第十八話
リットの口車に乗せられたものの、少し考えれば無理難題を押し付けられたことはわかる。
家に戻って魔法陣を一枚眺めてるうちに、マーのやる気はもうなくなっていた。
魔女の酒を作ろうとしていることは、グリザベルには秘密にしろと言われているのに、グリザベルが持っている魔法陣を勝手に書き換える事はできないし、自分が持っている魔法陣を成功するかどうかもわからないものに使いたくもない。
今出来ることと言えば、ぼーっとして時間を無駄に過ごすことくらいだった。
マーが胸をテーブルに乗せてボケーッとしていると、自分と同じくらいの身長の影が覆いかぶさるようにして伸びてきた。
「悩んでいるっスね……若人よ……」
ノーラは貫禄たっぷりに顎髭を撫でながら言いたかったのだが、生えているわけもないので、代わりにおさげを撫でながら声をかけた。
「おおう……その声は……お師さん!?」と、マーは大げさに驚いて顔を上げた。
「案ずることなかれ、若人のちっぽけな悩みはすべてバゴっとすべて解決っスよ」
ノーラは崇め称えろと、権力を振りかざすようにマーの顔へ手のひらを向けた。
「魔法陣の書き換え方がわからないです……急かされ、身も心もズタボロ。きっと今日は夜も眠れず……昼寝することでしょう……」
マーは手のひらより頭が上に行かないように、下げたまま言う。
「よかろう……」とノーラは一度口を閉ざし、勿体ぶった間を開けた。「今必要なのは魔法陣の扱い方などではなァい! 旦那の扱い方っスよ」
「リットの扱い方……!? あの……自分本位で、口が悪く、図々しくて、さもしくて、女にモテるのも諦めた寂しい男の扱い方を?」
「……そこまでは同意してないでおくっス。とにかく、旦那を巧みに操るには、三つの方法があるんスよ」
ノーラが指を三本立てると、マーは「やんややんや」と口に出して盛り上げた。
「まず第一に、そりゃもうお酒っすよ。文句を言う割になんだかんだウイスキーが好きっスからねェ。酒場で一杯奢れば、気が大きくなってあれよあれよという間に、約束事を取り付けられるってなもんです」
マーはそうだろうなと思いつつも、そのお酒を作るために協力させられているので、それだと意味がないだろうと悩ましげに首を傾げた。
そのマーの納得いっていない様子を見て、ノーラは「案ずることなかれ」と偉ぶって言った。「第二に、興味を持たせて自分からやるように仕向ける。旦那ってば根は単純っスから、もっそもっそと尻尾を見せてあげれば、向こうから追いかけてきますよ」
その興味に巻き込まれた結果が今だと、マーはさらに首を傾げた。
「もう……なかなかのわがままさんっスねェ……。でもまだ大丈夫。とっておきの三つ目っスよ。旦那はお説教に弱い。理路整然と攻め立てれば、文句を垂れ流しながらも折れることも間違いなしっスよ」
「おー! それは――」と一瞬喜んだマーだったが、すぐにまた首を傾げた。「誰が説教する?」
「私やマーじゃ無理ですね。チルカやシーナだと口喧嘩に発展するだけだと思いますし……グリザベルとヤッカだと丸め込まれちゃいますねェ。……ということは、今ここで旦那を止められる術はないってことっスね。頑張れ若人よ」
ノーラはマーの肩を叩いて激励した。
「せっかくノセたのに……役に立たない……」
マーはがくりと肩を落とした。
「おっと、それは心外ってなもんスよ。役に立たないんじゃなくて、立つ気がないんスよ。旦那が内緒でなにかをやってる時って、大抵ろくでもない企みをしてる時っスから、近付かないのが一番っス」
「それを最初に教えてほしかった……」
「代わりに今考えたばかりの、でまかせという名のありがたい格言を教えてあげましょう。逃げ道とは――出口ではなく入口でもある。一回ドアを出れば、またすぐにそこから入ってくるなんて思わないもんスよ」
マーは「ほうほう……」とノーラの言葉に感銘を受けた。「なるほど……つまり……基本は魔力の流れは一定。でも、一度逆流させることによって、そこからはみ出した新たな魔力の通り道が出来る。と、ノーラはそれを言いたい」
ノーラは「さぁ」と肩をすくめた。「でも、力になれたならなによりっス」
マーが一筋の光明を見出していた頃。シーナは雨粒が小さくなったのをいいことに、畑の様子を見に出ていた。
無数の雨粒が飲み込まれていく湖の水面は、煮立つように泡立っていた。
長雨に土が流されてしまうので、シーナは土のうを増やしたり杭を打ち直して、補修補強を行っていた。
