。
『邪魔だあ。難苦ァ、そんなに遊びたけりゃ、お前えが成獣に成った時、また遊んでやるよー。あっしは今、気分がいいからなあー』
『ギャウ……ッ!!』
腕を振るった、その衝撃波だけで、難苦は数十メートル吹き飛ばされた。
いったいどれほどの膂力を有しているのか、想像もつかない。
『ああ~、楽しいひと時だったあ』
身体が元に戻る。
先程まで握りつぶしたままだった雄々嶋の遺体が、ゴト、と古屋薙に倒れてきた。
古屋薙はニタリと笑い、それをも吸収しながら、歩き出す。
古屋薙は休憩を必要としない。
狩りが終わったら、また次の狩りに赴くだけだ。
闘うことが、血を見ることが、何よりの安息なのだ。
そしてまた歩き出す。
体に付着した大量の血。古屋薙が歩いても、地面に落ちることはない。
『………おぉい』
突と、古屋薙が木に問いかける。
『誰だあ。さっきからあっしのことをじろじろとぉ、うまく潜伏れたつもりだろうが、あっしの眼は誤魔化されねえぞ』
『……潜伏れる?僕が?変なことを言うじゃないか、僕はずっとここに居たというのに』
『……な、にぃ……!?』
注視していた木々には何も無く。
だが、古屋薙の真後ろに、少年がいた。
……静かだった。
古屋薙をして、面食らった。
狩人でない人間や、獣の幼体にもわずかに存在するはずの闘気を、感じられなかった。
『僕はとなかわ、という者だ。色々な世界の強者と出会いたくて、世界を旅している』
『……へえ、そうかい。となかわ君よぉ、奇遇だなあ。あっしも、大好きでなあ!!』
古屋薙の短刀と鏃が迫る。
連戦の後だが、古屋薙にとっては、
闘争と殺戮、そして血に塗れた今こそが、ベストコンディションなのだ。
『ふむ』
雄々嶋との対峙のとき以上の速さで、鏃が迫り、
そしてとなかわの肩を突き刺した。
『ギッギッギ……驚かせやがってえ。どうするよ、となかわ君よお。このままだと、吸われて死ぬぜえ』
『そうか、楽しみだな』
言葉と同時。鏃は、わずかに震えた後、パンッ、とあっけなく破裂した。
『な、にぃ〜〜!?』
『結構経ったけど、いつ僕は死ぬんだい?このまま、もうちょっと待っておいた方がいいか?』
『チ……壊れてたかあー。ならばもう一回だあ』
今度は、一回と言わず、いくつもの鏃を突き刺した。
先ほどの焼き直しのように、鏃はすぐに破裂する。
古屋薙が目を凝らして、原因を突き止めようとする。
だが絶望的だ。鏃は"届いていない"。
突き刺した、と思っていたのはとなかわを覆う、あの静かな闘気の層に過ぎず、
それに阻まれ、鏃は一瞬で限界値を超え、破裂しているのだ。
『そんな棒切れで、僕が殺される、と。はは、道化としてなら一流だよ。僕を笑い殺すってことかな?古屋薙』
『……何者だよ、お前はァ』
『自己紹介はしたはずだよ。この世界も、駄目だったか。闘争の世界だと聞いたから、期待したんだけどな』
『おぉい……まさかお前ぇ、この世界を侵略しに来たのかあー!?』
『そんなことに興味は……』
『あっしはこれでも、この世界が好きなんだよなあ。急に異世界のトンデモヤローに荒らされちゃあ、困る。潰れてもらうぜ、となかわ君よおー』
『……聞く耳持たずか』
『行くぜえ……<“堕威餐源赫躰”>……!』
詠唱と共に、古屋薙がその力の本領を発揮する。
身体が、力が何倍にも膨れ上がり、全てを蹂躙する巨人となる。
……はずだった。
『ぐ……、ま、まじかあ……!?』
『……誰が、誰を潰すって?』
グギュゥゥゥと、音を立てて、
今まさに巨大化しようとする古屋薙を、上から押し返している。
巨大化できない。いやむしろ、元よりも……
『ぐ、ぉおーー….…!!』
『<堕威餐源赫躰>。他の生命体から奪った血を、魂を力に変換して、自分の力と体躯を何倍にも上昇させる技か。いい技だ、古屋薙。そこだけは、評価しよう』
『………!!!』
『興が乗った。僕の滅びを喰らい、そして、生き延びて見せろ。ここには過去に僕が閉じ込めた咎人達が封入されているが、なに、そいつらも食ってしまって構わない。処理も面倒だしな』
薄れゆく意識の中。
古屋薙の脳裏には、
ふざけやがって、必ず生き延びて、ここから出てやる、という想いが渦巻いた。
………………………………………………
その、わずか数日後。
『………何だ、この凄惨っぷりは……。"しぃけーちき"に既に荒らされた後か……?』
この地に降り立った"虹かわ"。
古屋薙と雄々嶋が戦った、あの場所だ。
『……いや。間が悪かっただけか。凄惨なのはここだけだ。奴は現れていないだろう。……しかし、この世界。折角苦労して来た割に、何も得られるものがなさそうだ』
虹かわも、魔界をはじめいくつもの世界を旅している途中だ。
