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女騎士(バーサーカー)とオークと、時々バイク  作者: 高城拓
第2章 冬までにあったこと
42/74

女心と秋の空

2017/08/03/20:33サブタイトル変更

 ドロロン、ドロロンと特徴的な排気音とチャチャチャチャチャという規則的な機械音が響く整備工場で、エレーナ・ロブルトヴィチ・シマヅはそのバイクの整備の仕上げを行っていた。

 油染みや焦げ跡のあるツナギに身を包み、赤い長髪をつば付きの帽子に押し込んだその姿は「格好いい」の一言に尽きる。

 彼女の眼前にある、明日納車予定のハーレーダビッドソン・XLCR1000は、今のところ快調にアイドリングしている。

 昨日までに行っていた実走行テストも問題なく、今は最後のアイドリングの微調整を行っているのだ。

 

「しゃっちょー! おきゃくさーん!」


 営業のベアトリスが赤茶けたもふもふの髪を揺らしながら、開け放たれた整備工場の入り口で大声を張り上げる。必要以上にもふもふしているがさもありなん、ベアトリスは羊頭の獣人(ライカン)だ。

 この店の店員は営業2人と整備2人、機械工1人にエレーナ自身を足して6人いたが、みなエレーナに感化されたのか、とにもかくにも元気がよい。それでなくても整備中となれば耳が痛くなるほど騒音が鳴り響くのだから、大声を張り上げねば伝わるものも伝わらない。

 ベアトリスの大声に気づいたエレーナはエンジンを覗き込んだまま左手をちょいと上げ、右手でスロットルをひねった。

 とたんに先程までのおとなしいとすら言える音響はどこへやら、エンジンは大きくけたたましい唸りを上げた。

 ゴバァン、ゴバァン、ゴバァアアと暴力的な音が工場の内張りをビリビリと震わせる。

 それからすぅっとスロットルを戻されたエンジンは、またもとのようにドロロン、ドロロンとアイドリングした。

 しばらくそのままで車体を眺め振動の具合や機械音に集中していたエレーナは、ふっと息を漏らすとキーを捻ってエンジンを停止させた。


「あいよー」


 元気よく振り向くとそこにいたのはベアトリスとアッシュとトマス、アンネリーゼとエミリア、それに見たことのない女だった。

 あらあら元気だったかい、いえもうお陰様でとアンネリーゼと再会を喜びあい、ベアトリスに応接室を用意させると、エレーナは着替えるために一旦ロッカールームに下がったのだった。



「はー! それでウチに?」


 清潔なツナギ(そう、それでもツナギだ)に着替え、アッシュたちの説明を聞いていたエレーナは頓狂な声を上げた。


「ええ、渡した小遣いの半分は使い切ってみせろと。ただ、大殿はあのご気性ですから」


 アッシュの言葉に、ベルキナと名乗った女が黒豆茶片手に頷いた。

 ザボスはケチな時はとことんケチだが、人に施すときはとにかく豪気だ。渡された金の7割5分ほどは使ってみせないと彼が納得しない。そしてザボスから預かった札入れはまだパンパンに膨らんだままだった。

 少し困り顔のアッシュとは好対照に、アンネリーゼは高揚感を隠し切れない面持ちで窓ガラスを挟んで見えるショールームに陳列されたバイクの方を伺っている。

 トマスは相変わらずの糸目でぼんやりしているようにすら見えた。

 そしてレスタ村ではほとんど口をきかなかったエミリアは、至極つまらなさそうにしている。

 エレーナはその視線のありように覚えがあった。

 

「なるほどねー。でなきゃツーストオタクのあんたが、ウチにくるはずもないか」

「オタクは余計ですけどね。でもエレーナさんとこのバイクはめちゃくちゃ出来がいいし、Vツインならなんでもあるから」

「ツーストは素人には扱いづらいからねぇ」


 あからさまに持ち上げて見せたアッシュに対して、エレーナは鼻にかかったような声で返答した。

 これに対してアッシュは、主人であるザボスのごとく気取って肩をすくめて見せた。

 横目で見ていたエミリアは、いかんせん軽すぎるなぁと鼻白んでいたが。


「否定しませんよ。どれもこれも5千~6千回転まで回さないとパワーないし。こないだようやくGT380(サンパチ)入手したんですけど、まーーー言うこと聞きませんしねホント」

