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付喪憑く者  作者: 九木圭人
第一章
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朝食時の客人

「ええい、やめだ」

 表情を作るのを諦めて靴を脱ぐ。恐怖している自分を認めないようにして。

 

 俺は部屋の照明が、そして電力がこんなにもありがたいものだという事を実感した。夜でも明るく、テレビをつければ少しは気が紛れる。これだけでも十分その偉大さが分かる。

 今月は電気がまだ使えて本当に良かった。

 ここに誰か見知った人間でもいれば言う事なしだが、生憎母親は一週間に一度ぐらいしか戻ってこないし、父親は離婚してから一度も会っていない。

 

泊まりに行ったり、泊まりに来たりする友人もいないとなれば、テレビでも見て我慢するしかない。

 (暗いのは駄目だな)

 丁度つけた番組はニュースだった。最近隣町で、ボウガンで撃たれた野良猫の死体が見つかっているらしい。

 気分を変えるにしても異常者のニュースはあんまりだ。もう少し何かあるだろう。

 

 尻のポケットにねじ込んでいた『又右衛門始末帖』を床に放りだす。また読んでみようと思って、やめた。

 荒木又右衛門、幼き日のヒーロー、強く逞しい人情家、なりたくてなれなかった者。

 子供はヒーローに憧れる。けれど、いつかそんなものになれないと分かる。

 自分はそんな器じゃないと、そんな資格は無いと知る。

 

 (糞っ、やめろやめろ)

 怖い出来事を忘れようとはしたが、その代わりに嫌な事を思いだすのはいかがなものか。

 思考を打ち切って黴臭い畳にごろりと横になると、今日の出来事を思い出してみる。

 

 あれはなんだったのか。付喪とは何者なのか。

 考えれば考えるほどに、全て夢だったと思うのが一番合理的と思いたい気持ちが強くなっていった。

 (もういい。寝ちまおう)

 テレビを消して、押し入れから煎餅布団を引っ張り出す。まだ寒いこの時期には少々心許ないが、それでも今家にある最も暖かい布団だ。

 

 部屋の明かりを消して布団に潜り込むと、明日からの事を考える。そろそろ金も尽きてくる。掛け持ちしていたバイト先の一つが潰れ、今のバイトだけでは暮らしていくのには少し足りない。前に何度かやった日雇いでも探そうか。

 そんな事を考えて、少しでも今日の出来事から離れようとするが、瞼の裏にはその忘れたい出来事が繰り返し再生されている。

 そのまま無理やり眠ったからか、妙な夢を見た。

 

 子供の頃の俺が両親の喧嘩から逃げて蔵に入る。祖父母もいたはずだが何故か出てこない。多分両親の仲裁が大変なのだろう。

 一人で蔵に入った俺は、その扉を開きっぱなしにして古い箱の中から埃をかぶった昔の本を何冊か引っ張り出した。

 蔵の古本は祖父の物だった。祖父は孫に兵衛なんて時代がかった名前を付けるぐらいなので、所謂時代劇や剣豪小説や講談が好きだった。



 そして難しい漢字と格闘する俺の後ろに、愛おしそうな、寂しそうな顔で女が立っている。



 「うわあっ!?」

 夜遅く、というより朝早く俺は己の叫び声で目を覚ました。

結局、俺は朝から再びあの家に向かう事にした。昨日の出来事を否定するために。全て夢であったと証明するために。

 

 着古したシャツとカーゴパンツに着替え、家を出る際に鏡を見る。床屋代節約のため一度にバッサリ切っている前髪が額の真ん中を割るぐらいに伸びて来ていた。

 顔はしっかりとは見なかった。昨日と同じ表情をしていることがなんとなく分かったから。

 帰りには避けた人通りの少ない駅への近道を、昨日の昼間と同様に通って駅に向かう。

 (今日の帰りはこの道で戻るぞ)

 そんな事を己に言い聞かせながら昨日と同じく人通りのない道を、昨日とは違う決意を固めて歩く。

 駅に近づくほどにその決意が揺らぎそうになりながら、その度に自分を奮い立たせる。

 

 (昨日のあれは夢だ。夢におびえてどうする?あんな事冷静に考えればあり得ない話だ)

