月夜の制空権
「どうした?私何か変なこと言ったか?」
「ハハハ……いや、そんなんじゃない」
突然笑い出した俺を今度は戒がきょとんと見ていた。
「俺は随分ちっぽけな事を悩んでいたなと思っただけだ」
そうだ。俺は小さかった。それを認められないから劣等感があったのだろう。心理学者ではないからそこまで正確には分からないが、多分劣等感というのは劣等だと思いたくない感なんじゃなかろうか。
海や山を見てそれより小さな自分に劣等感を抱く人は多分いない。都会を歩いていて、高層ビル群に劣等感を抱く人も多分いない。それは相手が自分より大きいと分かっているからだ。
それを、目の前の相手にやるだけだ。自分より大きい奴だと認めるだけだ。海や山に行かなくてもいいなら考えようによっては簡単で安上がりじゃないか。
「オーケイ、わかったよ。そうしよう」
これっきり、倒した相手をどうするのか考えるのはやめだ。
大きい奴と一緒にいたって自分が大きくなるわけではない。己の小ささ、みみっちさに付き合うとどうしても惨めな気分になる。
「そうしてくれるか。ありがとう。ああ、手の方も」
全ての指が刀から剥がれた。
伝説の勇者よろしく突き立てていた刀を引き抜いて納刀すると、自身の背後、大男が倒れている方に振り向いてそちらに向かう戒。
それにつられて俺もそちらを見たが、そこにもう大男の姿は無く、ただ無数の青白い粒子がスギ花粉のニュースの様に舞い上がっていた。
「あれ?あいつは?」
「封印された……ああこれだ」
背中で俺の問いに答え、粒子の足元にかがみ込んでいた戒が何かを拾い上げて戻ってくる。
「付喪は重篤なダメージを負うと肉体が消滅し憑代に封印される。憑代は本来劣化や破損が起こらないが、この状態で外部から攻撃を受けると破壊され、付喪は消滅してしまう」
こちらに振り返ると授業中の教師の様にゆっくり歩きながら説明しつつ戻ってくる。
その手には小さな数珠がぶら下がっていた。
「封印中は時間の流れと完全に切り離されていて意識もなくなっているから、この状態では何をされても一切抵抗できない。だから――」
授業しながら俺の前を通り過ぎると、脳筋の前でかがみ込み、数珠を持っていない方の手で俺を呼ぶ。
「なくなったり壊れたりしないように付喪憑きと一緒にしておいてやると望ましい」
言いながら脳筋のポケットに数珠を押し込む。
「さて、これでよし」
後ろからかがみ込んで見ていた俺を振り返り、立ち上がって前に来るよう促す。
戒先生の付喪講座はここまでの様だ。
「それじゃ次は、兵衛の『お食い初め』だな」
そう言って立ち上がると俺の背後に回り、俺と脳筋は数分ぶりに対面した。
瞬間、視界に電流が迸る。
呼吸が荒く、猛烈な空腹というより体の中が内臓も骨も何もかも空っぽになってしまったような感覚に陥った。
「利き手に意識を集中するんだ。今朝の私と同じことをやってみろ」
今朝戒がやっていた事。お姫様抱っこしろと言っている訳ではないのは明らかだ。言われた通り右手に意識を集中させる。
「そうしたら次は食事をする動作を思い出してみろ。物を口に入れて、噛み砕いて飲み込むんだ」
言われた通りにイメージを動かす。食べ物を頬張り、よく噛んで飲み込む。頬張り噛んで飲み込む。頬張り噛んで飲み込む。
何度か反芻するうちに、右手が熱を帯び始めた。
「うおっ!?何だこれ!」
熱を帯びた右手は赤黒く暗い光を纏っていた。何だと言いながら自分ではなんとなく分かっている。戒が今朝やった事。つまり魂を食べるための準備だ。
「よし、それで相手の体に触れずに魂だけを取り出せる。相手の中で指先が何か球体に当たる筈だ。その球体を掴んで持ってくるんだ」
「……こいつの体に入るのか?俺の手が?」
「大丈夫だ。肉体の手ごたえは無い。考えているような気持ちの悪い事態にはならない」
ああ良かった。流石に俺も人肉をかき分け骨をよけて内臓をいじくるというスプラッターな趣味は無い。
