第十二話
ディナイン湖から歩けば遠く、空を飛べば近い『シテン』という湖。そこの湖畔には『グイット』という街がある。
地下水で繋がる湖だが、大きさはディナイン湖の何倍もの面積がある。
森ではなく山に囲まれており、天気が良い日には森の緑と空の青と雲の白が湖に映り、絵の具がついた筆をバケツに落としたみたいに不思議な美しさが生まれる。その光景から、この街で生まれた画家から名前をとって『シテンのバケツ』とも呼ばれてる湖だ。
絵の具の材料になる鉱物が山で取れるのと、湖の水がきれいなので多くの芸術家がこの街から生まれ巣立っていった。
出ていく時に持っていくウイスキーがあまりに美味しいと他の街々で評判になったので、『D・グイット』という高級ウイスキーも同時に有名になった。
そんな街に、リットはノーラとチルカの三人で来ていた。
魔女弟子達が朝食を作るようになってから数日が経ち、食料の買い出しとせっかくだから街を見てこいというグリザベルの厚意だ。
だが、開口一番「ちんけな街ね……」とチルカが呟いた。
「同意っス。絵なんか見てもお腹は膨れませんよォ……上手に描いてる分だけ、余計にお腹が空くってなもんです」
ノーラとチルカの二人が不満たらたらの様子でついてくるので、リットは思わず足を止めた。
「街に数歩踏み入れただけで、よくそこまで文句が出るな」
「そりゃあ、お酒が好きな旦那にとっちゃ良い街でしょうけど……ねぇ?」
ノーラが横目で見ると、チルカが頷いた。
「私達にとっちゃなんにも見るところがない街よ」
「そりゃ、残念だったな。でも、酒の一杯飲むまで帰るつもりはねぇぞ」
「なら、どうします? 先におつかいを済ませちゃういますか?」
「食料は帰りでいいだろ。荷物を抱えたまま街をうろつく気なのか?」
「そっちもありますけど、グリザベルに頼まれたやつですよ。この街に済む魔女に手紙を渡してくれって」
「そんなのあったか?」
リットが首を傾げると、ノーラも同じように首を傾げた。なにか思い出した顔をすると、急に首を戻した。
「あらら……そういえば……旦那には内緒の話でした。まぁ、バレたものはしょうがないっスね。どうぞ」
ノーラは封蝋のされた手紙を押し付けるようにしてリットに差し出した。
「頼まれたのはオマエなんだから、自分で行けよ」
リットはせっかく森の中から出て、魔女弟子達がいない時間をゆっくり過ごせるのに、わざわざ魔女には関わりたくないと手紙を突っぱねた。
「旦那もこの機会に少しは魔女に慣れたほうがいいっスよ。どうせまだしばらくはいるんスから。このままだと、妹弟子達に翻弄されちまいますぜェ。それに、その魔女さんは酒場を経営してるらしいですよ」
リットがなにか言う前に、チルカが口を挟んだ。
「アンタ一人で行ってきなさいよ。こっちはお酒なんかに興味はないんだから。それとも私達がいないと寂しくてなにも出来ないわけ?」
突っ立って街の喧騒を眺めるのに飽きたチルカは、ノーラの頭に座り込んで、操縦でもするように髪の毛を引っ張ってどっかに行こうと急かした。
リットは少し考えると、ノーラから手紙を受け取り、代わりにお金を渡した。戻ったら、やかましい魔女達の相手をしないといけないので、少しでも一人の時間を過ごしておきたいと思ったからだ。
食料の買い出しをノーラとチルカに任せて、リットは魔女に手紙を渡して、早々に酒場に行ってゆっくり過ごすことに決めた。
魔女の酒場の場所は、街の人に聞けばすぐに分かった。皆一様に、この街で一番汚い店だと答えるからだ。
そしてその言葉通り、みすぼらしく汚い店の前にリットは立っていた。
「魔女の酒場ってのはここか?」
リットはボロボロのドアを開けて中に入った。
この中を見て綺麗だと言えるのは、よっぽどの嘘つきくらいのものだ。壁は木の腐ったような色がしていて、天井にはクモの巣。床は埃で白く汚れていて、いつ誰が残したのかもわからない濡れた足跡がよく目立っている。
客が入ってきたというのに、店主は一向に顔を出す気配がない。
「おい、いねぇのか? ……あまりにも客が来なくてくたばったのか?」
リットが店の中ほどまで歩いていくと、その足音に気付いた店主がようやく店の奥から出てきた。
「最近の若者はせっかちだねぇ……ゆっくり時を刻むということを知らない」
