第八話
翌朝。リットは冬の一部を顔に垂らされたかのような冷たさに飛び起きた。
枕代わりにしているカバンの横には、墜落しているチルカを見付けたので、犯人はすぐに分かったが、自分の体よりも大きな葉を筒状に丸めたもので湖の水を運んできたせいで、呼吸も荒く疲れ切っていた。
その姿がとても悲惨なものだったので、リットは怒る気がすっかり失せていた。
「よく嫌がらせの為にそこまで体を張れるな」
「あ……ありがたく思いなさい……よね……」
「いつもなら潰してやろうと考えるが、その惨めな姿で勘弁してやるよ」
リット藁の上から立ち上がった。
リットがいるのは畑道具などがしまってある物置小屋。家には余分なスペースがなく、小さな体のノーラと、寝る場所などどうとでもなるチルカを押し込むだけで精一杯だった。文句を言わず小屋で寝ると決めたのは、見習い三人組の口やかましさからだ。修行中でも、食事時でも、寝る前までひたすら口が開いている。
むしろ離れの小屋で生活するのは願ったり叶ったりだった。
顔を洗おうと小屋のドアに手をかけるリットに「……ちょっと!」と、チルカがむくりと起き上がって声を掛けた。
「なんだよ」
チルカは「水持ってきて……」と言うと再び、疲労で藁に突っ伏した。
「オマエ、バカだろ……」という、リットの言葉にも返す元気がなかった。
湖の冷たい水は目を覚ますのにうってつけだ。木桶で水を汲み、少し温度が上がってから手で水をすくう。ひとすくい顔に浴びせるだけで、まぶたの皮が縮こまったかのように目がぱっちりと開いた。
リットが飲水用に木桶で水をすくいなおしていると、「うむ……ちゃんと起きたようだな。関心……関心……」とグリザベルがやってきた。
まだ寝起きで、足取りはほろ酔いかのようにふわふわしており、目は半開きと閉じるのを繰り返していた。
「起こされたんだよ。そっちこそ、夜型のくせによく起きられたな」
「師匠が起きるのは当然のこと……」
グリザベルはよろよろと湖の縁にしゃがみ込むと、「えいや」という気合の掛け声ともに水をすくって顔に浴びせた。歯を食いしばってなんとか耐えようとしたが、痛みにも似た冷たさに短く悲鳴を上げた。
「なにやってんだよ……」
「こうすれば目はぱっちりだ」
グリザベルはまばたきを繰り返すと、自分が持ってきた木桶で水をくんだ。
「なんの為の弟子だよ。んなこと弟子にやらせりゃいいだろ」
「そんなこと……」とグリザベルは少し考えてから「そうだな……そうだ」とリットに木桶を渡した。
「なんだ? ぶっかけて頭を冷やさせてやりゃいいのか?」
「違う。お主は我の一番弟子ということになっておるだろう。だから弟子にやらせておるのだ」
「オレはあのかしまし娘共にやらせろって言ってんだ。三人もいるんだぞ。飯の支度をしてるにしても、一人くらい余ってんだろう」
言いながらもリットは、自分の分とグリザベルの分の木桶を持って歩き出した。
「……寝ておる」
「はぁ?」
「だから、三人は寝ておると言っているのだ」
「起こしゃいいだけだろ」
家の前まで歩いてきたリットは、両手がふさがっているので代わりに開けろとドアを蹴った。
グリザベルはドアを開けながら「うむ……」と言いにくそうに唸るだけだ。
リットは中の水が跳ねるほど木桶を乱暴に置いたが、家の中で寝ている見習い三人組は起きる気配がなかった。ヤッカは一度驚いて体をビクッと震わせたが、すぐにわざとらしい寝息を立て始めた。
グリザベルは「起きよ」と声をかけるが、ヤッカは無視を決め込み、マーは深い眠りに落ちたまま、シーナは「起きたくないです」とはっきり口に出して寝返りを打った。
大きな一つベッドに身を寄せて寝ているので、シーナが寝返りをすると波打つように残りの二人も寝返りを打つ。
