それでも高校生は恋をする!
消しゴムとそのカバーをスライドさせて、ギリギリのところで戻す。
簡単な動作だが、油断して一度外れると中々元に戻らなくてイライラするのだ――というような作業を鷹明は朝からずっと繰り返している。
授業中はおろか、休み時間ですらまったくの上の空である。
「……はやせっ、早瀬ってば」
隣の机から嘉穂の小声が届いた。立てた教科書に顔を隠して、鷹明にそっと尋ねる。
「楽しいの、それ?」
「いや別に」
楽しいわけないだろー? と内心突っ込む。しかし、今の鷹明には口に出す気力がなかった。意外に大人しい彼の反応にしばらく考え込んでいた嘉穂は、再び聞いてきた。
「……ひょっとして何か悩んでるとか」
そう、確かに彼は悩んでいる。正確に言うと悩みまくっている。
それもそのはずだ。鷹明は昨日、美人お姉さんに迫られて異世界に飛ばされ、そこで実は女の子だと言われ、地球を滅亡の危機から救わなきゃならない上に、運命的な恋に落ちた相手が男だったのだから、悩みも尽きない。
(あああ、頭痛くなってきた)
心配そうな嘉穂の顔を見ながら、彼は一人ため息をついた。彼女の気持ちは有難いが、嘉穂に相談しても話はややこしくなるだけである。
「大丈夫。なんでもないからさ」
「ホント? 何かかなりヤバそうだけど早まっちゃダメよ? 一度犯罪に手を染めたらカタギの世界には戻れないんだから」
(……だから何でそういう発想になるわけよ?)
だが、今日の彼に嘉穂の天然ボケに突っ込む余裕はない。
黙って消しゴムに視線を戻した鷹明は、ふと思いついて嘉穂に聞いてみた。
「お前さ、戸津川直樹って知ってる?」
戸津川直樹――それはナオのベビーサイドでの名前であり、彼女の本来の姿でもある。
驚いたことに彼は、同じ学内の後輩にあたるらしかった。
しかし、いくら同じ校内と言えども、鷹明達の高校は一学年三百人を超えるマンモス高である。学年が違えば校舎も違う。同じ部活でもない限り、知り合う可能性など極めて低いのだ。
鷹明の質問に、嘉穂もシャーペンを口元にあてて真剣に考え込んでいる。
「ま、嘉穂に聞いても無理か」
Hっぽい外見に似合わず、未だ男に全く興味がない嘉穂のことだ。聞くだけ無駄だったと鷹明は、首を振る。
しかし彼女の答えは意外だった。
「戸津川直樹ってあの剣道部の新入生?」
「剣道部?」
「えぇー知らないで聞いたわけ? 女の子の間では超有名だよー。入部そうそう剣道部のアイドルだって」
「……モテるんだ、あいつ」
男に疎そうな嘉穂がナオのことを知っている――それも一応ショックだったが、ナオがモテるという事実はさらに衝撃だった。
別に男としてのナオには何の興味もないはずなのだが――。
「モテるどころか、女子の間では十年に一度のメガヒットって噂だよ」
「メガヒットねぇ……」
何ともド派手な肩書きである。
「その、なんだ……いないのか? 彼女とか、さ」
お前はナオのオヤジかっつーの、という突っ込みを自分に入れつつ、鷹明は嘉穂の方をちらりと見た。嘉穂の答えを待つ間、なぜか胸が高鳴ってしまう。
「うーん、いないと思うよ。それらしい子みたことないし。大体、戸津川君ってお母さんが病気で長いこと入院しているから、その看病で忙しいからね」
「なんでそんなに詳しいんだよ?」
さてはお前、戸津川のことが……という鷹明の猜疑の視線に気付くことなく嘉穂は、
「なんでって、それはさぁ」
と意味深に微笑んだ。しかし次の瞬間、「あ」と口元に手を当てる。
「ごめーん。これ以上は内緒なの」
と可愛く手を合わせた。
「なんだよそれー」
しかし天然娘で素直な性格の嘉穂を吐かせることなど、幼馴染の鷹明にとっては朝飯前でもあった。
(こうなったら絶対に白状させてやるー!)
意気込む鷹明だったが、ふと思いついたことがあって話題を変える。
「あのさー、これは俺の友達の友達の、そのいとこの友達の話なんだけどな……」
「そういうの、普通他人っていうんだよ」
嘉穂のもっともな意見に「うるせーな」と一言返してから、鷹明は本題に入った。
「ある男がな、わけあって女装をしてたわけよ」
「わ、変態さんだぁ」
「……まぁいい。で、その男が女装している姿に、別の男が惚れたわけ。これってどうなると思う?」
「男が男を好きになっちゃったんだからぁ、これは同性愛ね。で女装してるから変態!」
「……」
何もトドメを刺してもらおうと相談したのではない。言った相手が間違いだった、と改めて鷹明はため息をついた。
その時だった。
「ふふふふふふふふふ」
地を這うような不気味な笑い声が、二人の間に流れてくる。そしてふいに、鷹明の前の席に座っている多可田エナが振り向いて言った。
「同性愛だなんて下世話な言葉で済まさないで欲しいものね。それは正真正銘! B・L! すなわち、ボーイズ! ラァァァブよっ」
ボーイッシュでなかなか可愛い顔立ちのエナは男子からの人気もそこそこだが、本人は日がな一日『BL系』の漫画を読みふける自称『男系恋愛好きの夢見る乙女』であり、他称『腐女子』である。
「……なんだよ、藪から棒に」
「おほほ。お二人の会話が耳に入ってしまったのでつい、とっても為になるアドバイスをしてしまったわ。ちなみに藪から棒ってちょっとエッチな感じしません? おほほほほほ」
「お前ってさ、上品路線でいきたいのか下品をウリにしてんのかどっちなんだ?」
「愚問ね。愛とは尊く上品なものでありながら、愛に至るまでの行為はいつも品のないものなのよ」
「でエミちゃん、BLと同性愛とは違うの?」
果てしなく脱線していきそうな話を、嘉穂が上手に戻してくれた。
「全然違うわよ~BLとはリアルであってはいけないの。それは、めくるめく妄想の世界。その女装した男……ここは少年と書き直した方がいいわね。少年はやむに止まれぬ状況で女装を強いられているの。でもその少年はとぉぉぉっても美形だから、メチャ綺麗な女のコみたいに変身する。そこへ現れたのが女好きの中年男。といってもメタボを気にしているようなダサダサオヤジじゃないわよ? チョイ悪の上をいく絶倫サド男。金持ち。もちハンサム」
「おい。いつまで続くんだ、この話」
「まあまあ。最後まで聞いてあげようよ」
何だか楽しそうだし、とかばう嘉穂もやはり引いている。
「でね。最初は男女として出会った二人なんだけど、やがて宿命的な恋に落ちる。少年は愛する人に真実を告げられずに苦悩し、一足早く真実に気がついた中年男はそれでも、今まで辿ってきたどの女性よりも深く彼を愛してしまうのよ。これぞ純愛! 障害故に昇華された真実の愛なのよぅ! それを同性愛だの変態だの、ボキャブラリーが貧困過ぎましてよ、嘉穂」
「す、すみません……でもエナちゃんってすごい想像力があるんだね」
「想像力というか妄想力だな」
素直に感心している嘉穂の横で、鷹明が呆れている。
エナはというと、好きなだけ話して満足したのか「は! 思わず煩悩を暴走させてしまったわ。あなた達のせいで、これ以上貴重な授業を無駄にするわけにはいきません」と前を向いて遅れた分のノートを取り始める。
「……でも、本当に好きなら別にいいと思うなー私は」
その背中をぼんやりと見ながら、嘉穂が言った。
「お前にいいって言われてもねー」
鷹明の反応に、嘉穂は隣の机から乗り出しながら「でもでも」と繰り返す。
「そんな大障害を乗り越えてもまだ好きなんでしょ? その友達の友達のー…って人。BLかどうかは嘉穂にはわかんないけど、そこまで人を好きになるって人生で滅多にないと思うから、嘉穂的には絶対頑張って欲しぃわけ。いつかは嘉穂だってそんな大恋愛してみたいし」
「……なるほど。そういう見方もあるわけね」
嘉穂の言葉に、妙に納得してしまう。
「ねー私の悩み相談も結構役に立ったでしょ?」
「おお。まぁな」
嘉穂は得意そうにエッヘンと胸を張った。
「それに好きって気持ちは別に友達同士でもあり得ると思うよ。嘉穂だって、あさきが好きだし一緒にいて楽しいし」
「楽しい、のか?」
入谷の仏頂面を思い出しながら鷹明は言った。
「もちろんだよー! あさきはとってもいい子だよ。早瀬もそのうち分かるって」
「ふーん」
「で、私はあさきが好きだけど恋愛感情ではないでしょ。それが証拠に、あさきにもし恋人ができても全然ショックじゃないし……」
そこまで勢いよく言って、嘉穂は急に黙った。
「ん? どうした?」
「どーしよー! 今、ちょっと想像したんだけど、嘉穂的には結構、ショックかも。は、早瀬! これって私ってばレズなの? 相談にのってぇ」
と焦りまくっている。
「大丈夫だってば。そんなの誰にでもあるよ。今までつるんでた友達に彼氏彼女ができるとちょっと寂しいだろ?」
「あ、そっかぁ」
そんな嘉穂を見て、鷹明は再びため息をついた。
(やっぱり、こいつに相談したのが間違いだったよ)
安心した嘉穂は、しかし不思議そうな顔で鷹明を見た。
「でもさ、何で早瀬が戸津川君に興味があるわけ?」
何気ない嘉穂の言葉に、鷹明は凍りつく。
「! その、なんだ。知り合いの後輩が、戸津川ってやつが好きらしくてさ……うん」
立場逆転である。焦りまくっている鷹明は、気がつくと一指し指を口に当てていた。
「これ以上は内緒、な」
苦し紛れの鷹明の言葉だったが、嘉穂はにっこりと微笑むと、
「お互い、内緒だね」
と笑った。
「……」
どうやら、詮索は続行不可能になりそうである。
諦めた鷹明は一人、高山先生のクセのある筆記体で埋め尽くされた黒板を眺めた。とはいえ授業に参加している様子は全くない。
(戸津川ってモテるのか……)
複雑な思いを抱きながら、鷹明は再び消しゴム作業を始めていた。
ここは市内で一番大きな総合病院――ガラス張りのロビーは、外の光を目一杯取り込んで病院全体の印象を明るくしており、待合の長椅子には入院歴の長そうな老人が数人、ぼんやりとテレビを見ていた。
院内は全体的に白とグリーンに統一され、まさに『病院』といった清潔感と安心感を与えている。
「……」
だがしかし、健康だけが取り柄の病気には一切縁のない鷹明にとって、やはりここは居心地の悪い場所に違いなかった。
(結局、病院まで来ちゃったよ……俺)
放課後、鷹明は剣道部に行ったのだが目的の人は見つからなかった。仕方がないので、そこらへんの部員に聞いてみる。
「戸津川なら今日は病院っすよ」
胴着の手入れをしながら、剣道部の後輩が答える。
「あいつ、週に二三回は母親の看病にいってるんスよ。ま、あんまり部活に来なくても、試合で強いから誰も文句はないけど」
それはそうだろう。わざわざ部活などで練習しなくても、戸津川はストゥームザイムとして実戦で鍛えているのだから。
その後輩から病院の場所を聞き出した鷹明は、どう切り出せばいいか分からないままにここまで来てしまったのだ。
(いかんな……これではまるっきり片思いの女の子じゃないかよ)
沸きあがる自分の気持ちに戸惑いながらも、けっこう必死に視線を走らせている。
総合待合室には、結構たくさんの人間がいた。
妊娠したお母さんと手をつなぐ幼い子供、お見舞いに来たらしい彼女と楽しそうに雑談する松葉杖のお兄さん。急ぎ足の製薬会社の営業マンに、ミーティング中の看護師のお姉さん達――。
「ん?」
その中の一人に、顔見知りの人物を見つけて鷹明は目を細めた。ピンクのファイルを片手に、真剣な面持ちで何かをメモっている白衣の天使。
(あ! あれは入谷?)
