世界がどうなろうが高校生は恋をする!
プロローグ
そのとき彼は恋に落ちた。
早瀬鷹明――たまゆらゆえに美しい、高ニの春に起こった出来事である。
その恋の始まりは甘くも切なくもなく、まさに「落ちましたぁっ!」という激しい衝撃を以って鷹明というちっぽけな存在に狂暴な牙を立てた。
マシュマロのように真っ白く柔らかい状態のまま一時停止をしている思考に対し、身体を巡る血流だけが通常の二倍速で流れその中心では心臓が鋭利なリズムで強く鳴り響く。
「ストゥームザイムの名のもとに」
唖然としている彼の耳に、少女の可憐な声が響く。その外見に違うことなき美声だ。
鷹明と同じか、それより少し下ぐらいの年齢だろうか。小柄だがバランスの良い肢体に、くびれた腰まで届く艶やかで真っ直ぐな黒髪。
いかなる邪心をも寄せつけぬ凛とした横顔は一見どこにも隙がなく思えるが、その桜色の唇だけがとこか頼りなげな印象を与えている。それが彼女の魅力をいっそう際立たせていた。
形の良い唇から、さらに言葉が零れ落ちる。
「……滅びよ!」
刹那――激しい爆風がその場を襲った。間髪入れず、彼女は手にした剣を魔物に振りかざした。よどんだ空気が鮮やかに切り裂かれ、きらめく閃光が走る。
次の瞬間。
彼女の剣は、容赦なく獲物の心臓部を捕らえていた。
「ギャァァァァアッ!」
背筋が凍りつくような悲鳴が響き渡り魔物は恐ろしい断末魔だけを残して、跡形もなく消え去る。それはほんの数分前まで、鷹明を殺そうとしていた魔物の哀れな終焉だった。
そう――。
彼、早瀬鷹明は絶体絶命の危機、生きるか死ぬか瀬戸際に、こともあろうことか一目惚れの恋をしてしまったのである。
「無事か? どこか怪我は?」
振り返った少女に、鷹明は上手く言葉を返せなかった。当然と言えば当然である。
彼の名誉の為に――特に守るべき名誉も何もないのだが――言っておくと、この場に至るまでの彼を取り巻く状況はかなりハードなものだった。
平凡な高校生が保健室からいきなり異世界に飛ばされ、救世主に祭り上げられた直後に魔物に襲われて死にかけたのだから、平常心でいろと言う方が難しい。
その上彼はたった今、人生最大級の、我を失うほど激しい恋に落ちたのだ。
爆発寸前の胸の高鳴りは、魔物への恐怖から来るものなのか、それとも恋のトキメキというやつなのか、パニック状態の彼には判断が出来ない。
少女はあざやかに剣を鞘に戻すと鷹明の方へと近づいて来た。小さな顔と静かな黒い瞳が、心配げに鷹明を覗き込む。
「本当に……大丈夫?」
無様に座り込んだまま石像のように動かない鷹明を、魔物に襲われたショックからだと思っている彼女の優しい瞳。その眼差しに鷹明の心臓は再び高鳴っていく。
(な、何か言わないと……っ!)
気持ちは焦るが、まだ上手く言葉が出てこない。
「……」
あとから冷静になって考えると、そのとき鷹明は「怖かったぁ」と号泣して抱きついても良かったのだ。その少女もきっと優しく抱きしめ、慰めてくれたに違いない。なぜなら――。
なぜならこの世界で彼、早瀬鷹明は。正真正銘、フツーの。
女の子、だったのだから。
第一話『恋の花咲くコトもある!』
時間を少し前に戻そう。
その上で、この複雑な状況を説明していく必要がある。平凡な高校生・早瀬鷹明がなぜ、異世界に飛ばさ
れ魔物に殺されそうになったか、そしてどうして女の子の身体になってしまったのか。
一体何が原因で、何が問題だったのか――それは保健室のベッドの上で始まったのだった。
穏やかな日差しが舞い込む、午後の保健室である。
鷹明君、と見覚えのない年上美人はゆっくりと彼の名前を呼んだ。キレイな足を色っぽく組んで、保健室のベッドに腰掛けていた鷹明の隣に座る。
そして呆然と立ってた鷹明の制服のネクタイをグッと引っ張ると、耳元でこうささやいたのである。
「さぁ脱いで。お願い」
低めのセクシーヴォイスが鷹明の耳をくすぐらせる。高二の春にこんなおめでたい体験をするなど、なんとも羨ましい――いやいや好ましくないことである。ともかく、そのとき鷹明は「人生はなんて素晴らしいんだっ。これぞ幸福の絶頂期!」と思っていた。
人生はそんなに甘くないことを学ぶには彼はまだ、若過ぎた。
……もう少しだけ、話を前に戻そう。
一体、鷹明の行動の何がいけなかったのか、理解できたような気がするのだが。
この事件の発端は、おそらく放課後だ。
その日、鷹明は彼なりに結構深刻なトラブル――今となっては、なんという平凡で平和に満ちた悩みなのかと泣けてくる――を抱えていた。
「部長候補だとぉ!?」
まともな部活動もせず、散らかった部室で今週号分の様々な週間少年誌を読み漁っていた鷹明は、驚いて顔を上げる。
「……すすす、すみませぇん」
出欠簿のファイルで半分顔を隠しながら、後輩マネージャーの神崎巳子は泣きそうな声でペコリと頭を下げた。
「でもでもでも! 三年の先輩方は一、二年で適当に決めろって言われるし。二年の先輩方は、みんな部長になりたくない一心で汚い裏工作ばっかりされて……このままでは部活動にも支障をきたすという話になって結局、一年の推薦で決めようってことになったんですぅ……」
「で、それが俺ってわけ?」
思いっきり嫌そうな顔の鷹明に、巳子は黙ってうなずいた。部員の中でも人一倍気弱な彼女は、すでにメガネの奥の瞳を潤ませている。
(おいおい、泣かれてもなぁ……)
もちろんこの事態はマネージャーの責任ではない。部員全体のやる気のなさと、それに由来するまとまりのなさが、一気にしわ寄せとなって現れた結果なのだ。
