第四話
冷えた大地を温めるように、太陽がゆっくりと顔を出し、燦々と輝く陽光でじんわりと空気を暖めた。
風がまつ毛をくすぐるように揺らすと、ノーラは不機嫌に顔をしかめてから目を開けた。
「なんスかァ? もう……まだ朝じゃないっスかァ……」
大きなあくびで口の端から垂れた涎を、身を捩ってリットの服で拭きとると再び目を閉じた。
「オマエのシーツが涎のだらけの理由が今わかった……。いい加減、オレをベッド代わりにするのはやめて起きろ」
リットが何度か腿を上げ下げすると、リットに寄りかかっているノーラの背中が大きく揺れた。振動で体はずり落ちていき、リットの太ももの間で体を丸くすると、カバンに頭をあずけた。
「旦那ァ……出発したのは夜っスよォ。つまり昼に起きるのが丁度いいってことっスよ」
「お気楽でいるのはいいけどよ。あと一回でも寝返りをうつと死ぬぞ」
「ちゃんとロープで体を結んでるので、心配無用っスよ」
「オマエじゃなくてチルカがだ。オレのために始末してくれるってなら、話は変わってくるがな」
ノーラが寝ぼけ眼を開いて見ると、自分の頬で体の半分ほどを押しつぶされているチルカが目に入ったので顔をどけた。
「そんなところでなにやってんスか? 危ないっスよ」
「ノーラが転がってくるまで、ここは世界一安全な場所だったわよ……」
チルカは鞄のポケットから両手を出すと、ポケットの縁に肘をついて地上を見下ろした。
地上の風景はかなり変わっており、リットの住む村の近くの川の流れからは逸れ、見たことのない緑色の湿地帯が広がっていた。
珍しいのは緑の色ではなく、不自然に丸く縁取りされた緑が幾重にも重なるようにして広がっていることがだ。その正体はすぐにわかることになる。
グリフォンが急に地上へと向かって、空気を切り裂いて急降下を始めたからだ。そして、足をおろした瞬間に水しぶきが柱のように高く立ち上がった。
それからしばらく船の上にいるように揺られ、収まりを見せてくると、大きな蓮の葉の上にグリフォンが立っているのがわかった。
降りろと翼を揺らすので、リットは慎重に蓮の葉に足を下ろす。一度大きく揺れたが、両足を付けると安定しだしたが、ノーラが飛び降りたので再び大きく葉が揺れた。
二人が降りるのを確認したグリフォンは、クチバシで鞍につけているカバンを取れと合図を送った。そのとおりにすると、急に飛翔したのでまたまた蓮の葉が大きく揺れた。
リットが揺れながら見たのは、少し離れたところで沼に顔を突っ込むグリフォンの姿だ。
「なるほど……どうやら休憩らしいな」とリットは腰を下ろした。「一晩でかなりの距離を飛んできたみたいだな」
「そんなのわかるんスか?」と言うノーラの手には、表面が硬くなったパンが握られていた。リットが休憩という前から、カバンから取り出していたのだ。
乱暴に膝でパンを半分に割ると、片方をリットに渡し、中の柔らかい部分を少しちぎってチルカに渡した。
「オレも途中で寝てたから見てはねぇけど、町の地図に載る範囲に湿地なんてもんはねぇからな。その辺はオレよりチルカのほうが詳しいだろ」
「そうねぇ……。こんな大きな蓮の葉なんて普通はないわよ。アンタの家をそのまま移せそうなくらいの大きさだもん。あとわかるのは大雨が降る地域なのと、近くに森があることくらいかしらね」
チルカは自分達がいる一枚の蓮の葉をぐるりと一周回った。
「よくわかりますねェ」
「葉の縁に木の枝が絡んでるんだもの。大雨で流されてこない限り、こんなところにないわよ。それに、森とは川で繋がってるわけじゃないわね。繋がってたら、森の植物がもう少し生えてるはずなのに、一面蓮の葉だらけ。それなのに、枝が流れ着くってことは、相当の大雨が降るはずよ。そうねぇ……少なくとも、ノーラの両親がいるバーロホールがあるボロス大渓谷。あそこの雨季と同じくらいは降るはずよ。だから流されないように蓮の葉も大きく、根は深く根付いてるのね」
「オレが聞いてるのは、一晩でどれくらい町から離れたかだ。この湿地の特徴じゃねぇよ」
「なら、そう言いなさいよ」
「そう言っただろ。町に咲かないような植物が生えてたら相当離れたってことだ。だから聞いたんだよ。まぁ、ここの大雨の影響なんて来ねぇことを考えると、リゼーネでもディアナでもなさそうだな」
「結局私の情報を使って、推理してるんじゃないの。本当いつまでも経っても素直にならない男ね」
