獣のような顔つきで(2)
14年前の冬至の前、モニカは真に孤立した。
彼女の親衛隊を名乗るならず者どもの前で、魔法に神も精霊も関係ない、もしかしたらそんなものは居ないのではないか、などと口走ったことが原因であった。
自称親衛隊の主だった者たちは正統派古典回帰主義オーガーであり、彼らオーガーやトロル、オークは闇の女神と戦神マルス(この2つの神は彼らの神話において度々混同される)、父祖の霊を絶対的に崇めており、伝説的な戦いに参加し勇敢に死んだものは神々の座に登れると信じていた。
そんな彼らにしてみれば、お前たちの信仰は無意味だと罵られたに等しく、モニカの元を去るには十分な理由となった。
彼女はそれでも平気だと思っていたし、自分は間違っていないと思っていた。
その年の冬至の夜のこと。
ドラコ家にはたくさんのひとびとが集まり盛大に宴を催していたのだが、モニカは仕事を与えられもせず、全員から無視されてしまった。いたたまれないどころの話ではない。
ついに彼女はギュンター宅を抜け出した。
メルは彼女の動きに気づくとシャンテを呼びつけ、何事かを命じた。
モニカは着の身着のままよりは多少マシな旅装を整えると、人目を避けるため《断絶の壁》中腹の山道で東の町へと向かった。焦らずに歩けば夜明け前にはたどり着けるだろうと考えたのだ。
《断絶の壁》はひとびとにとっても獣にとっても良い狩場である。山道には数kmごとに山小屋または休憩用の洞穴が用意されていたから、モニカの判断はそう間違っていないように思われた。
大間違いだった。
そもそもただの山道という時点で遭難の危険性があるというのに、季節は冬。しかも夜だ。
《断絶の壁》の旧街道を登り始めた頃にそろそろと振り始めた雪は、モニカが山道に入ってしばらく歩いた夜半過ぎに吹雪となった。
彼女は魔法で明かりを灯してはいたが、雪が乱反射してかえって視界が悪くなる。降り積もる雪は山道を隠してゆき、強い風は容赦なく体温と体力を奪っていった。
温熱の保護魔法を発動しているにもかかわらず体はガタガタと震え、歯の根も合わずに奥歯はガチガチを音を立てる。
ともかく山小屋に避難しなくてはならないと焦ったが、そんなものはどこにも見えない。
慌ててうろたえていると狼の遠吠えが聞こえたような気がした。後ろから何かが追ってくる気配もする。
恐怖に駆られた彼女は闇雲に走り始め、いくらも行かないうちに足を滑らせ山肌を滑り落ちかけた。
もうだめだと思ったその時、彼女の腕を掴んで力強く引き上げたものがいた。
「あのよう、半魔のお嬢さん、あんた死にてぇのか」
低い声でそういったのは、モニカがバカにし続けていた気弱なオーク、ボグロゥであった。
彼はメルがシャンテにモニカのあとを追わせようとしたところに横から口を挟み、自ら志願してモニカを追いかけてきたのだった。
◇
意外なようだがオークは鼻が利く。
口さがないものは「豚の血が混じっているからだ」などと揶揄したが、それを聞いたオークどもはどれほど腕が立たずとも激昂することがほとんどだった。オークは伝説上の魔猪・ナナアベを始祖の一つと数えている。猪と豚は似て非なるもの、我らを家畜扱いするなというのが彼らの主張だった。
また、豚の血云々と彼らをバカにするものはたいてい獣人、それも狼人や犬人だったから、どっちもどっちではないか、というのが周囲のものの見方ではあった。
話がそれたが、ともあれボグロゥの鼻によって山小屋はすぐに見つかった。
大きく張り出した岩を屋根とし、その下の浅い洞窟(というよりも大昔に熊が掘ったねぐら)の前に頑丈な建屋を取り付けたものだった。
ボグロゥの知るところによれば内部は清潔にされ、ある程度の非常食と薪が用意されているはずだった。
が。
「……先客がいるな」
「え?」
山小屋の中を覗き込むと、奥の方に敷かれた寝床代わりの麦わらの上に、傷を負った大きな狼とその仔がうずくまっていた。どちらも体毛は立派な銀灰色だったが、親狼は泥と血にまみれていた。
仔狼は2人に気づくとすぐさま飛び起き、歯をむき出しにして唸り声を上げる。しかし親狼はそんな我が仔の首根っこを加えてぽんと放り投げ、なんとかして身を起こし、ボグロゥを見据えた。
「なにを」
「黙ってくれ」
ボグロゥはモニカに山小屋の扉を閉めさせると、自分は膝をついて狼達ににじり寄った。そうすると彼の首の高さは、手負いの狼が飛びかかって食いちぎるにはちょうどよい高さとなった。
