山中模索(前)
【警告】本編に登場する武器等に関しては誇張表現が含まれます。実際に使用した場合、使用者及び他者の生命、健康、財産等に著しい損害をもたらす恐れがあります。
また、これらを製造、所有及び使用した場合、刑法犯として処罰される可能性があります。絶対に真似しないでください。
以上の警告を無視した場合に発生するあらゆる損害については、その責任を負いかねますのでご了承ください。
思いのほか早く状況は好転した。
暫く大小の円を描いていた夜偵は当てが外れたと思ったか、鳴き声を上げながら再び夜の闇に消えて行った。
「行ったか?」
「みたいだ」
戒の同意を得て立ち上がると、夜空にはぽつぽつと照る星とそれを覆う様に流れてきた雲以外にはなにもいない。
(今のうちだ。あいつはまた戻ってくるかもしれない)
その思いが、自然と足を速くする。
俺も戒もライトバンから飛び出し、ボロアパートの敷地を離れる頃には既に駆け足になっていた。
再び走る。アパートを通り過ぎ、材木屋の角を右折。高架下を潜り抜け、自転車屋の突き当りを左に曲がり、すぐ次の角を右へ、後はしばらく直進が続く。
甲高いサイレンを鳴らして救急車が先を走る。
それを追う様にして大通りに出た後は救急車と反対に曲がると、丁度良く青に変わった信号を渡り対岸へ走る。
向かい側は国道沿いの民家の明かり以外は真っ暗で、そこが目的の雑木林だ。
対岸の歩道に到着した瞬間、それを知らせるかのように頭上で鳴き声が響いた。
「なっ!?」
思わず仰ぎ見る俺の目に黒い翼が広がっている。
横断歩道、それもこの辺では珍しい片側三車線の大通りなら、横断中は上空からよく目立つ。それに気づいたのは、見上げた夜偵が二週目の旋回を終えた頃だった。
「兵衛!止まるな!前進で良いんだな!」
追い抜いて先を行く戒の叫び声に気付き、今度は俺が戒を追う。
「そのままだ!雑木林まで突っ込め!」
背中に叫び返しながら最後の直線、民家の間を駆け抜ける。夜分騒がしくて申し訳ないがこっちも必死だ。
人気のない三軒目の民家の前を横切り、そのまま丁字路の突き当りに駆け込む。暗闇に慣れた目でもうっすらとしか見えないが、鬱蒼とした雑木林の小さな切れ目があって、人一人やっと通れるような小道がある。
信号を渡ってから一直線に走り続けた勢いで急勾配になっている小道を駆けあがり、坂の入り口から少し奥のところで止まる。
少し先の大木の下で戒が待っていた。
そこまでに勢いを使い切っていた俺は最後の数メートルを減速しつつ歩き、到着すると同時にその大木に手をついて寄りかかった。
立ち止まって初めて心臓がものすごい早鐘を打っていることに気付いた。
肺が完全に潰れて空気を受け入れられないのかと思う程息が苦しい。心臓が口から飛び出ると言うが、下手したら小道の入り口辺りに本当に落としたのではないだろうか。
酸欠を存分に味わってから、やっとのことで口を開いた。
「……見られたな」
この一言が限界だ。これ以上口を開いたら本当に心臓を出してしまう。
戒からの返事は無い。そこで俺は荒い呼吸音がもう一つあることにやっと気づいた。
しばらくそうして二人の呼吸音だけが暗闇に響いていた。
「どうする……。これから」
一分ぐらいそうしていたのかもしれない。この賑やかな沈黙は頭上からした戒の声で途切れた。
一分前に俺が発したのと同じようにやっとのことで絞り出したような声を聞きながら、俺はまだ腰を折り曲げて呼吸していて頭を上げらないでいる。
思っていることを思う様に言葉に出来ないと昔の作家だか詩人だか何だかが言っていたような気がするが、成程その通りだ。
多分こういう状況を想定して言った訳ではないと思うが。
頭を下げたままやっと出る声で戒の草鞋に向かって回答する。
「先に進もう。見られた以上、ここに居る、ことは、ばれてる……」
途中息継ぎのため聞き苦しくなってしまったが、それでも分かってもらえたようだった。
「わかった。でも、少し、少しだけ……、待ってくれ……」
再び呼吸音だけになった。