意外な場所で意外な人物を見つけたものである。
学校では、そのバリバリに冷たい人間性から『鋼鉄の美少女』と名づけられた入谷あさきが、なぜナース姿で病院にいるのか?
「最近、わけのわからない事が起こり過ぎだってば」
ひとりごちると、鷹明は入谷に向かって手を上げた。
「おーい、入谷。こんなとこで何コスプレしてんだ?」
鷹明の声に何気なく視線を寄越した入谷は、瞬間「げ」ととてつもなく嫌な顔をした。
「……嘉穂から聞いたのか?」
周りの看護師達に断わってから、鷹明のそばへ歩いてきた入谷は怖い顔でそう言った。整った切れ長の瞳が、妙な凄みを以って鷹明を睨み上げる。
「グーゼングーゼン! たまたま発見したんだよ。それより何してんの?」
「……」
しばらく沈黙した後、入谷は覚悟を決めたように話し出した。
「卒業したら看護師目指そうと思ってて。知り合いの姉貴に病院勤務者がいたから紹介してもらって。ちょっとずつ勉強、させてもらってる」
にこりともぜずにそう告げる入谷。そして改めて鷹明を睨みつけると、
「黙ってろよ。学校の奴らに知られたら……うるさいから」
とだけいった。入谷の言葉に「そりゃそうだ」と鷹明も納得する。入谷が病院でナース修行などやっていると知ったら、その姿を拝みたくて学校の男子達が殺到するだろう。
恐らく、嘉穂が「内緒」と言っていたのはこのことだったのだ。
「大丈夫、誰にも言わないって。……その代わり」
「?」
「今度、美人のナースさん紹介してくれよな」
間髪入れず、鳩尾にかなり強烈なパンチが入る。思わず蹲ってしまった情けない鷹明を見下ろして、入谷は一言吐き捨てた。
「アホが」
「すみませんでした……」
殴るかフツー、という内心のクレームとは裏腹に、鷹明はあっさりと謝ることにする。何せ相手は入谷あさきなのだ。あらゆる意味で鷹明ごときが勝てる相手ではない。
入谷の第二攻撃に備えて恐る恐る立ち上がる鷹明を、入谷は汚れ物でも見るような視線で見ていた――ふいにその目線が鷹明から逸れる。鷹明の肩越しに、誰かを見つけると、ふっと顔をほころばせた。
「今日もお母さんのお見舞い?」
「はい。母がお世話になってます」
鷹明の背後から、声変わりもまだのような少年らしい高い清らかな声が返ってくる。
(ま、まさか…!)
振り向いた鷹明は、思わずこぶしを握り締める。
同じ学校の制服姿で立っている少年。しかも新入生だとすぐわかるような、大きめの男子学生服を着ている。
これぞまさに美少年、という感じ整った小さな顔には、確かにあの美少女の面影があって――。
自然と鷹明の心臓はバクバクと高鳴っていく。
(ダメじゃん、俺! しっかりしろよ、相手は正真正銘の男なんだぞ?)
きっとこれは昨日の後遺症だ、と鷹明は自分に言い聞かせる。自分は断じて男に惚れたわけではない。
この胸のトキメキは、あの美少女に繋がる感情なのだ。
(そうだろう? 誰かそうだと言ってくれー!)
病院のロビーで打ちひしがれたように両手をつき、リノリウムの床にひとり頭を打ちつけている鷹明を、子供が不思議そうに見ながら通り過ぎていった。
手をひくお母さんが「ジロジロ見るんじゃありません」と小さな声で叱っている。
「ひょっとして早瀬、鷹明先輩ですか?」
頭上から可憐な声が降ってきた。見上げると戸津川が首をかしげて立っている。隣で入谷が意外だという表情を浮かべている。
「戸津川君、早瀬を知ってるのか?」
「あ、あのー。一度会ったことがあるんだ……ちょっとだけ」
どう答えていいか分からないといった様子の戸津川の代わりに、鷹明が慌てて立ちあがる。しどろもどろの答えになったが、まぁ間違いではない。
もちろん男としては、初対面なのだが――。
「で、俺はお近づきの印に戸津川のお母さんのお見舞いに来た、とこういうわけだ」
何とか体勢を立て直して入谷の疑惑の目から逃れると、鷹明は戸津川の肩に手を乗せて「病室に行こうぜ」と言う。戸津川も鷹明の思惑を理解したのか「はい。ありがとうございます」と素直に頭を下げた。
近くで見る戸津川の顔は、本当に女の子みたいにきれいだった。腰まであった長髪はさすがにバッサリと短くなっているが、それでもショートカットの女の子として充分通用する。
(うわぁマジ、やばいよ……俺)
何と言うか、偶然にも抱いてしまった肩もまるで細いのである。
「……で、何か用? アキ」
入谷の姿もみえなくなった頃、戸津川はそう言って悪戯っぽく笑った。
「まさか本当にお見舞いに来たわけでもないでしょう?」
「……」
お前に会いたくて来た、というわけにもいかず鷹明は自分の頬をポリポリと掻いた。
「なんつーか、その……昨日の話、もうちょっと詳しく聞きたいと思ってさ」
でまかせで言った鷹明の言葉を本気にして、戸津川は肩をすくめてみせた。
「アレクの説明は難しいからね」
でもその前に、と戸津川は病室で足を止めプレートを指差した。プレートには『戸津川奈保美』とある。
「母さんに顔だけ見せていいかな」
もちろんだと鷹明はうなずく。何もお見舞いを邪魔しにきたわけじゃない。
柔らかな白を基調としたその病室には、戸津川の母親しかいなかった。いわゆる個室というやつだ。あまり余裕のない小さな空間ではあるが、ベッドの横の窓からは春の光が差し込んでいる。
「母さん、今日は学校の先輩と一緒に来たよ」
戸津川が優しく語り掛けるその先には、ベッドで静かに本を読んでいる女性がいた。
「直樹」
おそらくはいつもどおりの――穏やかな笑顔で、その人は戸津川を迎える。
そして背後にいる鷹明を見て、何かを感じ取ったかのように大きく目を開いた。
「まぁ珍しい……マザーサイドの方?」
「いや、こちらの人間だよ。最近、ストゥームザイムになったばかりなんだ」
あまりに自然な親子の会話に、鷹明だけが驚いている。
昨日、鷹明が体験した異常な世界も、この母子にとっては日常的だとでも言うのか。
鷹明の心中を察したように、読みかけの本を閉じて戸津川の母親は微笑んだ。
「じゃあ、色々と驚くことばかりで大変だったわね」
彼女のあまりにも穏やかな物言いに、鷹明はなぜか胸がじーんと熱くなる。
仕草や言葉、彼女を包む全体の雰囲気――優しいのだ、すべてが。これが母親のぬくもりとでも言うのか。
(いや。それは人によるよな)
自分の母親の、風呂上りの醜い姿を思い出してうんざりしながら、鷹明はひとりため息をついていた。
戸津川は慣れた手つきでタオルや着替えを片付けると、鷹明の方をちらりと見てから再び母親に視線を戻した。
「彼はまだ混乱してることも多いと思うんだ。だからもう少し、ストゥームザイムのことを説明してあげようと思って。ちょっと二人で屋上にでも行ってくるよ。またあとで顔出すからね、母さん」
戸津川の言葉に母親はうなずいた。そして鷹明を見ると、
「またいらして下さいね。色々と、話したいことがあるのよ」
と笑った。窓ガラスの光を背にした戸津川の母親は、まるでマリア様のようだと鷹明は思っていた。
「じゃあ誰も運命の子の姿を見たことがないってのか?」
病院の屋上では、まだ少し寒い春の風が洗濯された真っ白なシーツを躍らせている。
その白さに目を細めながら、鷹明は戸津川にそう聞いた。
「そうなるね。〝運命の子〟は、基本的に生まれたときから死ぬまで城の奥に閉じ込められて育つ。王宮のごく限られた人でないと顔もみることができないんだ。だから普通に探すのは大変なことだよ」
「……」
それは大変どころか、不可能な話ではないのか。鷹明は眉を寄せ、無言で戸津川を見る。その様子に、戸津川は首を振った。
「けどアレクの懸命の調査の結果、運命の子をさらった犯人と魔物を呼寄せて世界を破滅へと導いている人物が同一だと分かってきたんだ」
「それが『姿なき魔女』というわけか」
鷹明は、マザーサイドでもアレクの話を思い出していた。姿なき魔女――アレクの表情を一変させた名前である。
鷹明に言葉に、戸津川も黙ってうなずいた。
「あとは僕がその魔女と接触し、居場所を吐かせれば運命の子を探し出すのは何も難しいことじゃないし、そのまま殺せば魔物も消えるだろうというのがアレクの推測だ」
そこまで話して、戸津川はなぜが表情を曇らせた。それですべては解決するという明るい話題のはずなのに――理由を聞きたい気持ちもあったのだが、触れてはいけない領域のような気がして鷹明は慌てて話題を変える。
「そういえばナオ、じゃなくて戸津川は何でストゥームザイムに? まさかアレクの演技に騙されたわけじゃ」
保健室でのエッチなシーンが甦る。しかし、鷹明の予想に反して戸津川は不思議そうに小首をかしげただげだった。
「僕は、父親がストゥームザイムだったから自然と。それよりアレクの演技って何?」
ななななんでもないっ、と鷹明は大きく手を振った。あんな情けない罠に落ちたことなど、戸津川にだけは知られたくないわけで。
(……あとでアレクに口止めしとかなきゃな)
そんな心中の焦りを知ってか知らずか、戸津川はきょとんとしたまま、鷹明を見ている。純粋無垢そのもののような瞳を見ながら、鷹明はいたたまれず、ひとり地面を見て反省した。しかし、そんな鷹明の心に今さらながら引っかかった言葉があった。
「ん? 父親がストゥームサイムって」
「そうなんだ。三年前に亡くなったけどね。アレクの話によるとマザーサイドの魔物に殺されたらしい」
「あ、ひょっとしてアレクが言ってた予言の救世主?」
「ああ。だからこそ、僕は世界を救おうとした父の意思を継ぎたくて」
「……そっかー……」
戸津川は鷹明と違って、血統正しいサラブレッドなストゥームサイムというわけだ。男になってもちっとも変わらない、品のある凛とした横顔をちらりと盗み見したあと、鷹明は夕暮れ間近の空を見上げた。
「なんつーか、大変だったな。オヤジさんが居なくなっただけでもしんどいのに、その上世界を救うだなんて。母親の看病もしながらさ」
「……優しいね、アキは」
戸津川はそう言ってうつむいた。柔らかな髪が頬にかかる。
あんなに強くて堂々と立派に戦えるのに、こんな風にふと見せる表情はあまりにも儚くて寂しげで――鷹明の胸は急に苦しくなった。
間違いない。これは絶対に恋だ。
ナオとは何とも奇妙な出会いだったし、未だに男女のどちらに惚れているのか区別もつかないが、それでも。それでもこれは絶対に恋なのだ。
高鳴る胸を静めるかのように、鷹明はグッと目を閉じる。そして再びゆっくりと開いた視界には見事な夕焼けが広がっていた。
病院の屋上から見る空は、赤から紺へグラデーションで遥か彼方まで続いている。
「僕はこの世界とすべての人々を守りたい。心の底からそう思っている」
戸津川がふいにそう言った。見ると同じように夕焼けを見つめている。
「でも……ただ世界を守ることだけが本当の正義なんだろうか」
戸津川の謎めいた言葉の意味がよく分からず、鷹明はすぐに返事を返せなかった。
「……悩みとか、あるんだ」
遠慮気味に聞いてきた鷹明に、戸津川は我に返ったように顔を上げる。そして「大丈夫。何でもないよ」と明るく首を振った。
「それより学校の魔物退治、よろしく頼むね。アキには何かと迷惑をかけてしまうけど」
「いや俺は別に。迷惑とか、思ってないから」
アレクがいたら「嘘をつくな」と突っ込まれそうな発言だが、鷹明はいたって真剣だ。
突然知らされた世界の崩壊。変身という自分の中にある未知の能力。魔物。複雑な悩みを抱える同志――そして恋。
解決の糸口さえ掴めない複雑な想いに、鷹明は深いため息をついた。
総合部の新米マネージャー神崎巳子は、今日も泣きそうな顔で鷹明のいる2年8組のドアの前に立っている。
「き、今日こそは絶対、何かなんでも必ずっ、強引にでもっ、早瀬先輩にサインをしてもらわないと……!」
力強い単語を並べてはいるものの、握り締めた小さな拳はかすかに震えている。
もう一方の手には『次期部長確定書』が握られており、承認欄には鷹明の名前がすでに書かれていた。あとは本人直筆のサインさえもらえば、新部長成立なのである。
廊下側の窓からそっと覗くと、放課後の教室には人もまばらで、後ろから二番目の窓際に鷹明がだらしなく机に突っ伏している。
遠目から見る鷹明は非常にやる気のない姿なのだが、頭の中ではかなり画期的で偉大な決心をしているのだ。
(よーし! 俺はやるぞっ)
横向き視界のまま、鷹明は窓から春の空を見上げる。からりと晴れ渡った青空には雲ひとつなく、どこが世界の危機なのだと言いたくなる――だが。
(アレクや戸津川達の話が嘘だろうが本当だろうが、ナオとの接点は俺がストゥームザイムであることだけなんだ)
世界を救うなんて今でもピンとこないけれど、とりあえずは戸津川のために頑張りたい――それが正直な気持ちだった。
(戸津川っていうか、如いてはナオの為に!)