 そうだ、あれは夢だ。そうに決まってる。

 何も怖いことなんかない。ただそれを確かめに行くだけだ。

 駅に着くまでの間、何度も何度も己に言い聞かせながら、止まりそうになる足を進ませる。

 昨日駆け抜けた改札にゆっくりと切符を飲み込ませ、吐き出されたそれを受け取ってズボンのポケットに入れる。

 改札をくぐると、もう後戻りはできないという気持ちが湧き上がってくる。

 (いや、それでいい。後戻りなどないんだ。何もないところに行くのに何をそんなに恐れているんだ俺は)

 自分にそう言い聞かせていること自体、躊躇いがあるという事の証明でしかないという冷静な自分の声は聞こえないふりをした。

 

 やがて到着したがらがらに空いている電車に乗り適当な席に座ると、俺は読むでもなく車内の広告を眺める。週刊誌、化粧品、マンション、週刊誌、温泉地、化粧品、栄養ドリンク、マンション――どれも頭になんか少しも入ってこない。

 「次は高町川、高町川。お出口左側です」

 車掌の独特なイントネーションが次の駅を告げる。

 俺は両足に踏ん張るように力を入れて立ち上がり、進行方向左のドアの前に立つ。昨日おびえたその窓ガラスには、俺以外に誰も写ってはいなかった。

 

 改札を抜けると、昨日と同じ見知った道をかつての我が家に向かって歩き出す。

 心臓が早鐘を打ち、そのペースに合わせるように足もまた速くなる。

 駅を出ると目の前に畑が広がっており、その前に立てられたパチンコ屋の看板を左に曲がり、しばらく線路と畑の間の道を歩く。

 畑の端に松の木が立っていて、その横に人が住んでいるのかいないのか分からない古い民家が一軒、松の木と庭先の柿の木に挟まれて建っている。

 まだ寒い今だからこそ柿の木には一枚の葉もないが、夏には鬱蒼と葉が生い茂り、小さな民家を覆い隠してしまうだろう。

 

 ここを右に曲がると、正面の突き当りにおそらくこの辺りで唯一であろうクリーニング屋が見えてくる。

 ボロボロの家に掛けられたこれまたボロボロの看板は、元々の白とピンクの縞模様に赤錆が加えられた三色になり、ここに服を預けて本当にきれいになるのか疑わしい。

 ともあれ、このクリーニング屋の突き当りを左に曲がると、後は緩やかな上り坂を道沿いに上ればそこがかつての我が家だ。

 俺は坂道を先程までと同じに、昨日より早足で登り始める。のどかとも寂しいとも言う田舎の風景は、今この時だけは何の感情も生み出さなかった。

 

 しばらくして坂の終わりが見えてきた頃、坂の頂上から何か黒いものが生えてきた。

 それがこの辺では見ない高級車で、持ち主が例の悪徳業者であることに気付くのにたいして時間はかからなかった。何しろ、ここに車で訪れる者など他に思いつかない。

 車に近づいてみるとエンジンはかかっておらず、キーも抜かれている。恐らく家の敷地内にいるのだろうが、だとすると少し厄介だ。

 (どうする?今日は諦めるか?)

 そんな考えが頭をよぎったが、すぐにそれを追い払って昨日と同様に壊れている垣根の方に向かう。ここから侵入すればまずばれないだろう。

 一応垣根をくぐる前に耳を当てて中の音を聞こうとするが、庭には誰もいないのか特に物音らしい物音は聞こえなかった。

 

 (よし。行くぞ)

 深呼吸を一つ。一思いに垣根をくぐる。

 抜けた先には当然だが昨日と同じ庭と雨戸の締まった縁側。

 時間が止まってしまったかのような母屋は、静まり返って悪徳業者の気配もない。とりあえず、新たに起こった問題については一安心だ。

 周囲を警戒しつつ足音を忍ばせ、玄関の前を横切ると、視界の隅に悪徳業者が入った際にそうしたのだろう、開け放たれた正面の門が見えた。

 先程は門の近くに人がいる可能性を警戒して昨日と同じ垣根から侵入したが、蔵との距離はこちらの方が近い。脱出する場合はこっちから出た方が良いだろう。

 

 そんな事を考えていたその時、これから向かう蔵の方で何かを引きずるような音が聞こえ、危うくもう少しで声を出してしまいそうになった。

 (業者だよな?ただ蔵を物色してるだけ……だよ、な?)

 声を上げなくともその音で居場所がばれるのではないかという程大きく心臓が鳴っている。

 引きずるような音はそれっきりで、俺の耳には今は心臓の音しか聞こえてこない。

 少しずつ、少しずつ足音を消して母屋の外壁に沿って蔵に近づいていく。

 

 (何でもない。何でもないに決まってる。全部夢だ。何でもないんだ!)

