第十話
高く伸びる木々の梢を両翼で風を打って波立たせると、まだ薄い緑の新芽がめくれ、太陽に慣れた色濃い葉が顔を出す。濃薄のグラデーションは自分を中心に広がっていく。
グリフォンで森を見下ろしながら飛ぶ爽快さは、何ものにも代えがたいものだった。
「有限なる日々を生き抜いた力強くも繊細を感じる芳醇な森のニオイ……。目も眩むような膨大な植物の重なりで構成される緑の海……。壮麗たるこの世界は、完成された見目好い魔法陣にも通ずるものがある。我の心にも大きく刺激を与える。だが……些か寒くなってきた。もうよい、降りよ」
グリザベルは身を縮こまらせて震えて言うが、グリフォンは返事だけ「チュー」と元気に鳴いたが、ぐるぐると同じところ旋回していた。
元からグリザベルの言うことを聞かないということもあるが、風圧を浴びせるたびに、森が騒がしくなるのがおもしろく、いつもより余計に翼を大きく動かしていた。
グリザベルは何度も降りるように命令したのだが、反応は全部同じだった。
「止まらぬかぁ……アホ鳥ぃ……寒いぞ! 鼻水も止まらぬぅぅ!! 降りろ! アホめ! アホ……アホぉ……」
グリザベルはグリフォンの首元をぽかぽかとかじかんだ手で叩いたが、力の弱く痛くも痒くもないので、グリフォンは景色が見えなくなる夜になるまで空を徘徊していた。
吹き上げる冷たい湖風に長時間さらされ、その間はグリフォンにまたがったままの体勢でいたので、地上に降りる頃には関節がガチガチに固まってしまっていた。
運良くノーラが通りかからなければ、グリフォンの背中に乗ったまま夜を明かしていたかもしれない。
「助かった……ノーラ、礼を言うぞ。あのままでは、師匠としての威厳がなくなるところだった」
「いえいえー。でも、早く顔を洗わないと威厳はなくなると思うっスよ」
グリザベルの顔は涙に汗にヨダレに鼻水と体液まみれで、とてもじゃないが弟子達には見せられなかった。
「うむ……そうだな」と湖に向かって歩き出したグリザベルだが、がに股のまま関節が固まってしまったので思うように歩けなかった。
ノーラに付き添ってもらい、湖の水で顔の汚れを洗い、泣いた目の腫れを冷やし終えた頃には関節の固さは治っていた。しかし、まだ痛みは残っているのでノーラに腰を支えながらの帰宅となった。
まるで負傷兵の帰還のように、ゆっくりドアを開けると、よたよたとおぼつかない足取りで家に入った。
グリザベルは「すまぬ……遅くなって」と家の様子をよく見る前に、素早くリットに向かって頭を下げた。こんなに遅い帰宅になるとは告げていなかったので、怒られる前にと思ったからだ。「本当にすまぬ……。我がいないと困っただろう。お主の言う通り、魔女というのは曲者揃いだからな」と言いながら頭を上げたが、自分に注目している者はいなかった。
マーは「これはどうするの?」と、リットの顔面に貼り付けるような勢いで、羊皮紙を突きつけて見せた。
「知るか」と、リットは羊皮紙を払い落とした。
「知らないなら、新しいのを出して。どうせ他にも持ってるんでしょ」
マーは拾った羊皮紙を、拳ごとリットの頬に押し付けた。
「こんな状況で出し惜しみなんかするかよ。ない頭を絞って、それでどうにかしろ。あとほどけよ、このワケのわかんねぇ縄をよ……」
「リットさん、手が止まっていますわよ」と、シーナがテーブルを指で叩いて催促をした。
「手は止めてんだ。手伝う気なんてねぇからな」
リットは二人の魔女によって縛られていた。シーナが大きな体でリットを押しつぶすようにして動けなくすると、マーが早速リットに渡された紙を見て学んだことを利用して、一人ではほどけないように魔法陣を書いて縄に挟んだ。
そうして身動きが取れなくなったリットを、自分の修行のために利用しようとしていた。
