ザボスという男(1)
ときは断1918年9月10日、白露のころ。
場所は魔王領首都ピオニール、ザボス公爵の上屋敷、その書斎。
つまりはアンネリーゼがザボスに自分はどうしたいかを伝えるところである。
「まぁよい。アンネリーゼ、お主がそのように申すことは承知しておった」
「はい」
「とはいえ何もせずにブラブラさせるわけにもいかん。一応聞いておくが、お主、何かやりたいことはあるか」
「ならば公爵殿下。私は難民支援関連で何かをしたいと願います。なにか、彼らに直接関われるような」
「ふむ。その心は」
「心も何も。あの夜陛下にお伝えした通り、民のために働きたいというだけです」
アンネリーゼの言葉にザボスは満足を覚えたようだ。深く頷き笑みをこぼす。
アンネリーゼは「あの夜陛下にお伝えした通り」と言った。8月のあの夜から彼女の覚悟が変わっていないのだとしたら、彼女はきっと優秀な囮となるだろう。
開明的な信徒たちも、盲目の羊のような者どもも、そしてもちろん殺意にまみれた狂信者共も、こぞって彼女のもとへ押し寄せるに違いない。
それこそが、ザボスが求める最後の栄光の礎となるはずだった。
「わかった。ではそのようにしよう。エミリア、彼らを」
心からの笑みを見せたザボスはエミリアに合図し、彼女は控えの間に通じる扉を開いた。
彼女が扉の横に控えた途端に、わらわらと幾人もの魔族が歩み出てくる。
隙のない黒エルフに色っぽい白エルフ、苦労していそうな肌の青白い半魔。どっしりした姿のドワーフとトロルに、白ひげを生やし眼鏡を掛けた龍人とノーム。隙のない立ち姿の鬼族に実直そうな面構えの初老の半魔。最後に洒落た着こなしのアッシュに、杖をついて歩く、若く美しく種族も性別もよくわからない魔族。
「アンネリーゼ。お主の希望は冬至までには通してみせよう。となると11月の小雪、遅くとも12月の大雪にはお主の資格をでっち上げねばならぬ。この国はお主の故国に比べれば法律は少ないが、それでも随分と堅苦しくはなっておる故な。だが、お主には現時点では知識も教養も欠けておる。故に、この者たちをまずは2週間、魔王領で仕事をしてゆくための基礎教養の教師としてつける。2週間後の難民帰化申請受諾後は公安警察特殊作戦群の訓練にも参加してもらう。法律や難民支援についての勉強も継続するからそのつもりで。当面の担当連絡員はアッシュ・エドモン公安2課長補佐。保護観察官はそっちのベルキナ・アイラ・ユーリアイネン。公安2課の預かりだ。お主は儂の与力として扱うゆえ、寝泊りはこの屋敷で行うが良い。屋敷の中では自儘にして良い。内庭も自由に使え。裏庭と表では家令に従え。良いな」
傲慢というよりはむしろ優しげに長広舌を披露したザボス。
面食らったアンネリーゼはうろたえた声を出してしまった。
「……あー、その、えーと、殿下」
「なんじゃい」
「その、すいません、なぜそこまでご親切にしていただけるのかと」
それを聞いたザボスはますます笑みを大きくした。
どうやら人が困るところを見るのが大好きな性分らしい。
「うむ。人の親切の裏を勘ぐるのは大事であるぞ。ただより高いものはないと言うでな。いい顔をしておるからもう一つ困らせてやろう、アンネリーゼ。お主の任地はレスタ村で間違いない。儂と陛下が保証する」
それを聞いたアンネリーゼの表情は見ものだった。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔の見本と言っても、差支えはないだろう。
それから夕食までの数時間で、アンネリーゼは憔悴しきってしまっていた。
教師たち、実際には上屋敷の使用人たちとの自己紹介もそこそこに、即座に詰め込み教育が開始されたのだ。
覚えるべき法律や慣習や作法は幅広く数も多い。
若く柔軟な思考と体力に恵まれたアンネリーゼと言えど、蛮族の一個騎兵集団に負けずとも劣らない勢いの教師陣の熱心な指導にはすっかり参ってしまったのだ。
エミリアに水を一杯もらって大食堂のテーブルに突っ伏していると、執事を先頭に教師となった使用人たちが集まってきた。アッシュやベルキナも一緒である。
このときザボスは政府高官との会食、といえば聞こえがいいが実際のところは旧友との自宅飲み、に行ってしまっていた。上屋敷家令とスケとカクも連れている。
さて、ザボスは出かける前に、執事に「無礼講でもやれ」とかなりの額の小遣いを渡していた。
要はアンネリーゼの無罪放免を祝う、気の置けないパーティーを内々でやっておけ、ということである。
ザボスがアンネリーゼを連れて行かなかったのには訳がある。