 一歩ずつ進みながら自分にそう言い聞かせる。

 こちら側の母屋の外壁はもうすぐ終わる。

 再度深呼吸を一つ。意を決して母屋の角から顔を覗かせた先にあったのは、絶対にあり得ない――いや、どこかでそう予想していた光景だった。

 

 倒れている男とその前に立っている女。女は昨日と同じ格好で男はスーツ姿。俯せで倒れており表情は分からないが、横に人がいるのに、というかこんな謎の女がいるのに一切動かないところを見るとおそらく意識は無いだろう。

 そうだ、意識がないんだ。意識がない“だけ”だ。絶対そうだそうに決まっている。だってあり得ない。俺の人生はそんな衝撃的な事件に巻き込まれる様なものではないもっとつまらないものの筈だ。

 

 だからあり得ない。そんなドラマのような衝撃の展開。

 だからあり得ない。死体なんてあり得ない。

 女が男の横に正座して両手を合わせている。あり得ない。

 「いただきます」とか言っている。あり得ない。

 女の手が赤く光って男の体に入り込んでいく。あり得ない。

 男の体から一滴の血も流さず女の手が引き抜かれ、野球ボールほどの大きさの白い発光体が握られている。あり得ない。

 その発光体を握り飯のように齧り、美味そうに咀嚼して飲み込み、手の中に半分ほど残ったそれを再度齧り美味そうに咀嚼して飲み込み、残ったその半分を再度齧り美味そうに咀嚼して飲み込んで三口で完食した。あり得ない。

 再度両手を合わせ「ご馳走様でした」と頭を下げそれから俺に気付きちょっと驚いたように立ち上がって怒ったような顔をして男を乗り越え近づいてきて俺は尻餅をついて駄目だ逃げよう早く腰が抜けて立てない女が更に近づいてきて距離が縮まってどんどん近づいてきて下半身に力が入らない既に目の前に立っていて這って逃げようにも腕も動かない顔を覗き込んできてもうだめだ。

 


 畜生め。全部現実だ。

 


 「おい、なんでここに居る。昨日もう来るなと言っただろうがっ!」

 女が俺の胸ぐらを掴んで引き起こす。ああ終わった。俺は死ぬ。ここで死ぬ。ここで完全に終わりだ。享年十八歳。特に信心深い訳ではないけど多分安らかに眠る……と思う。

 「おい!聞いてるのか?おい!おいって!」

 なんか話しかけてくる。命乞いとかしたら聞いてくれるかな。いや駄目だろうな人の魂食らうとか言ってたし多分俺も食われるんだろうな。食われるのって痛いのかな。いやでもあいつは何の反応もしてないしたぶん大丈夫なんじゃないかな。ていうかあれ死んでるのかな。いや魂抜かれたら死ぬだろうけど殺した後食ってるのかな。刀に憑りついてるんだし殺されるとしたらやっぱり斬られるのかな。あ、でもあいつ血が出てないな。ってことは斬られるんじゃないのかな。どうやって殺されるのかな。死ぬのって痛いのかな。痛くない殺され方とかあるのかな。あったらそれにしてほしいな。

 

 「ああもうっ!聞け!」

 パンと乾いた音が俺の左頬に響き、その音と痛みで俺は不思議に冷静さを取り戻せた。

 「折角昨日見逃してやったのに何で戻ってきたんだ。そんなに同胞の魂が抜き取られる所を見たかったのか?」

 「えっ。あ、いや。あの」

 何か言わなければとは思うが、言葉が出てこない。

 

 女はそんな俺から手を離すと、深いため息を一つ。

 「まあいい。もう、これが最後のチャンスだからな。いいか?絶対にもう戻ってくるなよ?絶対だ。今日この男を食って、これで三週間は余裕で持つだろうが、もしこの次来たら空腹かどうかに関係なくお前の魂を食うからな!いいな!絶対だぞ!」

 女はそうまくしたてると俺の胸ぐらから手を離し、倒れている男の傍に置いてあった荒覇吐を腰に帯びると、男の両脇を持って母屋の壁際まで引きずっていく。

 