経験則ゆえ、スコルベマタンジャのような、未発達で秩序の薄い世界からは、なにも学べぬと察知していた。
そして、来たばかりだというのに、踵を返して元の世界に帰ろうとしたそのとき────
『キッ、キィ……!!』
ズタボロの獣が、そこに居た。
『……この世界の獣類か……ふむ、ひどい怪我をしている……死にゆく運命だろう、だが私が何かしてやる義理はない。悪いな』
ーお願いしますー
『…………む………?』
虹かわの脳に、声が響く。
澄んだ声だ。一瞬、天の声かと勘違いするほどの、優麗で透き通るような声紋。
ー私を、連れて行ってくださいませー
『……ほう。意思疎通のできる獣、か。この未発達な世界に。突然変異か?』
ーおそらくは、そうでしょう。初対面の貴方に冀うのは恐縮ですが、私は、生を諦めたくありませんー
『そうか。そこまで言われては、無下にはできんな。だがだ、私は獣の治療法など知らぬ。助けようにも、な』
ー重ねて恐縮ですが、貴方様の力を少々頂戴できれば……。必ず、この命に誓い、恩は返しますー
虹かわは、少々考える素振りを見せた。
答えはすでに決まっているのだが。
『……ほう。了解した。ならば、私の魂に入ってもらおう。此処ならば、最も純度の高い私の力を摂取できるだろう。分け与えた力相応の仕事はして貰おうぞ。この世界の、手土産も欲しかったところだ』
ーありがたき幸せ、深く感謝いたしますー
…………………………………………………
そして、時は現在。
「あんれー、わっしも、消えちまうのかなぁ」
千聖と虚の一部始終を観ていた古屋薙。
彼の目には、自分と同じく"開放"で喚び出された戦士が、残留した光の力を全て消費して霧散した姿が映っている。
「困るなあ。長いこと、となかわ君の、あのふざけた魂の中で生き延びてきたというのになあ。元の世界に、戻れねえんかなあ」
「古屋薙。"開放"によって喚び出された戦士たちは、その魂を持つ者が生きている限り、まず消えることは無いよ。術師が故意に消さない限りはね。一応、維持には光の力を消耗するが、雀の涙ほどだよ。供給を切っても、ある程度は動くこと、できるしね。現に、千聖は結構動けてただろ?」
「へぇー。悪い、よくわかんなかったぜ。あっしの世界と、常識が違いすぎてなあ」
「……そうか。……僕はこの後、世界を超えるつもりだ。いろんな世界に征くことだろう。その過程で、君の世界に直通の上世界があれば、そこで降ろしてやるよ。何年後になるかは、わからないけどね」
「まじかあー。まあ、お前えに逆らっても無駄だしなあ。可能性があるだけ儲けもんかあ。ただ、今はそれよりもお………」
古屋薙が振り向く。
紫色の獣が、こちらを睨んでいた。
「来ねえのか?難苦ァ、せっかく隙だらけだったのによお。それともあれかあ?お前えが何に怒ってたのかわかんねーけどよ、スパッと仲直りして、となかわ君と一緒に世界を翔けるかあ?」
「キ────」
ーいいえ。私はあなたを決して許しませんー
「……!?うお、お前え、喋れたのかあ!?それに、脳に直接なんてよ」
驚きを露わにする古屋薙。だが、その立ち方に、一抹の油断も見られない。
隙を見せて、誘っているのか。
ー征きます。覚悟はいいですかー
「しょうがねーなあ。いいぜ、見せて見ろお。よく考えたら嬉しいことじゃねぇーかあ。長いあそこの生活で、ボケちまったかなあー」
獰猛な獣の爪が、古屋薙を襲う。
いつものように、鏃で弾こうとするが───
「うおっ」
伸ばした腕は、直前で湾曲し、鏃による防御をすり抜けた。
古屋薙は首を曲げて回避ようとするが、腕はさらに追尾し、古屋薙の顔面を引き裂いた。
「ぐおっ……!ギ、ははァ。難苦ァ、やるじゃねえか。こうまでなるとは、あの日お前えを見逃して良かったぜえ」
息つく間もなく、立て続けに怒る爪と鏃の応酬。
そのどれもが、古屋薙の防御をすり抜け、顔を、体を切り裂いていく。
まるで、未来が見えているようだ。たまらず、反撃を空振り続けていた古屋薙が退く。
……その動きも、事前に察知されたのか、難苦は大きく踏み込み、その爪で古屋薙を貫いた。
ーこの眼は未来を見通す眼ー
「…ぐふお……!」
ーこの爪は有象無象を引き裂く刃ー
「ぐ…難苦ァ……!!」
ーそして、この牙は、貴方を倒すための銀の矛ー
「ち……いぃ……!」
古屋薙の戦闘経験による察知も、野生の勘も、未来を見通す眼と、本物の野生には、分が悪い。
じりじり、じりじりと、追い込まれてゆく。
「いい気になるんじゃねえぞお、難苦ァー!」
古屋薙が、<堕威餐源赫躰>を唱えようとする。
が、唱える直前で、脳裏に不安がよぎる。
…… <堕威餐源赫躰>は、躰を、力を爆発的に引き上げる技だ。
その体で。巨大化した体で、今でさえ捕まえられぬ疾さの難苦を捉えられるのか────?