それが分かった途端、再び猛烈な空腹感に襲われた。
食べたい。目の前の魂を。
人間を見て食べたいというのは十分異常だが、魂が何かすらよく分かっていないにも関わらず、俺はそれを食べたくて仕方がない。
そうすることでしかこの飢えを解消できないと、何故か体が知っている。呼吸しなければ死ぬのと同じぐらいに。
「待ってくれ。最後に一つだけ」
思わず手を相手の腹に触れた時、突然待ったがかかった。
「……あまり長く待てそうにない」
「分かってる。ただ一つ、お願いがあるんだ」
その声は申し訳なさそうではあった。だがその意思を曲げることは出来ないと分かるような強さを感じる声だ。
「何?」
思わず振り返った俺に戒はまっすぐ目を見て語り始める。
「今から食べるのはこの男の魂だ。魂を取られればここ数日分の記憶が消滅し、精神状態も不安定になる。いわば魂を食うという事はこいつの人生を奪って食うという事だ。それだけ忘れないでくれ」
「うーんと、つまり?」
「説教くさいのは苦手なんだが……、つまり、ただ何となく漫然と食わないでほしいんだ。相手からかけがえのないものを奪ったことを理解して、その上で味わって食ってほしいんだ」
つまり、相手から奪って生きているという事を忘れるな。食う相手に敬意を表せ。という事だろうか。そう言えば昔そんな事を言われた気がする。なんだっけ?家庭の躾?道徳の授業?まあ、いいや。
俺は一つ頷いて脳筋に向き直ると、その場に腰を下ろし正座する。
俺の理解が正しければ、そのあやふやな記憶に従うのが正確なはずだ。
「頂きます」
両手を合わせそう告げる。あなたの魂を、あなたの人生を奪う事で私は生きます。
だから、頂きます。あなたから私の命を頂きます。あなたの人生で生かさせて頂きます。
今までの人生で何千、何万と発してきたこの言葉の意味を俺は今初めて理解した。
赤黒い手を踏んだ跡が残る腹に触れると言われた通りほとんど手応えがなく、静かに相手の体内に沈んでいく。手首から先が完全に沈みきった所で指先に初めて何かが触れた。
「何かあるぞ」
「それが魂だ」
指を広げて触れたそれを掴んでみる。サイズは野球ボール程だろうか。体温ぐらいのそれは柔らかな感触で、掴み上げた手の中で淡い光を放っている。
「これが、魂」
「そうだ。ゆっくり味わって食ってくれ」
手首を返し、掌の中の発光体を凝視する。水中から空を見上げたようなその淡い光は本当に食べ物かと疑いたくなるほど美しく輝いている。いや、本来人間にとっては食べ物ではないのだろうけど。
いつまでも眺めていそうになるかと思ったが、食欲が美意識を圧倒した。
一口齧る。意外にも結構歯応えがある。
口の中に広がったそれらはほんのり温かく、消化の良さそうな優しい甘さが口いっぱいに広がってくる。
もう一口、もう一口と頬張る。素朴で後を引く味だ。
口の中のそれを噛み砕いて飲み込む度に全身にそれが吸い込まれて行き渡っていく感覚を覚える。丁度限界まで喉が渇いた時に水を一気飲みしたような感覚に近い。
最後のひとかけらを飲み込んでからため息を一つ。それまで感じていた痛みがいつの間にか引いていた。
「ご馳走様でした」
最初と同様に両手を合わせ、深く頭を下げてそう告げる。
今目の前にいるのはもう敵ではない。糧となったもの。俺を生かしてくれたものだ。感謝しないで良い筈がない。
それほど信心深い訳ではないが、それでもこういうのを敬虔な気持ちというのだとなんとなく分かるような気がした。
「よし。終わったな」
背中から聞こえた戒の声に振り返る。
「こういう食い方でいいのか?」
俺の問いににっこり笑って頷く。
「お誕生日おめでとう……かな?付喪憑きの」
そんな言葉をかけてくれるその笑顔は、本当に心の底からそれを祝ってくれているようでもあり、ようやく一安心したというようにも見えた。