チルカは肩をすくめると、そのままのポーズでゆっくりノーラの頭に落ちてきて足をつけた。そして、遠くでグリフォンが沼の水を飲んでいるのを見て、ため息を付いた。
一休みが終われば、また狭いカバンのポケットに入ってなければならないからだ。
「まぁ、でもそんな顔になるのはわかりますよ。私もずーっと座りっぱなしで体が痛いのなんのって……これがいつまで続くのかわからないんスから」
「人に体重と涎をあずけて、ずっと寝てただだろが」
「旦那ってば、もう少し太って肉付きが良くならないと、寝にくくてしょうがないっスよ」
「本当よね。飛んで追いつけないから、別行動するわけにも行かないし、カバンのポケットに入っているせいで、体のあちこちが悲鳴を上げるわ。臭さで言えば、リットのカバンのほうが若干マシなくらいよ」
文句を言うノーラとチルカを見て、リットはなぜグリザベルがこの二人のことも連れてくるように手紙に書いたのかを考えていた。
ノーラはもう闇を晴らした時のような力を持っていない。すっかり安定して、得意げに卵を焼く日々だ。それはグリザベルも知っている。
チルカにしても、わざわざ妖精を引っ張ってこないといけない何かが起きているのならば、そこに関しては詳しく手紙に書くはずだ。
逆にリットには、いつだが地下の工房を見せた時に覚えていたのか、本のタイトルを指定してあれこれもってこいと書いてあった。
カレナリエルの薬草学本や、図鑑、発光生物についての本などジャンルはバラバラで、特にランプの修理を頼みたいなどとは書いていなかった。
リットがパンを咥えたまま考え事していると、チルカが耳元で「わっ!」と叫んだ。
「聞いてるの? ここはずいぶん水が澄んでるわねって言ってるの」
「聞いてほしかったら、鼓膜を破ろうとすんなよ……。水の綺麗な沼なんて珍しくもないだろう」
「わかってないわねぇ……綺麗じゃなくて澄んでるって言ってるの」
「同じことじゃねぇか」
「全然違うでしょ。綺麗っていうのは私の顔見たいことを言って、澄んでるっていうのは私の性格みたいなことを言うのよ」
「それで狂ってるっていうのは、オマエの頭みたいなことを言うのか? 素っ頓狂なことを言ってると、紐にくくりつけて魚釣りの餌に使うぞ」
「私なんて食べるわけないでしょう。バカじゃないの」
「虫なのにか?」
リットが嫌味に言うと、チルカは待ってましたと言わんばかりに勝ち誇って笑みを浮かべた。
「アンタのいう虫はどこにいるのよ。――その人差し指を私に向けたらへし折るから、やるなら覚悟を持ってやりなさいよ」
チルカが本気の瞳で言うので、リットは仕方なく他の虫を探して辺りを見回した。
しかし、蛾や鉢どころかハエや蚊もいない。それを餌にする他の生物もいなかった。
なぜか魚だけが存在しており、蓮の根の間を縫うようにして泳いでいる。
「あの魚はなにを食ってんだ?」
「さぁね」とチルカは大げさに肩をすくめた。「自分で考えれば? 好きなんでしょ考え事が」
「おい、グリフォン!」とリットが呼ぶと、グリフォンは勢いよく飛んできた。
「アンタ!」
「なんだよ。オレは呼んだだけだ」
「……わかったわよ」
チルカが観念すると、リットはもう少し休んでいろとグリフォンを追い返した。
「それでなんだってんだよ」
「下にいるのは、そもそも魚じゃないわよ。魔力が具現化したもの。たまに起こるのよ。膨大な魔力が使われると純な空間になるの。人間が起こすウィッチーズカーズとは別物よ。魔力が均一に戻ろうとするの、その時に魔力というものが目に見える形で現れるのよ」
「誰かがここで魔法を使ってことか?」
「それはどうかしらね」とチルカは首を傾げた。「自然現象でも起こることだから。嵐の後、地震の後、噴火の後。空間の魔力のバランスを保つために起こる現象だから。人間だって昔から、勝手にありがたがって崇拝したりしてるでしょ。そういう類のものよ。他にも精霊が気まぐれに起こしたりね。魔力の器がない人間のアンタは、あんまり触ったりしないほうがいいわよ」
リットは先程まで魚が泳ぐように魔力が流れていた場所に目をやった。もうすっかり消えており、チルカの話を聞いてからは水さえも不気味に見えた。チルカがわざわざ忠告してくるということは、ろくなものじゃないということだからだ。