そこまで思って、鷹明はガバリと身を起した。
「俺は今日から頑張るぞー!」
「ひゃあ」
いつの間にか隣に立っていた巳子が驚いて両手を挙げる。
「あれ? いたの巳子」
「ははは、はい。今日こそ正式に部長になってもらおうと、生徒会に提出する書類をもらってきたんですぅ。だから」
だがしかし。テンションマックスの鷹明は、すでに巳子の話など聞いていない。自分の両手を広げてじっくりと見つめると、今度は拳を強く固めてみる。
不思議なことに力が漲っていくような感覚があった。その気になってみると、ヒーロー気分というのも意外に爽快なものである。
「俺の両肩にみんなの未来がかかってるんだ。頑張らないとなっ」
「? そ、そうですね……」
奇妙な行動の鷹明に戸惑いながら、巳子はそっと顔色を伺う。少し妙だが、昨日よりも部長になることには前向きなようだ。前向き過ぎな気もするが――。
巳子は、鷹明の気分が変わらないうちにとさっそくペンを握らせる。
「ここに早瀬先輩の名前を書いてください。あとは私が生徒会に提出しますので」
鷹明はペンを握らされてることにも気づかないで、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
(……でも本当に今の俺であんな化け物に勝てるのか?)
鷹明の胸に一抹の不安がよぎった。
「いや、だからこそ変身があるのか。ひとまずはアレクにでも方法を聞かないと」
「変身? 方法ならこの部分にサインをしてもらえれば、それでいいです」
「了解、了解って……ああ!」
気付いたときには遅かった。目の前で巳子が無邪気に微笑んでいる。
「ありがとうございますっ。これで新部長の決定ですぅ」
「……あれ?」
だんだんと状況が把握できてくると鷹明は、自分の犯した失敗に眉をしかめた。冗談ではない。自分はこれから世界を救う仕事をしなければならないのだ。部長などやっている場合ではない。
しばらく考えた末に、鷹明はある暴挙に出ることにした。大事に用紙を抱えている巳子に近づくと、
「こうしてやる!」
と用紙を奪い取り、開いている窓へと持っていった。そして巳子に向かってにっこりと笑うと、用紙を持っていた指先を離す。
「ああっダメですぅーっ」
涙目の巳子の静止も叶わず、『次期部長確定書』はひらりひらりと落ちていく。
「ひどいですぅーセンパイの馬鹿ぁぁぁ!」
泣きながら教室を飛び出した巳子の背中を見送りながら、鷹明はフンと鼻を鳴らした。
「俺は世界を救うのに忙しいっつーの」
魔物が出現するのは夜中になるだろうとアレクは言った。
本当はナオと一緒に真夜中の学校見回りをしたかったのだけれど、この世界で変身して魔物を倒せるのはアキだけだし、ナオにはマザーサイドでの魔物退治があるのでそういうわけにもいかない。
「私もアキに一通りのことを教えたら、別行動に入る。一人でもしっかり戦えるように早く慣れてくれ」
そういうアレクに、学生服姿で男ままの鷹明はうなずく。
鷹明がマザーサイドから少女の姿を呼び出せる時間は、無限ではない。
双方の世界の歪みや鷹明の体力を考慮しても一時間が限界であり、戦闘を挟むと更に短くなる可能性があった。
(必要なときに必要なだけってわけか……)
少女に変身して色んな楽しいことをしようと企んでいた鷹明にとっては、まったく残念な事実であるが、まぁ仕方がない。
また、マザーサイドの闇の生き物である魔物はこちらでは夜にしか姿を現すことができないらしい。
変身しなければ戦えない鷹明にとって、敵の出現が人気のない夜の学校に限定されるのは有難いことではあった。
しかし当然、夜の学校に潜入しての魔物退治になるわけであり――。
「本当にここであってるの? アレク」
夜中の理科室は、かなり薄気味悪かった。当然人影もなく、足元のバケツには割れたガラス管と、薄汚れたカーテンが黒い影を落としている。
(うー、不気味だなぁ……)
鷹明は、弱気に首をすくめる。別にマザーサイドの魔物じゃなくても、悪霊とかラリった不良とか、ともかく何か悪い奴らがいそうな雰囲気だ。
「とりあえず様子を」
見た目はただの上品なお姉さんなのだが、躊躇することなくズカズカと奥へと入っていくアレクに、意外にも〝男〟を感じて鷹明はひとり感心していた。しつこいようだが、外見はただの美人OLなのだ。
「ちょっと待ってくれよー」
鷹明も慌てて後を追う。サイドにあるグロテスクな標本は意識して見ないようにした。
「何も……いないようだけど?」
恐る恐る声を掛けた鷹明を、アレクは「シッ」と鋭く制した。
「……分かるか、アキ。左の奥――柱の辺りだ」
「……」
言われた辺りに目を凝らすと、淡い暗闇の中にかすかに渦のようなものが見える。
「何あれ?」
「闇のエネルギーが集中している」
「魔物ってこと?」
確かにこんなものが理科室にいたら、七不思議がいくつあっても足りないだろう。
突如、低い唸り声が響いた。応えるかのように闇の渦がその濃さを増していく。
「!」
見えない敵に、鷹明達は反射的に身構える。
「アキ、来るとしたらあの渦だ。目を離すなっ」
アレクの指示に緊張してうなずく。しかし、鷹明の腰は完全に引けていた。
(うう……こえーよー)
鷹明の思惑を見透かしたように、その声はさらに重低音でせまってくる。
次の瞬間。
闇の塊から糸のようなものが伸び、すごいスピードで放射線状に襲ってきた。
「わ!」
鷹明は何とか避けたものの、無様にしりもちをついてしまう。
これではマザーサイドで襲われたときと同じだ。ビビッたまま、何も出来ないなんて。
「アキ! 変身するんだっ」
アレクが叫んだ。鷹明は驚いて顔を上げる。
「言っただろう、奴はマザーサイドの生き物だ。このままでは何も攻撃できない!」
「そんな急に言うなよー」
「胸の石に指をあてて願いを込めるんだ。急げ!」
鷹明は慌てて、先ほどアレクから教えてもらった変身の言葉を思い出す。
「ええと……ストゥームザイムの名の元に。女神よ、加護と光のお力を。我、正義を為す……!」
果たしてこれで合っているのか? と不安になった瞬間、鷹明の指先から光があふれ出した。いや、違う。正確には光は胸の石から生まれていた。
膨大な量の光たちが、とめどなく溢れ出てくる。
それは、まるで意思を持った生き物のように鷹明を包み込んでいく。不思議な高揚感が鷹明の全身を駆け巡った。
「ス、スゲー!」
思わずつぶやく鷹明の様子を、アレクは少し遠くから満足げにうなずいて見守っている。やがて胸の石から放たれる光が鷹明の全身を満たし、その光の中に立つシルエットはすでに変化が始まっていた。
「……!」
体温が上昇していくような感覚を感じながら、鷹明には自分の身体が女になっていくのが分かる。心地よい波に身を任せるように鷹明は目を閉じた。
少女独特の細くしなやかな指先まで光のエネルギーが通っていくと、その先で光の一部がゆっくりと集まり、まばゆいばかりに煌く光の剣になってゆく。
「こ、これは!」
「ストゥームザイムの武器である『皓剣』だ。闇の魔物はそれでのみ斬ることができる。ただし、扱えるのもまたストゥームザイムのみ。気をつけろ」
手にした不思議な剣を見つめながら、アキはアレクの説明を聞く。光はやがて、波が引くように消えていった。
「変身完了と」
その中央には一人の美少女。アキは閉じていた瞳をゆっくりと開く。
「闇の魔物、覚悟!」
闇に響く少女の可憐な声。一まわり小さくなったボデイに、戦闘用のコスチュームがよく似合っている。
「変身したからにはこっちのモンだからな! この間みたいに無様な戦いはゴメンだぜ」
手にした皓剣を斜めにかざし、アキはそう叫んだ。
『グアアアアッ』
魔物は突然、天敵が現れたことに驚愕しているらしかった。怒りと恐怖の波動が、こちらまで伝わってくる。
しかし次の瞬間。
ゴォォォォォ!
ものすごい勢いで、魔物の中心に闇が集まっていく。巨大な渦は、貪欲に闇を吸収していった。そして。
中心部分に現れたのは――。
「何だよ、あれ……」
闇の魔物は、その姿を人間に変えていた。見た目は中学生ぐらいの生意気な少年のようである。しかしその肌や瞳は異様に黒く、暗黒の使者というイメージだ。
「大丈夫。あれは闇の魔物が我ら人間を模しただけの存在だ。正確には人間でなく生命ですらない」
アレクが説明する。大丈夫というのは『殺しても』という意味だろうか?