鷹明が所属する総合部は、校内でもかなり有名な存在である。
その内容は実に特殊で、当初は〝あらゆる方面に適応できる人間を育成しよう〟という狙いがあったらしいが、現実はそんなに立派なものではない。
結局、あまり熱心に部活に打ち込めない中途半端な連中ばかりが集まってきた。
もちろん鷹明も例外ではなく、夏に水泳、冬にはスキーと、真っ当に頑張っている他の部活に寄生しては、『てきとー』をモットーに、限られた青春の日々を『てきとー』に謳歌しているのだ。
そんな部活なので、もちろん鷹明は今まで機嫌よく楽しんできたのだが――。
「なんで俺が部長候補なんだよ?」
他にも二年はいるだろー、という彼のクレームに巳子は真剣な瞳で首を振ると、メガネを押し上げて説明に入った。
「田中先輩は医学部受験だからのん気なことやってられないし、大和先輩は助っ人していたサッカー部でいつの間にかレギュラーになっちゃったし……あと柳先輩は、生徒会長になって水泳の時間を男女一緒にするって選挙の準備に大忙しなんです」
「……相変わらずバカだねー」
「ですからここはひとつ、先輩が」
「待て待て待て!」
話の流れで部長にさせらそうになった鷹明は、慌てて他の候補を探す。
「えっと。あと出てない二年は、と……そうだ! 中村がいるじゃねーか」
「あ、それは無理です。中村先輩の彼女、すごーく怖い人で部活始めたってだけで「会う時間が減った」ってクラブハウスに怒鳴り込んできたんですから。部長なんかやらせたら、私達みんな殺されますよぅ」
「……」
「そろそろ諦めてください。ね? 私達一年でよく考えたんです。進路も未定、彼女もいない、他にやることもなさそうな早瀬先輩が一番手頃……じゃなくて適任かな、と」
「……ホント、先輩想いの一年で涙が出るぜ」
彼のささやかな嫌味に気づくことなく、巳子は「ありがとうございますぅ」と真面目に頭を下げた。
(にしても、やっかいだな)
可愛い後輩を困らせたくはないが、鷹明だって部長などという面倒くさい仕事は絶対、死んでもごめんである。だいだい彼は、『人の為』とか『みんなを代表して』という立場が一番嫌いなのだ。
そう、鷹明にはずっと以前から密かに決心していることがある。
(俺は、俺は誰が何と言おうとこれからもずっと、ひっそりこっそりと自分のためだけに生きてくんだもんねっ!)
何ともセコイ上に意味のない決心であるが、本人はいたって真剣である。その為にも。
(何とか逃げる方法を考えないとなー……)
頭を悩ませながら鷹明は部室の汚いソファに体重をかけ、天井を仰いだ。
その時である。
「はーやせー」
部室のドアがあいて、少し鼻にかかったような丸い声が聞こえてきた。
このとろんとしたハニーボイスの主は、鷹明のクラスメイト兼部活仲間の菜波嘉穂に違いない。視線を投げると思った通りの当人ともう一人、嘉穂の後ろに入谷あさき(いりやあさき)も立っていた。
いつもニコニコと愛想の良い嘉穂とは対照的に、あさきの顔には『何にも全然面白くない』とでも言いたげな仏頂面が張り付いている。
「あ、また巳子ちゃんいぢめてるー! ダメよ? 後輩は大事にしなきゃ」
嘉穂が巳子の頭をよしよしながら、鷹明をにらみつけた。といっても、身長が百五十に満たない嘉穂は、後輩の巳子よりも少しだけ低い位置から頭を撫ぜている……イマイチ頼りにならなそうな助け舟だが、巳子は「センパーイ」と泣きついた。
鷹明はそんな二人に「いじめられてるのは俺だっつーの」と不服そうに言い返す。
「それより、嘉穂も入谷も今日は部活サボリか?」
「うん。昨日までバレー部の助っ人やってたんだけどね。入院してた子が戻って人数が足りるようになったからって円満退職しちゃった。今からあさきと、駅前のカフェに春限定のイチゴパフェ食べに行くんだ」
「入谷は大丈夫だとしても、嘉穂はますますブタになっちまうな」
鷹明の言葉に、嘉穂は「いじわるー」と頬を膨らませた。
元来のベビーフェイスに似合わず、妙に色っぽい瞳とでっかい胸が彼女を校内美人リストに押し上げたが、その大半はマニアックなファンによるものだと鷹明はふんでいる。
鷹明的には、正統派美少女・入谷あさき(いりやあさき)の方に軍配が上っているのだが、彼女の場合、得点が入るのはあくまでルックスのみだ。
性格的にはいささか……というか割と、いや、相当問題があった。
ほんの数ヶ月前にも、バスケ部のエースがあさきに告って見事玉砕――と、ここまではよくある話なのだが断り文句がものすごかったらしく、明るく爽やかだった人気者の彼がしばらく登校拒否になり、出てきた時には背後霊が憑いていたという噂がある。あさきに何を言われたのか誰もが聞きたがったが、そのたびに彼は涙目で遠くを見ながら、
「高嶺の花に手を伸ばしたら、その花に突き落とされたという感じだ……」
とだけ答えたのだという。それ以上は誰も――怖くて聞いていない。
そんな入谷も、正反対のへらへらとした性格の嘉穂とは何かしら気の合うところがあるらしく、一緒にいる場面が多かった。
二人とも総合部の花形部員であり、特にあさきはスポーツ万能なので、県大会が近づくとどこの部活からでも熱心な助っ人のお誘いが来るらしい。嘉穂はその明るく人懐っこい性格から、他校とのイベントや試合の応援に引っ張りだこなのである。
役立たずの男性部員達とはエライ違いなのだ。しかし女子部員はその分暗黙の権力も持っており、部長候補などというやっかいな役どころは自動的に男子に廻ってくるのだ。