「3気筒のうち、どれか一発かからないって?」

「かかったらホンット最ッ高ーッなんですけどねぇ。ここ3週間のうち毎日エンジン掛けて、一回で全気筒に火が入ったのってまだ2回しかないですよ」

「まぁわからなくはないかな―。VH01J(DS400)とかVG02J(DS250)あるじゃん、アレもマフラー設計間違えるとすぐにリアバンク失火するのよね―。きちんと点火揃ったら結構いいんだけどさぁ」

「低速からじわーっとトルク出ますもんねぇ。スロットル感度もすごく素直だし、案外小回りきくし……なんです?」


 エレーナが感心した目つきで見てくることに気が付いたアッシュは怪訝な顔をした。


「いやぁ、案外わかってるなぁと思って」


 それを聞いてアッシュはぷっと吹き出す。


「いやぁ、俺は好きで2スト乗ってるだけで、一応メジャーな仕様のバイクは大体乗ってますから。大殿のパンヘッドやナックルも、調子維持するためにたまに転がしてますもん」

「へー。ザボスのおっさんがパンヘッドはともかくナックル乗ってるとこあんまり見たことないのに、あんまり調子が大崩れしたことなかったからどうしてるのかなと思ったら。そういうことだったのね」

「見直しました?」

「うん。さすがは元暴走族だなって」


 気取った調子でカップを口にしたアッシュだったが、エレーナの一言にむせそうになる。

 アンネリーゼは「わっ、きったない」と身を反らしたが、アッシュの反応とエレーナの顔を見て得心したような顔つきをした。俗に言う、悪い顔、というやつである。

 それから思い切り可愛らしい(肉食獣のような)顔をしてエレーナに暴走族とは何か、と聞いたのだ。

 アッシュはなんとか話をはぐらかそうとしたようだが、結局は。


「はー。いいとこの。ボンボンが。若さを持て余して。夜な夜なバイクで集団で。はーぁ。いやー文明国は違いますなぁあ?」


 アンネリーゼに思い切り見下される羽目になってしまった。


「いやもうだって20年も前の話で」

「そんなんさぁアッシュさん、聖法王国(ウチとこ)のクソ貴族やクソ坊主のクソボンボンがクソ若党引き連れて城下で乱暴狼藉働くのと何が違うのよ? いやホントのとこ」

「ん、んん」

「ザボスのおっさんもさぁあ? いつも言ってるじゃんねぇ? 『最近の若いのは貴顕の責務(ノブレスオブリージュ)を知らん』って。いやーもっともだわ。至極ごもっともだわ。ちょっと見直したわ。なんだかんだ流石は公爵殿下よねぇ?」


 生来の美男子嫌いに火が着いたアンネリーゼがアッシュをいじめ始めたところで、見かねたエミリアが口を出す。


「やめんか、アンネ。あまりに非礼であろうが。立場をわきまえよ」


 それを耳にしたアンネリーゼはエミリアをひと睨みすると、つんとそっぽを向いてしまった。

 思いもかけず険悪な雰囲気になり、涙目のアッシュをよそにトマスとベルキナは困った顔で目を合わせる。

 そこでやれやれとばかりにエレーナがぽんと手を打って宣言する。


「さて、それじゃあバイク見てもらいましょっか。ね?」



 ショールームには大小様々なバイクがきれいに陳列されていた。

 エレーナは一行の先頭に立って、あれこれと説明する。


「あれはハーレー・ダヴィットソンのVL、1210cc。そっちがVLのエンジンをナックルヘッド2期に積み替えたUL。まぁどっちも『遺物』のなかでもさらに骨董品だし、日常的にメンテナンスが必要だから勧めないわ。でも本当に乗ってて楽しいのよ。ザ・バイクって感じね。それはショベルヘッドのエレクトラグライド、ミッションはエボの4速に変更したけど、これも毎日手入れするのが好きな人向けね。乗り心地もそう悪くないのよ。で、これとこれがエボリューションのダイナとソフテイル。このあたりなら手間もそうかからないし乗りやすいと思うわ。なんたって出土数が桁違いに多くて部品もいっぱいあるから、多少の故障もすぐに直せるし。初心者にもオススメよ」