「新しいストゥームザイムのご登場っちゅーわけやな。これまた可愛い美少女やないかい。フィギアにして秋葉に持ってけば高く売れそうや」
闇の少年がにやりと笑う。いかにも禍禍しい魔物ならば鷹明も少しは闘いやすいが、こんな子供相手に剣を向けるのは――自慢じゃないが鷹明は、平和な日本でぬくぬくと育った平成生まれの子供なのである。人間の姿をした目前の少年は魔物だから殺せ、と急に言われてもやはり気が引ける。
(……しかもなぜか関西弁だし)
出てくる言葉も秋葉とかフィギアとか、随分とベビーサイドに精通しているらしい。
「アキ。騙されるな。あれは魔物の生み出した贋の少年だ」
「言ってくれるやないか、アレク。言っとくけど、我ら闇の魔物がベビーサイドでせっかく手にいれた自由や。せいぜい謳歌させてもらうで。両方の世界が滅びるまでな!」
闇の少年が軽く手を上げた。
それを合図に闇が蠢き、やがて巨大な熊のようなものが現れる。空気を切り裂く咆哮が学内に響き渡った。
「新人のお姉ちゃんや。たっぷり可愛がったり」
まるでヤクザの物言いで、少年は魔物に言い放つ。
闇の熊の真っ赤に燃える――実際に炎となって燃えているのだ――双眸と、常識ではありえない牙の凶悪さが、ダブルパンチでアキを襲う。
(に、逃げたい……俺は今、とてつもなく逃げたいぞ……!)
心の中で叫ぶが、もちろん状況はそれを許さない。
「アキ! 左へ回り込め。私が正面で敵の気を引くから、そのうちに近づくんだ」
指示と同時に走り出すアレク。反論する余地もなくアキも指示に従った。
「いいか。魔物は、ストゥームザイムであるアキにしか刺せない――頼むぞ」
正面に立つアレクは、自らをおとりにして魔物の気を逸らしている。サイドからじりじりと近づくアキの緊張は、すでに極限に達していた。
(うう……こっち向かないでくれよ?)
好都合なことに、魔物の目線は挑発するアレクへと注がれていた。魔物的にもアレクの方が倒しやすいと考えたのかもしれない。
それともストゥームザイムを嫌がる傾向があるのだろうか?
少年はそれらの動きを静かに見守っている。今のところ手出しするつもりはないようだ。
それを確認すると、アキは魔物を翻弄するようなアレクの動きとは逆に息を殺してゆっくりと距離を詰めていく。
あと一メートルというあたりまできた――アキはゆっくりと剣を振り上げる。
刹那。
「ガァァァ!」
怒号のような威嚇が、闇に沈む教室を襲った。恐怖に凍りついたアキを、魔物がさらに威嚇する。
ド派手な牙の奥から、滴り落ちるように燃える真っ赤な炎が見えた。
(どういう身体の構造してんだよっ……?)
魔物が牙を剥いた。今度は威嚇ではない。跳躍するとアキ目掛けて襲い掛かる――!
「!」
とっさに身をかわすが、いかんせん魔物がデカ過ぎる。闇に飲まれるように、アキの小さな身体は見えなくなった。
「アキ!」
アレクは叫んだが、アキの返事はない。
「あちゃ。もう殺ってもうたか? 勿体無かったかな。可愛い子ぉやったのに」
少年が素っ頓狂な声を上げる。
心配そうなアレクを笑うかのように、闇の魔物は不気味に蠢いた。
その時――。
闇の中央から幾筋もの光が立つ。同時に魔物の悲痛なわめき声が響いた。
逃げようともがく闇は、しかし何かに阻止されたかのように次々と光に飲まれていく。
さらに光は増えて、ついに魔物すらも消滅させた。
「……アキ!」
消えていく黒い霧の中から、剣を逆手に持ち、魔物に突き立てたままのポーズで呆然としているアキが浮かび上がる。
「なんやて?」
驚く少年に、アキは肩で息をしながら言った。
「おい、そこのちびくろ!」
「ち、ちびゆーな、ぼけっ」
「あんまり生意気なことばっかり言いってると、お前もこう言う目にあうぞ。何がたっぷり可愛がったるだ。お前みたいな中坊には十年早いんだよ」
「う、うるさいわい。今日のところは見逃したる。けどな、これで終わったと思うなよ」
あほ~、という言葉を残して、ちびくろは消え去った。
「……はぁ」
ホッとした様子のアキに、アレクが近寄ってくる。
「とにかく無事で良かった。初戦にしては上出来だ」
「怖かったー……」
やっと本調子に返ったアキの第一声は意外にも女の子らしくて、アレクは緊張した顔を思わず緩める。
「そんな感じでこれからも頑張ってくれ」
「ヤだよー。絶対ムリだってば」
「そうでもない。中々いい感じで戦えていたと思うぞ?」
泣きそうなアキの顔を見ながら、アレクは肩を軽く叩いた。
「!」
しかしその表情に再び緊張が走る。
「……残党がまだ校内にいるみたいだ。アキは二階へ行ってくれ。私は一階を廻る」
「ええ! 一人にしないでっ」
アレクの言葉に再び身の危険を感じて、アキはほとんど反射的にすがる。
しかし、ショックから立ち直れないままでいるアキを一人置いて、アレクはさっさと魔物を追いかけて立ち去った。
(マジかよー?)
一人ぼっちの教室から出て、アキはそっと長々と続く廊下を見る。アレクの姿はもうなかった。嫌
な雰囲気だ。妙に「シィィィン」としている。
理科室から伸びる廊下の突き当たり、L字型になっている踊り場あたりまで視線を走らせると、アキはほっと息をついた。
「何だよ、何もいないじゃん」
自分に言い聞かせるように、声に出して言ってみる。魔物はきっと、アレクが向かった一階の方だろう。
(でもアレクはトドメをさせない言ってたから……やっぱり俺が戦わなくちゃいけないのかー?)
ここまで連れてくるのだろうか? そう考えるとブルーになる。
その時だった。
「キャッ」
遠くで少女の小さな叫び声がした。アキは顔を上げる。しかし廊下には誰もいない。
「誰か、いる……?」
「キヤァァァー!」
アキの呼びかけを遮るように、再び少女の声がした。さっきより明確に耳に残る。
途端――廊下の突き当たりであるL字型の異方向から、少女の身体が投げ出されるのが見えた。
ドサッという音が響き、ついでアキの方に何かが回転しながら滑ってくる。
「!」
廊下の隅からアキのいる方向へと滑ってきたもの、それは眼鏡だった。しかも縁の華奢なデザインのフレームには見覚えがある。
「み……!」
巳子、と思わず名前を出しそうになってアキは口を押さえる。そうなのだ。
目の前で泣きそうな顔で震えている少女は、後輩の巳子に違いなかった。巳子はしばらく言葉もなく震えていたが、やがてプツリと糸が切れるように倒れると動かなくなった――気でも失ったのか。心配で駆け寄ろうとした瞬間、動く闇がアキの行く手を遮った。
「出たかバケモノ……!」
さっきの戦闘でアキを助けてくれたアレクはいない。
この最悪の状況に、しかし泣き言を言っているヒマはなさそうだ。不思議なことに「巳子を守らないと」という気持ちが、アキの気持ちを少しだけ強くさせていた。
励ますように、手に持った皓剣が輝きを増す。魔物は怯えるように身を縮めた。理科室にいた魔物よりも随分と小柄だ。
(これなら勝てるかも!)
じりじりと間合いをつめ、魔物を追い込んでいく。プレッシャーに耐えられなくなった魔物は大きく宙へと跳び、アキ目掛けて襲い掛かる。
しかし魔物の動きに慣れてきたアキは、驚くことなく冷静に魔物に狙いをつけると、そのまま思いっきり剣を振り切った。
「魔物め、覚悟しろ!」
魔物を切る瞬間に目を閉じてしまうのがいまいち素人くさいが、ともかく大きな水の塊を切るような奇妙な手ごたえがアキの手に伝った。ゆっくりと目を開ける。魔物は跡形もなく消えていた。
「やったぁ!」
思わず飛び跳ねて喜ぶ姿は、どう見てもただの可愛い女の子である。
「あ、喜んでいる場合じゃないっ」
アキは慌てて倒れている巳子に駆け寄る。意識を取り戻した巳子は、相当怖かったのだろう、それが見知らぬ少女であるにも関わらずほとんど反射的にしがみついてきた。
「だ、大丈夫?」
「ふえぇぇ怖かったですぅ」
「安心しろ……じゃなくてもう、大丈夫だと思うから、ね」
慌てて語調を女の子風に変える。
「でも、どうしてこんな時間に学校にいるの?」
腕の中で震える巳子に、アキは優しく尋ねる。メガネをしていない巳子は、涙の溜まった大きな瞳を上げて言った。
「あ、あの私。部活の先輩からサインをもらった大事な書類をなくしちゃって……探していたらこんな時間になっちゃって」
巳子の言葉にアキは思わず表情を固くした。
(それってまさか、俺の飛ばした書類じゃ……)
部長になりたくないばかりに窓から捨てたあの書類を、巳子は今まで一人で必死に探していたというのか?
(うーすまん巳子っ!)
その真面目さと健気さに、鷹明はギュッと抱きしめたくなる衝動に駆られたが、もちろんそんなことはできない。第一、今の巳子からすれば鷹明は別人の少女、アキなのだ。
自分のせいで怖い思いをさせてしまったという罪悪感を無理やり正義感に変えて、アキは心の中で叫ぶ。
(こうなりゃどんな魔物でもきやがれ! この子には絶対、指一本触れさせねぇからな……!)