「で、何? 二人揃ってパフェよりも甘い鷹明君のマスクを拝みにきたわけだ」
ソファーに寝転びながら鷹明が言った。すかさず、あさきの涼しげな目元から冷た過ぎる視線が鷹明を直撃する。
「バカか、おのれは」
「……」
今日始めて鷹明ととったコミュミケーションがこれだ。無口なくせに、言うことだけは言ってくれるものである。鷹明はため息をついて嘉穂に助けを求める視線を投げた。
しかし、さすがの嘉穂もあきれ顔であさきの意見に同意する。
「まったくおめでたい思考だよねぇ早瀬って。頭で砂ねずみでも飼ってんの?」
「何だよ、砂ねずみって?」
「前に従姉妹のお姉ちゃんが飼ってたんだけど、何でもかんでも齧って粉々にしちゃうの。天然のシュレッダーだね、あれは」
「……それと俺の頭に何の関係が」
「わかんない。けどなんとなくサ」
と可愛らしく肩をすくめてみせると、
「そうそう。あのね、保健室の前で女の人が鷹明を呼んでるの。帰ろうとしてたのに声掛けられちゃった。早瀬鷹明って人いますか、だってー」
と言った。生まれつき栗毛色のサラサラボブを揺らして首をかしげる。
「二十歳ぐらいのお姉さんだったよ。見たことないし、学校の人じゃないかもー……はっ! ということはっ」
何を思いついたのか、嘉穂はひらめいたように顔を上げる。そして鷹明の背中をバンバンと叩いて言った。
「ダメじゃん、はやせー。いくら童貞捨てたいからってプロに手を出しちゃさぁ」
「なんだよそれ?」
「だってすごい美人のお姉さんだったもん。短めのスーツ、バシッと着こなしてさぁ」
「……美人なんだ?」
美人という発言に、鷹明の目つきが変わる。
「そりゃもうバツグン! 早瀬なんて金つまなきゃ無理って感じィ?」
「だからって、なんでそういうオヤジくさい発想になるわけよ?」
鷹明はソファーからずり落ちそうになりながら、嘉穂を見上げる。
まったく清貧な高校生相手によくこういう発想が湧くものである。
嘉穂と鷹明は幼稚園からの知り合いだが、鷹明は未だに彼女の思考回路が全く読めないでいた。
「じゃあさぁ、ちゃんとした知り合いなのー?」
「いや……心当たりはゼロ。大丈夫なのかよ? 俺、そのお姉様に誘拐されちゃったりして」
ないない、と嘉穂が顔の前で手を振る。あさきも白けた顔で横を向いてしまった。巳子だけが「どうしましょう」と心配顔で鷹明を見ている――真面目な子のだ。
「美人のお姉さんかー……自慢じゃないが、まったく心当たりがないな」
鷹明はソファーに座りなおして考え込む。
兄弟は弟一人だったし、親戚一同、年配ばかりで年頃の女の子などいない。バイト先は運輸業だから恰幅の良いおじさんだらけだ。
つまりは現時点で彼の人生に、年上の美人お姉さんなどと知り合う機会は皆無なのである。
(……待てよ、ひょっとして)
鷹明はふと瞳を上げて、意味ありげに眉を寄せた。
「いつまでも童貞の俺を心配して、未来の俺が送り込んでくれたとか」
「ドラえもんか、おのれは」
あさきの鋭い突っ込みが飛ぶ。なんというか、ハリセンでも出てきそうな絶妙のタイミングである。
「下らないことウダウダ言ってないで早く会ってきな」
切り捨てるように入谷が言い、
「そうですね。早瀬先輩にわざわざ会いに来たのなら、待たせちゃ悪いですよ」
「早くしないと美人が帰っちゃうゾ」
と、巳子の真っ当な意見に嘉穂もこくこくとうなずいた。
三人に促されて、鷹明はしぶしぶ部室を出る。
春の日差しを受けた渡り廊下には、部活動に励む部員達の掛け声が響いていた。廊下の突き当たりから本校舎に入って右に進むと、用務員室と職員室があって、その隣が目指す保健室である。
(俺を待っている美人のお姉さん、ねぇ……)
午後の日が斜めに差し込む廊下を、鷹明はぼんやりと歩いていた。その先に、彼の人生を大きく変える出来事が待っているとも知らずに――。
「あなたが早瀬、鷹明くん……?」
保健室のドアにもたれ、前で腕を組みながら待っていた女性は、確かに美しかった。
涼しげな目元に真っ直ぐに腰まで伸びた黒髪。二十歳後半という感じの落ち着いた容姿で、マイクロミニからすらりと伸びた足が見事である。
「確かに、そういう名前ですけど……」
鷹明にはまったく見覚えがない。見覚えはないが――。
(わおー超ド級の美女っ! カンペキ! しかもモデル体型ってやつじゃないですかー)
理性をぶっ飛ばして見惚れてしまっている鷹明に、その美人はつかつかと歩み寄ってきた。
「思ったより早くに探し出せてよかったわ。時間がないの、急いで」
彼女の細い腕が、鷹明の手を掴む。「柔らかいにゃあ」などと余韻に浸る間もなく、結構な力で彼は引っ張られた。これには鷹明もさすがにビビる。
「ちょっと……全然話が見えないんですけど……っ! 急いでってどこに行くつもりなんですか!」
「人目につかないところよ。そうね、この保健室でいいわ」
「保健室? でも奈々子先生は?」
「今は留守。大丈夫、誰もいないから」
その言葉を聞いて、鷹明はひとまず安心する。とりあえず、怖いところに連れて行かれる心配も「男女不純異性行為よっ」と奈々子先生に怒られる心配もないようだ。
保健室には本当に誰もいなかった。もし鷹明が用心深い性格だったなら、一番奥のベッドで保健の奈々子先生がスヤスヤと眠らされていることに気付いたに違いない。だが、あいにく彼はそれほど注意深い人間ではなかった。
いや、鷹明の頭にある心配はひとつ。
誰もいない保健室に、男女が二人っきりという状況になるわけで――。
(教育上、よろしくない環境なんじゃないですかーこれは?)
