第二十話
天気は晴れ。微風もなく、泣き虫ジョンの滝は波紋だけを静かに遠くまで広げていた。
数日前まで雨が降っていたのが嘘のようだ
地の底まで見えるほど澄み切った湖を見たリットは、イサリビィ海賊団の隠れ家のようだと感じていた。
絶壁囲まれたあの小島にも、長雨で出来る滝があるし、入り江の水もここのように透明度が高かった。あそこにボートを浮かばせると、その透明度から空でも飛んでいるように見える。そして、今まさに枯れ葉が湖に落ちて、水面を飛んでいるのが見えた。
リットがしばらく湖を眺めていると、グリフォンが森のニオイを翼で波打たせながら飛んできた。小枝と葉っぱを撒き散らしながらリット元まで来ると、大きな体で子犬のような忙しなさを見せた。
リットはくちばしを撫でて落ち着かせてやると、グリフォンの首の付根に乗り込んだ。
グリフォンは。その場で二回翼を大きくはためかせると、勢いをつけて三回目で一気に飛び立った。
翼を広げ、水面スレスレに飛び、線を引くように波立たせて滝近くまで行くと、リットは止まるように指示をした。
その場でゆっくり翼をかいて滞空飛行するグリフォンから少し身を乗り出して、リットは周囲を確認した。
リヴァイアサンの鱗の大きさはわからないが、滝から鱗二枚分と言っていたので、滝近くまでくればウンディーネのお茶会が開かれる場所は見えてくると思っていた。
だがそれらしきものは見えず、透明な水面にグリフォンの影が映るだけだ。
リットが探すために周囲を飛び回れと指示すると、グリフォンは待ってましたばかりに、スピードを変え自由気ままに湖を飛び回った。
円を描いたり、じぐざぐに飛んだり、波状飛行を繰り返したり、風圧で水面に絵を描くのを楽しんでいるようだった。
そのうち「うるさーい!!」と水面が大声を上げた。
水面は盛り上がり、水柱になって立ちはだかると、リットに目に映る景色を歪ませた。
「あのなぁ……目印くらいわかりやすくしろ」
リットが言うと、首を傾げるように水柱が横に曲がった。
「目印? なんの?」
「お茶会なんだろ。雨が止んで湖が透明になった日。来いって言っただろ。出したてのうんこ模様までつけて」
リットは袖をまくって、腕に印された紋章を見せた。
「水の雫模様! もう……なんでこんなの招待しちゃったんだろう……。お酒なんて碌なもんじゃない。やっぱり水に混ぜるならお茶の葉だね。人間だとしても、もうちょっと分別のある心の綺麗なのが良かったよ……しょぼーんで、がっかりで、ぐでー」
ウンディーネは溶けるように消えようとしたが、リットが話を続けると水面から顔を出した。
「こっちは用があんだ。嫌でも付き合ってもらうぞ」
「招待はこっちがしたのに……。でも、よく考えてみれば、初めてのお客さん。えらいこっちゃ、どうしましょう、予定外だね」
ウンディーネは急にバタバタし始めた。
といっても、リットには水が勝手に暴れているようにしか見えなかった。
「まず、聞きてぇんだけどよ」
リットが言うと、ウンディーネは「待って!」とリットの顔にぬるくした水を浴びせて止めた。「せっかくのお茶会だよ。せっかくのお客さんだよ。せっかくの話の種を。そんなグリフォンの上からだなんてもったいない。さあさあ、どさっと、どっしりと、ちょこんと座ってよ」
「どこにだよ……」
リットは水面を見たが。ただの湖で、グリフォンから降りた瞬間に、飲み込まれて溺死するか、凍死するかの二択しか未来が見えなかった。
「仕方ない……人間だもんね」
ウンディーネは水面を楕円に持ち上げて椅子作った。空の色が透ける透明な椅子は、太陽の光を浴びて輝いてる。グリフォンの翼に煽られて、ブヨブヨとまるでスライムのように静かに波打っている。