「……行くぜぃ───!!」
迷っている、暇なんてない。
再び、巨人が姿を表す。
ーあの技ですか。芸のない人ですねー
「うるせえぞお、大人しく、潰されてくれやあ」
ズシン、ズシンと、地面が揺れる。
腕を振るたび、足を動かすたび、
地面だけでなく空気も震え、衝撃波が巻き起こる。
……そのいずれも、難苦は、ひらりと避けていた。
古屋薙の足を蹴り、腿を駆け、腕を這い、
絶殺の牙が古屋薙を襲う───!!
「ぬ、おお……!?」
数多の戦線を潜ってきたであろうその眼、その爪、その体。
それでも、難苦の牙は綺麗だった。産まれたての、生えたての真っ白な歯のままだ。
念入りに、念入りに研いできた。その牙を、その力を。どんな大敵にも、決して使うことはなく。
難苦は己が強さを知っていた。己が最大の武器である銀の牙。
……すべては、あの理想のためだ。
難苦は、あの絵に魅入られていた。
雄々嶋が居ないときを見計らい、幾度なく、あの絵を鑑賞しに行った。雄々嶋が、この世から居なくなっても。
人と獣が共存できる世界。
争いのない、笑顔の絶えない世界。
それを叶えるため、難苦は奔走し続けた。
平和が欲しかったのか?
友と呼べる存在が欲しかったのか?
問われるたびに、難苦は首を振った。
すべては、あの絵に魅入られたから。
秀麗で、ひとつの瑕を残した造形。
「ヒ、キィ────」
ー古屋薙。貴方の世界に、貴方の居場所はもう、ありませんー
「……おお?なんだあ、ずいぶんな言い草じゃねえかあ?自分が優勢だからって、この……」
あちこちを飛び回る難苦。
無茶苦茶に腕を振り回す古屋薙。
乱気流が巻き起こる。それでも、気流に乗り、古屋薙をいなし続ける。
ーあの世界には街が生まれました。国が、法が、秩序が産声を上げたのです。勿論、私達と、人間たちのー
「あー?ありえねぇ、そんな、カンタンにっ、世界が、変わるわけがっ……ぐっ!!」
銀の牙が古屋薙を切り裂く。
この上なく効いている。そして同時に、古屋薙の力の根幹を支える血が、削ぎ落とされてゆく。
ー信じられないのなら、それでも構いません。ですがきっと、いや必ず、あのキューブは完成しているはずですー
「急に何の話だあー?悪いけど信じねえぜ、あの世界は血に浸ってなきゃならねえ」
何の話だと切り捨てた古屋薙。だが、彼の脳は本人の意に反してその言葉を反芻する。
キューブ。あの、立方体……!!
