第十五話
翌日、「ふむ……雨が来るな……」と唐突に呟いたのはグリザベルだ。
家の椅子に座り、優雅に温かい紅茶を飲んでいる。
「そりゃよかったな」
対面に座っているリットは、羊皮紙を眺めながら適当に答えた。
羊皮紙には魔女の酒らしきものについて書かれているのだが、魔女の専門用語満載で書かれているので、まるで暗号を解いているようだ。読めても理解は出来ない。
だから、グリザベルもリットに見せることを許可していた。
リットは理解できる言葉だけで、なんとか情報を繋げないかと何度も同じ羊皮紙を端から端まで読み返す。
グリザベルは自分ひとりで魔女の酒のデルージを作ると躍起になっているので、リットがなにを質問しても答えることはなかった。羊皮紙を見て頭を悩ませるリットを見て、自分の優位性にニヤニヤするだけだ。
リットも勝手に魔女弟子三人組を利用しているので、あまり深い質問をすることが出来ない。バレたら、弟子達に酒造りへの協力は禁止されるのと、より一層意地になるからだ。
グリザベルがデルージの作り方さえ覚えていれば、こんな面倒くさいことにはならなかったのにと、リットはため息を付いた。
そのため息に合わせるように、グリザベルは咳払いをした。
「……窓の外を見よ」
リットは窓を一瞥すると、すぐに羊皮紙に視線を戻した。
「晴れてるぞ」
「そうだ晴れている。だが雨は降るぞ」
グリザベルは口元に不敵な笑みを浮かべたが、リットはよそ見をせずに羊皮紙だけを見ていた。
そして、「そりゃよかったな」と今日何回目かの同じやり取りを繰り返していた。
「同じ返事ばかりしおって……我の言うことを信じておらんのだろう。――まぁ、無理もない……。こう澄み渡る晴天を見ては、憂いの雨粒一つ落ちるとは微塵にも思わぬだろう。凡人のお主にはな。だが、魔女というのは、常に鋭い感覚を持たなければならない。空気の湿り具合から全てを悟るな造作も無いことなのだ。些細な異変に気付くことが魔力探知にも役立ちだな――」
「別に疑ってねぇよ。雨は降るんだろう」
リットの言葉に嘘はなかった。グリザベルの言う通り、この後雨が降ると思っている。
「ほう……。ようやく我とリットの間にある信頼関係という糸に、目に見えて色が付いてきたようだな」
「赤い色じゃねぇことは確かだな」
「お主が我を認めているということを言っておるのだ」
「そりゃ色々見てきたからな」
「我の活躍をか」
グリザベルは得意げにふふんと鼻を鳴らした。
「いいや、朝早くグリフォンに乗って風上の方に向かって行ったのを見たんだ」
「……だからといって、我が雨雲を見てきたかどうかはわからぬぞ」
「オレはそこまで言ってねぇよ」と、リットは羊皮紙からグリザベルの顔へと視線を移した。「つーかわざわざ見てきたのか……そこまでして偉ぶりてぇのか?」
「偉ぶりたいわけではないわ! 滝が出来るほどの雨になるということだ。つまり、備えをして置かなければならぬ。浸水する可能性もあるからな」
「普通よ……そういうのはもっと前もってしておかねぇか? もうすぐ降るって言うのに、今から間に合うかよ」
「お主が余計にプレッシャーをかけるからすっかり忘れていたのだ」
「プレッシャーなんかかけてねぇだろ」
「今も掛けておるではないか! 我にピタリと張り付いて……どうせデルージを作れぬと思っておるのだろう!」
「プレッシャーをかけてるつもりはねぇけど。今のやりとりで不安は増した。そもそも本当にそんな酒あるのか?」
グリザベルの性格はともかく、魔女としての力に異論はない。そのグリザベルが手こずっているということは、なにか勘違いしている可能性もあるとリットは考えていた。
「なにを言っておる……ポッフィンばあの酒場で飲んできたのではないのか?」
「飲んだぞ。美味かった。でも、魔女と関係あるかと言われたら、オレは首をかしげる」
「うむ……まぁ……お主の言っていることは半分正しい。ポッフィンばあに酒を譲った師匠も師匠から、その師匠もまた師匠からと受け継がれてきたものだからな。魔力はほとんど抜けておるのだろう」
「なんか具合が悪くなってきた……」
魔力を体内に入れていいのかどうなのかわからないが、あまり良くなさそうだとリットは顔色を悪くした。