 エレーナはハーレー・ダビッドソンばかり薦めていたが、アンネリーゼはあまりピンと来ていないようだった。

 無理もない。

 Vツインエンジンを搭載したクルーザーバイクというものは、かなり大雑把に言ってどれも同じに見えるからだ。

 タイヤからタンクから何もかも太いか、それに加えて大きな風防やサイドボックスがついているか。

 あるいはフォークがスラリと長く細い前輪を装着して小さなタンクをつけているか、タンクが小さく前輪も比較的細いがフォークはそこまで長くないか。

 せいぜいこの4つぐらいしか類型がない。

 野生馬のようなオフローダー、バッタに見えるトライアルバイク、馬車馬を思わせるネイキッド、狼や山猫を彷彿とさせるスクランブラー、ロバのように小さくかわいらしいミニバイクたち、そしてこの十数年後、幹線街道(のちの連邦幹線高速)及び州道連絡工事の完了を機に一気に流行する「走る意志」の具現であるレーサー。

 これらと比べるとVツイン・クルーザーの類型の差など、素人目(・・・)には有って無いようなものである。

 もちろん「素人目には一緒に見える」ということは「わかるものにはわかる」差であることは間違いなく、そういったところがマニアやエンスージアスト、要するにオタクを刺激するところではある。

 エレーナも商売人であるから、相手が格好をつけたいだけの成金であれば遠慮なしに「わかるやつにしかわからないものにさらにウデをかけた」ものを、目玉の飛び出るような金額で売りつけたりもする。

 だが今回は普段から世話になっているザボスの客人で、バイクについては操縦できるだけで素人同然、彼女自身も気に入っているアンネリーゼが相手だ。アコギな商売はできない。

 というわけでトラディショナルなクルーザーの説明をさっさと終え、XR750を始めとしたスポーツモデルを見せたところでアンネリーゼの目の色が変わった。


「エレーナさん! あれ! あれかっこいい!」


 興奮したアンネリーゼが指差したのは、壁際に並べられた小柄なVツイン。

 それを確認したエレーナは目を細めた。


「ほー。いいところに目ェ付けたわねぇ」


 アンネリーゼが指差したのは一見してハーレーには見えないXR750でもなければ細身のタンクが目立つXL883でも、ましてやさきほど整備工場で整備を終えたXLCR1000でもない。

 ハーレーのそれより広い角度でシリンダーが立つVツインエンジン。それを囲みこむかのような鋼管トラスフレーム。そそり立つフロントフォークに長めのスイングアーム、太くゴツゴツしたタイヤを付けてはいるが、タンクは大きくシートは幅広く前後が短い。いわゆるスクランブラーというやつだ。

 

「ほんだ、ぶいてぃーあーる」

「そう。ホンダ・VTR。もとはネイキッド・ロードスポーツだけど、フォークとスイングアーム、ホイルとタイヤを変更したスクランブラーカスタムだよ」


 舌っ足らずな発音でそのバイクの燃料タンクに書かれた文字を読み上げるアンネリーゼの横顔は、まるで幼児そのものだった。


「どうだ、ちょっと乗ってみるかい?」

「いいの?!」

「いいともさ。あたしもこれはお気に入りでね。たまにこれで買い物に出たりばらして整備したりしてるんだ。いつでも動くようになってるよ。ベアトリス、お客さんが試乗なさる。着替えを」


 ベアトリスに連れられて跳ねるような調子で更衣室に向かうアンネリーゼを見送るエレーナに、アッシュが気遣わしげに声をかける。

 