 「あ、あのっ」

 「まだ何か?」

 何か聞かなければと咄嗟に声をかけた俺に、女は男を母屋の壁に寄りかからせて不機嫌にそう答える。

 何かと聞かれてふと何を聞きたいのかまとまっていない事に気付く。

 何か、何か言わなければ。

 「その男は、その……死んでたり?」

 聞きたいことはそれだけじゃないが、咄嗟に出たのはこれしかない。

 「いや」

 俺に言い直す機会を与えず女は答える。

 「まだ死んでない。というか魂を抜かれても死なない」

 意外な答えだった。

 

 「魂というのは命と言うよりむしろ精神に近い。意識が戻った時には記憶の混濁はあるし、ひどいうつ状態にはなるが、うつの方は時間経過である程度まで回復はする。これでいいか?ほら、もう行った行った」

 そう言われて実際壁にもたれかかっている男を見ると、僅かだが呼吸のリズムに合わせて腹が動いているようでもある。

 (だったら俺が食われても死なないのか?でもうつになったり記憶喪失になるのは嫌だな。やっぱり)

 

 そんな事を考えて何の気なしに女に視界を戻した時、丁度飛んできたボールが顔面に当たる瞬間、一瞬だけ止まって見えるように世界がスローモーションになった。

 当然止まって見えるのは一瞬だけで、すぐに実際の動きが追い付いてくる。

 女が俺に飛び込んでくる。

 「うぐっ!」

 女のタックルを受けて思わず呻き声をあげながら、俺は仰向けに倒れた。

 突然の攻撃に抗議しようとする俺を尻目に、女は起き上がると俺のはるか後ろを険しい顔で睨みつけている。

 「おい!こいつは無関係だ。巻き込むな!」

 女がその外見からは意外なほどドスの効いた声で俺の背後に向かって叫ぶ。

 思わず女の見ている方向に仰向けのまま振り返る。

 

 ああ、そうだ。大事なことを忘れていた。

 この女がいるという事は、昨日の一件が夢ではないという事は、つまりあの男も夢ではないという事だ。

 壁の上に例の大男が立っている。

 昨日は暗闇の中で一目見ただけだったが、改めてよく見ると忍者のような格好をしている。

 柿色の装束に身を包んではいるが、その服の上からでも逞しい肉体であることは見て取れる。

 また、これまた柿色の頭巾で頭を覆っており、その下に見える肉食獣の如き鋭い眼光が女に注がれている。

 「ふん、あれだけでは改心せぬとは強情な奴よ。それにまさかその男が一味であったとはな。まあ良い、この春海入道(しゅんかいにゅうどう)がまとめて相手をしてくれる」

 入道と名乗ったという事は坊さんのようだが、僧侶らしからぬ肉食獣の眼光が俺に向く。

 「こいつは無関係だと言っているだろ。あんたのは自力で解いた。こちとら十年間封印されて体力有り余ってるんだ。あんなもの屁でもないね」

 女は不敵な笑みを浮かべてそう返すが、よく見ると目の下にクマができている。

 

 「とりあえずこいつは私が巻き込んだだけだ。解放してもいいだろ?」

 「ぬかせ、いましがた貴様がそちらの御仁を襲った時、その男は眺めていたではないか。その上昨晩気を失ったその男を庇っていたのは貴様だぞ?」

 俺を顎で示しながら俺をここから離そうとする女と、同じく顎で示しながらそれを拒否する大男。

 もしかして今、俺はとんでもなく危険な状況にいるのではないだろうか。

 

 恐らくだが、この大男は俺の事をこの女の仲間だと思っている。その上女があの悪徳業者の魂を食べている所を俺が傍観していたのを知っていて、それが証拠だと言っている。

 大男は昨日女を襲撃し、蔵の壁に磔にした。という事はその女の仲間であるとされ、その磔を解くのに一役買ったと思われている俺に対しあの大男がどういう態度に出るのかなど考えるまでもないだろう。

 更にこの女は気を失った俺を庇っていてくれたらしい。

 非常にありがたい、恩に着るべき事だが、この大男には疑惑をより決定づける事実となった。

 現に、さっきまで俺が立っていた場所を通り抜けたのであろう棒状の刃を持つ手裏剣が深々と地面に突き刺さっているのが女の肩越しに見える。

 