しかし肝心の美人の女性は、そのようなことを気にする様子もなく「早く」と彼の手を引っ張った。
近くのベッドまで連れていき、区切りのカーテンを引いていく。白く揺れるカーテンの波を見ながら、鷹明は随分と早い展開に呆然と座っていた。
「あの、何か質問とかしたい気分なんですど?」
遠慮気味に言う鷹明の言葉を、しかし美女はきっぱりと切り捨てた。
「悪いけど説明している時間がないわ」
そして、振り向きざまにこう言ったのである。
「世界の崩壊が迫っているの!」
窓から舞い込む春の風が、鷹明達のいるベッドのカーテンをふわりと躍らせる。
「……はい?」
鷹明は間抜けな顔で聞き返した。世界の崩壊とは随分大げさな話である。いたって真剣な彼女のテンションを推し量るかのように、鷹明はポリポリと頬を掻いた。
「世界が、危ないんですか?」
まぁ厳密に言うと地球は、あらゆる面において崩壊の危機にさらされてはいるのだろうが、それでもクラブ部長ですら尻込みしている鷹明にとって、世界などまったく無関心の事柄である。
しかし、鷹明の反応とは対照的に、その女性はきっぱりと「そうよ」と言った。
「特別な存在のあなただけがこの世界を救うの。でも詳しい話はあとで、ね」
彼女は、真剣な面持ちで鷹明の隣に座る。
そういう流れで鷹明は今、保健室のベッド上で美人のお姉様に迫られているのである。
「脱いで……お願い」
甘い声に導かれるように、鷹明は自分の制服のシャツのボタンを外す。もちろん、鷹明は先ほどの「世界の崩壊」など、きれいさっぱり忘れていた。
とは言え、言い出した彼女もまた待ちきれないとでも言うように、彼のはだけた胸のど真ん中に柔らかい唇を当てていた。
鷹明の身体には、なんとも言えない感情がこみ上げてきて、胸が痛いほどだ。
せつなく痺れるような痛み。これが初体験の入り口なのか――。
(つーか……マジ、で……?)
ふいに鷹明の表情が変わった。
(マジで! マジでっ痛いんスけどっ!)
そこにはもう甘い表情はなかった。想像を絶する激痛に顔を歪ませる。
「イ、イタイ! 痛いってば、ちょっと!」
気づいた時はすでに、彼の胸は真っ赤に染まっていた。反射的に逃げようとしたが、鷹明の両腕はしっかりと掴まれいる。情けないことだが、お姉さんの力に完全に押さえ込まれている状態だ。
(こ、こんな展開……ありかーっ!)
彼女の唇の下で、痛みはさらに増していく。鷹明は恐怖で声も出くなっていた。
完全にパニックを起している鷹明の脳裏には、去年の夏にTVで見た『歌舞伎町・私がサド女王だ!』とか『怪異! 実在する吸血鬼』とかその辺りがちらつく。
だがこれは噛まれているような痛みではなく――。
(な、なに? 石みたいなのを埋め込まれている……っ?)
背筋がザワリと粟立つ。石が埋め込まれた胸の中央あたりが異常に熱を持っているのが分かった。胸の隙間から垣間見る彼女の顔は、気味が悪いほど真剣だ。
しかし彼を襲った怪奇現象はこれで終わりではなかった。
「この石の輝き、やはりストゥームザイム資格が……」
一旦、唇を離した女性はひとり眉を寄せてそう言った。
「一度マザーサイドに連れていかなくては、本来の姿には成らないということか」
お姉さんの唇から次々と奇妙な単語がこぼれ落ちるのを、鷹明はただ呆然と聞いていた。もちろん、押さえ込まれた体勢のままである。
(どうなっちゃうんだ、俺?)
あまりの展開に泣きそうになりながら、鷹明は救いを求めるように天を仰いだ。
――の途端。
「!」
鷹明が押し付けられていたベッドが、ふいに姿を変えたのである。
まるで鏡のように硬質化したかと思うと、ベッドはゆらりと不気味に揺らめいた。そしてさらに水のように変化をしていき――。
「わっ!」
鷹明は、現実、あり得ない空間へと落下していったのである。
抱き合いながらともに落ちていくお姉さんは、そこで初めて鷹明の顔を見た。上目遣いで美しく笑う。濡れたような瞳とあやしげな唇が色っぽかった。
(やっぱり美人だなぁ)
何とも間の抜けた感想ではあるが、ともかくそれが、鷹明が最後に描いた思考である。
次の瞬間、彼はあっさりと意識を手放していた。
人の声が聞こえる。どこか遠くで大勢の人間が話している声だ。それは、途切れることなくボソボソと流れ続けて――。
「目覚たか」
ぼんやりとした意識のまま、鷹明は視線だけを声のする方向へ向けた。落ちたときにうつ伏せに倒れたせいで、かなりの上目遣いになる。
目の前には一人の男が立っていた。先ほどの美女と同じぐらいの歳にみえる。
「……あんた誰?」
「さっきの女性のもうひとつの姿だ」
「は?」
「騙すようなことをして申し訳ない。だが」
生真面目に頭を下げる男の整った顔立ちを、鷹明はぼんやりと見ている。頭の中では、さっきまでの夢のような体験とその後の恐怖の展開が思い出されていた。
「警戒せずに胸を開かせて石を埋め込み、且つ、マザーサイドへの入り口である保健室のベッドへと導く最善の方法だと思ったのでな」
「……」
確かにそりゃ最善の方法だと鷹明は納得し、ため息をついた。
「紹介が遅れた。私はアレク、マザーサイドの王室秘書をしている」
「ア、レク? い…痛つ……」
起き上がると、落ちたときに打ったのか左の頭に激痛が走る。喉の調子もおかしかった。何かが引っかかっているのか、思ったような声が出ない。
さらに痛みを堪えつつ、辺りを見回すと――。
「どこだよ、ここ?」
まるで映画のセットのような平淡な印象の部屋である。全体的に現実感がなく、無機質な空間が近未来的な雰囲気を醸し出していた。
十畳ほどの広さがあり、中央には大理石のような柱が不規則的に数本、その奥には巨大な銀のカーテンが掛かっている。
(ひょっとしてここは日本じゃなくない……?)
混乱している鷹明の頭の中で、先ほどの大転落の感覚がよみがえる。思わずブルッと身体を震わせた。
(地球を貫通しそうな勢いで落ちたもんな。だったらここはブラジル辺りか?)