「アンタ、森の雨をナメ過ぎよ」と呆れ顔のチルカが、たった今打たれたばかりの杭の上に降り立った。チルカの僅かな体重が掛かるだけで、ぬかるんだ畑の土は溶けるように崩れて杭を倒した。
「もう……もう、もうもうもう! 邪魔をしないでくれますか!」
「邪魔じゃなくて、忠告してあげてるのよ。こんなドロドロの状態の地面になにやっても無駄よ。木が土に負けないでいられるのは、根を張っているから。加工された木なんてなんの役にも立たないわよ。他の植物も同じ、その土地に合った根が生えるの。無理に植えたものなんて根付かないのが道理よ」
「この畑は私が作ったものじゃありませんわ。あの家も持ち回りで魔女が管理しているものです。なので、あれこれ言われても困ります」
「なら、アンタの使い方が悪いのよ。いい? 植物と土の根は繋がってるのよ。植える植物が変われば土も変わるの。特にアンタ達人間みたいに、育てては引っこ抜いてを繰り返す場合はね。何度も耕して細かくなった土は水はけが悪くなるし、水はけが悪いってことは土に空気がないってこと。土に空気がないってことは、根が呼吸できなくて貧弱なのよ。どうせその大きな体でバカみたいに、地中深く一生懸命耕したんでしょ」
チルカがドロドロの地面を見て呆れた。ぬかるんだ泥が出来るということは、雨がやめば固く締まって乾燥してしまう。色々な植物を育てるのには向いていない土だ。
湖周辺の植物はひげ根で、土を固めるように伸びている。それがいくつも密集することで防波堤のような役割を果たしていた。
それに森の植物というのは、落ち葉や枝が積もった層が一番上にあり、雨でも流れにくくなっている。その下が分解された落ち葉や土が集まって出来る柔らかい土だ。そして下に行くほど土の目は粗くなっていく。その固く詰まった粗い土の隙間に根が張ることで、植物は表面の体を支えられるし、水も溜まることなく染み込んでいく。
もちろんシーナもそんなことをは知っていた。ハーブを一から育てるというのは土壌づくりも大事だからだ。だが、今回は浮遊大陸の植物を育てるという課題を出されたため、土づくりも色々試す必要があった。『落し種』と呼ばれる鳥の糞から見つかる、浮遊大陸の種は偶然合った環境の中に落ちた時しか発芽することはなく、その発芽させる環境を作り出すのが難しい。
一つ一つ試すしかない。今回はそれが裏目に出て、畑が見るも無残な泥の塊になってしまったのだった。
シーナは自分の失敗だということは理解している。だが、どうしたらいいのかもわからないので、わかりきってることを細々言ってくるチルカに苛立っていた。
次に何か言われたら泥の中にでも埋めてしまおうとでも考えていたが、次のチルカの言葉でそんな考えはどこかに飛んでいってしまった。
「だいたいね浮遊大陸は雲の上の国よ。水は上からじゃなくて下の雲から吸うのよ。だから、上から水を上げるように考えたらダメなわけ」
「……そうなんですの? 信じていいんですの?」
「当然よ。私は世界でただ一人。浮遊大陸に行った妖精よ。見て触れて食べてきたの。つまりどいういうことかわかる?」
チルカがシーナに必要以上に突っかかっていたのは、早く自分を頼ってこいという意思表示だった。植物といえば妖精の自分の分野なのに、リットとこそこそなにかしているのが気に入らなかったのだ。
「つまり……古代魔法を復活させて、地を浮かび上がらせる?」
「アンタねぇ……答えから考えるから、途中のことがおざなりなのよ。私に教えを請うなら、まずその考え方やめなさいよ。いい? 植物はどんな花が咲くのかと考えるものじゃないのよ。どうやって種にまで戻るのかを考えるものなのよ。花が咲くっていうのは終着点じゃなくて、過程の一つよ。わかったなら行くわよ」
「畑がまだ……」
「畑のことは雨がやんでから考えなさいよ。どうせあの土じゃ育たないんだから、雨に流されるまま自然に淘汰されるのが一番よ」
チルカが連れてきた場所は、リットが寝室に使っている小屋だ。
そこに無造作に捨てられているカバンに指を向けた。
「あそこの中よ」
「リットさんのカバンじゃないですか」とシーナはためらうことなくかばんを開けた。「中には本が数冊入ってますよ」
シーナが本を床に並べると、チルカはその中から一つの本の上に降り立って、羽明かりで照らした。
「これよ、カレナリエルの薬草学本」