まったく信用できないリットは先に、グリフォンに乗るように指示した。グリフォンはサイズ的に片脚しか乗せることが出来ないが、体重に沈むこともなければ、鋭い爪で割れて崩れるようなこともなかった。
その感触が気に入ったのか、グリフォンは何度も体重をかけチューチューと鳴き声を轟かせた。
羽が抜け落ちて湖を汚されるのが嫌だったウンディーネは、もう一個同じものを作ると、それを遊ばせてグリフォンを遠くへ引き離した。
急な方向転換にリットは振り落とされてしまったが、ウンディーネが作った水の絨毯の上に落ちたので、沈むことはなかった。
「さぁ、これでゆっくりお茶会が出来るね。さぁ、お茶はなにがいい? クルーデルから雨に流れてきた甘い葉っぱか……今回はセパンクウェンデルの方から流れてきたのあるよ。それとも無難にマンシルの果実でも絞っちゃう? 熟れる前に雨に打たれて落ちたやつだから酸味が抜群だね」
ウンディーネは次々と植物の一部をリットに見せていった。近くに生えるものあれば、遠い山奥にしか生えないような植物まで、雨に打たれ落ちて、出来た川で運ばれてきたものばかりだ。
「なんでもいい。どれも一緒に見えるからな」
「ならクルーデルのハーブだね。いつも流れ着く変わらぬ味だよ」
ウンディーネはハーブを水で弾くと宙に舞わせた。瑞々しかったハーブは、一瞬で乾燥して粉々になると水に包まれた。沸騰する音が聞こえたと思うと、水は色を染めてリットの目の前まで浮かんできた。
「人間ならこの方が飲みやすいよね」とウンディーネは水でカップを作ると、その上で泡が割れたかのようにハーブ色に染まった水玉が弾けた。
飲んでと催促されたので、リットは水のグラスを手に取った。一瞬ひんやりとした水の冷たさを感じたが、すぐに手の体温で温まったかのようでなにも感じなくなった。
グラスに口をつけて一口すすると、ウンディーネの言う通り甘さがあるハーブの味がした。
半分ほど飲むとリットはグラスをテーブルに置いた。そして、その水で出来たテーブルとグラスを見て、「こういう光景をどっかで見たことあると思ったら、マーメイド・ハープの時だな」と言った。
ウンディーネは「あー人魚のね」と頷いた。「あれもいいもんだよね。コーラル・シー・ライト作曲の月の調べの第二楽章半月の歌。あの曲が好きでね。入り江まで聞きに行ったりもするんだよ。おたくはなにが好き?」
「聞くのは酔っ払いの調子外れの鼻歌くらいのもんだ」
「あー……そう……。それじゃあ、好きな風景は? 私はやっぱり滝かな。水の力強さと繊細さと切なさ。そのすべてを兼ね備えてるからね」
「オレも滝はよく見る」
「おっ? 本当? ようやく話が合いそうだね!」
「深夜になると酒場でよく見るからな。直前まで飲み食いしたものを大地に還してる。わかりく言えばゲロだ」
ウンディーネは「……合わなーい。話が合わなーい!」と飛沫を飛ばして暴れた。「お茶会って楽しいものじゃないの?」
「楽しかったら、世の中に酒場なんてものは存在しねぇよ」
「詳しくないんだけど、酒場ってなにするところ?」
「雑談に、シモネタに、からかいと陽気な歌が飛び交う場所だ」
「へー……なかなか楽しそうじゃん」
「他人の幸せを妬み、陥れ、騙し合い。そして人生の空虚さを語る場所でもある」
「それ……なにが楽しいの?」
「さぁな」とリットは肩をすくめた。「今みたいに、ただの水に喋りかける奴もいる」