「そんな繊細な男でもないだろうに……。そもそも人間の中には魔力は流れておる。他の種族のように上手く扱えぬだけでな。魔女がよく使う五芒星とは、内なる魔力を扱いやすい体。人間とは頭があり、手足が左右にある。頂点の数が一緒なのだ」
「じゃあ、男は六芒星だな」
「本当に下品な男だ……まぁ……だが、あながち間違ってもおらぬ……。六芒星というのは魔力が暴走しやすくなる。男の魔女が少ないのは、そういうことなのかもしれんな。だが、頂点が増えたことによりやれることが増える。つまりそれだけ欲望を叶えやすくなるということだな。――とにかく話を戻すぞ。ポッフィンばあが受け継いできた酒が作られた時代は、魔力を保管しておくことが出来ぬ時代だということだ。今でこそ魔宝石が発達し、それを閉まっておける宝石箱も作られているが、なければ魔力もやがて消えていく。風味と一緒だ。なにもしなければただ抜けていくだけ」
「なるほど……シーナも言ってたな。魔女ってのは風味とか香りを組み合わせるのも大事だって」
「お主もなんだかんだ文句言いながら、兄弟子らしく振る舞っておるではないか」
「それはこれからの答えによる」
リットは続きを話せと促した。
「大昔のデルージは魔力が抜けて安全だが、新しく作るとなると細心の注意を払わなければならぬ。そこに間違いがあっては困るからな、飲んだ瞬間ミイラになるのは嫌だろう。だからこそ我は慎重に調べているのだ」
「そんな酒を貰っても飲めねぇだろうが……。何年も寝かせろってのか」
「魔女の酒が最初に作られたのは、魔女がまだ戦争で捨て石にされていた時代だ。その頃はまだ麻薬のような酒。恐怖心を和らげるためのな。戦争も終わり、それからは魔女は独自に発展し自由になった。自由時代の始まりの酒を『デルージ』と呼ぶ。喜びと悲しみを抱えた長い時代を呑むものなのだ。安酒のように一晩で空けるような酒ではないわ」
「ご鞭撻どうも……なんか少しやる気が無くなってきた」
リットはあの酒がたらふく飲めるならと思っていたので、何年も待つのかと思うと体の力が抜けたてしまった。だがしかし、あのゆったりとした時間が流れるのなら、続く人生と共にちびちびやるのも悪くないと思った。
「しゃーねぇ……もうひと頑張りするか」
両腕を伸ばして気を入れ直すリットを見て、グリザベルは首を傾げた。
「なにを言っておる……頑張るのは我だ」
「あぁ……そうだったな。そっちもそっちで頑張ってくれ」
リットは新しい羊皮紙を手に取ると、またじっくり眺め始めた。
グリザベルの口数も減り、しばらくは二人共集中した時間を過ごしていたが、ヤッカが小走りに戻ってくる足音で、リットの集中力は途切れてしまった。
ヤッカはドアを開けるなり「もうそろそろ雨が降りますね……」とどこかで聞いたことのあるセリフを言った。
「なんだよ師匠の真似か?」
「いえ」と首を振ったヤッカは、カゴの中の虫をリットに見せた。「この虫は水に弱いので、雨が降りそうになると葉を楕円形に噛み切って、溺れないように船のように使うんです。なのでもうすぐ雨が降るかと。グリザベル様も虫を捕まえたんですか?」
「おいおい、師匠だぞ。弟子と一緒にすんなよ。大気を流れる魔力を感じて、雨を察知したんだとよ」
リットがからかうようにニヤニヤして言うと、グリザベルはふてくされてそっぽを向いたが、勢いよく視線をリットに戻した。
「そうだ! 雨の備えをしなければ! またお主だ! 余計な質問ばかりするから忘れてしまったではないか!」
「なに言ってんだよ。その余計な質問が嬉しくて、我を忘れて説明を始めたんだろ」
「とにかく、我はグリフォンでひとっ飛び雲の様子を見てくる。お主は弟子達の様子を見ててくれ」
グリザベルは真剣な目つきで言うと、さっそうと家を出ていった。
その後姿を曇りない眼で、見つめるヤッカがいた。
「やっぱりグリザベル様は頼りになりますね。尊敬できます」
「オレも尊敬はしてる。特に、一時の尊敬を得るために後先考えないこととかな。たぶん晩飯の時間を過ぎても帰ってこないぞ」
「そんな遠くまで様子を見に行くんですか?」