「妖精? エルフが書いた本じゃないのですか」
「同じようなものだからいいの。いいからページを捲りなさい」
言われるまま本のページを捲っていると、あるページで止められた。そこは植物ではなく、育てるための土や石を書いているページだった。
その中の『ディープキストーン』と書かれた石を足の先で指した。
「これよ、溶岩の一種で多孔質。つまり小さな穴がたくさん空いた石よ。乾いていると穴から水分を吸収するの。舐めたら舌にくっつくほどよ。私は浮遊大陸の最下層は、これと似たようなものに岩石化したと思ってるの。そうじゃないと、水を吸ったら土が崩れて落ちていくでしょう。だから似たような性質を持ったこの石で植木鉢を作って、底面給水させれば、浮遊大陸の植物を育てられると思ってるの。どう?」
チルカは浮遊大陸の植物を諦めていなかった。あるべきものはあるべき場所でという考えのチルカだが、育てられるのならリットの家で栽培して食べたいと思うほどだ。
リットは興味がないので調べる気などなく、自分で調べた結果。ディープキストーンという石にたどり着いた。
だが、そんなものを買うお金もコネもなく、夢のまた夢と諦めていたところ。都合よく浮遊大陸の植物を育てようとしている者がいたのだ。
これを利用しない手はないと、チルカはさらに畳み掛けた。
「雲の水っていうのは、まだ土に触れていない水よ。つまりまだ何の栄養もない水。純な水と呼ばれるあの湖の水がよく合うと思うの。どうする?」
チルカは小さな手を差し出すと、それに向かってシーナは人差し指を突き出し合意の握手をした。
「でも、その石をどうやって手に入れるおつもりですか? それに植木鉢に加工するのだって……」
「加工は簡単よ。ドワーフのノーラの父親に頼めばいいんだから。問題は入手方法……残念ながら、私とアンタでは無理ね。きっと」
「……私の気持ちを弄ばないでくれますか?」
「あてはあるのよ……。欲しいと思ったものはなんでも手に入れられる人間に……。そいつは執念深さを持っていて、悪運が強いの。妖精の花でも、龍の鱗でも、魔女の書でも、欲しいものはなんでも手に入れてきたわ。ただ……」
「ただ――ただなんですの?」
「ものすごい嫌な奴よ!! 動物の皮を糞と一緒に煮込んだような悪臭がして、全種族が口を揃えてブサイクという風貌。口を開けば悪態悪態悪態の嵐。頭も口も悪くれば顔も悪い。足とおならの臭さは飛んでいるハーピィが落ちてくるほどよ」
「……そんな生物いるんですの?」
「いるわ――リットよ。自分が興味を持ったものはあの手この手で次々に手に入れるのよ。でも、アイツに頭を下げるのだけは絶っっっっ対にいや! だから頼んだわよ」
チルカは勢いよくシーナに向かって指をさした。
シーナは考えた。リットは浮遊大陸の植物を育てるための保護ケースを手に入れようとしている。一方チルカは特殊な石で作った鉢を手に入れようとしている。どちらがより確実に手に入れられ、どちらがより確実に育てられるかが重要だ。
シーナの考えをチルカはわかっていた。リットがこそこそしていれば、なにか面白いことが起こると思って盗み聞きしていたからだ。
だからこそ今回の話をシーナに持ちかけた。
「言っておくけど、アンタが期待してる保護ケースは浮遊大陸に行って、そこの環境を記録する魔法陣を書かないと使い物にならないわよ。私もアイツが保護ケースを手に入れた現場にいたんだから、確実な情報よ」
チルカの自信満々の笑みを見て、シーナはこっちのほうが確実だと判断した。
そして再び合意の握手を改めてした。
「ですが……記録しないと意味がないのなら、リットさんはなぜ保護ケースを手に入れようとしたのでしょうか?」
「バカだから忘れてるのよ。肝心なところが抜けてるんだから、私とノーラがいつもフォローしてあげてるのよ。ささ、こんなムサイところはさっさと出て、アイツを落とす作戦を考えるわよ」
チルカはシーナにドアを開けさせると、作戦会議だと出ていった。
二人共浮遊大陸の植物のことで有頂天になっていたので、来た時に付けてきた足跡に、一人分増えていたことに気付くことはなかった。
「……なるほど。それでアイツは人の本を読み漁ってたのか。リゼーネの森には帰らねぇし、やたらと人を旅に出させたがるし怪しいと思った……出先でチャンスを狙うつもりだったんだな」
荷物を取りに小屋へ戻ろうとしていたリットは、しっかりと二人の話の全容を聞いていた。