だが、アレクと名乗る男の答えは全く違っていた。
「ここは保健室だ。いや、保健室の別の形と言うのが正しいか」
「……は?」
「先ほども言ったように時間がない。続きは王の御前で説明しよう」
「は? 王って何」
鷹明の質問には答えず、アレクは黙って手招きをすると部屋の奥にある銀のカーテンの前に立たせた。
そして、改めて鷹明に言い聞かせる。
「ここはマザーサイドと呼ばれているもうひとつの現実世界」
彼の手でゆっくりと開かれるカーテン。その奥には、鷹明が想像することも出来ないの景色が広がっていた。
「我らの世界は鷹明の馴染みのある世界の生みの親とも言える――正確には受胎中だが。母子の関係と同じく、この二つの世界は同時に存在し、お互いに干渉しあってひとつの宇宙を支えているのだ」
距離にして三百メートル程、長い廊下と真っ直ぐに続く赤い絨毯。そのはるか彼方になだらかな階段があり、立派な玉座が見えた。
そこには王らしき人物が座っている。最近、また視力が下がってそろそろ裸眼ではキツくなってきている鷹明には、王の細かい表情までは分からないが、王は鷹明の方をじっと見ているような気がした。
いや、じっと見ているのは王だけではない。
鷹明と王をつなぐ道の両脇には、数千もの人々が立っていた。
彼らは皆、鷹明を見ていた。何かを期待しているような目、救いを求めるような視線。小さな子供の憧れの瞳や中には疑いの眼差しもある。
学校でもプライベートでも、おおよそ注目されることとは無縁の生活を送ってきた鷹明は、この異様な光景に完全に飲まれてしまった。
額の辺りに冷や汗を感じながら、彼らをそっと見渡す。そのまま天井へと視線を移した鷹明は、更に言葉を失っていた。
玉座へと続く、はるかな絨毯の赤い道と数千人の人々――そのすべてを巨大な半透明のドームが覆っているのである。
「前へ進まれよ」
背後から、アレクの小さな声がする。そして戸惑う鷹明の背中を押しながら、声高らかにこう言ったのである。
「かの人物こそが新たなるストゥームザイム! 我らの救世主なり」
アレクの言葉に、人々はいっせいにどよめいた。
「ちょ、ちょっと何の話だよ? 大体、ここはどこなんだよ?」
半ば強引に絨毯を歩かされながら、鷹明はアレクに詰め寄った。
「何度も言っているだろう、ここはマザーサイド。対して、お前達の住む世界はベビーサイドと呼ばれている。両世界は本来、同じ存在であるにも関わらず、決して交じり合うことはない。その扉を通れるのは邪悪なる闇の魔物とごくわずかの選ばれた人間だけ」
「じゃあここは、日本じゃないの?」
「……」
今までの説明を全く無視した、あまりにも間のぬけた質問にアレクはうんざりとした様子で首を振った。
「分けわかんねぇよ、悪いけど」
男の反応に鷹明はムッとして答える。いきなりこんな奇妙な場所に連れて来られて、難解な話を立て続けにしゃべられても、自分の知ったことではないのである。
「今はまだ理解しなくて良い。有りのままを受け入れることに専念するんだ」
「勝手なこと言うなよー」
そうしている間にも、王との距離はどんどん近づいてきた。
玉座があまりにも立派だったので気が付かなかったが、間近でみると王は幼かった。まだ十歳もいかないほどの、しかも小さな女の子である。
引きずるほどのマントと、油断するとすぐに瞼まで下がってくる王冠が重そうだ。
「まだガキじゃんか。本当にこいつが王なの?」
鷹明は、王に聞こえないようにアレクに耳打ちする。すぐに同じトーンで、アレクから返答が来た。
「外見に騙されるな、王族の寿命は長い。ああみえて御歳百歳を越えられている」
「……マジで?」
「そちが新たなる光の戦士、ストゥームザイムか」
そこへ幼い少女の声が混じる。話しかけたのは王だった。精一杯威厳をもって発言したつもりなのだろうが、鷹明にはただの小生意気なチビスケに見える。
「……」
「何か答えよ。アレク、この者は言葉が通じぬのか?」
「いいえ、そのようなことは」
慌ててアレクが言い、鷹明の背中を小突く。
「挨拶をしろ、挨拶を」
「挨拶ったって……どうも」
居心地悪そうに軽く手を上げる。王は不快そうに顔をしかめる。
「……アレク。このような頭の悪い人間に、世界を任せてよいのか?」
「残念ながら、ベビーサイドには他に適合者がおりません。ストゥームザイムの中でも、タイプ0(ゼロ)は稀ですゆえ」
「あのー俺を無視しながら、俺の話をしないでくれます?」
「しかしベビーサイドの魔物を一手に引き受ける重要な任務であるぞ?」
「私が監督として十分に指導致します」
「だぁぁぁぁ!」
王とアレクの会話に、鷹明は奇妙な雄叫びを上げて強引に割り込んだ。
「もういいから学校に帰してくれよ。ついでに例のお姉様も返してくれ。俺達、いいトコだったんだからなっ」
鷹明の発言に、二人は沈黙をもって返した。
また、二人の沈黙は周りにいる数千人もの沈黙でもあった。重苦しい空気が流れる。アレクは一息置くと、なだめるように鷹明に言った。
「いいか? あの女は私だ。騙されて石を埋め込まれたのがまだ分からんのか? 大体、お前みたいな冴えないガキを相手にする女性がいるわけないだろう」
「い、いい加減なことを! 大体、何で女が男になってるんだよ?」
「二つの世界の歪みが、体内のDNAに作用する。両者の世界が変わると、女性は男性に、男性はその逆へと必ず変化していしまうのだ」
「……?」
ついてケないよ、と拗ねる鷹明を相手にアレクは大きなため息をついた。
それを見ていた小さな王は「論より証拠という話か」とひとりごちると、近くの家来を呼ぶ。
「鏡をここへ」
は、という歯切れの良い返事を残して数人の家来が奥に消えた。
やがて、布で覆われた巨大な鏡が現れた。大の大人が、等身大で丸々2、3人は入る大きさである。
王は玉座から立ち上がると(チビなので正確には飛び降りた)鏡に掛けられた布に手をかける。
そして改めて姿勢を正すと、鷹明に向かって言った。