「まぁ、でもそんなヘンテコな場所ならグリザベルも近くにいそうですね。こういうの好きそうですもん」
いつの間にかリットの手からパンを掠め取って食べていたノーラは、こぼしたパンくずを水に投げ入れてみたが反応はない。アメンボのように、パンくずの波紋が一つ広がっただけだった。
そのまましばらく休憩すると、再びグリフォンに乗り込んだ。
グリフォンは休憩だけで睡眠を取ることはなかったが、疲労の色はなく、元気に飛び続けると、チルカが言ったとおり森が見えてきた。
あまりに密集した木々は、空から見ると巨大な苔の塊に見えた。
グリフォンが低く飛び樹葉を波立たせると、風圧に驚かされた鳥が騒ぎ出し、あべこべな群れを作って空を飛び出した。その鳥に驚き、虫たちもいっせいに活動を始める。
先程の湿地とは違い、知らない土地だが見慣れた森だった。
だが、グリフォンは森に降りることなくまだしばらく飛び続け、森に穴を開けたような湖が見えると、そこを目掛けて降下を始めた。
木々と岩壁に囲まれた湖が見えたのは一瞬。目測を誤ったグリフォンの腹が木にぶつかったのと、それで慌てたグリフォンが不意に翼を何度もはためかせたので、リットの体は風圧により飛ばされてしまった。
幸い気を失うこともなく、怪我をすることもなく地面へと叩きつけられた。被害は背中に広がる痛みだけだ。
リットはしばらくのたうち回ると、木を手すりにして立ち上がった。八つ当たりにその木を蹴ろうとしたところで、木の陰に隠れる女の子がいることに気付いた。
化粧を覚えたてのような年頃の女の子は、目が合うと一度隠れたが、再び顔をリットにのぞかせた。
リットはといえば、そんなのお構いなしに木を蹴りつけた。
衝撃に驚く「きゃあ!」という悲鳴が聞こえたかと思うと、もう一度同じ声で「きゃあ!」と悲鳴が上がった。
「むむむむむむむむ虫が!」
「悪いな、完璧八つ当たりだ」
リットは木の後ろで倒れているかも知れないと回り込んだが、女の子は「やったやった! 大量です!」と黒いローブドレスの裾を広げて、木から落ちてきた虫を大量に捕まえて喜んでいた。
「なら、謝る必要はねぇな。そっちもお礼はいいぞ」
リットはとりあえず勘を頼りに少し歩いてみようと背を向けると、後ろでぐちゃっとなにかを潰す不穏な音が聞こえた。さらにゴリゴリとすり潰す音まで聞こえてきたものだから、足を早めようと大股で一歩踏み出したが、ピキンと背中に痛みが走ってうずくまってしまった。
「ボンヨウアカネの羽と光電虫の脚関節を混ぜ合わせた薬です。痛みなんかすぐ引いていきますよ。グイッとどうぞ。男らしく! さあさあ!」
女の子はすり鉢から人差し指ですくった虫の塊を、リットの唇へと近付けた。
「いいか……近寄るな――魔女。その虫団子をそれ以上近付けたら、その人差し指で鼻をほじってやるぞ……」
女の子は「男らしくないですよ」とため息をつくと、痛めているリットの背中を叩いて、悲鳴を上げて開いた口に人差し指を押し込んだ。そして硬口蓋に塗りたくると、噛まれる前に素早く指を引き抜いた。
リットは痛さと、口の不快感にのたうち回ると詰め寄ったが、女の子は笑っていた。
「ほら、もう痛くないでしょ」
「……オマエの存在ほどはな。まったく……魔女に関わるとろくなことがねぇ……」
リットは今度こそこの場を離れようとしたが、女の子は「本当に? 魔女に見えますか?」と腕を引っ張って止めた。
「鏡でも見ろよ。立派なマヌケな顔の魔女が映るはずだ」
リットの嫌味など気にせず、女の子は両手を上げて喜んだ。
「そうなんです! 僕ってば魔女なんです!」
「そりゃよかった。ウィッチーズマーケットにでも行って存分に自慢してこい。あのいけ好かねぇ魔女共にな」
リットが力強く手を振り払うが、また腕を掴まれた。
「うそ! お兄さん男なのに、ウィッチーズマーケットの中に入ったんですか? どうやって?」
「いいから手を離せ……」
「離したら、話してくれますか?」
「その小さな尻に蹴りを入れられるか、自分から離すかを聞いてるんだ」リットはもう一度乱暴に手を払ってから数歩歩くと急に立ち止まって、女の子に振り返った。「まさか……グリザベルの知り合いってことはねぇよな?」
「お師匠様をご存知なんですか?」
「お師匠様だぁ?」
「はい。自分は偉大なる魔女グリザベル様に、預かり弟子という形で面倒を見てもらっている『ヤッカ』という者です」