 「問答無用だぜ春海!どうせこいつら悪い付喪なんだろ!?」

 二人のいずれとも違う若い男の声が響く。大男の陰になって見えなかったが、もう一人誰かいるようだ。

 「ふん、今日は相方も一緒か」

 女がもう一人の声に返しながら俺を引き起こす。その間も大男から目を離さない。

 「こいつは私とは無関係だ。あんたからも相方に言ってやってくれ」

 「そんな話信じられるかよっ!」

 もう一人の声の主が女の言葉につられて大男の陰から姿を現した。

 俺より一つか二つ年下だろうか、近所の高校の制服と思われるズボンに学校指定のワイシャツ姿で、開けられた第一ボタンの下には黒いインナーが覗いており、四月だというのにワイシャツは肘までまくり上げられている。

  バトル物の少年漫画から飛び出してきたような、よく言えば元気そう。悪く言えば頭の弱そうな短いツンツン頭がこちらを見下ろしている。

 

 「立てるか?」

 ツンツン頭らに聞こえないように女が俺の耳元で囁く。

 「死にたくなければじっとしていろ。いいな?」

 そう言って女は俺から離れ、一歩ずつツンツン頭らの方に近寄っていく。

 「ふん、まあいいさ。どちらにせよここは狭い。むこうの、もっと広いところに行こうか」

 言いながら荒覇吐に手をかける女。抜刀するようなそぶりを見せながら顎で正門を指さす。

 「逃がしはしねぇぜ!」

 叫ぶや否や、ツンツン頭らは壁から飛び降り女に殺到する。

 大男の棒が女の頭めがけて振り下ろされる瞬間、女は紙一重で後ろに跳び下がり、振り返りざま両手で俺を抱え上げた。

 

 「うおおっ!?」

 意外な程の怪力で俺を持ち上げた女に思わず声を上げるが、その程度で驚いてはいけなかったことをすぐに思い知る。

 「おわああああっ!?」

 「黙れ。舌噛むぞ」

 情けない悲鳴を上げる俺に女が耳元で呟くが、それは無理な話だ。

 何しろ人生で初めてお姫様抱っこというのをされたまま母屋の壁から蔵の壁そして母屋の屋根と三角跳びで登ったのだから。

 「ちぃ!」

 「待ちやがれ!」

 尻の下で連中が騒いでいるが、女はそんなものどこ吹く風とばかりに屋根を駆け、家の裏に広がる山へと飛び込んでいく。

 「うおおあああああああっ!?」

 「うるさいな。耳元で騒ぐな!」

 俺を抱えたまま。

 

 山の中、雑木林を抜け、けもの道を横切り、普通なら絶対に入り込まないような奥まで普通なら絶対に山道では出ないスピードで俺達は到着した。

 「撒いた、かな?」

 雑木林に少し開けたところを見つけて俺を下ろすと、女はそう言って後ろを振り返る。

 「流石にここなら、すぐには――」

 

 すぐには何なのか、その続きが発せられることなく女はどさりと崩れ落ちた。

 「大丈夫か!?」

 起き上がらせようと咄嗟に肩を貸す。

 「お前、顔真っ青だぞ」

 女は先程までとは別人のように弱り果てていた。

 青ざめた顔からはじっとりと脂汗が流れ、呼吸は荒いという域を超え、喘息のようにひゅうひゅうと音を立てているばかり。何とか立たせても足の、というより全身の筋肉が萎えてしまったかのように自力で立つことすらもはやままならなかった。触れた肌が氷の様に冷たい。

 「どっかやられたのかっ!?」

 「いや……だ、大丈夫……少し疲れたか、な」

 弱々しい笑顔から空気の抜けるような音と共に、蚊の鳴くような声が絞り出される。どう見ても大丈夫ではない。

 

 その場に座り込んだ女は、地面から突き出していた手ごろな大きさの岩に抱きついて何とか体を起こしながら、青い顔を俺に向けパクパクと口を動かしている。

 「お前……は、逃げろ……」

 「お前が治ったらすぐそうするさ」

 どういう訳か、この女は俺を庇ってここまで逃げてきた。流石に危ないところを救ってもらった恩人をこんな山の中に見捨てていけるほどまだ腐ってはいないつもりだ。

 

 女は何か言いたげに口を動かしたが、それ以上は辛いといった様子でひゅうひゅうと喉が鳴るだけだ。

 俺はただただ、女の背中に手を当ててさすってやることしかできない。

 それから随分そうしていたような気がするが、時計がないため今の時間は分からない。

 ただ、少なくとも女が喋れる程度に回復するだけの時間はたっていた。

(つづく)


ここまでご覧いただきありがとうございます。第2話投稿しました。

次話は7/25(月)以降に投稿予定です。

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