「いいか? 保健室で女性だったアレクの姿は、マザーサイドとベビーサイドの移動によって歪められた結果に過ぎない。そしてマザーザイドに戻ってきた今、本来の姿である男として、お前の前に立っているのだ」
そこで王は一旦言葉を切った。警戒している鷹明を手招きして、鏡の前に立たせる。
「同じように今のお前の姿も」
王の手によって、鏡の布がゆっくりと引かれる。
「……」
きっかり三秒。
鷹明は固まっていた。言葉もなく、息もしていなかった。
お姉様の誘惑に負けて胸が痛くなったことも、そのあと奈落の底に落ちたことも、奇妙な世界も難解な話も驚いたが、これ以上の驚愕はないだろう。
(間違いなく今日のトップサプライズだぜ……)
鷹明は息を飲む。
覗き込んだ全身鏡の中には、とても可愛らしい女の子が映っていたのである。
後ろに誰かいるのかと鷹明が振り返ると、その娘も振り返る。まじまじとみると同じように見返してきた。――間違いない。
「コレ俺?」
「少しは理解できたか」
アレクはそう言って、確かめるように少女の肩に手を置いた。
「!」
アレクの手の感覚を、鷹明は自分の肩で感じている。
鷹明は鏡の中の自分を見た。
歳は鷹明と同じぐらい。大きくて茶色い瞳。露出の高い服からはほっそりとした腕が伸びており、立派な胸はツンと健康そうに上を向いていた。
「……」
思わず手で、そのふくよかな胸を握り締める。手には何とも言えない柔らかさが残り、同時に胸には経験したことのない痛みが走った。
慌てて自分の胸から手を離すと、鷹明は再びマジマジと鏡の少女を見る。
「……幸せだが不幸だかわからない体験だ」
鏡を見たまま鷹明はつぶやく。さきほどから気になっていた喉の調子――その声も改めて聞くと全くの女の子の声なのである。
「少しは理解できたようだな」
と、王は満足気にうなずいた。そして、
「もう少し説明を進めたいのだが――そちの名前は何と言う?」
「鷹明」
「タ、カァアキ?」
王は言いにくそうに繰り返す。
「名前の呼び方についてだがタカアキは呼びにくい。もしよければアキとでも呼びたいのだが?」
言われた鷹明は黙ってうなずく。本当は、両親に付けてもらった大切な名前なので勝手に変えないで欲しいのだが、身体が女の子になってしまった今、それも無意味なクレームのようにも思えた。
「よろしい。アキは遺伝子学に明るいか?」
王の質問に、鷹明は無言で首を横に振った。遺伝子なんて、保健体育のHな授業でしかきいた記憶がない。
「じゃあ哲学はどうだ? プラトンの唱えたイデアの世界観ぐらいは習っただろ?」
「……知らない。習ったような気もするけどテスト前以外は興味ないし」
鷹明の答えに王は「やはりこいつ、アホだな」とため息をついた。一体どこから説明すればよいのか途方に暮れている。もちろん、途方に暮れているのは鷹明も同じだった。
「先ほどから何度も申しておるが、この世界がマザーサイド、そしてアキがこれまで普通に暮らしていた世界がベビーサイドと呼ばれているように、この世界とアキの世界は妊娠中の母子の関係に例えられる。ベビーサイドで一番近い発想をしたのが、ギリシャの哲学者プラトン。彼は理想の世界イデアの投影された世界として、アキのいる世界を表現した。古代の老人にしては、悪くない発想だ」
「で、なんで俺が女の子になるんだ?」
はっきり言って、今の鷹明には世界の説明などどうでもよかった。教えて欲しいのは、この不可解な胸のふくらみである。
「話を急ぐな。妊娠中の母親とその子供。本来なら二つの生命は、互いに共存し影響し合っているにも関わらず、決してひとつになることはない個々の存在だ。もちろん人間や魔物が行き来することなど不可能なはずだった」
「だった?」
「マザーサイドに異変が起きている――各地で魔物による被害が増え続け、さらにその影響はベビーサイドにも広がっている。これこそが世界崩壊への予兆なのだ」
ホウカイへのヨチョーねー、と鷹明は繰り返した。当然のことながらまったくピンときていない。
「だが、救う手立てがないわけではない」
王に代わって、アレクが話し始める。
「母なる世界が死するとき、己の御子の体内から光の戦士が現れるだろう。閉ざされた子宮を越え、光の力で闇を滅ぼす。その名をストゥームザイムという――マザーサイドに古くから伝わる予言だ」
アレクは反応を確かめるように、鷹明の顔を覗き込む。なんとなく嫌な予感がして、鷹明は顔をしかめた。
「……ひょっとしてそれが俺、とかじゃないよね?」
「正解だ」
眉を一ミリも動かさずアレクは言った。反対に、鷹明が大きく顔を歪める。
「ヤだよー、何で俺なんだよ? 大体、予言なんて嘘だって。ノストラダムスとかもビビッて損しただけだったじゃん」
鷹明の過剰な拒否反応に、王とアレクは互いに顔を見合わせた。
「残念ながらこの予言はすでに証明済みだ。あれは十数年前のこと。魔物にマザーサイドが侵されたとき、同じようにベビーサイドから一人の少女が現れた。彼女は闇の化身である魔物達を光の剣で倒し、我らの世界を救ったのだ」
「じゃあ今回もその人に頼めばいいだろ?」
「彼女は三年前に死んだ。そして、その頃から再び魔物がマザーサイドに現れ始めている。分かるだろう? 我らには新しいストゥームザイムが必要なのだ」
「……」
真剣な面持ちの王から視線を逸らして、鷹明はひとりため息をついた。
「だからって何で俺なのよ? 他にもいるでしょーが」
「確かに彼女の後継者として、すでに優秀なストゥームザイムが一人いるし、実際に彼女には動き始めてもらっている」
アレクはあっさりとそう言った。その言葉に一瞬表情を明るくした鷹明だったが、続くアレクの言葉に再び顔が曇る。
「しかしアキには別の仕事をお願いしたいのだ。恐るべきことに魔物はベビーサイドへの侵入も始めた。結界を張ったので、今はまだ学校内に止まっているが、やがてアキの世界をも食らい尽くすだろう」
「つまり学校内にいる魔物を退治しろと? 余計無理だよ、そんな」
「残念だがその仕事は絶対にそちにしか出来ないのだ。そのことについてはさらに説明がいるのだが……ここからは遺伝子学の分野だ」