それから少しして、ようやく俺達はまともに喋れるぐらいまで回復した。
「暗いから気をつけろよ」
再び俺が前に立って歩くが、別に先導できるほどこの辺に詳しい訳ではない。
そして自分で言った通り、足元の悪い小道を月と星の明かりだけで進むのは非常に危険だ。ましてや、その月と星の明かりが徐々に雲に覆われてきたとなれば尚更。
「このまま道なりに進んうわっ!?」
自分で言った矢先にこれである。
咄嗟に近くの木の幹を掴んだからよかったが、足元は非常に悪い。
「……この方角に進めば雑木林を越えて山脈に入る。そこも雑木林の続きみたいなものだから、隠れて進むには最適の筈だ」
「山脈?山に登るのか?」
「大した山脈じゃない。一番高い所でも三百メートルもないだろうな。そこを越えれば隣の町に出る」
ちなみに、現在考えている移動法は、東西に延びた山脈の中腹西側を回り、北にある隣町に抜けるというルートだ。
山頂に登って反対側に下りるルートもあり、距離はそちらの方が近いのだが、山頂は開けた場所が多く隠れるものが少ない。
このルートに欠点があるとすれば、さっき転んだように夜の山道は非常に危険であり、体力的にも長距離を行くのは厳しく、更に俺があまり詳しくないため、自身の方向感覚と立て看板が頼りという点である。
多分、山登りの専門家からすればあまりいい選択ではないのだろうが、今は少しでも身を隠したまま遠くに移動する必要がある。移動したはいいもののその間の行動が筒抜けでしたでは意味がないのだ。
「ただ長時間歩くことになる」
そう言って振り返ると、意外とすぐ後ろにいた戒は特に疲れている様子も見えなかった。
「大丈夫だ。付喪の体力があればまだ」
言われて気付く。そもそも今日起きた出来事を考えてみれば、夕方まで藪漕ぎして、その後背後の町を走り回り、真剣勝負の後また走っているのだ。普通ならとっくにへばっていてもおかしくない。
付喪憑きになって体力が強化されていることを今実感しているのだ。いや、全く疲れていないと言えば嘘になるが。
「ああ、付喪さまさまだな。ただ、離れたら迷うからついてきてくれ」
「分かってる。私も山道は詳しくない。しっかりついていくさ」
戒の答えは背中で受けて再び歩き出す。
正直俺も山道なんて詳しくないのだが、それでも道を間違うよりはぐれてしまう方が遥かに厄介だ。
後ろに戒の足音を感じながら、そして時々振り返りながら見えない道を進んで行く。
目は既に暗闇に慣れてきているとはいえ、それでも時々躓きながらおっかなびっくり進む。
「さて、どっちに行くか」
歩き始めて一時間程で、道が分岐した。
右の道は右手側の急斜面を登るルート、左の道はこれまで通りのルートに思える。
「……兵衛、兵衛」
思考は数秒で打ち切られた。後ろから押し殺した声がする。
「何?」
「……何か聞こえないか?」
どきりとした。言われてみれば何かの音がしたような気がする。いやそれどころか、誰かに見られている気さえする。
通ってきた道、前にある二つの道、斜面の上下、見える限りに目を凝らす。
戒の方も同じで、周辺をきょろきょろ見渡しながら、左手は鯉口を切っている。
敏感になった耳に風になびく木の葉の音がやたら大きく響く。
だが、それ以外の音は全く聞こえてこない。
「気のせいか?」
「済まない。勘違いだったみたいだ」
戒が詫びながら荒覇吐を収めた時、ふっと緊張の糸が途切れた。
「驚かせるなよ」
思わず口元が歪む。どっと疲れが出たような気がした。
だが、全くの無駄骨という訳ではなかった。目を凝らして辺りを見た結果、左側の道が舗装された林道に繋がっているのを見つけた。そして木に隠れて見えづらくなっていた『←玉辻峠』という表示も。
玉辻峠は山脈の西端に位置する小さな峠で、その舗装された林道が山脈を東西に走っていることを説明している。
舗装道路は左側が崖になっており上から見下ろしやすそうなのが欠点だが、方向としては間違ってはいなかった。
後はこの林道に沿って進む身を隠しやすい道があればいいのだが。
「とりあえずこっちだ」