「あ、あのー?」
遠慮気味に、巳子の声が背後から聞こえる。
「さっき魔物って言ってませんでしたか? 私、何だかパニクちゃってるから聞き間違いかもしれないんですけど」
「えっ、あ。あのー変なモノ見なかった?」
「見たような見なかったような……さっき私、一人で廊下を歩いていたら突然教室のカーテンが風で揺れて。きっと窓が開いていたんだと思うんですけど、なんか暗闇が動いたように見えてびっくりしちゃったんです。走り出した途端に足元の雑巾に気がつかなくて滑っちゃって――」
雑巾、アキは繰り返す。
どうやら直接襲われたわけではなく、巳子がはっきりと魔物を見たということでもなさそうだ。
巳子が倒れていた場所に目を向けると、確かにそこにはひしゃげた雑巾しかなかった。
「あの、魔物って何ですか? 思えばその格好も変かも」
パニックが収まった分、色々と冷静考えられるようになったのだろう。不思議そうな顔で巳子は小首をかしげている。アキは慌てて手を振った。
「ちょっと、学園祭の練習をね!」
「そっかー演劇部の方なんですねー。遅くまでお疲れ様ですぅ」
「そう! 実はそうなのよー、リアル且つハイテンションな演技力を養うため、日々こうして練習しているのですわっおほほほほ」
苦しい対応で何とか誤魔化すアキだったが、巳子は素直に感心している。そして、
「ありがとうございました」
と、丁寧にペコリと頭を下げる。
「どういたしまして。でももう、夜中の学校なんか来ちゃダメよ?」
そう言って、アキは座り込んだままだった巳子を立たせる。
こうしている間に魔物が来たらまた大変なことになるし、何よりアキの適当な嘘にボロが出る可能性もあった。
「早く校内から出て。そこまで送るから、ね」
巳子の腕を引っ張りながら、アキは急いで昇降口まで連れて行く。アレクは学校に結界を張っているといっていた。
(ということは学校さえでればとりあえず魔物は襲ってこないはず……)
夜も遅いので、出来るなら家まで巳子を送ってあげたい気持ちもあるが、魔物と戦えないアレクを置いたまま学校をあけるのも危険な気がした。
「あの、あの!」
出口付近で、巳子は突然歩みを止める。
「何?」
不思議そうに振り返ったアキを、じっと見上げる巳子。その瞳は何故か潤んでいる。
「今日は本当にありがとうございました。それで――帰る前にひとつだけ、お願いがあるんですけれど……いいですか」
そう言って、憧れの眼差しでキラキラとアキをみつめる。赤い薔薇が咲いたように頬を火照らせて、何かを言いよどむ巳子の唇を見ながら、アキの胸には嫌な予感がよぎった。決心するように一呼吸置くと、巳子は小さな声で言う。
「お姉さまって……呼んでいいですか?」
「へ?」
これで鷹明をめぐる恋愛関係図は、また一段とややこしくなりそうである。
初めての変身を経験した初戦の夜から、すでに一週間が経とうとしていた。
あれから鷹明は毎晩、学校のパトロールをしている。魔物は出る日と出ない日があり、最初の二、三回は一緒にまわってくれたアレクも、鷹明が戦いに慣れてくると「私には別の仕事がある」と姿を見せなくなっていた。
「ストゥームザイムの名の元に。女神よ加護と光のお力を。我、正義を為す!」
光が満ち、そして引いていく。いつものようにそこにはひとりの美少女が立っている。闇の魔物と健気に戦う光の救世主、アキだ。
「変身完了。魔物ちゃん、覚悟はいい?」
「ガァァァ!」
牙を剥いて襲い掛かる魔物。アキは素早く身をかわすと光の剣でなぎ払う。魔物は瞬時にして煙のように消え去った。
「ああ! また失敗や。アキ、お前って段々強ぉなっとるな」
「ちびくろに感心されてもな」
「ち、ちびゆーな! いつも言ってるやろ」
「じゃあクロしよっか?」
「犬みたいな名前勝手につけんなちゅーねん。今に見てろよ、もっとスゴイ魔物見せたるわっ。今日のところはさらば」
闇の少年――通称クロは、いつもどおり「あほ~」という捨て台詞を残して消える。
「やれやれ。クロちゃんてば出す魔物がワンパターンなんだよな。たまにはセクシー系お姉様的な敵と戦いたいもんだぜ」
「不謹慎な」
後ろで声がする。ひとりだとはかり思っていたアキは、びっくりして振り返った。
「王様?」
見覚えのある小さな女の子は、まさしくマザーサイドで見た王だった。
「なんでこんなとこにいるの? ってか、性別が変わってないんですけど」
アキの驚きぶりに、王は「失礼な」と頬を膨らませた。
「アキがきちんと仕事をこなしているか見に来たのだ。それから王族と運命の子は、DNAの構造上性別が変わることはない。アレクから説明は受けなかったのか?」
「知らないよ。王様は百歳超えてるってのは聞いたけど」
「……余計なことばかり」
王はそう言うと廊下の端に座る。アキも仕方なく隣に腰掛けた。
「戦闘時以外の変身はやめておけ。本体の細胞に負担をかける」
王の言葉にアキも「そうだった」と深紅の石に手を当て目を閉じる。シュンというかすかな音がして、アキは鷹明の姿に戻っていた。
「今宵で幾晩目になる?」
「ちょうど一週間かな。おかげ様で、魔物との戦いにも慣れましたって感じ」
「そのようだな。見る限りでは問題なく戦っている」
先ほどの魔物との戦いを見ていたのだろう、王はあっさりとそう言った。
「でもさ、こんなこといつまで続ければいいわけ? 毎晩遅くまで帰ってこないから親もうるさいし、来年になれば俺、受験生だぜ」
「世界が滅亡しれば受験すらなくなってしまうのだぞ」
それはそれでラッキーだな、と鷹明は思う。
「今、〝それはそれでラッキーだな〟と思っただろう?」
「な、何でわかんのっ?」
「それぐらい、顔を見ていれば分かる。大体、アキの思考回路は単純すぎるのだ」
「そりゃ悪かったねー」
王は少し笑って言った。
「変わったヤツだ。二十年前、我らの世界を救ってくれた救世主とは全然違う」
「ナオの父親のこと?」
「そう。あやつは世界を救うことに、全人生をなげうって必死に戦ってくれた。まさに正義の味方という印象だったぞ。ナオだってしっかりとその血は受け継いでおる」
王の言葉に、鷹明は肩をすくめる。
「残念だけど俺は筋金入りの超個人主義なの。人のためとか世界のためなんて言われても、全然ピンとこないよ。大体さ、核兵器だの温暖化だのってベビーサイドは常に滅亡の危機にあるんだぜ? そんな世界を背負って、いまさら世界滅亡を救えって頑張るヤツの気がしれないねぇー」
「でも今はこうして戦っているではないか」
「あう。それはそのー、さすがの俺でも非道じゃないし。人が困っていたら助けてあげたいとは普通に思うよ。アレクも王様も実際、何か困っていたみたいだし」
本心はただひたすらナオのためなのだが、正直に言うのもためらわれる。鷹明は当たらずも遠からずの発言に留めておくことにした。
「いい加減なやつだ」と怒られるのを覚悟していたが、意外にも王はしんみりと言った。
「それぐらい楽に考える生き方も良いかもしれんな」
「……」
「魔物という生き物は、決して自ら生まれない。人間の恨みや妬み、怒りや悲しみといった暗い感情によって呼び出される」
そう言って王は、つらいことでも思い出すように目を細める。
「もともと魔物はマザーサイドから消えてなくなることはない。しかし二十年前、魔物は王族の者によって爆発的に増えた。私の王位継承を阻む、義理姉の闇の感情が多くの魔物を誕生させたのだ。魔物は一気にマザーサイド全域に広がり、真の統治者である運命の子は心労のあまりに倒れそのまま帰らぬ人となった。誰もが世界の滅亡を覚悟していた……」
「だが予言の通り、ストゥームザイムが現れた、と」
「そうだ。古くから伝わるその予言を、信じているものは少なかった。いや、真剣に予言を信じて探し続けたのはアレクだけだったといっても良い」
「アレクが?」
「アレクは我が王族に仕えるもっとも近しき側近であり、運命の子の世話役でもある。当時はまだ幼い少年に過ぎなかったアレクは、真なる統治者が途絶えぬよう、病床の運命の子に次の継承者を指名させると、周囲の反対を押し切り危険を冒してベビーサイドへと向かったのだ」
鷹明の脳裏には、マザーサイドで見た生真面目な男のアレクが思い出される。保健室での女性版アレクは美しさも手伝い二十代に見えたが、男としては見た目、三十代ぐらいに見えたから、二十年前というと十数歳といったところか。
その頃まだ少女だったはずのナオの父親とともに、それからずっと魔物と戦ってきたのである。
「偉いねー」
素直に感心する。王も同じくうなずいた。しかし、その後に小さなため息をつく。
「だが、アレクはいささか思いつめ過ぎるところがある。いくら父親がストゥームザイムだったとはいえ、ナオはまだ肉親の死から癒えきっていないのだ。彼女はあのような性格だから弱音は吐かないが――つらい戦いに違いない。アキの貴重な学生生活を犠牲にしても、協力して欲しかった理由はそこにある」
「俺?」
「もちろん変身はアキだけの特殊能力であるし、学校内の魔物はアキにしか倒せないことに変わりはない。けれども、それ以上に、私としてはナオの負担を減らしたかった」
「……」
「正直に言おう。もしもアキという存在がベビーサイドで見つからず、本当にナオとアレクだけで今度のことを片付けなければならないのなら、我らは魔物をベビーサイドに侵入させない方法を取れる――両世界を結ぶ扉はひとつ、その扉を見張ればよいのだ。魔物がベビーサイドに出て行かないように」
「そっか! 待てよ、そしたら俺だって別に、学校内をうろうろ廻らなくても保健室で待機してりゃ――」
「ところがそうは上手くいかない。ベビーサイドに侵入した魔物は、その身を闇に隠し、気配を消すことができるのだ」
「なんで?」
「我らの世界、マザーサイドには夜がない。影がなく闇も存在しない。だから魔物はその身を上手く隠すことが出来ないのだ。しかしベビーサイドは違う」
「なるほど……だから魔物が出現するのはいつも夜なのか。やっぱり俺の仕事は楽にはならないわけだ」
「そういうことだ。しかし、アキのおかげでナオやアレクは、今度の犯人だと言われている〝姿なき魔女〟と〝運命の子〟の捜索に専念できる」
そう言って王は、賢そうな瞳を鷹明に向けた。幼い瞳だが妙に貫禄がある。
そう言えばさ、と鷹明は顔を上げる。
「その、姿なき魔女ってなんなの?」
その質問に、王は少し言いよどんだ。
「今回の魔物を呼び出している人物のことを、我々はそう呼んでいる。ナオの父親が殺されてから三年、我らは必死にマザーサイド全土を調べたが、それらしい人物を見つけることが出来なかった。我らの世界は非常に閉鎖的な密封社会だ。三年かかってみつからないということは通常、あり得ない。同じ頃〝運命の子〟の世話役であるアレクが血相を変えて私の元へきた。目の前で、〝運命の子〟が消えてしまったと」
「魔物を呼び出している人物と運命の子をさらった人物の共通点は「姿がみえない」ということか」
「そういうことだ」
そんな犯人を、アレクとナオは一体どうやって見つけるのだろう? 二人の口調では、すでに目星は付いているようだったが、これからどうやって解決していくのか見当もつかない。自分は一体、いつになれば平凡な高校生に戻れるのか――。
窓から見上げる夜空には、大きな月がひとつ。関係ないよ、とばかり照り輝いている。
「うー……だりぃ」
最初にあった緊張感も取れ、戦闘にもだんだんと余裕の出てきた鷹明としては、逆に身体の疲労が身に重くのしかかる時期でもある。
特に今日は、昨日の王との長話のせいで、眠気は最高潮に達していた。
ほとんど睡眠補給に充てている授業が終わると鷹明は部室へ直行し、さらに放課後から夜までソファでひと休みすることにする。鷹明はぐったりとした身体をソファに横たえて、うとうとと眠りの世界をさ迷っていた。
「よしっと」
鷹明のすぐ横では、コンビニで新作のチョコ菓子をたくさん買い込んできた嘉穂が、嬉しそうにうなずいている。
「これで春の限定チョコは制覇したわね」
部員十数名の中堅規模を確保しているにも関わらず、スポーツ総合部の稼動員数はその半数にも満たない。
その上幽霊部員になるでもなく、日々こうして部室に溜まり好き放題している実態が現状なのである。
本日の部室には、ソファを占領して昼寝をしている鷹明とお菓子に夢中の嘉穂、そして奥の机で出欠簿の整理をしている巳子の三人がいた。
一週間前まで「新部長になってくださいよぉ」と鷹明を追い掛け回していた巳子であるが、最近なにやら様子がおかしい。
今も出欠簿の記帳を中断しシャープペンシルを頬に当てて、中途半端な距離の空間をぼんやりと見つめていたかと思うと、急に我に返ったように嘉穂の方に椅子を向けた。
「どう思います? 嘉穂センパイ」
思いつめた表情の巳子とは対照的に、嘉穂はきょとんと首をかしげた。
「……何の話だっけ?」
ひどぉい、と頬を膨らませると巳子は、車輪つきの椅子ごと嘉穂の方に近づいてくる。
「昨日、相談した話ですぅ。助けてもらったお礼を言おうと、その憧れの人に会いに演劇部に行ったら、そんな部員はいないって言われちゃって……」
「ああ、夜中の学校で巳子を助けてくれたって女の子?」
夢現の中、聞くとはなしに聞いていた鷹明は、二人の会話にソファからずり落ちそうになる。
(おいおいおい! なんだそりゃ?)