リットの横にいるマーは、他にも自分が知らない魔女の知識を持っているはずだと、しつこく食い下がって無理やり聞き出そうとし、正面ではシーナが知り合いの魔女に書く手紙の手伝いをさせようとしていた。
そして、リットのすぐ目の前では、この状況を頼んしでいるチルカが、ブドウにかじりつきながら思う存分に煽り倒していた。
「なんなら手だけじゃなくて、息の根も止めてみなさいよ」
チルカはブドウを抱えてニヤニヤしている。
リットはたまらず「おい、ノーラ!」と助けを求めた。
ノーラは「はいはいのはいな」と小走りでテーブルに向かうと、「ダメっスよ、がっついちゃ。旦那を手伝わせるにはコツがあるんス。二回押した後に、一回引くんスよ。そうすれば勝手に興味を持ったことを調べだして、旦那から頭を突っ込むってなもんス」と魔女見習い二人にアドバイスを送った。
「こっちを助けろって言ってんだ。あっちにアドバイスを送ってどうすんだよ」
「旦那ってば、だらしないんスからァ……。妹さんを相手にするようなもんじゃないですか。ほら、旦那には二人もいるでしょ?」
「なら打つ手はねぇよ。リッチーもシルヴァも、オレの手には負えねぇんだからよ」
「本当にだらしないんだから。少しは胸が大きいければそれでよしとする男を見習ったら? アンタよりは女の扱いに長けてるわよ」
チルカもノーラと同じく、リットが譲歩しろという考えだった。
「ローレンに見向きもされない体型に癖になに言ってんだ。女にカウントされてねぇだろ」
「ムッカチーン!!」とチルカは羽明かりを強くした。「アンタ、この場にいる大半を敵に回したわよ! ねぇ、ノーラ」
「私は別に気になりませんが?」
「私だってそこまで気にしてないけど、敵意のある言い方がムカつくのよ。特にリットに言われると尚更!!」
「それは旦那とローレンのせいですね。人間の特有の価値観の植え付けってやつっスよ。人間ってのはそれを振りかざして道を広げるものですから、争いが絶えないんスよ」
「本当よね。調和するってのを勘違いしてるんだから」
「オマエらまでピーチクパーチクお喋りしてどうすんだよ。せめて縄をほどく素振りくらい見せろよ」リットは椅子の前脚と後ろ脚を交互に上げて揺らし、どうにか角度を変えると目に入ったグリザベルに向かって「ちょうどよかった。助けてくれ。女が集まり過ぎて無法地帯だ。師匠らしく一喝してだまらせて、縄をほどいてくれ」と言った。
グリザベルはリットを睨んでから、ふてくされた顔で知らぬふりをして横を向いた。
「おい、何をふてくされてるかは知らねぇけどよ。今夜寝るところに糞を漏らされたくなけりゃ、さっさとほどいたほうがいいぞ……」
リットが急かして足踏みをすると、グリザベルは明らかなな不満顔でため息を付いた。
リットに近づいて魔法陣を眺めると、テーブルにある羽ペンを手に取り、あっという間に書き換えてしまった。魔法陣は風の力での引っ張りと、湿の性質で湿らせて結び目を固くしていたので、縄は魔法陣ごとカラカラ乾いて砕けた落ちた。
「修行は一度中断だ。手を止め、夕食の支度をせよ」
グリザベルが終わりだと手を叩くと、渋々といった様子でテーブルを片付け始めた。
ようやく自由になれたと、一息ついて肩を回しているリットに、グリザベルはこっちに来いと手招きをして、家の外へと連れ出した。
弟子達がついてきていないを確認すると、グリザベルはこれみよがしに肩を落とした。
「お主は……我の立場というものを考えて行動しておるのか?」
「なに言ってんだ、こっちは協力してやってんだぞ。だから見たくもねぇ、面倒を見てやったんだろうが。言っとくけどな、オマエが思っている以上に面倒を見てやったぞ。成り行き上な」
「それがいかんと言っておるのだ。お主が面倒を見て、結果修行が捗ってしまったら、我の立つ瀬がなくなってしまうではないか……適度にものを教えるということが出来ぬのか? お主は」