左側の道を指さして進む。
道は緩やかな下りになっており、緩いカーブを描きながら舗装された林道に繋がる。
(ちょうどいい道がないな)
どうする?と振り返ったその時、今度は空耳でもなんでもなくエンジン音が聞こえた。
「おい」
「ああ」
戒の方も気付いていたのだろう。答えながらその場にかがんで茂みから顔だけ出すと音の方へ目を走らせている。
「車……?」
正解です。と言う代わりに正体を現した音の主――一台のワゴン車は、この道との合流地点の手前で停車し、中から続々と男達が降りてくる。
その数五人。車のライトに照らされた彼らはいずれ劣らず素行のよろしくなさそうな集団だ。
「俺達を探しているのか?」
「どうだろうな。付喪はいないみたいだし」
付喪がいないというのは付喪と付喪憑きを追うには不十分な戦力だろう。何しろ、付喪の姿は普通の人間には見る事が出来ないのだから。
だが、仮に探しているのが俺達ではないとして、決して平和的・友好的なムードでない事は、彼らの持つ金属バットや警棒がよく表している。まさかそのバットで野球をしようという訳ではないだろう。
ワゴン車から降りてきた男達の内、助手席から降りたホスト風の男が周りの連中に指示を飛ばす。
「男が一人、身長は170cmぐらいで歳は十代~二十代。黒い髪の毛の奴だ」
酒焼けした声でホストが指示を飛ばす。ぱっと見た感じでは彼が最年長のようだ。
俺のことを言っているのだろうか?情報が少なすぎる気もするが。
「それだけっすか?」
ホストの部下らしき一人が聞き返す。同感だ。
「それっぽい奴見つけたら捕まえて連絡寄越せ。逃がすんじゃねえぞ」
うーい。と四人の声。それを合図に懐中電灯で足元を照らしながら林道に散っていく。
「それと油断すんなよ。全身に妙な武器隠してるって話だ。見つけたらとりあえず一発やっとけ」
うーい。二度目の声。
「多分……」
隣からの声に視線だけ向けると、こちらを指さしていた。
その指からの問いかけに俺は頷いた。
「どうする?迂回するか?」
そう聞かれて、もう一度奴らの方を振り返りながら考える。
連中の探しているのが仮に俺ではないとしても見つかった場合は厄介だ。
あのホストの指示から考えて、奴らはこちらを見つけたらとりあえず殴りかかってくるだろう。そういうやり方に躊躇するタイプには見えない。
そしてもし、奴らが本当に俺を探しているのなら、障害物が多く見通しの悪い山の中では、こちらが気付く前に相手に見つかっているという事もあり得る。
ならばやることは一つしかない。要は“俺を見た奴が誰もいなければいい”のだ。より正確に言えば“俺を見た奴全員が俺を見たと言わなければいい”という事だ。
足元に手をやって手ごろな石を拾い上げる。硬さ、大きさ申し分なし。
尻の上、ベルトに挟んでいた軍足を取り出して、その中に石ころを入れ、つま先までしっかりと押し込む。
ぱっと見は丸めたまま洗濯機に放り込んだ靴下の様だが、これはブラックジャックと言う立派な武器だ。
「迂回は面倒だ。黙らせる」
かがんだままゆっくりと合流地点ににじり寄る。
幸い、連中は全員合流地点に背を向けている。一番近くに二人、更に先に行ったところに二人。ホストはワゴン車の後方を見ている。
やり方はこうだ。手前二人を同時に殴り倒し、直後に後ろを向いているホストをやる。残りの二人は戒にやってもらう。
それぞれ二人と三人を相手にするが、ただの人間相手ならば不意打ちを食らわせれば十分だろう。
「手前の片方と先に行った二人、殺さなくていいから黙らせてくれ」
そう言って振り返った時、こいつの頭の出来が俺に近い事を思いだした。
どこで拾ったのか、全長60cmぐらいありそうな太い木の棒を既に持っている。木刀代わりにするつもりだろう。
「そういう事」
「任せておけ」
四つの足がそろりそろりと合流地点に近づいていく。
ワゴン車のライトで照らされた目標二人の背中が見える。あれをやるという事は、ワゴン車のライトに映るという事で、これ以降は一瞬も立ち止れない。
「戒、付喪憑きは力も人間より強くなるんだろ?」