狼と彼は見つめ合い、身振りと目の動き、唸り声のやり取りを行った。10分ほどもそうしてから、ボグロゥは腰を上げた。
「ちょっとまずいことになった」
「なにが」
「彼女たちはある群れに追い回されている。彼女の予想では最低でもあともう一晩は吹雪が止むことはない。そのうちに群れが追いつくだろう。彼女は限界が近いが、なんとかして仔を守りたい。手伝ってはくれないか。無理ならすぐに立ち去れ、だとさ」
モニカは怪訝な顔をした。
ボグロゥは彼女に復讐するため適当な嘘を言っているのか、さもなければあたまがおかしいのではないかと思ったのだ。
「疑っているな? 無理もねぇ。俺たちオークは学がねぇのがお決まりだからな。だが、誓って事実だ。俺の氏族、っていうか実家は150年前から牛と羊の遊牧をしてるが、冬の間は狼たちを雇うんだ。だから狼とはある程度話ができる」
そのときになって初めて気がついたが、モニカにとってボグロゥの声をきちんと聞くのは今回が初めてだった。いつもおどおどしていじけた態度をとっていたはずなのに、今の彼はオークときいて皆が想像する、ふてぶてしく手強い雰囲気を身にまとい、堂々と快活に喋っている。
いったい何が彼をそうさせたのだろうと彼女は不思議に思ったが、口に出す余裕がなかった。体の震えが一層大きくなってきたからである。
「ともあれ、今のままじゃまずい。火を焚くから、これを羽織ってその中で服を脱げ」
「えっ」
肩に羽織っていた毛長牛の毛皮を放ってよこしたボグロゥに、モニカは抗議の声を上げた。
「がたがた震えてんじゃねぇか。どうせそのコートの下の服は汗でびっしょりなんだろ。冷えた汗で濡れた下着は体に良くない。さっさと脱いで乾かさないと、風邪ひいて死ぬぞ」
「その……私に仕返しをするんじゃあ……」
肩を抱いて後ずさったモニカに、ボグロゥは肩の力を抜いて呆れた顔つきで苦笑した。
「あんたがそう望むなら、そうしてやっても良いぜ。でも今はまず暖かくして飯を食うことだ。ちなみに俺はヒト形の肉は食わねぇよ。ご先祖様じゃあるまいし」
そう言って小屋の壁際に積まれた薪に向き直る直前、ボグロゥの目に浮かんだものには、確かに怯えが含まれていたようにモニカには思えた。
◇
小屋の中の間取りは、幅3m奥行き6m、入り口から1.5mほどが土間で、あとは一段上がって板張りだった。
板張りの床下には乾いた砂と、その中に分厚い石をセメントで固めて作った通風管。通風管は土間から板間の中央にかけて設けられた、幅70cm長さ1.5mほどの竈の煙突だ。床下を温め熱エネルギーを半分程度失った排気は、改めて屋内の煙突を抜けて外に出ていく仕掛けだった。竈自体は板間の上に台形に張り出しており、竈の焚口(燃料投入口)は土間側に大きなものが一つ、鍋をかける「かけ口」は3つあった。かけ口とかけ口の間の斜めになった側面部分にも小さな焚口はあったから、そこから薪を入れることもできるし、暖を取ることも、多少の光源を得ることもできる。よく考えられた仕組みであった。
ボグロゥによると、これほど手の込んだ暖房の設置された山小屋はあと2~3しかないということだった。もっとも、もっと小さくて囲炉裏が真ん中にあるだけの小屋のほうが使い勝手は良いとのことだったが。
竈の中に手早く薪を積み火を点けたボグロゥは、小屋の中に縄を二本ほど張った。一本は濡れた衣服を吊るして乾かし、もう一本は小屋の中にあった毛布を吊るして目隠しにしろ、ということだった。
私は気にしないのに、とモニカが言うと、ボグロゥは俺が気にするんだとそっぽを向いた。実際その時のモニカはボグロゥに男性としての魅力を一切感じていなかったが、彼の意思を尊重することにした。寝藁は狼達が使っていたから、二人は床板の上に直接座った。
ボグロゥの背負ってきた大きな背嚢の中身は、乾いた衣服や毛布に毛皮などの防寒具、それに干し肉やチーズにバター、漬物などの食料がぎっしり詰め込まれていた。衣服はモニカのものをシャンテが包んだものだった。ついでに、彼はモニカに合流する前に野うさぎを二羽ほど生け捕りにしていた。
彼は野うさぎを手早く絞めると一羽は自分たちの食事に、もう一羽は皮を剥がないまま狼達にくれてやった。下手に皮を剥いだりモツを脱いてやると子供が狩りをしなくなるとはボグロゥの弁だ。