俺はたった今正式に人間を辞めた。付喪憑きの北面兵衛の誕生だ。
これから俺は付喪憑きとして、戒の相棒として生きる。
「それじゃあ改めて、これからよろしくな。相棒」
「ああ、こちらこそよろしく」
本日二度目、差し出された手を握り返す。これで本当に相棒となった。
「それで、これからどうするんだ」
「そうだな、まずは――」
戒は何かに気付いて言葉を切ると、俺の腕を掴んで我が家の方に走り出した。
「おっ、おい」
「走れ!早く!軒の下まで!」
言いながら振り返らず走る戒。掴まれている俺も走らざるを得ない。
意味も分からずコーポムラヤマ101号室の扉の前に駆け込む。
その時、背中というより頭上で鳥の鳴き声のような甲高い音が聞こえた。
「くっ、上だと!?」
振り返り空を見上げる戒。自身の迂闊さを呪うようなその声につられ、俺も同じように空を見上げる。
「なんだ……?鳥?」
黒っぽい鳥が一羽、大回りに旋回しながら飛び去っていく。
「ヤテイか、気付くべきだった」
「ヤテイ?なんだそれ。あの鳥がどうかしたのか?」
その体色からすぐ夜空に紛れ見えなくなった鳥から、隣の戒に目を移して尋ねる。
鳥に詳しい訳ではないが、ヤテイなんて名前の鳥は聞いたことがない。
「あれはただの鳥じゃない。付喪が使役する使い魔みたいなものだ。あれは夜間偵察用でその名の通り鳥の癖に夜目が効く」
ヤテイとは夜偵という字を当てるのだろう。
「誰かが俺達を偵察していたのか」
「おそらく進歩派だろうな。……済まない。私が気付いているべきだった。奴らが一日中追いかけっこしている時に仲間を頼らない保証なんかなかったのに……」
「あんまり気にするなよ。それより、これからどうする?」
しゅんとなっている戒を励ます。
これからどうするかと尋ねながら、選択肢は二つしかない。つまり、迎え撃つか、それとも逃げるか。
「そうだな……、夜偵が来たという事は必ず追っ手がいる。もし今の奴に見られていれば、そいつは仲間がやられた事を知る」
「つまり、ここで待ってればそいつが向かってくる?」
「とは言い切れないが、可能性は高いな。その場合、私達が回復しないうちに勝負をつけようとするだろう」
つまりこうだ。敵が襲ってくる場合、こちらの場所を既に特定していて、戦闘直後で消耗しているうちに来る。
なら、取るべき行動は一つだ。
「「逃げよう」」
結論は同時だった。どんな奴が相手なのか分からない以上、タフ気取りは命取りだ。
「どこか人目を紛らわせて、隠れるのに適した場所はあるか?」
「そうだな……」
言われて暫し考える。だがあまり時間は無い。近い方が良いだろう。
「ここから少し北に行くと雑木林と山がある。そこに潜り込めば隠れる場所はいっぱいある」
咄嗟に思いついたのはそこだった。雑木林の中なら空を飛ぶ夜偵からも見えないだろう。
「よし。急ごう」
言うが早いか、戒は夜偵が去った事を確かめるとすぐに今走ってきた道を反対に走り出した。
後を追うが、走りにスピードが乗る前に戒が停まった。
「どうした?」
「ちょっと待ってくれ」
倒れている脳筋の奥襟を掴みながら背中で答える。
「おい。急ぐんじゃないのか」
せかす俺を尻目に、道の真ん中に倒れている脳筋をズルズルと引き摺って端に避ける。
「車が来たら危ない」
思わずため息ひとつ。世話焼きにもほどがある。
まあいい。世話焼きついでだ。
側溝の蓋の上に脳筋を持ってきた戒の横から、彼のポケットに手を突っ込み、指の感覚を頼りに薄い板状のものを引っ張り出す。
「……追剥は感心しないな」
「信用ねえなあ」
まあ、そう見えるけど。
取り出したスマートフォンで119にダイヤルする。
「救急です。住所は――」
よく119を呼ぶ時にはパニックになると聞くが、特に責任も感じず、また大事な相手でもなければ、案外冷静に対処できるようだ。いや、俺が薄情なだけかもしれんが。