気になった事を聞いてみる。
自分の体の事を他人に聞くというのも妙だが、脚力や体力はともかく、腕力については今まで試していない。脳筋との戦いはお互い付喪憑き同士だったので人間との比較ができていない。
「まあそうだな。どれぐらい強化されるかは個人差があるし具体的な数字は分からないが、女の私でもだいたい一馬力ぐらいは出せたはずだ」
一馬力。とんでもない目安が出た。馬一頭分だ。
あれ?馬力って力の強さだっけ?まあいいや、人間離れしているのは確実だ。
「それがどうかしたのか」
「いや、こっちの話だ」
そう答えて俺はブラックジャックをベルトに挟み込む。石が一個しか入っていないこれなら、動いても大きな音を立てないだろう。
作戦変更、素手でやる。
流石に馬並みの力でもって石でぶん殴れば洒落にならない。殺さなくても黙らせればいいだけだ。
二人の背中から目を離さず、戒に続きを話す。
「右のでかいのを頼む」
「わかった」
対照的な二人組だった。
戒に任せた右の男はスキンヘッドのずんぐり体型で派手なトラ柄のジャケットを着ている。その体型とトラ柄から元気のいい大阪のおばちゃんをイメージさせるが、気さくに話しかけてくるタイプでないことを右手に握られた折りたたみ式の警棒が示している。
石で殴られなくて済んだ左の男はさっきの脳筋より小さいのではないかと思う程小柄だ。
体相応に小さな頭には、地球上のどこでも効果を発揮しないだろうどぎつい配色の迷彩柄バンダナを巻いている。
彼の中で唯一大きいものと言えばかなりの急成長を見込んだような巨大なティーシャツで、そのせいでラッパーを目指して失敗したような印象を受ける。
そろりそろりと距離を詰め、真後ろに立っても気付く様子は無い。ワゴン車のライトが俺達の正面にあり、影が背中側に伸びたのが幸いした。
失敗ラッパーの首に腕を巻きつける。
「ぐっ!?け……っ!」
変な音が口から洩れるが、それが俺の聞いた最初で最後のこいつの声だった。
そのまま引き摺って元来た道に入った時には既に落ちていた。
泥の上に寝かせて、首が変に曲がっていない事を確認する。力の加減も上手くいったようだ。
その横に戒が鳩尾に棒を突き入れてから引き摺ってきた大阪のおばちゃんを転がした。
「殺してないよな?」
「大丈夫。失神しただけだ」
「お疲れ様っす!うっす、大丈夫っすよ!」
不意に響いた大声に身構えたが、見つかった訳ではない様だ。
声の主はワゴン車の近くにいたホストだった。
この山の中で電波が届くのか通話中の様だが、敬語に合わせて頭をぺこぺこ下げている姿は、その服装や転がしたお友達の割には悪そうに見えない。
「例のツクモツキとかいう奴でしょ。大丈夫っす、ダチのヤベェ喧嘩チームっすから」
俺と戒は目を見合わせる。ホストの電話相手は付喪憑きの事を知っている。
「まさか……」
「可能性はあるな」
再度作戦変更。あいつだけは黙る前に話してもらう。
先を行く『ヤベェ喧嘩チーム』の残り二人がこっちを見ていないか確認して足音を殺してホストに近づく。
「はい。じゃあ失礼しまっす!」
ホストが電話を切り振り返る。そこで初めて、そのツクモツキとかいう奴が目の前に来ていることに気付いたようだ。
「よう!」
「おぶっ!?」
流石に殴って顎でも折れたら会話できないだろうから、頬骨の辺りを張り飛ばす。
それだけでも錐もみして吹き飛んだのだから、改めて付喪憑きの力を思い知らされた。
「さて、あんたには少し用……がっ!」
途中で中断して尻餅をついた相手の右腕を掴んで持ち上げる。
表情が苦痛に歪み、掴まれた右手がポケットから出た時、たまらず手放したキーホルダーの様なものがアスファルトに転がった。
それを足でトラップし、空いている手で後頭部を掴んで額をドアに叩きつける。
低く反響したドアの音で、ホストの悲鳴は掻き消えた。
(つづく)
大阪のおばちゃんへの熱い風評被害
次話は8/17(水)までに投稿予定です。
また、都合により次話は深夜(23時~翌2時頃)に投稿する予定です。