いいか、と王は確認するかのように鷹明の瞳を覗き込んだ。
「アキの身体の誕生は、約三十億塩基にも及ぶ遺伝子暗号を有し通常『設計図』と呼ばれるヒト・ゲノムを両親から継承することから始まる。そして設計図に従って細胞を増やし、形成されていくのだ。この時、遺伝子の本体であるDNA――デオキシリボ核酸は本来、絶対に書き換わることはない」
「?」
「つまり、一度両親から受け継いだ設計図通りに作られた人間は、その造形を生涯変えることはできないということだ。猫の子は大きくなっても、決して虎にはなれないしライオンにもなれない。これは分かるだろう?」
「うん」
鷹明は初めて頷いた。いくら鷹明でも、それぐらいは分かるつもりだ。
「だが、奇跡に近い確率で設計図を白紙に戻せる能力を持って生まれる人間がいる。我々は『タイプ0(ゼロ)』と呼んでいるのだが」
「……まさか」
「そのまさかだ。アキこそが世に珍しき人間、タイプ0(ゼロ)なのだ。アキは瞬時にして早瀬鷹明という人間を消滅させ、そのリセットされた設計図に新たな人格を描くことができる非常に稀な人間――つまり」
「つまり?」
「アキは変身という形で以って、マザーサイドでの自分を呼び出せるということだ」
「……」
これは大変なことになってきたぞ、と鷹明は初めて思った。
変身ヒーローなぞ、ただでさえ非現実的な話なのに、さらに女の子に変身してしまうだなんて――ややこしくて頭がクラクラしそうである。
「学校内の現れる魔物はすべて、マザーサイドの生き物だ。ベビーサイドの生き物がいくら優秀でも傷ひとつつけられないだろう。アキだって男の姿のままで戦っても意味はない。だから『変身』が必要になる。我らの中でアキだけが、マザーサイドの姿を呼び出せる能力があるのだ。その深紅の石を使ってな」
「なるほど。でもなぁ、俺、忙しいし。何とかならないわけ? あ、そうだ。閉じちゃえばいいじゃん! 保健室にある二つの世界の扉をさ」
いかにもグットなアイデアだと言う様に、鷹明は人差し指を立ててみせた。しかし、王はさらに表情を厳しくさせて「無理だ」と短く言う。
「両世界を司る〝運命の子〟が殺され、継承者は行方不明なのだ。扉が閉じないといことは恐らく、次の〝運命の子〟の継承者はベビーサイドに存在するのだろうが、未だ発見できていない。だから扉を閉じることが出来ない」
「運命の子?」
「我らマザーサイドの統治者のことだ」
「統治者は王様じゃないの?」
「違う。私は実務的な統治を行っているだけだ。〝運命の子〟は我ら王族のような世襲制ではなく、先代の指名によって継承されていく。マザーサイドで生まれた子ならば、どんな子も十五歳で〝運命の子〟になり得るのだ。そしてその人間こそが、マザーザイドの真の統治者となる」
「で、その大切な継承者がいなくなったわけ?」
魔物は増えるわ、重要人物は消えるわで、そりゃえらい災難なことだと鷹明は他人事のように思う。だからといって「一緒に世界を救おう!」とはならないのが、鷹明の鷹明たる所以でもあった。
「気の毒だとは思うけど、俺には関係ないな」
鷹明のそんな様子に、王とアレクはため息をつきながら付け加える。
「いいか、アキ? マザーサイド、つまりはアキ達の世界の母体が滅びようとしている今、アキの世界も同じ運命にあるんだ。考えてみろ、母体が死ねばその胎児はどうなる?」
「うー…死ぬ、かな」
それこそが世界の滅亡を意味するのだが、鷹明にはダイレクトな危機感として響かない。事がデカ過ぎて実感が湧かないのだ。
「……アレク。本当にこいつ以外に頼る相手はいないのか」
「残念ながら。変身能力を有しているストゥームザイムは彼しかおりますまい」
頭が痛いとでも言うように、小さな王は首を振った。
「よいかアキ。世界の破滅を避けるために、アレクやもうひとりのストゥームザイムも必死に戦っている。実際、戦況は大局にきているのだ。今回の異常事態を引き起こした犯人である〝姿なき魔女〟の所在もつかめてきたし、〝運命の子〟の継承者はその〝姿なき魔女〟に囚われているとの情報もある。アキにお願いしたいのは、敵にトドメを刺すあとわずかの間だけ、ベビーサイドの安全を魔物から守って欲しいということ」
「……でもなぁ」
「不安も多いと思う。だが私もできるだけの協力はするつもりだ」
アレクは強い口調でそう言った。そして、
「姿なき魔女……運命の子を連れ去り、この世界に魔物を呼寄せた諸悪の根源。あいつの息の根さえ止めれば!」
と唇をかみ締める。
姿なき魔女という言葉を発したアレクは、その表情を一転させた。
普段は大人しいであろう端正な顔が、怒りと憎しみで満ち満ちている。きっと鷹明の知らない苦労があったのだろう。
鷹明は、そんなアレクの強い思いに気圧されてなんとなく視線を逸らす。アレクの気持ちはよく分かる。
(分かるけど……)
目の前の鏡には、困ったような顔でこちらを見ている少女がいた。鷹明は、少女から目を離して天井を仰いだ。もちろん、鏡の中の少女も同じことをする。
そのときであった。
「!」
鏡の中に何か別の気配を感じて、鷹明は視線を戻す。刹那――恐怖が電撃のように全身を駆け抜けた。
ドームの中の人々も異変を察知し、動揺は波のように広がっていく。
「早く、皆の者を安全な場所へ!」
王が叫び、家来達が走り出す。ドーム内にいた大勢の人々は王と家来の号令に導かれてどこかへと消えていった。――が。救世主である鷹明にはノーフォローである。
「こら! 俺はほったらかしかいっ」
「お前はストゥームザイム。この闇と戦わなければならない人間だ」
背後でアレクの声がした。
「勝手なこと言うなよ! 大体、どうやって――」
鷹明の声を掻き消すように、ガァァという音とともに激しく地面が揺れた。反動で鷹明の前にある巨大な鏡が、ピシリと鋭い音を立てて不吉なひび割れを作る。
緊張が一気に加速する。何かが鷹明に狙いをつけて近づいている気配がするが、恐怖で振り返ることも出来ない。鷹明は鏡の中でうごめくそれを見た。あれは――。
(……闇?)