「そりゃグリフォン次第だな」言いながらリットは首を傾げるヤッカの頭を羊皮紙で叩いた。「とりあえずこっちは、この紙束をどうするかだな。万が一でも雨に濡らすわけにはいかないだろ」
「それならこっちの箱ですよ。魔法陣で湿気避けになっているんです。浸水までは防げませんが、今日明日で浸水することはないですから」
「そうなのか? 大雨なのにか」
「大雨と言うより長雨ですね。自分達はまだしも、シーナは大変ですよ。畑はだいぶダメになっちゃいそうですから」
「なるほど……ちょっと出てくるぞ」
リットは羊皮紙をヤッカに押し付けると、ドアまで歩いていった。
「はい、シーナの手伝いですね」
「いいや、湖を見てくる」
空はまだ青空。塵一つ分の雲もない。グリザベルに言われなければ、雨が降るなど微塵にも思わない空模様だ。
リットは湖を見つめて考え事をしていた。これから降る雨のことではなく、この湖に滝とともに現れるウンディーネについてだ。
今までの話を聞いていると、ウンディーネがいた水というの重要なもののような気がしたからだ。だが、ここの水でしか作られないのなら、この場にもっとデルージの資料があってもよさそうなものだ。グリザベルがあんなに頭を悩ませる必要はない。
水面を見つめながらリットがなぜだろうと考えいると、ぼんやりとした光の玉が反射した。
「いくら水面に映る顔を見ても、ブサイクは治らないわよ」
「試したのか?」と聞くと、リットはまじまじとチルカの顔を見た。「なるほど……説得力があるな」
「喧嘩は買わないわよ」
「なに言ってんだ。売ってきたのはそっちだろ」
「アンタこそなに言ってんのよ。あんなの挨拶みたいなもんでしょ。それでなにしてたのよ」
「考え事だ。言っとくけど内容は言うつもりねぇぞ」
「内容なんかどうでもいいのよ。アンタに苦情よ、毎回毎回怖い顔で湖に来るのやめてって」
「受け付けねぇよ」
「私に言ったってしょうがないでしょう」
「誰に言えってんだよ」
「ウンディーネに言いなさいよ。怖い顔はするわ、湖を酒臭くするわで、アンタ相当嫌われてるわよ。石までぶつけたって本当? 四精霊にむちゃくちゃするわね……正直ドン引きよ」
チルカがやれやれと肩をすくめるると、盛大にツバを飛ばされた。
「ウンディーネがいるのか!」
「なにすんよ! 汚いでしょ!」とチルカも大声でつばを飛ばした。「もう最悪……臭いし……汚いし……超臭い……」
湖の水は冷たくてそのまま使えないで、ツバで濡れた体をどうしようかと、チルカはコバエのようにうろうろとんでいた。
すると、突然湖から水の玉が浮き上がりチルカの元までぷかぷかと浮かんできた。
「気が利くじゃない」とチルカはその水の玉の中に入ると、汚れを落として出てきた。
「なんだありゃ……」
「なにってウンディーネが飛ばした水玉でしょ」
「まだ滝が出来てねぇぞ」
「滝が出来たらお茶会を開くってだけで、その前からここに来てるわよ」
「知り合いなのか?」
「つい最近のね。そのお茶会に誘われたのよ。断ってやったけど。なに喋れってのよ」
チルカは煩わしそうに長いため息をついた。
「四精霊だろ。いいのか?」
「太陽神でもないのに? シルフならともかく、ウンディーネなんて妖精とほとんど関わりがないわよ。気なんて使ってられないわよ。たとえシルフだとしても、私のとこの森のシルフはこんなところにいないもの。どうでもいいわ。というか、アンタさっきから質問多すぎ。それに、もうウンディーネは消えたから、そこにいても出てこないわよ」
チルカは魔女弟子三人組の誰かをからかってやろうとリットに背中を向けたが、一度振り帰った。「あーそうだ。あと、湖の近くで立ちションするなって言ってたわよ。目のやり場に困るからって」
「……見るなって言っとけよ」
「言ったわよ。そんなのも見てると体が腐り落ちるわよって」
それからチルカは一度も振り返ることなく家へと戻っていた。
残されたリットは湖を遠くまでくまなく観察したが、ウンディーネらしきものの姿は見えなかった。
だが、チルカの口ぶりは嘘をついているようにも思えなかった。
しばらく湖を眺めていたが、答えが出ないうちに、水面にグリフォンの影と空からグリザベルの助けを呼ぶ声が聞こえてきたので、存在の有無はわからないままになってしまった。