彼女は確かに話題の人物足り得たが、いかんせん社会的階級が低すぎる。貴族でもなければ紳士・淑女でもない、ただの亡命下級将校にすぎないのだ。
階級制度が急速に崩壊しつつある当時の魔王領の社交の場においては、むしろそういった社会的階級の区別をつけることが現実以上に意味を持つことがあった。
差別意識があったと言ってよいだろう。
面白いことには、古株の貴族よりも新しく成り上がった紳士淑女の方にこそ、そういった階級意識が強くはびこっていた。
これについては当のザボスが日記に以下のように記している。
”
人生の秋の終わりに差し掛かっている旧家の者どもは老人らしく
人生の夏を迎えつつある新家の者どもは若者らしく
欲と名誉と罪と罰の天秤に揺られながら
この新しき日々を生きている
(中略)
新家の者どもは持てるものの義務のなんたるかを知らず
ただおのれの威信を磨くのに夢中である
誠に嘆かわしいことである
”
後に断2010年代に入り、世界恐慌のあとの経済復興期にはザボスの言う「新家」、新興企業とその創業者達による労働搾取が大変な社会問題となった。
また彼らは自分の社会的見栄を磨くのに大変熱心であり、社会貢献に対しては全く興味を持っていないかのように見える者たちもかなりの数見受けられる。
これらを併せて考えると、社会学的には非常に面白く、かつまた不快な歴史の繰り返しが見えてくるのではないだろうか。
話が逸れたが、その晩ザボスが家令を連れて訪れた旧友は、当時の旧家にあっては珍しく社会的階級に大変やかましいものであった。アンネリーゼを伴わなかったのは当然である。
この点といい気の置けないパーティーの開催を命じた点といい、一見するとザボスは実はお人好しではなかったかと勘違いしてしまいそうになるが、それは間違いである。
なにしろ当の旧友をはじめ、第10代魔王コーや第8代・9代魔王を歴任したギュンターなど錚々たる顔ぶれが異口同音にこう言ったのだ。
「あれはただの気分屋だが舐めてかかると殺される、下手をすると戦争になる、全くもってタチが悪い」
ギュンターが権力復帰するにあたり、当時魔王を僭称していた一党を倒すことより(というよりあまりに入れ替わりが激しく、誰が誰だかわからなかったとはギュンターの弁である)、ザボスとの友誼を回復すること(あるいは屈服させること)に務めたのはまったくもって当然のことである。
ただ、数万の軍勢を引き連れてザボスのもとに向かったギュンターたちに示された「友誼の回復方法」が、「1対1で、河原でただひたすら殴り合う」ことだったのは、誠にもって喜劇的情景であった。
大食堂のテーブルには色とりどりの食事が並べられ、人々は皆好きなように好きな食事と飲物を楽しんでいる。
鮎のフリット、鳩の香草焼き、季節野菜のシチューに南洋フルーツのゼリーなどなど素晴らしい料理に舌鼓を打ちながら、アンネリーゼはエミリアの待遇を確認した。
アンネリーゼにとって意外なことには、エミリアは奴隷扱いされておらず、秘書のような扱いを受けているらしかった。
ザボスがエミリアを一度断頭したのは法執行の権威としての振る舞いであろうが、必要な情報を抜き出した(つまり彼にとってすでに用無しの)相手をそのように扱うことにアンネリーゼは違和感を覚え、赤酢瓜と黒胡椒の冷製パスタをすすりながら、使用人たちにザボスについて話を聞くこととした。
「ていうか子供みたいなヒトよね」
とは、甲なし亀の酒蒸しの仕上がりを確認しながら頬張った料理人頭のアカツィーヤ・カルメンシータ女史の言葉である。
周りの料理人どもが一斉に頷いた。
アカツィーヤはオークと人のハーフで、頑健な体つきだがつい甘えたくなるような雰囲気がある。
男のオークは恐ろしげな顔つきになることがほとんどだが、女のオークはもとから優しげな顔つきをしている。
それはヒトと混じることでさらに強くなるようだ。
「大殿様に向かってなんてことを、とは言えませんね」
と、梨瓜のシロップ漬けに取り組みながら女中頭のマダム・エリカが応じた。
ヒトで言えば30代半ばのような見かけの黒エルフで、すこぶるつきの美人だ。
ともすれば傾城の雰囲気を発しかねないところを、腰まである黒髪と白銀の眼鏡のフレームが押さえ込んでいる。
「シェフもマダムも大殿様大好きだもんね!」
「大殿様は僕達みんなを大好きだよ」
「気がついたけど、ここって大殿様のハーレムっぽい?」
よく似た顔つきの女中3人組が、フルーツのタルトを頬張りながらきゃっきゃと黄色い声を上げる。
肩口までの亜麻色の髪をカチューシャで押さえているのがリヴニィ、黒髪をゆったりとした三つ編みに編んでいるのがイズモラ、先端がピンクがかった長髪を細いリボンで押さえているのがドゥーシュだ。