「……いいんですか? あれはヨナバルさんの」

「いいんだよ。旦那の形見はあれだけじゃないんだし。それに、乗れないようなら売らなきゃいいだけさ」


 そういったエレーナの目に映る色は、喜びと寂しさのないまぜになったものだった。



 ディィン、ディィンと90度Vツインが排気音を撒き散らす。

 パッドの入った革のジャケットとパンツ、ヘルメットを身につけVTRにまたがったアンネリーゼが軽くスロットルを捻ると、そのエンジンは即座に応答して回転数を上下させた。


「それじゃまず、フェンスで囲った店の敷地を軽く2~3周しておいで。タイヤはまだ冷えてるし、ブロックパターンだから舗装面でもよく滑る。そのエンジンはよく回るからね。スロットルの開きかたには注意するのよ」

「わかりました!」


 エレーナの注意に元気よく答えたアンネリーゼは、エレーナが自分から離れるのを確認すると即座にギアを1速に入れスロットルを開きながらクラッチミート(接続)、硬質な排気音を残して矢のように飛び出していった。

 駐車場にたむろしていた常連客らしいドワーフやらトロルやらが、ほぉ、と感心した声を上げる。

 彼らもエレーナがVTRに乗るところは何度か見ており、幾人かは乗らせてくれと頼んで乗ってみたことはあるのだが、人様の愛車をあれほど元気よく走らせる度胸はなかったのである。


「あっはっはっは! いやー元気がいいねぇ。見てて清々しいよ」

「申し訳ありません、アレのわがままで、とんだご迷惑を」


 腰に手を当てて豪快に笑ったエレーナに、横合いからエミリアが声をかけた。

 セリフとは裏腹に、大してそう悪いとも思っていないような声だった。


「んーん、別に。あたしゃバイク屋だからね。モノかウデ売らなきゃ従業員のお給料も出せません、ってね」

「そうですか。でも、旦那様の形見の品でもあると」

「アンネちゃんは良い子だからね。任せてみたくなったのさ。それよかあたしゃ、あんたがずぅっと辛気臭い顔してる方が気になるね」


 明るい調子のエレーナに言われて、エミリアは余計に機嫌を悪くしたようだった。

 べつにそんなこと、と言おうとしてエレーナにとん、と人差し指で眉の間を突かれる。


「眉間の縦じわ。癖になっちゃうわよ。せっかくの美人が台無し」


 顔をほんの少し赤くししてうむむ、と唸るエミリアに、エレーナはヘルメットを渡してにっこりとした。

 

「まぁちょっと付き合いなさいな。ね?」



 

 存外に広い敷地をぐるぐると回っていたアンネリーゼが戻ってきた。

 常連客たちが手を叩いたり軽い歓声を上げてアンネリーゼに賛意を示す。

 エレーナ姉御の大事な宝物を遠慮なしに走らせ、傷つけずに帰ってきたことへの賞賛だった。

 アンネリーゼは片手を上げてそれにいちいち応えていたが、店の正面に到着すると意外なものを目にして戸惑うことになった。

 Vツインを載せた低く長い、いわゆるチョッパーバイクにまたがるエレーナとエミリアだ。


「アンネちゃん! これからあたしら街のほう流すんだけどさぁ、一緒に行かない?」


 エミリアはアンネリーゼほど新しいものには興味がない。

 実際、見るも見事な仏頂面のままで、エレーナのまたがるショベルヘッドエンジンのFLHロングチョッパーカスタムの後席にちょこんと座っている。

 ザボスの屋敷でもバイクには見向きもしなかったのに、と不思議なものを見た顔をしていたアンネリーゼだったがそれはそれ。

 エレーナの問いかけには即座に「ああ~、いいっすねぇ~」と答えたのだった。




 騎馬の群れを思わせる騒音を撒き散らしながら、バイクの一団は工業団地と市街地を東西に分ける産業道路、通称『エイト・マイルズ』を北上していた。向かうはオーテク河南岸の産業港。そこで合流するオーテク河南岸道路を西へと折れ、中央通りにぶつかったところで南進、中央操車場からバルクライ通りを経て店に戻る計画だ。