とりあえずたぬき寝入りで聞き耳を立ててみる。
「他の学校じゃないの? うちの演劇部と合同制作しているとか助っ人にきているとか」
「そう思って探してみたんですけど」
収穫なしなんです、と巳子はしょぼんと頭を下げる。
(巳子のやつ、部長の件で俺を追い掛け回さなくなったと安心してたら、かわりにアキを追いかけていたのかー)
どちらも本人には間違いないのだが、アキの場合は事情が事情だけに再び会うことだけは避けたい。しかし巳子は、鷹明と違ってとても辛抱強い頑張り屋さんなのである。今後もあきらめずアキを見つけるまで探し続ける可能性は非常に高かった。
(まいったなー……近いうちにアレクにでも相談すっか)
今悩んでもしょうがないとばかりに寝直すことを決めた鷹明の横で、嘉穂が嬉しそうにチョコを並べている。
「う~ん、どれから試そうかなぁ? どれもおいしそ!」
「センパーイ! 私の話ちゃんと聞いてますぅ?」
能天気な嘉穂に、巳子が不服そうに頬を膨らませている。
「まぁそんなにかりかりしなくても、ね。一緒にお菓子食べよー」
「……ありがとうございます」
まだ不満そうだが、とりあえずチョコを受ける巳子。嘉穂は、男女ともに人気のある花のような可愛い笑顔で微笑むと、
「簡単だよ、巳子ちゃん」
と言った。そして自分の口の中にもチョコを入れる。
「?」
「簡単にその憧れの人に会える方法、教えてあげよっか?」
もうひとつチョコをつまみながら、嘉穂は意味深に指を立てた。
(……)
なんとなく嫌な予感がして、鷹明は再び身を固くして聞き耳を立てている。もちろん、そんなことには全く気がつかない二人は会話を続けている。
「そ、そんな方法あるんですかっ?」
「張り込めばいいんだよ。同じ時間に同じ場所で」
「同じって……夜の学校に? でも一人じゃ怖いですよ~」
「大丈夫! なんなら私も一緒に行ってあげるから。そうと決まったら今夜の張り込みに向けてお弁当とか準備しなくちゃね」
「それはまずいだろっ!」
「キャッ」
突然ガバリを飛び起きた鷹明に、嘉穂も巳子もびっくりする。
「寝てたんじゃなかったんですか?」
「起きるなら起きるって言ってよね、もう!」
二人のクレームが飛ぶ。しかし鷹明も負けずに言い返した。
「だからそりゃマズイだろってば」
「な、なによ急に」
「夜の学校なんて忍び込んでもいいことないって。大体、巳子だって実際に危ない目に遭ったんだろ?」
「え、でも……」
「でもそれじゃあ、その女の子も危険だって教えてあげなくちゃ」
すかさず嘉穂が言う。まったくの正論である。
「いや……それは、だな」
「じゃあじゃあ、早瀬も一緒に来てよ。女の子ばかりじゃ怖いし」
いかにもグットアイデアだとでも言うように、嘉穂が提案した。巳子も「それがいいですね」と隣で大賛成している。
痛む頭を押さえながら、鷹明は深いため息をついた。事態は複雑かつ深刻である。闇の魔物との戦いに慣れてきたと思った矢先にこれだ。
しかも、夜の学校で嘉穂達と行動を共にすれば、目前で変身しなければならないことになる。鷹明としてはそれだけは避けたかった。
(でもそれじゃあアキに会えなかった巳子は納得しないか?)
鷹明の脳裏に、キラキラを輝く瞳で「お姉様」と言っていた巳子の姿が浮かぶ。
「……サイアクだ」
ピクニック気分ではしゃいでいる二人をみながら、鷹明はガシガシと頭を掻いて一人、宙を仰いだ。
理科室前の廊下の隅――まるで冬の椋鳥のように、三人の女子が座り込んでいる。嘉穂に巳子、そして嘉穂に無理矢理引っ張られてきた入谷である。
相変わらずの不機嫌面の入谷に、憧れの人との再会に胸トキメかせている巳子、そして能天気に楽しんでいる嘉穂を、少し離れた場所から盗み見しながら鷹明は何度目かのため息をついた。
「……一体、どうすればいいんだよ」
「こちらとしては、別に隠さなければならない理由はないが?」
後ろでアレクがあっさりとそう言う。
「そうはいかねぇよ。アレクはあっちの世界の人だから分かんないだろうけど、世の中、俺みたく柔軟な性格と高い順応性を持ち合わせた人間ばかりじゃないんだぜ?」
「アキの能力も高まってきたし、彼女達を魔物からは十分守れるだろう」
アレクの言葉に、鷹明は「冗談じゃない」と顔をしかめて見せた。
「目の前でクラスメイトの男が女の子に変身してみろ。大パニックもいいとこだねっ」
それに女装変態野郎と思われてもヤだし、と鷹明は付け加える。どうやらそっちが本音らしい。
「個人的な理由で困っているなら、個人で解決するんだな」
アレクは冷たくそう言い放った。埒があかないと判断した鷹明は、説得モードからお願いモードに切り替える。
「そんな冷たいこと言うなよー。仲間だろ、俺達。俺もアレクが仲間だと思ってるから毎晩毎晩、宿題返上でこんなに頑張ってるんだぜ? アレクがそんな態度だと俺もやる気なくなっちゃうよなぁ!」
「宿題は、以前からずっと返上しているようだが」
「……」
仕方がない、とアレクは首を振る。
「今日だけはナオと私で学校内を見張ろう。だが前にも言ったように魔物と戦えるのはアキだけだ。危険な状況になったらすぐに知らせるから、その時は潔く変身すること」
厳しい顔のアレクに、鷹明は胸の前で軽く両手を合わせて言った。
「サンキュー! 助かる。あとはこっちでなんとか納得してみるよ」
「……まぁ、心配しなくても今宵、魔物は出ないだろう」
「? 何でそんなこと分かるの?」
不思議そうに聞いた鷹明に、アレクは少し戸惑ったように言った。
「気配で、わかる……だろう」
慣れてくるとそういうモンかねー、と鷹明は感心した。
「あれ早瀬じゃないのー?」
背後で嘉穂の甲高い声が響く。振り向くと、鷹明を発見した三人がこちらを見ている。
「センパーイ! 遅刻ですよぉ」
見つかったか、と顔をしかめる鷹明。そのままジェスチャーでアレクに「よろしく頼みます」と伝えると、意を決したように「悪ぃ悪ぃ」と三人娘の方へと向かった。
アレクは複雑そうな瞳で鷹明の背中を見送ると、小さなため息をつく。
「魔物はでない、か……」
そのつぶやきを、当然ながら鷹明は聞くことはなかった。
「なぁ。もう帰ろうぜ。誰もいないって。巳子は夢でも見たんだよ」
ほとんど頼み込むような鷹明に、嘉穂は「ヤだ」と短く首を振った。
「帰るって。さっき来たばっかりじゃないですかぁ?」
「ホントだよ、早瀬の根性なしー! あ、ひょっとして怖いのー? 学校の怪談話大会してあげよっか」
キャアキャアと楽しげにはしゃぐ嘉穂を見ながら「そうじゃなくてだなぁ」と鷹明は頭を抱える。
来るはずのない少女を待ってすでに一時間が過ぎようとしていた。
巳子と嘉穂はまったく帰る気配がない。というか、恐ろしいことに徹夜でも出来そうな夜食の量である。
「入谷からもなんとか言ってやってくれよー」
「……可愛い後輩の頼みだ。気の済むまで頑張ればいい」
無表情のまま、入谷はそう言って長い髪をかきあげた。
「……優しいんだな、女の子には」
その優しさの半分でも校内の男性に向ければ、入谷は間違いなく校内ナンバーワンの人気者になれるだろうに、とどうでもいいことを考える鷹明である。
「それにしても巳子も困った奴だよな。どうせ晩熟なら男に惚れろっての」
「わ、私はそんなつもりで会いたいわけじゃないんですぅ! ただもう一度ちゃんとお礼が言いたくて」
鷹明の言葉に、巳子が顔を真っ赤にして抗議する。これには嘉穂も加わった。
「ホント失礼ねー。世の中の人間みんなが、早瀬みたいに下心だけで生きている発情アニマルじゃないの。憧れとか友情とか〝好き〟って気持ちは、男女問わず沢山あるんだからねっ」
「発情アニマルってお前……」
ものすごい表現だな、と感心しつつ、鷹明は嘉穂の言葉に妙に納得していた。
(そっか……〝好き〟って気持ちにも色々あるんだよな。俺がナオとか戸津川に対して抱いている感情もきっと)
憧れや友情であってくれ、と思う鷹明である。そうすれは話は一気に分かりやすくなるし、鷹明がこんなに悩む必要もないのだ。だが。
戸津川はともかく、本当にナオに抱く気持ちは恋愛ではないというのか? 命の恩人であるナオへの気持ちは憧れなのか。二人の間にあるのは友情? 鷹明の脳裏には、ナオの流れる黒髪や清しい瞳が浮かんでは消える。いや違う。
自分は確かにナオのことが好きだ。できることならこの手で――。
「……抱きしめたいっ……!」
思わず拳を握り締める鷹明に、嘉穂が不思議そうな顔で首をかしげる。
「? 何か言った?」
「いや、何でもない。何でもない……ちょっと俺、そこらへんブラブラしてくる」
鷹明はそういうと一人立ち上がった。
「散歩ですか?」
巳子が不思議そうに見上げる。
魔物が出現することも頭をかすめたが、ここはアレクの言葉を信じることにした。
「こんなとこにじっと座ってたらおしり冷えちゃうぜ。あ、でも三人娘はちゃんとここに居ろよ?