「……おい、いやあ、思い出した。アレのことか、懐かしいものを思い出せやがってえ。アレが、なんだって言うんだ」
ーつまり。こういう、ことでございますー
「う……!?」
何度も衝突した暁に。あの牙はずっと、削り取っていた。
巨大化で血の力を消費し続けたことも手伝って、
古屋薙の体に付着した血は、すべて剥がされていた。
古屋薙は巨大化を維持できず、元の体のサイズに戻ってしまう。
「……はっはァ、何かと思えば。あっしの血を削ぎ流したくらいで、なんだぁ。あっしに傷をつけられなければ、どうにもならねえぞお。その気になりゃあ自分の血でもどうにかなるしなあ」
切り札を封じられた古屋薙。
それでも、不覊に奔放に笑いながら、難苦を見つめる。
「それになあ、血のストックはいくらでもある。先程のメロネちゃんの遺体を使ってもいいしなあー」
古屋薙が、背後にあるメロネの遺体を確認しようとした、……その時。
ズン、と、鋭くも鈍い音が、小さく響いた。
ーようやく、隙を見せましたねー
「あ、が……!?」
ー皆、不可思議に思うことでしょう。鈍感に見える貴方は、その実、普段から一切の油断をしない。狩人として、長年研ぎ澄まされた神経がそれを支えているー
「……く!!!」
ーそんな貴方が、唯一油断する瞬間。それはー
古屋薙が膝をつく。
歴戦の影の狩人が、たった一つの貫き傷によって。
ー"補給"をしようとする、その瞬間ですー
絶殺の銀の牙が、的確に心臓を貫いている。
牙は貫通したまま。心臓からどくどくと流れ出る血を、浄化している。
海の底に突き落とされたように、古屋薙には、力が入らない……!!
「あ……ぐ…おぉ…」
最期の力を振り絞り、弓を番える。
が、弦を引き絞る前に、難苦の爪が古屋薙の腕ごと、それを引き裂いた。
ー無駄です。私は貴方がこの世から消え去るその時まで、一抹も貴方への警戒を緩めませんー
「う、くおっ……、こ、こんなあ、こんな終わり方、あるかよお…っ……!」
ズブズブと、暗黒に飲まれてゆく。
影の狩人と称ばれた古屋薙が、抵抗もできず。
力を振り絞り、メロネの遺体に手を伸ばす。
だが………
「あ、悪いな古屋薙。ちょっとアレはさすがに目の毒だったから、さっき片付けておいたんだ」
「な……となかわ、君よお……!」
「そんな目で見られても、マジシャンじゃあるまいし、処理した死体をもう一度出すなんてできないよ」
ー惨めですね、古屋薙。貴方が、その快楽のために蹂躙してきた数多の命の報いが、ここに廻り巡ってきた、それだけのことですー
「うおお……!と、となかわァ!お前の言うとおり、あのイカれた魂の中で生き抜いたじゃ…ねえかあ!降り注ぐ滅びの稲妻をォ、無数に存在する咎人を殺して、喰らって……!」
「ああ、そうだ。古屋薙は期待通り、いや期待以上だったよ。君にはかなり興味が湧いていた」
「じ、じゃあ……!!」
「だが悪いな、今興味があるのは、そんなお前を打ち倒した難苦の方だ。それなりに長い年月連れ添ったが、口にする感慨も特に無いよ。……供給は切っておく。さらばだ、古屋薙」
───プツンと、何かが切れる音がした。
暗い海の底に揺蕩っていた自分が、
突として、闇の閉塞した世界に閉じ込められた感覚。
体が、ぴくりとも動かない。
「………!!」
古屋薙の気配が消失する。
そこに、遺す言葉も無く、それこそ、ただの影のように。
そして、難苦の体もまた、消えかかっていた。
「そうか、まあ当然か。ギリギリだったんだな。むしろ、あれだけの供給でよくぞそこまで。さっきも言ったが、僕は君に興味が湧いている。未練があるなら、宿主を僕に鞍替えすれば、生きながらえられるよ」
「……フ───」
ー …… ー
難苦は、静かに、首を振った。
晴れやかな表情をしている。
「……そうか、無粋だったね」
そうして、難苦は煙となり、去っていった。
とうの昔に消えゆくはずだった命。
あの世界を見守り、この先を救い、微笑みのままに、穏やかにのどかに、この現世を離れた。
────紫の獣が、消える刹那。
難苦の目の前には、あの大自然が広がっていた。
キャンバスの中の小さな世界。
あの男が遺した光景。
そして、かの七色のルービックキューブ。
いや。覗き込むと、色が一つ消えている。
血の色が、洗い流されている。
木枝では小鳥がさえずり、
川には大小様々な魚が行き交っている。
空にも、山にも……生命の息吹が輝いている。
元々赤色だった場所は、未来、大海原、森林、太陽、希望の光、そしてあの世界を救った難苦を象るように、
それぞれ、白、青、緑、橙、黄、紫に別れた。
赤色の消えたルービックキューブ。六色の立方体。
何かが足りない気がする、少し不自然な色合いだ。
……でも、それでもいいんだ。
不自然でもいい。みんなが、笑い合えるのなら。
あくせく手を動かして奔走することが、無駄なんかじゃない。そんな世界に、やっと成ってくれたのだ。
難苦は過ぎ去った赤色に振り返り、闇に小さく吠え、
眼前の光を目指し、走り出した。
──遠いしじまの残響が、頬をゆるりと撫でる。
平和はここに。キャンバスに残してきた道は、まだどこかに続いている。




