それはレモンのような風味がして
アンネリーゼはザボス家の女中たち同様、早起きだった。
ザボス家上屋敷に泊まり込むようになって2週間ほどしたころから、明け五ツ(午前5時)に寝床から抜け出し、遅くとも四半時後(15分後)にはザボス家上屋敷の中庭で走りこみと鍛錬を始めていた。起床の時間は調理人たちや当番兵のほうが早かったが、それとて半時ほどしか変わらない。
上屋敷に駐屯するザボス旅団第1大隊の兵どもは最初それを興味深げに眺めていただけだったが、彼女が20kmほどを1時間とかけず走り終えていることに気がつくまでそう長くはかからなかった。これはアンネリーゼがくる前に彼らが課業の中で行っていた持久走訓練よりも5kmほど長く、10分以上短い時間で行っていることだった。しかもアンネリーゼは10分ほどの休憩ののち、筋力トレーニングや長剣の素振り稽古まで行い、朝食のときには疲れた様子を一切見せなかったのだ。
そのうちに血気盛んな若い兵どもや、立場というものがある兵科下士卒や下級将校、軍役にこそついておらずとも有事には旗本としてザボスの指揮下に入るものたちは、こぞってアンネリーゼと競うように走り込みを行い始めた。やがて兵ども、旗本どもに混じって女中や執事、下駄番や庭師たちの若い者たちも自分のペースで走ったり朝の運動を始めるようになっていた。
ザボスは朝っぱらからどたどたうるさいとぼやいていたが、アンネリーゼたちを止めるような言動は一切しなかった。
10月も末に入り氷雨が多くなってしばらくのち、国境地帯で悪質な風邪が大流行しているという話がザボス家にも入ってきた。誰あろうザボス家旗本にして公安警察二課長補佐、アッシュ・エドモン警部補がレスタでの現地情報交換の際に罹患していたのだから当然である。
にわかにザボス本人や旅団本営の動きがあわただしくなり、公安関係者の出入りも激しくなった。
アンネリーゼは構わずに毎朝走り鍛錬を行っていたが、それまでと違って雨が降ろうがみぞれが降ろうが、体が冷えるのもお構いなしにそれを続けた。レスタでの風邪の流行の話を聞くまでは、雨の日は堂々と二度寝を楽しみ、さもなければ旗本屋敷(という名の独身寮兼兵舎)の一階のジムで体を動かしていたのにだ。
それで夜は早く寝るというのならまだわかる。この当時、魔王領では全土に送電線が張り巡らされ、電球や魔法石による照明がなされていたが、大半のものは夜10時には就寝していた。ところがアンネリーゼは夜半過ぎまで、ことによると明け方近くまで難民保護に関わる法律や実務の勉強を行っていたのだ。
皆はさすがにアンネリーゼはどこかおかしいのではないかと、いまさらながらに心配し始めた。
11月12日。
その日もアンネリーゼは夜半を過ぎても勉強をしていた。
「魔王領民法第87条は物の所有権について、類似の法律は大教典5巻782頁……難民保護法修正第7条2項に基づき民法87条は以下の修正が加えられ……」
ザボスに与えられた部屋の壁際に置かれた文机に向かい、弱い電灯の光に照らされたアンネリーゼの横顔は、今やはっきりとやつれ始めていた。
その傍らに暖められたミルクの入ったマグカップが静かに置かれる。
持ってきたのは先日正式に王宮警護局を退職し、国家公安委員会公安警察二課に籍を移したベルキナ・アイラ・ユーリアイネンである。ベルキナは引き続きアンネリーゼの警護と監視の任についており、アンネリーゼと同じ部屋で寝起きしていた。
「もう寝たらどうだ、アンネ」
「えー? うーん……ええと、なにこれ、修正7条の影響範囲大きすぎじゃ……いや違うのか、大教典のほうが整理が行き届いてないんだわ……88条の法定果実は……5巻992頁の判例に基づき……」
アンネリーゼは声をかけられたことにも、飲み物を置かれたことにも気がつくことなくノートと法律書、使い古した聖法王国巡回査察用大教典にかじりついたままだった。
「アンネ」
「んー? んー」
ベルキナはもう一度声をかけたが、アンネリーゼは生返事しか返さない。
ぴくりと眉をうごめかせたベルキナは、アンネリーゼの後ろから抱きついた。
「アンネ!」
「うー」
それでもアンネリーゼは生返事を返すばかり。
邪険に扱われないだけまだましか、とは、しかしべルキナは思わなかった。
「もう寝ないとだめだよ」
「んー」
少し強い発音で言ってみても帰ってくるのはやはり生返事。
鼻からフンと息を漏らしたべルキナはアンネリーゼの髪の中に鼻先をうずめた。