 バイクの一団は合計8騎。アンネリーゼが借りたVTRとエレーナのFLH、それにエレーナの店からついてきたハーレー・ダビッドソンが3台とアッシュが店から借りたホンダ・シャドウ1100、途中で合流したカワサキ・バルカン900ローライダーカスタム、それにヤマハ・ドラッグスター400クラシックだ。ついてきているバイクの騎手(ライダー)は全員男。何故かバイク乗りの男どもは、美女がバイクに乗るとやたらとエスコートしたがるものである。

 8騎は8騎それぞれの排気音を吐き出しながら『エイト・マイルズ』をさっそうと走り抜けていく。

 左手に見えるのは商業区画のきれいな町並み。

 右手に見えるのは工業区画の雑然とした、どこか薄暗い風景。

 後ろにまたがるエミリアが右手の風景ばかり眺めていることにエレーナは気がついたが、特に何も言わずにFLHを走らせた。


 工場の群れから沸き立つ煙、オーテク河産業港に停泊する巨大な蒸気船の数々、労働者や失業者といったものを眺めながら一行はオーテク河南岸道路に入った。

 西に傾きかけた太陽の光が川面にキラキラと反射している。川面には小さな帆船や先ほど産業港で見たものよりはいくぶん小さな蒸気船。

 一行はにこやかに微笑みながら、あまり声を交わすことなくスルスルと馬車やトラックを追い抜いてゆく。

 空から響き渡るニャアニャアという声。見上げれば真っ白いウミネコが3羽、風に乗って飛んでいる。ピオニールのあたりまでは海水がオーテク河を遡ってくるから、ウミネコそれ自体は珍しいものではない。

 しかし、エミリアは響き渡る騒音と馬の襲歩のようなリズムで伝わってくる振動に身を任せながら、ウミネコたちをずぅっと見上げていた。


 一行は40分ほどで店に戻ってきた。

 みなの表情は晴れ晴れとして、あの町並みがどうだの、あそこに見えた船がどうだの、お前のバイクは色っぽいだの何だのと、みな思い思いに感想を述べあっている。

 アンネリーゼも例外ではなく、名前も知らないバイク乗りたちとの会話を楽しんでいた。

 その姿を眺めるエミリアの表情は幾分か柔らかいものになっていた。

 やがて自分のバイクを店に仕舞ったエレーナが、従業員たちと一緒に飲み物を盆に載せて持ってきた。トマスやベルキナにも手伝わせている。


「どうだった?」


 アンネリーゼを見つめ続けるエミリアに、エレーナが飲み物を差し出しながら声をかけた。


「そうですね……たぶん、楽しかったんだと思います」

「うん、それならいいんじゃない?」


 曖昧な表情のままつぶやくエミリアに、エレーナはにへらと笑ってそれきり何も言わなかった。

 それきり、何も。



 VTRは破格の50万ギルでアンネリーゼのものになった。

 普通はモデルとレストアの具合にもよるが、120万ギルほどはする。どうかすると新市街のちょっといい借家を向こう5年は借りることができる。50万ギルなら学生街の安アパルトメントを10年近く借りられる。

 エレーナは値引きの条件として、レスタ村に戻ったあとも「できれば」年に一度はピオニールまでバイクを見せに来ることを要求し、アンネリーゼは「出来る限り」そうしますと誓った。

 納車は1週間後。屋敷に戻ったアンネリーゼたちがザボスに諸々のことを伝えると、ザボスは一度目を丸くしたあと、満足そうに深く頷いたのだった。


 その晩のこと。

 ザボスの元を訪れたエミリアの様子はそれまでと全く違っていた。

 殺気もなければ凶気で煮染められた性欲をにじませることもなく、落ち着いた態度で何かすることはありませんか、と問うたのだ。

 ザボスは壁際においたソファの上にだらしなく寝そべり、オレンジ色の電灯の下、フランソワ・オリビエが地方都市を舞台に起こる恋愛喜劇を描いた戯曲「モンテッサ」を読んでいた。