「ウンディーネを捕まえておいて、ただの水とは失礼なこったね。魚だって、お花にだって姿を変えられるよ。水は造形するのには万能なんだよ。みーんな先に色を付けちゃうから気付かないけど、水さえあればどんな形でも作れるんだ。透明って大事だと思わない? 何にでもなれる最初の色だよ。黒は黒いものしかイメージできないし、緑は緑のものしかイメージできなくなる」
ウンディーネは自分の言葉通り、ハーブで染めた水で色々なものを色のイメージする通り作ってみせた。そしてすべての色を抜いて一箇所に黒くまとめると、リットの水のグラスに注いだ。
「なんだよ……この色は……殺すつもりか?」
「まぁまぁ、飲んでみそ」
ウンディーネは渋るリットの口に直接液体を噴射した。
リットの口に広がったのは、一つ一つのハーブの味だ。全て混ざって味は一体化しているのに、甘いと思ったら甘い味が強くなるし、苦いと思ったら苦い味が強くなる。あの魔女の酒と似たような感じだったからだ。
リットの驚いた顔に、ウンディーネは満足そうに揺れていた。
「ただの水じゃないでしょ? これは私が特別に浄化した透明な水だからこそ味わえるんだよ。まぁ……純粋な『水』って言うのは魔力が強いんだけど……魔力の器が小さい人間なら大丈夫だね。他の四精霊はそのせいでお茶会に来てくれないし、他の種族も魔力暴走を起こして具合が悪くなるからって来てくれないんだー。おたくの妖精にも断られちゃったよ。がーんで、とほほで、しゅーんだよ」
「もしかして……オマエ水に魔法陣って描けたりするか?」
リットはグリザベルが調べ上げた資料を思い出しながら言った。水を沸騰させたり、葉を一瞬で枯れさせたり出来るということは、ウンディーネがいれば蒸留器具を使った魔法陣を使うのと同じことが出来るかも知れないからだ。
「魔法陣ねぇ……あれでしょ。人間が勝手に作った技術で、勝手に魔力を使ってるやつ。魔力を使うのはいいんだけどさ。もうちょっと行儀よく使ってほしいよね」
ウンディーネはリットのそっくりの姿になると、腕を組んでやるせない思いを語るように首を揺らした。
「ならそう伝えといてやるよ。で、水に魔法陣を描けるのか?」
「描けるもなにも、よくわかんないけどさ。魔法陣自体が私みたいなものでしょ? そんなのお茶の子さいさい、すぱっと、ささっと出来ちゃうよ」
「このお茶会に参加してよかった」
リット思いついた顔で、口の端を吊り上げて笑うと、ウンディーネは溶けて自分の姿を水に戻した。
「私はさせなければよかったような気がしてきたよ……」
「別に誰かを殺せとか、魔力を寄越せって話じゃねぇよ。力を貸せってことだ」
リットは今までのことと、これからどうしたいのかということ話した。
「うーん……わっかんないなー……そこまでしてお酒って飲みたいものなの? あれって毒物だよ。この間ので確信したね」
ウンディーネは再びリットの姿になると、フラフラと歩く演技をし、音を立てて湖に倒れ込んだ。そしてまた水柱の姿で現れた。
「飲みてえもんなんだ。それが完成すりゃ、オレも、あのうるせぇ魔女達も出ていくぞ。またしばらくは静かな湖だ」
「静かかどうかは、別に移動すればいいだけだからどうでもいいんだけど……。というか、四精霊にそんなしょーもないことを頼み込む人間始めてだよ。大抵は雨を降らせろだとか、止ませろだとか勝手なことを言うけど。それより自分勝手。なんか悲惨さがにじみ出てるよ……」
「誰も来たことねぇお茶会に来てやったんだ。気まぐれに手を貸すくらいしてくれてもいいだろ」
「まぁ確かに……普通はこんな落ちたら死ぬような湖のど真ん中に来てくれないし、文句を言いながらも出したお茶は全部飲んでくれてるし、思っていたよりは良い人間なのかなーとは思うけど……」