思春期の少女特有の体臭が鼻孔をくすぐり、べルキナは陶然となりつつ、それでも強い自制心を持ってアンネリーゼを諭そうとする。
「もう10日以上、1日3時間以下の睡眠しかとってないじゃないか。そんなに無理してさ、倒れたらどうするの」
「うん」
「レスタのみんなが心配なのはわかる。来週の資格試験を落とすわけにいかないのも知ってる。でもそんなに無理しちゃだめだよ」
「うん」
しかしなおもアンネリーゼは机にかじりついたまま、手を休めようとしない。
べルキナはもっと強い調子で諭そうかどうか迷う。
迷っているうちに、アンネリーゼが静かに口を開いた。
「べルキナ」
「ん?! なに?」
「わたし、怖いのよ。聖法王国の内戦の引き金を引いたのはわたしだってことが」
「そんなことはないだろう、思い過ごしだよ」
「事実はもちろん違うわよ。でも難民たちにしてみれば、そういうことなの。来週の試験を落としても、私はきっとレスタに派遣される。その時わたしは、おそらくたくさんの難民たちからの非難の視線にさらされる。わたしは民を守るために騎士を目指した。わたしは彼らを守らなくてはいけないの。でも、もしわたしの業務に不備があって、彼らが不利益を被ることがあったら、その守るべき人たちからの非難の視線に、私は耐える自信がない。わたしはきっと自分を許せなくなってしまう」
アンネリーゼの声の調子は落ち着いたものだったが、身体が少しずつ強張っていくのがべルキナにはわかった。
彼女は夢と現実の狭間で、自分に課した重荷に押しつぶされかけているのだ。
誰もが、べルキナですらもが忘れてしまいがちだが、アンネリーゼはまだ未成年の少女に過ぎない。鍛え上げられた身体を持ち、実戦で練り上げられた技術と戦術と度胸を持つといっても、現実はそれだ。
アンネリーゼ自身もきっと、休養を取らねばならないことを頭の片隅では理解しているはずだ。
だが怪しげな風邪が難民を中心に広まったことが彼女の不安を極度に大きくしている。だから彼女は何かせずにはいられない。不安を打ち消すために。
これが戦闘のただ中であれば、彼女はむしろ喜々として剣を振るい、敵に痛撃を与えることであろう。アンネリーゼは女騎士という肩書を持つ狂戦士だ。戦争の狼だ。
しかしいま彼女が戦うべき敵の姿は見えず、戦う方法はいまだ手中にはない。
落ち着けというほうが無理な話だった。
べルキナはこの愛しい狂戦士が陥っているジレンマに気付くと、自分の胸がきゅうと締め付けられる思いがした。
何かアンネリーゼにしてあげたいという強い感情がべルキナの中に満ち溢れ、身体は自然とそれに従った。
「? べルキ」
「そぉい!」
「なあああ?」
つまりべルキナは後ろから抱きついた姿勢から素早くアンネリーゼの脇の下に腕を通し、椅子から持ち上げるとベッドに放り投げたのだった。
きゃん、案外可愛らしい声を上げてアンネリーゼがベッドの上で跳ねる間に素早く暖めたミルクの入ったマグカップを手に取り、アンネリーゼが身を起こす前にその傍らに座る。
「ちょっと! なにするのよ!」
「こんな投げの一つもかわせないくせに、何もくそもない。これを飲んで寝なさい」
いきり立ちかけたアンネリーゼにカップをずいと差し出す。
「君の焦りと不安はわかる。だが、さっきも言った通り、こんな投げの一つもかわせないほど君は疲弊している。戦場で焦って何かいいことが一つでもあったか?」
怒りに任せて何か言おうとしたアンネリーゼはべルキナの目を見て、口をぱくぱくとさせ、だまってしまった。
べルキナの目には、アンネリーゼを案ずる色しかなかったのだ。言葉の内容にいたっては、ぐうの音も出ない。
アンネリーゼはうつむいて、はい、と言うしかなかった。
べルキナはアンネリーゼに甘く暖かいミルクを飲ませると、自分の膝を枕としてアンネリーゼの安眠のために供出した。
アンネリーゼは、ごめんね、と一言つぶやくとべルキナの膝を有難く借りた。恋愛には今は興味が持てない、と言いながらべルキナに甘えてしまう自分が恥ずかしい、こんな態度を取り続けることであなたを傷つけているのではないか、とも言った。
べルキナはそれには答えず、ただ優しくアンネリーゼの髪を撫で続け、そのうちにアンネリーゼは安心したような寝息を立て始めたのだった。
べルキナはアンネリーゼが寝入ったのを確認すると、アンネリーゼの飲み残しの、ぬるくなったミルクを飲みほした。
ほのかにレモンのような風味がしたのは、きっと気のせいではないのだろう。