「よいか、早く起きるのも弟子の仕事だ。早く起きて朝食を作り、掃除をする」
グリザベルは諭すように話すが、まったく効果はなかった。
「お姉さまってば……起きているのなら、起きている方が作業をしたほうが効率的ですよ」
「むにゃむにゃ」とわかりやすくわざとらしい寝言で、ヤッカが相槌を打つ。
マーに至っては寝返りを打ってうつ伏せになったせいで、生きているのか死んでいるのかもわからない浅い呼吸で寝息を立てていた。
「む……だが――」
「それとも、夜遅くまで自主的に勉強をしていた弟子に早起きをさせて、魔女修行と関係ないことをさせるのが、お姉さまの方針なのですか? だとしたら残念でなりません。お姉さまほどの偉大なる魔女が、他の取るに足らない魔女と同じ考えを持っているだなんて……」
「むむっ」とグリザベルは少しにやけた。「たしかに我ほどの魔女となると、他の魔女とはやり方が違う。だが、すり合わせるということも大事なのだ。魔女社会で生き抜くには、常識と非常識を上手く使い分ける必要がある。かく言う我もだ――」
グリザベルが自分語りモードに入ると、それがわかってたかのようにシーナが手を打ってぽんっと手を鳴らした。
「なるほど。朝はお姉さまが支度をし、私達は昼に支度をする。これこそがお姉さまの言う、常識と非常識を上手く使い分けることになる。そう言いたいのですね。よく考えられた素晴らしい案だと思います」
ヤッカの尊敬の眼差しに、グリザベルは思わず頷きそうになったが、交わされる視線の間に銅製の柄杓が割り込んだ。
「つべこべ言わずさっさと起きろ。アホンダラ共」
リットは柄杓にくんだ冷たい水を、三人組の顔に向かってかけた。
突然のことに三人は三者三様の悲鳴を上げる。
「なにするんですか!」とヤッカは飛び起きたが、慌てて下半身を毛布にくるめてリットを睨んだ。
「オレが起きてんだから、いつまでもグースカ寝てんじゃねぇよ」
リット冷気を吸った柄杓をマーの頭に押し当てるが、マーは枕に顔を押し当てたままで「まだ寝られる……まだこの体温なら二度寝できる……」と呪文のように呟いていた。
リットが無言で二杯目の冷水を浴びせると、三人組はようやくベッドから飛び起きた。
二杯目は柄杓ではなく、桶の水をまるごとかけられたせいでベッドがびしょびしょになったからだ。
シーナはずぶ濡れになった自分の髪と服を触りながら「こんなことをするなんて……信じられませんわ……」と心底驚いた表情でリットを見ていた。
「死んじゃう……死んじゃう……」とマーは体を震わせ、ヤッカと一枚しかない毛布の取り合いをしていた。
「信じようが信じまいがこれが現実だ。飯の支度に、掃除。濡れた寝具を乾かしてこい。よかったな。仲間はずれはなしだ。三人全員分仕事がある」
三人はぶつぶつと文句を言って動く気配がないので、リットがもう一つの木桶に手を伸ばすと枕が飛んできた。
「わかった! わかりましたわ! やるから出ていってください! 着替えるんですの!」とシーナが吠えた。
「もう……貴重な睡眠が……」と、マーはリットがいるにもかかわらず上着に手をかけた。
ヤッカも「寝具は自分で濡らした癖に……」と文句を続ける。
リットはやっと動き出したか肩をすくめると、木桶を拾い、水をくみ直す為に家を出ていった。
弟子達が朝の支度をするのを見たグリザベルは「ふむ……やるものだな」と呟いた。
「なに言ってるんスかァ……この為に旦那を呼んだようなものなんでしょ」
今の騒動ですっかり目の覚めたノーラがあくび混じりに起きてきた。
「……そんなことはないぞ」
「でも、グリザベルってば、完璧舐められてますよ」
ノーラはリットがいなくなった途端、動きが鈍くなった三人組を見て言った。