魔女はかなり年をとっていて、歩いても歩かなくても、真冬の川に落ちたのかと思うほど小刻みに震えていた。
「悪かったな。……くたばるのはこれからだったか。こんな汚ねぇところでくたばったら、誰にも気付かれないままガイコツだぞ」
「だからせっかちだって言ってるんだ。答えを出したがるくせに、なにも考えない……嘆かわしいね」
魔女は埃だらけのカウンターを手のひらで拭った。しかし、カウンターの汚れは拭き取られることなく、手のひらにも汚れはついていない。
一連の動作を目で追うリットに「こういう趣向の店なんだよ。わかったかい?」と魔女は肩をすくめて言った。
改めてよく見ると、この店の汚れのほとんどが作り物だった。クモの巣は糸で、そこいるクモも蛾も偽物。スス汚れた壁も誇りだらけの床も、濡れた足跡もすべてが作り込まれたものだ。
「わかったよ――」と、リットはカウンターの椅子に腰掛けた。「――趣味が良くねぇことがな」
「芸術のわからない坊やだよ……。ここをなんの街だと思っているんだか」
「なにって酒の街だろう」
「なんだ、そっちが目的なら早く言っとくれよ」
魔女はウキウキした様子で酒の入った瓶を取り出すと、リットの目の前に数本並べた。
まるでそこら辺に生えている雑草を詰めたかのような濁った薄緑の酒に、乱暴の炎を閉じ込めたかのような真っ赤だがどこが艶やかな色の酒、虫の卵付きの葉が入った酒。あとは幼虫やヘビそのものが入った酒など、魔女がする説明など耳に入らないほど不気味な見た目の酒ばかりだった。
リットは酒瓶の隙間から手紙を魔女に向けた。
「オレは使いだ。この店で飲む気はねぇよ」
「なんだい」と魔女はつまらなさそうに首を振った。「肝の小さな男だよ。酒に浸す価値もない」
「その通りだ。オレの肝はここの酒に浸すつもりはねぇよ。もっと普通の酒に浸すつもりだ」
魔女は瓶を片付けてから、手紙を受け取った。退屈だった顔は封蝋の印を見て笑顔に変わった。
「なんだい、グリザベルちゃんのところの弟子かい」
説明が面倒くさくなったリットは「そうだ」と答えた。
「なら教えておいてやるよ。師匠の手紙はなにより先に渡すのがマナーだ」とリットに注意してから、「どれどれ……」と、魔女は手紙を読み始めた。
グリザベルらしい冗長な文だが、どれ一つ読み飛ばすことなく、一語一句読み間違えることがないように愛おしく眺めた。
リットが早く読めとカウンターを指で叩く音などまるっきり無視だ。
長い時間を掛けて読み終えると、宝物でもしまうように大事に手紙を封筒に戻し、「待ってな」とリットに言った。
「おいおい……まだ待たせるのかよ。なんか用意するものがあるなら後にしてくれ。普通の酒場に行った帰りに寄るから、わかるようにドアの外にでも出しといてくれ」
「文句の多い男だ……」と魔女はため息をつくと、部屋に引っ込んでしまった。
またすぐに出てきたが、その手には酒瓶が握られていた。
「これでも飲んでおとなしく待ってな。まったく……グリザベルちゃんの弟子だから特別だよ」
リットは酒をグラスに注がれて驚いた。酒瓶は中が見えないほど真っ黒だと思っていたが、酒自体が真っ黒だったからだ。
「……インクでも飲ませる気か?」
「飲むのか、飲まないのか。わかりやすく二つに一つだ。私だったらこの機は逃さないけどね」
魔女が酒瓶を持って再び店の奥に引っ込んでしまった。
リットの目の間には、森の夜よりも黒い酒。
その底気味の悪い見た目に、思わず「まるでノーラが焦がした後の鍋の水だな……」と呟いた。
さすがのリットも、この酒には手を付けずにいた。見たことのない色の酒ということもあるが、最初に出されたゲテモノ酒のせいで、なにが入っているかまったくわからないので、興味よりも恐怖のほうが勝っていた。
それに、せっかくウイスキーの街に来たのだから、こんな得体のしれない酒を一杯目になどしたくなかったからだ。
だが、その気持も魔女が戻ってこないまま、日の傾きを背中で感じとっているうちに薄れていった。眩しい夕日が暴力的に店の中の酒瓶に反射すると、またされたイライラと僅かな興味に惹かれて、ついつい黒い酒に手を伸ばしてしまった。
グラスに唇を付ける瞬間までは抵抗があったが、酒が舌先を濡らすと、そのまま半分ほど一気に飲み込んでしまった。