ひょっとしたら噂のヒロインが登場するかもしれないし」
「早瀬先輩は会えなくていいんですか?」
「巳子の話じゃすっごい可愛い子らしいよ」
「興味ないね」
バッサリそう言い捨てた鷹明は「ちょっとカッコイイかも」と自分でうっとりしている。悲しい哉、男にとって〝可愛い〟という単語に、こんなにもクールでいられる瞬間などほとんどないのである。そんな鷹明に入谷が冷たい視線を送る。
「……ふん」
下らなそうに鼻を鳴らす。隣では嘉穂が大きな目をさらに大きくして驚いていた。
「へぇ~早瀬にしては珍しい……ってか、あやしー…」
ほっといてくれ、と鷹明は三人を残して歩き出す。「珍しい」というのは、まさしく〝ほっといてくれ〟であるが、「あやしー」の方は、かなり図星なので内心焦っていた。
三人が座り込んでいる廊下を曲がったところで、クロとばったり会う。
「な!」
「あ~あ。可愛いアキちゃんに比べてお前は、全然冴えへん男やの。ホンマ同一人物とは思われんわ」
「なんでお前がここにいるんだよ? アレクによると、今日は魔物は出ないって言ってたのに」
慌てて三人の安否を確認しようとする鷹明に、クロは肩をすくめた。
「アレクの言葉に間違いない。面白んないけどな、今日は悪さはせぇへん。そういう命令が出てん」
「誰から?」
「言うわけやろ、どあほ」
「……じゃあ、なんでお前がいるんだよ?」
鷹明の問いに、クロは何故か真っ赤な顔でうつむいた。
「?」
「あの、あんなぁ……お前が今日連れてきた三人、メッチャ可愛いなぁ! 特に真ん中で嬉しそうにお菓子食べている、あのちょっとポチャとした胸のデカイ子ぉ」
嫌な予感が、鷹明の脳裏をかすめる。
「あの子、名前なんていうん?」
「ひょっとして嘉穂のことか?」
「カホって言うんや。可愛い名前やなぁ……彼氏おるんかな」
幸せそうに顔をほころばせたクロはしかし、急に塞ぎこんだように座り込んだ。
「せやけど俺、人間ちゃうし。ってか魔物やし。上手くいくわけないねんな。せやけどな、メッチャ好きやねんっ」
「……頼むからこれ以上、俺のまわりの恋愛相関図をややこしくしないでくれ」
「?」
「いや、こっちの話。ま、いいんんじゃねぇの? 本当に大好きな相手なら関係ないって嘉穂も前に言ってたし」
「ホンマか!」
鷹明の言葉に、忽ち元気を取り戻したクロは明るい顔で立ちあがる。
果たして嘉穂に、魔物相手までの許容範囲はあるのかどうかは疑問であるが――同じ恋する男として、妙に友情を感じてしまう鷹明である。
「機会があれば俺から紹介しておいてやるよ。嘉穂とは近所だし幼馴染だし」
「感謝する! あ、でも魔物とストゥームザイムの戦いは別問題やからな」
「はいはい。だから今夜のところは大人しく消えてくれ。こんな場面三人に見られたら、また即興で嘘をつかないといけないし。そんなの面倒だし」
「分かった」
今日はいやに素直なクロである。
「じゃあな、よろしく頼んだで。あほ」
いつもとは違う、親しみを込めた「あほ」である。闇に消えるクロを見送りながら、鷹明はため息をついた。
理科室のすぐ横にある階段を下りて、一階の廊下へ出る。昨日は満月だった月も、今日はほんの少し欠けている。
(クロの言うと通り、魔物のいる感じはしないな)
保健室の前に差しかかった。中からかすかに声がする。アレクと戸津川に違いなかった。一気に嬉しくなって、鷹明はドアに近づく。
「……!」
しかし、その足が止まった。反射的に身を潜め、その声の主を確かめるためにドアに耳を寄せる。
「そんな、バカな」
鷹明は呆然とつぶやいた。中からは確かに聞き覚えのある声が聞こえてくる。
ひとりは確かにアレクだ。そしてもう一人。それは戸津川に似ているが、違う人物だった。そうだ。忘れもしない、あのガラス細工の鈴のような声。
(ナオ……)
わけが分からない。ナオに変身能力はないはずだ。ここはれっきとしたベビーサイド。ここにナオが居るわけがない。
(どういうことだよ? でもこの声は確かに)
咄嗟に身を潜めた鷹明は、勇気を出してドアの隙間からそっと中を伺う。月の明かりだけを受けた薄暗い保健室には、アレクともう一人――確かにナオが立っていた。
「……!」
鷹明の驚きをよそに、二人は深刻そうな顔で話し合っている。
「ナオが決心しなければいけない」
アレクが静かにそう言い、ナオはその端正な顔を悲しげに伏せる。二人の様子は明らかにおかしかった。
「なにをためらっている? 姿なき魔女はあいつだ。お前が息の根を止めなければ確実に世界は終わるのだぞ。アキだって文句を言いながらも毎日必死に戦っている。私としても、アキをいつまで騙し通せるかかわからない」
「分かっている……でも」
鷹明の胸が高鳴っていく。喉に強い渇きを感じていた。騙すって何だ? ナオとアレクは何かを隠しているのか。
「騙しているのはアキだけでない。王もまた、真実には気付いておられず、運命の子の継承者は未だ行方不明のままと思っておられる。アキだけならともかく、王に対して偽らなければならないのは心苦しい」
「……アレクには迷惑ばかりをかけているね」
震えるナオの小さな肩を、アレクはそっと抱き寄せた。
「すまない、きつく言い過ぎた。私のこといい。ナオに協力することが私の努めであり願いだ。けれども申し訳ないという思う気持ちがあるのなら、ナオは一刻も早く世界を救いアキに平凡な高校生活を返してやれ。今のアキを危険に晒しているのは、ナオなのだから」
長い沈黙があって、ナオの「ごめん」という泣き声がポツリを聞こえてくる。
寄り添いあうシルエットを直視することが出来ず、鷹明は目線を保健室から外すとグラグラする頭を抱え込んだ。
(一体、何がどうなってんだよ……っ?)
血液が逆流しているような衝撃が、鷹明を襲う。冷たくなった指先がしびれ、心臓音だけが異常に体内で響いている。
混乱した頭を落ち着かせる為に、目を閉じてゆっくりと大きく息をついてみる。
(聞き違いの見間違い……いや、いっそ夢であればいいのに)
祈るような気持ちで、もう一度だけ覗き見たドアの向こうには、確かにアレクに肩を抱かれたナオがいた。
本当ならばマザーサイドという異世界でしか見ることの出来ないはずの姿で、一目惚れした可憐な横顔もそのままに。
ナオはこちらの世界、鷹明のすぐ側にいる。
にも関わらず、鷹明にとって今の彼女はあまりにも遠く、手の届かない場所にいる気がした。
(何だよ……どうなってんだ? ややこし過ぎて誰にどうやって裏切られているのかもわかんねぇ……)
先ほどのクロとの平和な会話など、鷹明の頭の中ではすでに過去の彼方だ。それほどの深刻な衝撃だった。
ショックな心を抱えたまま鷹明が三人の元に戻ると、彼女達は同じ場所で大人しく座って待っていた。ただし、鷹明の足音に気付いて顔を上げたのは入谷だけだ。
「未成年なんですからっ」という巳子の強い要望で、皆ノンアルコールのビールを飲んでいたはずなのだが、なぜか巳子と嘉穂は酔っ払いよろしく肩を寄せ合って仲良く眠りこけている。
「アルコール入っていないのに、よくこんなに酔っ払えるなぁ」
湿った声に気付かれないよう鷹明は努めておどけように言い、幸せそうにすやすやと眠る二人を見下ろして、まだ空いていないビールを手に取って隣に座る。
「眠ったのは、単にお子様体質だからだろ。もう十一時過ぎているし」
腕時計をちらりと見ながら、入谷が答える。そして少し間を置いてからこう言った。
「……なんかあったのか?」
「え?」
「ひどい顔してる。まるで」
入谷は鷹明の方を見ると、心配というより冷静に分析しているように目を細めた。
「失恋でもしたみたいだ」
「……」
女の直感というヤツだろうか。その鋭さに鷹明は内心で舌を巻いていた。
「なんつーか失恋すら出来ない状況だよ。何を信じて良いのやら……俺、好きだったヤツに騙されてたのかもしんなくてさ。愛だの恋だの語る前に、人間不信になちゃいそー」
泣きそうな感情をかき混ぜたくてわざと明るく言ったのに、あまり効果はなかった。
仕方がないので、手にしたノンアルコールビールを不自然な空気ごと喉に流し込む。
格好つけてみたけれどひとつも美味しくなかった。やはりドリンクはコーラがいい。
「彼氏とかさ、作らないの入谷は? 入谷だったらすぐに出来るだろうに」
普通に聞いたら、おもいっきり殴られそうな質問だ。
それでも鷹明の口から自然とついて出たのは、先ほどのショックと夜の妙なテンションのせいかもしれない。人生、ちょっと自棄になっているという感覚もあった。
「……今はまだ、付き合うということに対して疑問がある」
少しの沈黙を置いて、意外にも入谷は真剣に答えてくれた。
「疑問?」
「基本的に男の愛情を信用していない。その人間を深く知ろうともせず、外見だけで可愛いとか好きだとか簡単に言ってる気がするから」
入谷の言葉には、鷹明もけっこう思い当たるふしがある。大体男という生き物は、地球上の半数以上の女の子のことは好きなのだ。
(それにしても)
鷹明は改めて入谷を見た。彼女が恋愛に対して、そんな風に考えているとは思わなかった。なんというか、美人は美人なりの苦悩があるのだ。
「俺も人のことは言えないくらいフラフラと色んな女の子に気があるけどさ」
空になった缶を横に置いて、鷹明は両手を顔の前で組むとビールで冷たくなった手を温める。春とは言え、夜の校舎は結構寒かった。
「でも、男だって本気で好きになったら違うと思うぜ? 〝可愛いなぁ〟とかそういうプラスの感情よりも、どっちかっていうと「ヤバイ」みたいな、マイナスの危険信号が出るみたいな……真剣な恋ほど面倒なもんだし。そういう意味では人生の障害だよ、恋なんてさ」
「人生の障害か」
面白そうに入谷が繰り返す。
「そうそう。なんつーかその瞬間、心で警告音がなったんだよ。気をつけろ、目の前にいるこの人間はこれからスムーズに生きてきた自分の人生に困難をもたらすぞ、みたいな。かっこよく言うとラブハザードってやつだな」
「……ラブ・ハザード」
入谷と話しながら、鷹明はナオとの出会いを思い出していた。確かにあのとき、自分の胸には警戒音は鳴り響いていた。
平凡だった自分の人生は、まさにナオとの出会いで変わっていったのだ。世界の滅亡云々は、鷹明にとっていまいちリアリティーがなかったし、こんなややこしい仕事、アレクや王の頼みだけでは引き受けなかったかもしれない。
そう、すべてはナオのためだったのだ。なのに――。
「さっきの話だけどさ」
入谷が言った。
「信じることに、正しい道とか間違っているとかないと思う。相手が好きなら、なおさら」
冷たい印象しかなかった入谷の横顔が、いつになく近くに感じる。
「騙されたとか信じられないとか傷つく前に、たとえ嘘をつかれていても「何か深い理由があるんだ」って思えること、その嘘すらも受け止める覚悟を持つこと……信じるってそういうことじゃないのか」
それは、鷹明にとって目の覚めるような言葉だった。
「私なら自分で確かめる。相手がどうして嘘をつかなければいけなかったのか。ちゃんと理由があるはず……本当に落ち込むのは、その理由を知ってからだ」
「……」
淡々と話す入谷の言葉が、自棄になっていた鷹明の気持ちに浸透していく気がした。
そうだ。今の今まで自分の気持ちに手一杯で相手まで気が廻らなかったが、傷ついて落ち込む前に、もう一度考え直すことが出来るはずだ。ナオにはきっと深い事情がある。
病院の屋上でも確かに悩んでいる様子だった。
「そうだよなー。一度好きになっちまったんだから、今さら騙されたとかどうだとか、損得考えて被害者意識もっても仕方ないか」
吐き出した息とともにそうつぶやく。
投げやりになっていた心が不思議なぐらい落ち着いてくる。
「そうだよ。本当に相手がどうしようもなく好きなら、どんなに傷ついても相手の為になることに全力を尽くすことしか出来ないはずだ」
「なんか、すげー理想だけどな。俺、入谷みたいに強くないし」
鷹明の言葉に、入谷は笑った。
「自分の想いに強い奴なんていないよ。でも恋愛のすべては理想から始まるんだろ、きっと」
そうだな、と鷹明は天を仰ぐ。
(俺に出来ることはナオの為に頑張ることだけ……おしっ、いっちょここは、いい男ぶってやったるかー!)
胸の痛みが完全に消えたわけではないが、ともかく前向きに決心しながら鷹明は、目の前の闇へと真っ直ぐに視線を向ける。
何故か変身していた戸津川、アレクの謎の言葉、そしてナオの苦悩――分からない。本当に分からないことばかりだ。
それでも闇の先に何かを探そうとして、鷹明はひとり目を凝らしていた。
その晩はアレクの予想どおり、魔物はまったく出現しなかった。
散々迷った末、鷹明は再び病院に来ていた。戸津川の母親に話を聞くためだ。
戸津川は今日、どうしても抜けられない剣道の試合があるらしく、病院で顔を合わすことはない。チャンスは今日しかなかった。
ちなみに巳子と嘉穂は、仲良く風邪を引いて学校を休んている。これに懲りてくれれば、鷹明も何の心配なく魔物退治に専念できるのだが。
昨夜は入谷の意外な応援もあって勢い込んでみたものの、具体的に何をどうすれば良いのか見当もつかない。鷹明の知っている情報が少な過ぎるのだ。
「このまま魔物倒すだけでは、ナオの悩みには近づけない気がするし」
とはいえ、やはりナオが秘密にしようとしていることを無理矢理聞くのは気が引けた。
アレクに聞こうかとも想ったが、なんせ相手は自分や王を騙しているのだ。そんな相手が素直に情報を与えてくれるとは思えなかった。
それにアレクは、
(恋敵かもしんないしっ!)