にわかに鷹明の視界は暗転した。何が起こったのか把握できないまま、不気味な威圧感に心臓が悲鳴を上げる。
「わ!」
苦しむ間もなく、さらなる現象が彼を襲った。
鷹明の周りで奇妙な気圧の変化が起こり始めたのだ。肺が閉めつけられるように痛む。呼吸は極度に制限され、苦しみに歪んだ視界は、さらに悪くなった。
視界が閉ざされたかと錯覚するほどの巨大な闇は、不気味な膨張を繰り返しながら、鷹明の身体に近づいてくる。近づくにつれてそれはただの闇でなく、燃えるような赤い目を凶暴な牙を持った生き物だと認識することができた。
中心部に赤い炎のようなものが見える。
「ア、アレク……!」
助けを求めるつもりで叫んだが、強大な闇に埋もれてアレクの姿は見えなかった。
(やばー……! 俺、このまま死ぬのか)
胸の苦しさと戦いながら、鷹明は目前に迫っ邪悪な牙を見つめていた。覚悟を決めたというより、あまりの恐怖に反応できないという方が正しかった。
(こんな)
わけの分からない世界で。
わけの分からない生き物に殺されて終わるなんて――。
(……)
悔しい気もしたが、同時に自分らしいと自嘲する気持ちもあった。
(オヤジもオカンも先立つ不幸ってやつを許してくれ。弟よ、これからは犬の散歩役はお前だけになったが頑張れ。それから巳子、部長になれなくてゴメンな。あとは……)
色々な思い出が走馬灯のように駆け巡る鷹明の前に、スッと一筋の影が差した。闇の魔物と鷹明の間に立ちふさがるシルエット――。
いや、違う。これは影ではない。魔物のせいで闇はすでに深く、影など生まれるはずはないのだ。これはその逆で。
(光……?)
鷹明は顔を上げた。
そして。そして彼は――。
恋に落ちたのだ。
「ストゥームザイムの名のもとに」
彼の耳に少女の可憐な声が響く。くびれた腰に流れる彼女の艶やかな黒髪、凛とした横顔――そして形の良い唇が動く。
「……滅びよ!」
刹那――激しい爆風がその場を襲った。間髪入れず、彼女は手にした剣を魔物に振りかざす。熱を持った空気は切り裂かれ、剣は容赦なく獲物の心臓部を捕らえる。
激しい断末魔が部屋中に響き渡った。しかしそれもだんだんと弱まってくる。
そして突き刺さった剣に集中していくかのように、闇は渦を巻いて消えていった。
「無事か? どこか怪我は?」
振り返ってそうたずねる少女の顔を、鷹明は一生忘れることはないだろう。
真実を宿した賢者の瞳。サラサラと揺れる艶やかで長い髪。端正なつくりの小さな顔は、可愛らしくも凛々しい雰囲気にあふれている。
「本当に……大丈夫?」
優しく差し出された指先はたおやかに美しく、先ほどの戦闘で見せた殺気が嘘のようだ。
少し前の恐怖も忘れて、ただ少女に見惚れているだけの鷹明だったが、彼女はショックでしゃべれないと勘違いしたのだろう。心配げに覗き込む。
しかしその少女の顔色が変わった。視線は、鷹明の素肌に埋め込まれた深紅の石にある。
「……ひょっとしてストゥームザイム、いやタイプ0(ゼロ)なのか?」
「いつもながらお見事だ、ナオ」
鷹明が何か答えようとする前に、背後からアレクの声がする。
「アレク! いくらストゥームザイムとはいえ、この人間はまだ情況を理解していない。それを魔物と戦わそうとするなんて――」
ナオと呼ばれた少女は、即座に抗議した。しかし、アレクは肩をすくませながら「すまなかったな」とだけ言った。
「先天的なストゥームザイムの能力に興味があった。もちろん、アキが本当に危なくなったら助けるつもりだったが……ナオが来てくれたから安心して任せられたよ」
「冗談だろ? 俺、死ぬとこだったんだぜっ」
「ストゥームザイムであるアキが本当にあのまま死ぬ程度なら、いずれ世界のすべてが死ぬだろう」
いつの間にか、逃げたはずの王が立っている。あきれた顔で鷹明は、その小さな王様を見た。
「……」
「先ほどの話にもあったように、ナオもまたストゥームザイムの一人だ。世界を救うために尽力してもらっている」
まだ不服そうな表情は残しながらも、アレクの紹介にナオはぎこちなく笑って手を差し出す。
「そういうわけだ。よろしく頼むよ、アキ」
感覚がイマイチ麻痺したままだったが、鷹明も反射的に手を差し出す。
ナオから伝わる柔らかくて暖かな手の感触が、「生きている」という実感を与えてくれた。
二人のストゥームザイムを見守るように、王は微笑む。そして鷹明に向かって、
「魔物との戦いについては、おいおい慣れてくる。ベビーサイドでアレクも教えてくれるであろう」
と言った。王の言葉にアレクもうなずく。
「私とナオはベビーサイドに渡り、〝姿なき魔女〟の退治、及び消えた〝運命の子〟の保護に全力を上げるつもりだ。その間、アキはベビーサイドで学校内にはびこる魔物を倒してくれ。いずれも世界の滅亡を食い止める大切な仕事だ」
差し出されたナオの手を握り返したまま、鷹明はぼんやりと考えていた。
自分はストゥームザイムという特別な存在だという。そして、今見たような魔物と戦わなくては世界は滅びる。そしてナオ。
彼女も同じストゥームザイム――。
(ということは……)
鷹明の表情が、今までになく引き締まった。眉間に皺を寄せ、遥か彼方へ向かって目を細める。
鷹明の顔の変化を見て、王とアレクは「やっと事の重大さが分かってきたか」と胸を撫で下ろした。苦労して説明した甲斐があったというものだ。
しかし、残念ながら王達の予想は大幅に外れていた。
確かに鷹明は珍しく頭をフル回転させて考え込んでいる――。
(ナオは実は男で、俺は女の子に変身した彼女を好きになったことになる。しかし今は、俺もまた女の子であり……いやいや心は男だ……ということは?)
鷹明は来たるべき未来を想い、苦悩に満ちたため息をこぼした。この恋心の行き着く先は、ホモなのかレズなのか。
(これは……本格的にややこしいことになったぞ)
言うまでもないがこの男にとって、世界の危機などまだ遠い存在のことなのであった。