グリザベルは心外だと言いたげに眉を寄せたが、リットも同じ表情で返した。
「そんな話を聞いてなかったもんでな。そんなに弟子の様子が気になるなら、ここにいてずっと面倒を見てやれよ。まだ街への買い物のパシリにされるほうがマシだ」
リットの言葉にグリザベルは、太ももをこすり合わせて「我もそう思っていたところだ……」と同意した。
「なんだよ……まさか漏らしたのか?」
「ずっと跨っていたせいで股関節が痛いのだ! あのアホ鳥めぇ……」
「なるほどグリフォンは男を上げたわけか。まぁ思春期の暴走とも言える」
「お主……その調子で、我の大事な弟子に変なことを教えなかっただろうな……」
「どっかの嫌味な魔女が書いた魔力制御の紙を渡して、浮遊大陸の植物を持ち帰るのに利用したっていう重層魔法陣のケースの話をしただけだ。問題になるようなことは話してねぇよ」
「大有りではないか……」とグリザベルは頭を抱えた。「いきなり答えになるようなことを教えてどうする……」
「アドバイスをしろって言ったじゃねぇか」
「そうだ、アドバイスだ。答えを教えろとは言っておらんだろう……。よいか? 魔女学というのは過程も大事なのだ。一つ一つを丁寧に理解していくことにより、応用と危険を学ぶ。それによってようやく基礎を理解できるというもの。それが知識を知恵に成長させる一つ手段なのだ。なぜその答えにたどり着いたか、百になるまでの一から九十九の足跡を疎かにしてはいかん。九十九までの足跡は、別の答えに行くまでに通る道だ。基礎となる道は踏み荒らすものではない、踏み直すものだ。理解していないと、自分の足跡がわからなくなり、踏み荒らすことになる。それによって同じ失敗を繰り返すなど、知識への侮辱でしかない。過程を学ばぬ者は、まだ一歩を踏み出していないに等しい。踏み出していないということは、周りの景色を見ることしか出来ぬ。だがそれは、己で見た風景ではなく、誰かが作り上げた仮初の景色だ。己の足で踏み出していくたびに、景色は新たに塗り替えられていく。それこそが己に必要な基礎の道だ」
グリザベルの相変わらずな冗長な話に、リットは面倒くさいと壁にもたれかかって聞いていた。
「そういう話はよ……オレじゃなくて弟子達にしてやれよ。そういうのを最初にすっとばして師匠ヅラするから、舐められて言うことを聞かねぇんだよ」
「聞くような奴らだったら、こんなに苦労はしておらんわ」
「なら、いいチャンスじゃねぇかよ。オレの間違った知識の与え方を訂正してこいよ。道を正すってのも、師匠の役目なんじゃねぇのか?」
「ふむ……一理ある。だが、お主は我の話を聞いてる様子などないが……」
「聞いてもいねぇことまでペラペラ喋るから無視してんだよ。オレは本当の弟子じゃねぇんだから、付き合う必要なんかねぇからな。……とにかく後は勝手にやってくれ。げんこつを落とすなり、雷を落とすなり、泣き落とすなり、やりようはいくらでもあんだろ。気ばっかり落としてても、うざってぇだけだ」
リットは話は終わりだと背を向けると、小屋に向かって歩き出した。
「夕食はいらぬのか?」
「つまみになるのだけノーラに持ってこさせろ。間違っても他の奴に持ってこさせるなよ。こっちはこれからようやく自由時間なんだ。好きにさせてもらう。問題ねぇだろ?」
「それは構わぬが……飲みすぎては、またこの間の二の舞だぞ。酔って安請け合いなどして、魔法の実験台になると命を落としかねんからな。酒で気晴らしは良いが、憂さ晴らしはせぬようにな」
「あのなぁ……オレに師匠らしくしてどうすんだよ」
「なるほど……こうすればよいのか……なんだ――簡単ではないか!」
グリザベルはフハハと高笑いを響かせながら家へと戻っていた。
リットはよくわからない魔女薬や、魔法陣の力の実験台にされるのはごめんだと、酒を飲む気持ちがすっかり失せてしまった。