手短に用件を伝えあまりスマートではない持ち主に返す。
視線を感じて隣を見ると、戒がぽかんとしてこっちを見ていた。
「これでこいつも大丈夫だろう」
「……あっ、うん」
はっと気づいたように慌ててそう言う戒。
俺はこれで終わりだと思ったのだが、進行方向に向き直ろうとした時肩に声を受けた。
「あっ、あのっ、兵衛」
「何だ?まだあるか?」
もう一度振り向いた俺の目の先には、申し訳なさげに伏し目の戒がいた。
「その……追剥だなんて、失礼なこと言ってごめん……」
なんだ、そんな事か。
「気にしてねえよ。行こうぜ」
そう言った直後、遠くで鳥の声がして、俺達は慌てて走り出した。
よく聞けばカラスの声だったような気がするが、もう立ち止まらなかった。
ごみ置き場を通り過ぎ、タバコ屋の角を右へ。その突き当りにある駐車場を左に曲がって、小さな接骨院に差し掛かるところで並走していた戒が脇道を指さす。
「来た!あそこに隠れろ!」
接骨院の隣に立つコーポムラヤマと同じくらいボロいアパート。
その前に路駐されたライトバンと敷地の間に滑り込んでかがむと、頭上から不吉な、良く響く低い鳴き声が降ってきた。
その声がターゲットの発見を伝えているのか、逆に見つからない事への苛立ちなのかはわからない。もしかしたらアメリカのカーチェイスの映像で逃げ回る犯人みたいに、上から筒抜けなのかもしれない。
「くそ。随分しつこいな」
隣で戒が憎々しげに口走る。
彼女の見ている方向に目をやると、暗い夜空に溶け込むように、一回り大きなカラスのような黒い影が旋回している。
「見つかったのか?」
「いや、大丈夫のはずだ。……うっとうしい奴め」
そう言っている間にも黒い影は旋回を続け、周回数を増やしている。確かにうっとうしい。
「何とかできないのか?撃ち落とすとか」
「無茶言うなよ。ミサイルでもあれば別だろうが」
確かにそうだ。だが、相手が粘る間ここで座り続ける訳にもいかない。何とかしてあれにお引き取り頂けないだろうか。
成程、航空機や軍事衛星がどんどん発達するわけだ。攻撃してこなくても頭上を飛び回られるだけでこうまで動きを封じ込められてしまうのだから。
うん?航空機?
そうか、その手があるか。
隣で空を見ている戒に目をやると、こちらの視線に気づいたのか、一度空からこちらに視線を移してきた。
「何だ?」
「あれって、付喪が出してるんだろ?」
「そうだな」
あいつの出所を聞いて、連想ゲームの末に達した提案を持ちかける。
隣の相棒、付喪に。
「なら戒があれ呼び出して迎撃させられないか」
「えっ」
そうだ。戒だって付喪なのだ。あれと同じものを呼び出して撃ち落とさないまでも追い払うことは出来る筈だ。
何も陸にいる俺や戒が直接あれを叩く必要は無いのだ。空の事は空の奴に任せよう。
我ながらいい考えだ――と、思ったのだが……。
「あ……、あれはな、ちょっと……」
戒が不自然に目を逸らす。
「ちょっと……何だよ?」
「ちょっと飛ばすのが難しくてな。特に夜偵は器用な奴じゃないと……、しっ、仕方ないだろ!?人には何でも得手不得手というものがあってだな……」
分かった事がひとつ。戒は不器用。
「オーケイ。打つ手なしか」
「……面目ない」
「いや、気にしないでくれ。俺だって思いつきで言っただけだ」
再びしゅんとしてしまう戒にそうは言ったものの、本格的に座り込み続行になりそうだ。
もう一度空に目をやると、まだ何周目かの旋回をしていた。
「あいつどれくらい飛べるんだろうな」
「そう長い時間飛び続けられないとは思うが……」
戒はそう答えるが、いつから飛んでいるのか分からない以上何とも言えない。
鳴き声がもう一度響く。どうやらこちらを見失っているようで、何度か鳴き声を上げながら旋回半径や高度を変えながら辺りを飛び回っている。
(つづく)
逃げ回りは終わったと言ったな。あれは嘘だ。
次話は8/13(土)までに投稿します。