グリザベルと視線が合っても、急ぐことはなく髪まで梳かし始めた。
「我の方針はのびのびと自由にだ。決して弟子達に舐められているわけではない。この奔放さは、我の方針にしっかりと従っていると言ってもいい」
「でも、取り返しのつかないところまでのびのび育てたから。焦って、悪者に出来る旦那を呼んだんスよね?」
「そうだ……」とグリザベルは観念した。「もう我の手だけでは負えぬのだ……。そもそも弟子など取るつもりはなかったのだ! 我の研究をウィッチーズ・マーケットで発表する為にしょうがなしに受け入れたが、あんなに若いのに舐められるのは嫌なのだー。敬うことをせずに、技術と知識だけを奪おうとする……もうアレは盗賊団なのだぁ……もう城の兵士に突き出すぅ……」
ノーラは「まぁまぁ」と慰めるように言うと、しーっと人差し指を唇に当てた。「お弟子さんに聞こえちゃいますよォ。グリザベルはいつも最初に気負い過ぎなんですよ。もっと気楽に。旦那を見習って。弟子扱いを了承したなんて言って、全然言うとおりにするつもりなんてありませんよ、旦那は」
「それはそれで困る……」
グリザベルが出かかった涙を鼻水と一緒にすすると、ノーラはとりあえず畑へ行こうとグリザベルのお尻を押した。
「朝ごはんを食べたら、バゴっとやる気が出るもんですよ。細かいことは、まず食べてから。細かくないことも食べてからですぜェ」
朝食が終わると、見習い三人組はそれぞれ自分の課題クリアのための研究を始めた。
森を行き来したり、本とにらめっこしたり、土いじりを始めたりと各自思うがままに活動をしているが、誰かと顔を合わせるたびに手を止めてお喋りの時間に入る。
しかし、離れると再び集中して研究を再開する。モチベーションの上がり下がりはあるものの、一人前の魔女になりたい思いは本当だった。
「いやー、なんだかんだ皆がんばり屋さんっスねェ」
ノーラの言葉に、リットは「ほーか?」とあくびをしながら答えた。
「旦那ってば、お弟子さんの面倒を見るように言われてるんだから、だらだらしてちゃ示しがつかないっスよ。なんてったって一番弟子なんスから」
グリザベルはグリフォンに乗って近くの街へ買い物へ行ったので、リットは弟子の監視を頼まれていたのだが、外の椅子に腰掛け、足をテーブルに乗せて、手持ち無沙汰にブラブラと前脚を上げた椅子を揺らすだけだった。
「なに言ってんだ、ノーラ。オマエこそ先生として、ここに呼ばれてんだろ。朝飯の残りをかっこんでないで、なんか教えろよ」
「あらら……旦那ってば、拗ねちゃってまぁ……。しょうがないっスねェ」ノーラは朝に出たカボチャのシチューの残りを胃に流し込むと立ち上がった。「いいですか? 目玉焼きというのは、とても奥深いものなんですよ。蓋のありなしか、水のありなしか、弱火か中火かで大きく変わるんス。私の好きな両面焼き半熟は――」
「オレに教えてどうすんだよ。そもそも魔女に目玉焼きの作り方を教えるつもりか?」
「火のコントロールが出来るようになったもんですからついつい。料理上手の自慢なんぞを」
「目玉焼き以外まともに食わせたものがあるか? 料理ってのは味付けも兼ねてるんだぞ」
「それを旦那に言われるとは……まぁ、アドバイスくらいは出来るっスよ。わからなくても一緒に考えればいいんスから。旦那もずっとそのままでいたら、グリザベルに大目玉を食らうっスよ」
ノーラは小さくゲップをするとどこかへ行ってしまった。
リットはまた椅子を揺らしながら、どうしたものかと考えた。
ヤッカは森の中へ虫を探しに行ったので、ヤッカにつくなら森へ探しに行かないけない。そんな面倒くさいことは却下だ。
シーナはすぐそこの庭にいるが、三人の中で一番口が達者で、尚且男の魔女弟子は見下している。関わるのも面倒くさい。