 エレーナの姿を認めた彼は身を起こし、本棚の隅に置いてあるシアター15年とグラスを二個、それに何か適当な本を持って隣に来いと命じた。

 シアター15年はその名の通り華やかな芳香と渋みのある、落ち着いた味わいの蒸留酒だ。アルコール度数は45度と高いが、ほんのりと僅かに漂う甘みのおかげで実にまろやかな口当たりである。寝酒にはちょうどよい。

 エミリアが選んだ本はドルニエ・ラモーン作の「魔王たち」という小説だった。10代に渡る魔王の風説をもとにした滑稽本というべきものだが、文体のリズムとしょうもないが意外と毒のあるユーモアのおかげでテンポよく読める。

 エミリアは最初こそぴしりと背筋を伸ばしてそれを読んでいたが、酒が回ったのかそれとも別の何かがあったのか、次第に姿勢を崩してゆき、2時間ほどたつ頃にはザボスの胸に頭をあずけて、もたれきった体制で本を読んでいた。

 ザボスはそれについて何も言わない。どころか自ずから酒をついでやったりもした。


 3時間ほどのち、エミリアはパタリと本を閉じた。体はザボスに預けたままである。

 ザボスはまだ本を読んでいる。


「大殿様」

「うむ」

「どうして私を死なせないのです」


 至極淡々と言葉を紡ぐエミリアに、ザボスもまた淡々と言葉を返した。


「死なれるのが嫌だったからだ」

「それはなぜです」


 ザボスはエミリアの頭に手をやり、優しくなでる。


「自分のものにしたかったからだな」

「……すでに幾人も愛人を抱えていらっしゃるのに?」

「儂がそういうものだというのはわかっておるだろう」

「ええ、大変良く存じております。ただ……大殿様があの子を選ばないのが不思議で」

「あの子とは」

「……アンネリーゼです」


 僅かに怒気を孕んだエミリアの声にきょとんとするザボス。

 彼にとって意外だったことに、エミリアはアンネリーゼに嫉妬しているのだ。

 アンネリーゼこそがザボスの好みに合致するはずであると、エミリアは確信していた。

 だがザボスの言葉はといえば。


「……なんでそこでアンネリーゼが出てくるのか本気でわからん」

「なぜです」


 エミリアの声は今や不躾なまでに怒気に満ち溢れていた。

 が。


「うむ。……なぜだろうな?」


 とぼけたザボスの答えに、今度はエミリアがきょとんとする番だった。

 ふた呼吸ほどそのまま固まり、それから彼女は激しく肩を震わせ始めた。

 エミリアはしばらく笑い続け、5分ほども経ってからようやく落ち着くと、ほんの少しだけ強くザボスに体を押し付けた。


「大殿様。今度、気持ちのよい秋晴れの日に、私をバイクに乗せて何処かに遊びに行ってくださいませんか?」


 意外な申し出に目を丸くしたザボスだったが、これまでになく優しく微笑み、「ではその前に、お前にかけた呪いを解かなくては」とつぶやいた。

 エミリアは痛くしないでくださいね、とだけ告げた。


 翌日からエミリアの周囲に対する態度は180度変わった。

 刺々しさは全く消え失せ、たとえ相手が醜いゴブリンであっても、優しく、尊敬と慈愛を持って接するようになったのだ。

 女どもとも仲良くなり、殺気を孕んだやり取りはしなくなった。ベルキナに対してさえそうであるのだから、アンネリーゼはたいへん驚いた。

 しばらくしてからアンネリーゼはエミリアにいかなる心境の変化でそうなったのかを問いただしてみたが、彼女は優しく微笑んではぐらかしただけだった。

 なぜなら、エミリア自身、自分がなぜそうなってしまったのか言葉にできず、またその事自体はわかるものにだけわかれば良いと思ったからでもある。

 彼女とザボスと、彼と心をかわした女にだけわかれば良いと。

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