「けど――なんだっつーんだよ」
「湖におしっこした人だよ」
「わかった言い方を変える。クソした人に変わってほしくなけりゃ、力を貸せ」
「うそーん……普通四精霊を脅す? それもそんな情けない脅し方……」
「人間に手を貸せない成約でもあんのか? その四精霊の世界では」
「貸さない子も入れば、貸しまくる子もいるよ。そんなの各々の判断だからね。でもそっか……お酒かぁ…………ねぇ……お茶に変えない?」
「変えねぇ」
「強情だなぁ……。でも、いいよ。ちょっと人間に偉そうな顔をもしてみたいし。村一つ救えって言われてるわけでもないしね」
「そりゃ助かる。と言っても……まず浮遊大陸の植物を育てねぇならねぇんだけどな」
「そんなの簡単だよ。水を上げればいいんだから」
「さっきちょろっと説明しただろ。うちの妖精が言うには、特殊な石が必要だって。それに水を上げたところで育つどうかもわからねぇよ」
「だから、その石さえあればすくすく育つよ。土はノームの管轄だし、この土地のノームは他の四精霊の前でも姿を現さないほど恥ずかしがりだから、手に入れるのは無理だけど、水ならどんな細かい注文をされても大丈夫。なんていっても私は水の妖精ウンディーネだからね。当然浮遊大陸の水も熟知してるよ」
「ようやく光明が見えてきたな……あと三バカの魔女の頑張り次第か」リットは帰ろうとするが、グリフォンはまだウンディーネが作り出した水玉でじゃれていた。「アイツがいねぇと、オレは帰れねぇんだけどよ。止めてくんねぇか?」
「まぁまぁ、待ちなさいな。そう急ぐこともないじゃん。ぴたっと、ビシッと、きちんと止まることも人生では大切だよ」
「なんだよ……見返りでも求めてるのか? 酒造りに協力してくれるんだし、多少の頼み事なら聞いてやるけどよ。人間に頼むようなことなんかあるのか?」
「私はもっと普通にお茶会を楽しみたいんだけど」
「それをオレに言うなよ。さっきも言っただろ。酒場なら行くけど、お茶会なんか行かねぇんだからよ」
「ちょうどいいのがいるじゃん――三人も。自己紹介も兼ねてさ、明日連れてきてよ。いいや――連れてくるのです。これは与えられた試練ですよ、人間。魔女と精霊を繋ぐ役目を担うのです」
「なるほど……様子見ってことだな」
「よくわかってるじゃん。魔女見習いってのが良い子達だったら、これからお茶会の楽しみも増えるってもんでしょ。今まで人間って判断がつかなかったんだよ。誘っていいのかどうか。でも害があっても、おたくくらいのもんなら問題なし」
「なんだよ害って。まだ小便したことを怒ってんのか。もうしねぇよ」
「それもだけど……石投げてきたじゃん」
「悪かったよ……いるとは思わなかったんでな。つーかオマエも投げ返してきただろ……」
「ようし! 許す。それじゃあ、明日魔女三人を連れてきてねー」
ウンディーネは水玉を呼び寄せると、グリフォンが追いかけて飛んできた。そのまま体当たりをするようにリットを掴むと、家に向かう水玉を追いかけて飛び続けた。
あっという間に岸へたどり着いたリットだが、水玉が消えるとグリフォンの動きも止まったので、体はシーナが集めた畑の土の山へ放り出されてしまった。
「なにをやっていますの……飛ばすのはいつもの冗談だけにしてくださいな」
シーナは顔にかかった泥を拭いながら言った。
「……ちょうどいい。明日ウンディーネに会いに行くから用意しろって他の二人に言っとけ」
「やっぱり……冗談を言うのも休み休みにしてください」
シーナはリットの言うことをまったく信じていなかったが、リットはとりあえず言っておけと言い残すと、着替えるために小屋へと向かった。