深夜というよりもはや明け方、疲労の蓄積もあってモニカはボグロゥの作ったシチューを食べるとすぐに寝入ってしまった。
目を覚ますと清潔な毛布が肌にかけられていた。一応気になって股間に手を伸ばしたが、何かをされた形跡はなかった。間仕切りにした毛布をそっとめくると、竈の向こうでボグロゥがライフルを股の間に抱えたままこっくりこっくりと船を漕いでいた。
その様子をモニカはほんの少しだけ微笑ましく思った。
◇
母狼の予言どおり、吹雪は当面収まりそうになかった。
山小屋正面の明り取りのガラス窓には分厚く雪がへばりつき、照明としてはあまり役に立っていなかった。
古い熊穴に太い丸太を組み合わせて作られ、内張りに分厚い土壁と板張りを施された山小屋の内部は竈の火さえ絶やさなければなかなかに快適で、モニカはもう2~3日ぐらいならここにいてもいいかとすら思ったほどだった。
しかし狼達とボグロゥの緊張は時間が経つほどに増していった。聞けば、すでに狼の母娘を追ってきた群れの斥候が山小屋周辺に到着している気配がするということだった。
「というわけでだ、お嬢さん。あんた医療魔法は使えるか」
「どうして」
「このおっかさんたちは早いとこ逃げたがっている。もしくは俺たちを巻き込みたくねぇみてぇだ。だが、下手をするとここで立てこもって共に戦う必要がある。だから、せめても傷を治してやれないかと思ってな。できるだけ野生の狼とは距離を取りてぇが、やむを得ねぇ」
「そこまでする必要があるの?」
「どうも相手は一筋縄じゃいかねぇらしい。今のボスは彼女の夫を騙し討ちしてボスになったが、猟師も魔猪も恐れないそうだ」
どのみちこの吹雪じゃ小屋の外に出ても遭難するだけだ、ひとまず腹ごしらえだけはしとかにゃ、とボグロゥは狼の母娘のぶんまで食事を用意し始めた。
モニカは母狼に医療魔法をかけながら、ようやくのことで自分がひどく物事を間違えていたのではないかと思い至った。
◇
結局モニカとボグロゥは狼たちの戦いに巻き込まれてしまった。狼の母娘ですら山小屋を出ることをためらうほどの吹雪となったからだった。
とはいえ結論から言えば、山小屋に籠もって二晩目にやってきた狼の群れとの対決は、ボグロゥたちの勝利に終わった。
新しいボスは力がってもあとはひたすらしつこいだけで、頭は少々足りなかったらしい。あるいは血が頭に上りすぎたのか。ただ包囲し続けるだけで十分勝てるというのに、山小屋に立てこもるボグロゥたちに対して戦力の逐次投入や調整の取れない散発的な攻撃といった愚行を犯したのだ。
ボグロゥたちは開口部が少なく奥行きのある山小屋の構造を活かして、各個撃破を続ければそれでよかった。
このとき、母狼とボグロゥはもちろんのこと、モニカも魔法を駆使してずいぶんと活躍した。
そうして増え続ける損害によって群れから指導力を疑われかけた新しいボスは、母狼の挑発に耐えることができなかった。
まんまと山小屋の中に誘い込まれた彼は、天井から逆落としに降ってきた母狼によって瞬時に喉笛を噛みちぎられた。ボグロゥもモニカも手をだせないほどの、電光石火の出来事だった。
しっぽをゆらゆらとはためかせながらボグロゥを振り返える母狼の言わんとする所は、モニカにも察することができた。
目には目を、刃には刃を、奇襲には奇襲を。
そうして母狼は娘を連れて、堂々と群れに帰っていった。
吹雪は終わり、朝焼けの中でキラキラとダイヤモンドダストが瞬いていた。
狼達の後ろ姿を見送り安心したモニカは、ようやくのことで腰を抜かすことができた。
慌てて彼女を支えようとしたボグロゥだったが、モニカに首根っこにしがみつかれ、柔らかい身体を思い切り押し付けられて硬直してしまった。
この二晩でモニカはボグロゥを大いに見直していたし、彼には自分の身体を抱かせるだけの功績があったと思った。何より彼女自身がたくましい雄の腕に抱かれて安心したい、とほぼ本能的に思い、そういった行動に出たのだ。
扇情的なモニカの眼差しと彼女が見せつける胸の深い谷間に、ボグロゥはオークの青年らしく獣じみた表情を作った。
正直おそろしい面構えだったが、モニカにはそれがかえって頼もしく思え、腕を広げて彼を迎え入れようと──あるいは彼を喰おうとしたのだった。
群れとの対決の部分が矛盾の塊だったので多少直しました……