鷹明は一気に表情を険悪にさせる。
そういうわけで、消去法でいくと残ったのが戸津川の母親一人が残ったのだった。
「ナオのこと?」
「はい。ちょっとあいつ最近、何か悩んでるじゃないかと思って。ストゥームザイムとして魔物と戦うのもつらいことだろうし」
ベッドの上で午後の穏やかな光を背に受けながら、母親は「そうね」と言った。
「父を亡くしてからナオも色々と大変だと思う。でもね鷹明君。私が夫と出会ったとき、彼はすでにストゥームザイムとして生き方を受け入れていたわ。マザーサイドが闇で覆われ、魔物が日増しに増えていく中、あの人は世界のために必死に戦っていたの」
「……」
「ナオはあの人の息子よ。簡単に弱音を吐くような子じゃない」
母親であるからこそ言える、自信に満ちた顔だった。
「あの人が亡くなるまでの数年間、ナオは何度もマザーサイドへ一緒に行ってストゥームザイムとしての戦い方を学んできたの。だから今さら魔物との戦いが原因で、何かに悩むことはないわ」
父の死の三年前より前から、ナオはストゥームザイムとして世界を守っていたのだ。年齢からいってもまだ小学生だったはず――そしてその後も、父親の死を乗り越えて戦い続けている。
「……」
鷹明の心中を察したかのように、母親はにっこりを笑った。
「えらいでしょう? 親バカでしょうけど自慢の息子なのよ」
そしてかみ締めるようにもう一度「本当に、自慢の息子」と言った。
「その、おばさんは今回も王家の誰かが魔物を呼んだと?」
鷹明の言葉に、母親は首を横に振った。
「……分からないわ。犯人はベビーサイドにまで魔物を呼び込めるほど強い執念を持った人間かもしれないし、あるいはまったく別の要因で魔物は現れている可能性だってある。魔物がベビーサイドにまで現れるなんて初めてのことなのだから」
〝姿なき魔女〟――鷹明はその言葉を思い出していた。
マザーサイドに存在せずに、魔物だけを呼び出せる人間。ナオとアレクは、恐らくその人物をすでに探し出している。しかし、それはナオが殺すのをためらう相手であり――。
(や、ややこし過ぎる……!)
早くも頭を抱え込む鷹明である。元々複雑な事柄は苦手なのだ。
(こんなことなら、デスノートとかライアーゲームとか、頭の良さそうな漫画でも読んでおくんだったなぁ……)
その発想自体がかなりのお馬鹿さんだということを、もちろん鷹明は気付かない。
「早瀬君、と言ったかしら。あなた優しくていい子ね。あなたのお母さんはどんな人なの?」
「どんなって……平凡スよ。最近ブクブク太ってきて、それはメチャクチャ食うからなんスけど、本人だけが「なんで太っちゃうんだろうねぇ。体質だからあきらめないとダメかしら」って。どう考えてもただの食いすぎ運動不足だろって、家族の誰もが突っ込んでます」
鷹明として決してウケを狙ったわけではなくただ真実を述べたつもりだったが、ナオの母親は面白そうに笑ってくれた。
「きっと賑やかなご家族なんでしょうね。鷹明君も、お母さんのことそんなに遠慮なく言えるってことは、心から信頼して愛している証拠よ」
「そうかなぁ?」
「そうよ。私の家族はダメね。あの子は私に気を使ってばかり。母親失格だわ」
「そんな。それは病気だし、父親もストゥームザイムだったこともあって、普通の家庭通りには行かないだろうけど。俺こそうらやましいですよ、ナオが。こんなに優しくてきれいな人が母親なんて」
鷹明の言葉に、母親は弱々しく微笑んだだけだった。そして。
窓の方に視線を向けたまま、ぽつりと言った。
「鷹明君。本当は私に息子なんていないの」
鷹明は一瞬、その言葉を聞き逃す。母親が何を言ったのか理解できなかった。聞き返そうと顔を上げる。
「……おばさん?」
窓の外を見たまま、母親は泣いていた。頬にツッと涙が伝わって落るのが見える。
「私はね、もともと身体が弱くて子供を産めないのよ。だからナオは……直樹は……」
そこまで言うと、母親は自分の膝に顔をうずめて肩を震わせる。
鷹明は耳を疑うしかなかった。今、この人はなんて言った――?
「子供じゃ、ないって……?」
「それでもね。それでもあの子は私を〝母さん〟と呼んでくれたの。呼んで、くれたのよ」
覆った手の奥から涙が流れ落ちる。
鷹明には、かける言葉が見つからない。混乱した頭のまま、鷹明は呆然と立ちすくんだ。
(どういうことだよ? ああ、もう! 昨日から頭ン中ゴチャゴチャだ)
知れば知るほど、分からないことが増えていく一体、自分の周りで何が起こっているのか。不吉な予感にめまいがしそうだ。
鷹明君、と母親は泣きながら言った。
「お願い、あの子を助けてあげて……お願い」
「助けるって……でも、俺何をしたらいいか」
鷹明の脳裏に、ナオの悲しげな横顔が浮かぶ。黒い瞳、流れる髪――。
(ナオ、お前は一体誰なんだよ?)
その時だった。
鷹明は厳しい表情で顔を上げる。覚えのある気配がした。
「鷹明、君?」
「ちょっと俺……後でまた、来ますっ」
泣いている母親一人を置いていくのは気が引けたが、それでも気配が本物ならば一刻を争う事態である。
不思議そうに見送る患者や看護婦の間をすり抜けて、一気に廊下を走り抜ける。
一階の突き当たりの奥、胸騒ぎはそこに向かっていくにつれて強くなった。
夜の学校で何度も体験した独特の気配――これは。
「嘘だろ……? なんで魔物が、病院に」
緊張で乾いた喉を鳴らして、鷹明は「霊安室」と書かれたプレートを見上げる。間違いない。魔物はこの中にいる。
そっとあけたドアの向こうは真っ暗だった。
霊安室あるが、幸い現段階では使用されていないらしく、何もない空間が広がっている。
ただ、その部屋はとても暗かった。電気が消えているとかそういうレベルではなく、不自然なほどに暗過ぎる。目を凝らすと、鷹明のすぐそばで看護師がひとり倒れていた。
「……入谷?」
見覚えのあるその顔に驚きながら、鷹明は入谷を揺り起こす。恐怖で失神した後だったのか、入谷はすぐに意識を取り戻した。
同時に、鷹明の胸へとすがりつく。日頃とは全く違う入谷の怯えように、鷹明は本当に魔物が院にいるのだと改めて確信する。あり得ない話だと言っている場合でもなさそうだ。
「ここにいるのは入谷だけか? 他には?」
「大丈夫、一人。掃除してたら急に電気が消えて……それで闇が、動いた」
そこまで言うと、入谷はぎゅっと指先に力を入れた。肩先が震えている。
「入谷。ここは俺が何とかするから騒がずにここから出るんだ。その後も何もなかったようにしていろ」
「でも、そんな……!」
驚いたように入谷が言う。事情が分からない入谷に、今の状況を説明している時間はないだろう。鷹明は焦る心を抑えて、祈るように言い聞かせた。
「大丈夫。俺を信じて」
しっかりと目をみてそう伝える。まだ何か言いたそうな入谷の唇はしかし、そこで止まった。意を決したようにうなずく入谷をドアの出口まで送り、鷹明は「待たせたな」とゆっくりと振り返る。
部屋の隅でうずくまっている闇の怪物に向かって――。
「学校内だけの約束だろ? 出る場所、間違えてんじゃねぇよ」
闇が中心に集まり、クロが現れる。いつになく厳しい表情だ。
「すまんな。けど状況が変わった。俺らの主からの命令や。何が何でもお前を消さなあかん」
「お前らの主って」
「俺ら闇を生み出した人間や。その人がおれらのすべてなんやっ」
どこか悲痛な決意で、クロは左手を上げる。魔物を出現させる気だ。
「!」
地響きに似た低音が、空気を震わせた。渦を巻きながら、闇が一点に集中していく。
「くそっ。仕方ないか」
説得をあきらめた鷹明は、誰も来ないように内側から鍵を掛けると胸に埋め込まれた赤い石に指を置く。この一週間で何度も体験した変身だ。
「ストゥームザイムの名の元に! 女神よっ加護と光のお力を――我、正義を為す!」
光があふれる。輝く粒子は密閉された部屋を満たし、魔物の存在をより明確にする。
大きな黒い塊が一気に膨らみ、変身したアキを覆うように立ちはだかる。アキは素早く下がり魔物との距離を保つと、光の剣をかざした。
触手を伸ばす闇の手が一瞬、怯えたように引き下がる。だが次の瞬間、魔物は逆に襲い掛かってきた。
「!」
反射的に魔物を剣で払う。手ごたえはあった。
光の剣によって引き裂かれた闇は、曲線を描きながら真っ二つにされる。普通ならばそれですべて終わるはずだった。
しかし。
「何っ!」
両サイドに分かれた魔物は、それぞれを大きく膨張させ再びアキに襲い掛かってきたのである。
挟み込まれるような形で、アキは二対の魔物と対峙する。身を反転させ、わずかの差で攻撃をかわす。
「くそ!」
弱点である心臓の赤い炎を探す。アキの心理を知ってか、二つの魔物は今までにないほどのスピードで宙を回転し始めた。混ざり合いながらまた分裂して、鷹明へと伸ばされる何十もの触手は、不吉な牙のように止まることなく伸ばされる。
必死に魔物を追うアキの視線が止まった。闇の奥に赤い流線が見える。
剣を構える手に力が入る。――だがしかし。
気をとられた一瞬の隙をついて、背後からもう一体の魔物がアキを襲った。アキの華奢な身体を飲み込む勢いで闇は覆いかぶさる。
「……っ!」
幾たびの魔物との戦いの中で、アキは初めて敵と接触した。病院の魔物は、それほど学校にいた魔物とは力の差があるのだ。
(これが魔物の思念……闇の、感情……!)
強い憎しみが、深い悲しみと恨みが混沌とした空間を満たしている。
静かだ。なにも音はしない。だが、鼓膜がびりびりと震える感覚はあった。耳ではなく、身体全体でものすごい悲鳴を聞いているような不快感がアキを包む。
(違う……静かなんじゃない……!)
あまりの音量に聴覚が飽和しているのだ。
力尽きたようにがっくりと膝をつくアキ。光は急速にその勢いを失っていく。
死ぬかも、とアキは漠然と思った。少し前にも同じ気持ちになった。マザーサイドでのことだ。
(あのときはナオが助けてくれたんだよな……)
凛とした声。真っ直ぐな瞳、柔らかな手の感触――思い出すだけで、今でも胸が震える。ナオの為に頑張ろうと思った。けれどナオには謎が多すぎて――。
〝信じるってさ、そういうことなんじゃないのか〟
入谷の声が聞こえる。そうだよな、とアキはその言葉をかみ締めていた。
「負けたく、ねぇな」
このまま負けたくない。この戦いも、ナオへの気持ちも。もう一度立ち上がり、剣をかざすのだ。ナオの為に、ナオを信じて――。
「……」
しかしアキの意思に反して、実際には指先がかすかに動いただけだった。それっきり、アキは全く動かなくなっていた。
再び闇はゆっくりと、その部屋を満たしていく。