となれば、とりあえずは静かに本とにらめっこしているマーの面倒を見るのが楽そうだと考えた。マーがなにを考えてるかわからない人物ではあるが、比較的一番まともそうだ。
リットが家の中に入ると、マーは一度だけリットの顔を見たがすぐに本へと視線を戻した。そうしてしばらくは集中していたのだが、入ってくるだけで声もかけることなく、ただぼーっとしているリットが気になって本を閉じてしまった。
「……なに?」
「グリザベルに面倒を見ろって言われたから見てるんだ。一つ助言してやる。集中しろ」
マーは「ありがたいお言葉」と抑揚なく言うと再び本を開いたが、視線はリットに向いたままだった。
「なんだよ」
「なんで、リットはいつも偉そう。他の男弟子は皆ナヨナヨオドオドしてるのに」
「偉そうじゃなくて偉いからだ。なんてったって一番弟子らしいからな」
「でも、私達だけじゃなくて、お師匠様にも偉そうな態度とってる」
「そりゃ、弟子ってのは師匠を超えるもんだからな。いつかは超えるなら、今から超えた気でいてもいいだろ。そのほうが長く偉ぶれる」
マーは「なるほど……」と目を伏せると、急に大きな胸をリットに向かって突き出した。
「なんだ……ここの魔女は欲求不満ばっかりなのか?」
「私も先に偉ぶる。だからえっへん」
「弟子は弟子を超えられねぇよ。だから、オマエは一生オレの下っ端だ。わかったら、おとなしくほんの続きを読んでろ」
リットも暇をつぶそうと手頃な本を手にとって開いたが、その本の上に魔法陣の書かれた羊皮紙を置かれた。
「けけけ……」とマーは不気味な笑い声を響かせると「恐れおののくがいい」と人差し指の先で魔法陣に触れた。
すると魔法陣を中心に湿った空気が流れ始めた。わずかに空間が歪むと一瞬だけ冷気が流れたが、すぐに乾燥した突風が吹き、真っ黒に焦げた魔法陣がその風に舞って飛んでいった。
「なにがしてぇんだよ……」
「失敗失敗。強い冷の性質と弱い湿の性質を使って、氷の結晶をつくろうと思ったんだけど……片方がだけを強くすると難しいね……」
「そうなのか?」
「『氷』というのは四大元素の中に入っていないから難しげ。四性質を上手く使えば出来るんだけど……っていうか、なんでリットが知らないの?」
「いいや……」とリットは首を横に振った。「――思い出した。ウィッチーズ・マーケットに行った時に、泡を作ってる魔女がいたな。つまりそういうことをしてぇってわけだろ?」
リットが言い終える前から、マーは興味津々に身を乗り出していた。
「どうやって?」
「冷と湿と熱を使ったって言ってたような……。べらべらうるせぇ奴だったからな、なにが重要かは覚えてねぇや」
「思い出して……」とマーは机に乗り上げて、リットの胸ぐらを掴んだ。「さもないと……」
「なんだよ……まさかその細っこい腕で絞め殺すとでも言うつもりか?」
「手を出されたって叫ぶ。家に男女が二人きり。一人はやさぐれた寂しい男で、もう一人はたわわに実ったおっぱいを二つ無駄に揺らす女の子。後は勝手に回りが想像でリットの罪を重くしてくれる」
「なんて恐ろしいことを言う奴だ……覚えてねぇんだからしょうがねぇだろうが。いや……あの魔女が渡してきたよくわかんねぇ紙があったな……持ってきた本に挟んであるはずだ」
「よし……持ってきたまえ」
マーは興奮気味にむふーっと鼻息を荒くした。
「魔女ってのは、変わり者しかなれねぇのか?」
「あぁ……それでリットも、男なのに魔女になろうと思ったんだ」
「いいか? 乳魔女。次に口答えしたら、乳を揉まれたじゃなくて頭を叩かれて、手を出されたって叫ぶことになるぞ」
リットの忠告を聞いたのかどうか、マーは手をひらひらと振ってリットが本を取りに行くのを見送った。