理由は単純に美味しかったからだ。今までに飲んだどんな酒よりも美味しいが、味の形容が出来ない。まったく未知の味だった。
甘いと思えば甘いし、苦いと思えば苦い、果実の味がすると思えばするし、懐かしい土の香りがすると思えばする。味は混濁しているが、それに苛立たしさを感じることはなく、なんとか味を思い出そうと口の中を舌が舐め回し、止まることなく動いていた。
酔うというよりも、まるで遠い日の思い出に浸る気分だ。
自分だけの世界に入ってしまい、ゆっくり飲んだのか、早々に飲み干したのかはわからないが、気付けばグラスは空になっていた。
時間の感覚もなくなっており、いつのまにか魔女はカウンターに戻っていた。それどころか、他の客もいるのにリットはまったく気付いていなかった。
「どうだい? 格別な酒だっただろう? それがアンタの“思い出の味”ってやつさ」
急に辺りを見回したリットに、魔女はニヤリと口元に浮かべて空になったグラスを下げた。
「いや、わけがわからねぇ……」と素直にリットが答えると、周りの客が一斉に笑い出した。
今いるのは皆常連の客で、自分も初めて飲んだ時はそうだったと思い出したからだ。
「正しい意見だね。理解してこそ、格別という言葉に意味が生まれる。もし、格別だと頷いていたら、はっ倒してたところだよ」と魔女は笑った。
「その箒の柄よりも細い腕でか?」
「坊や……口が減らないねぇ」
「今の酒をもう一杯飲めば。口数は減るぞ」
「そりゃ無理だよ。あの酒は特別な時しか飲ませないんだ。今までに三回しか客前に出してない。一回目はこの店をオープンした時。二回目は私の師匠が亡くなった時。そして、今が三回目。弟子に来てたグリザベルちゃんに、弟子が出来たお祝いだよ。時は刻まれてるね」
「そりゃ悪いことをしたな」
本来は弟子でもなんでもないので、大事な時に開ける酒を開けさせてしまったことを素直に謝った。
しかし、魔女はそんなことはお見通しと言わんばかりに、からかうような笑みを小さく浮かべていた。まるで孫のいたずらを優しく見守る祖母だ。
「もっと飲みたかったら、お師匠様に頼むんだね。あの子は褒めれば褒めるほどやる気も結果も出す子だよ」
「……ってことは、これが魔女の作る酒ってやつか?」
「なんだ、教えられていたのかい。そうだよ。魔女の間で『デルージ』って呼ばれる酒さ。今は作る魔女もいなく、消えつつある。私も師匠から譲り受けただけ。材料は知ってるんだけどね」
魔女はそう言うとリットに麻袋を渡した。中にはハーブと木の実がこれでもかというほど詰まっていた。
手紙も隙間に挟まっており、グリザベルの手紙の内容はこの材料を貰うためだというのがわかった。
「こんなんで作れるのか? 蒸留酒みてぇに鋭い味だったぞ」
「私は材料を知っているだけ。作り方は知らないよ。知ってるのは、飲んだら火のように熱く、風のように爽やか、土のように芳醇な香りがする酒ってことだけ。でも、グリザベルちゃんは知っているんだろう。あの子は消え行く魔女技術や知識をたくさん持ってるからね」
「そりゃ、こんな年寄りばかりが師匠ならな」
リットの軽口に「そう思うだろう」と魔女は誇らしげに笑って返すと、「ところで、普通の酒場で飲むんじゃなかったのかい?」とからかい返した。
デルージが飲めないのなら、他の酒を飲もうというリットの視線がわかりやすかったからだ。
「よく考えりゃ、魔女の弟子だからな。ここで飲むのが普通だ。とりあえず、その雑草入りの酒から頼む」
リットは一番無難そうな酒を指した。
「魔女の弟子を名乗るなら、魔女薬にもなるハーブの名前くらい覚えておくものだよ」
魔女は酒をグラスに注いだ。
「オレの知ってる魔女は、オレの無知加減に嬉々として説明してくるぞ」
「中途半端に知識をつけるからだよ。間違いを正すってのは、自分の価値観を植え付けるいい機会だ。そりゃもう楽しいものさ。それが嫌なら、魔女に負けない知識を身に着けるか、魔女とは程遠い暮らしをすることだよ」
「見透かしたような言い方だな」
「坊やが見透かされたように聞こえただけだよ。何はともあれ、一度関わったものはいつまでも付き纏うものさ」
「そりゃ身をもって知ってるよ」とリットは酒を一口飲んだ。
葉の匂いが溶け込んだ酒は癖の強い味がしたが、不思議と心が休まる味がしていた。