みな犬耳が生えていて、みなそれぞれに可愛らしい。
年の頃はアンネリーゼよりも下に見えたが、妙に艶めかしいところがある。
「英よく色を好むっていうけど、実際のところホントそうだよな、ウチの大殿は」
「いや全く。文句はないが、ときどき嫉妬しそうになって辛いよ」
山椒を練り込んだ山羊のチーズを透明な強い酒で流し込みながら、アッシュと一緒に愚痴るのは執事のノーマン・サザランド。
旗本であるエドモン家と同じく、古くからザボスに仕えるサザランド家の若旦那でもある。
ただひたすらに美形というアッシュとは異なり、まだ若そうに見えるのに顔面や頭髪に苦味が表れている。
半魔であるから実際のところは何歳だ、という話ではあるが、もう少し年を取ればアンネリーゼ好みの渋い男になるだろう。
「あら、まだ私のことで大殿様に妬いてるの?」
「そりゃあね。大殿様相手には妬くだけ無駄だけど」
「可愛い人ね」
「そりゃどうも」
ノーマンにしなだれかかるのは女中のフルーゼ。手には白葡萄酒の入ったグラスを持っている。
年の頃はマダム・エリカと同じぐらいの白エルフだ。
これまた素晴らしい美人で、短髪から覗くうなじが艶めかしい。むしろ美人というより毒婦に見える。
が、ノーマンは実に見事に耐えている。
どうやら普段通りのやり取りであるらしい。
「執事殿、もっとしっかりせんか。儂らの若い頃は、大殿と女を奪い合うことも楽しみの一つであったぞ」
「よく言うわい。3番目の嫁を寝取られて泣き寝入りしたのはどこのどいつじゃ」
「やかましわ。それにユミルはちゃんと戻ってきてくれたからもうええんじゃ」
「ひぇっひぇっひぇっ。こりゃまたどうもごちそうさま」
トロルの御者チョウとドワーフの庭師パヴェルが、分厚い牛肉のソテーと取っ組み合いながら混ぜっ返した。
御者と庭師と言うが、旗本のアッシュやスケ・カクと同じく有事には弓槍ひっかついでザボスを守る郎党でもある。
ふたりともいい年に見えるが、隙のない身のこなしを見せるところから、かなりの古兵と見えた。
もっとも、それを言い出すなら他の女中や料理人たちですらそうだった。
最も隙があるのはエミリアとアンネリーゼを除けばアッシュぐらいなもので、それにしたところでわざとそうしているのがありありと見える。
厄介なことだとアンネリーゼは思ったが、そんなことを考える自分の性分も厄介なことだと気づき、内心苦笑した。
ザボスはこのほか、”息子”に経営を任せている領地に最新装備の1個旅団1万6千人の兵を持ち、公安や軍に深いコネクションを持っていた。彼の命令一つで動かせる部隊がいくつもある。
正直な話、政権を奪おうと思えばいつでもできるだけの権威と権力があるのだ。
そうしないのは「つまらない面倒が増える」から。
つまり「面白い面倒事」にはいくらでも顔を突っ込める、名ばかり隠居の今の生活が一番性に合っているのだそうだ。
簡単に言えば、やはり「子供のようなひと」というのが一番しっくりくる。
あるいは永遠のガキ大将なのかもしれない。
「みなさん、殿下のことをたいへん慕っておられるようですが、その、恐ろしくはないのですか?」
パスタを平らげたアンネリーゼが次の皿を物色しながら言うと、苔鯰の吸い物をエミリアがよそってくれた。
薄い塩味に苔鯰のだしがよく滲み出ており、優しい口当たりと喉越しの一品だ。
苔鯰の白身は口の中でホロホロとくずれ、まるで淡雪のように消え去ってしまう。
目を丸くしていると同じものをとったエミリアが、固く焼いたパンを手に取り、手でちぎってスープに付けて食べてみせた。
同じようにしてみると、スープの旨味に彩られた小麦の香りが口の中にふんわりと広がった。
「もちろん恐ろしいとも。先代陛下も今上陛下も、大殿のことは恐れておいでだ」
ビシっと背筋を伸ばしたままで、夏白鱒の刺し身を楽しんでいるのは鬼族のジュリアーノ・コンスタン・ヤナギダ。
彼は旗本組剣技指南役を務めている、魔王領でもなかなかの使い手だ。もちろん魔王軍の現役将校でもある。
さて夏白鱒は夏に遡上してくる見た目の白い大マスだが、その身は鮮やかな紅色だ。
たいへんうまそうに見えるが、実は危険な寄生虫がいることも多い。
それを生で食べるというのだから恐ろしい話だと思っていたが、冷凍魔法で芯まで氷漬けにしてまる二日ほどもおいたあとだと、腐ってしまうまでは安全に食べられるらしい。
ヤナギダはキラキラと光るその切り身に、馬大根をすりつぶしたものをほんの少し載せ、大豆から作られた黒くて塩辛い調味料でゆっくりと味わっていた。
無表情な彼の太い眉がそのたびにピクリピクリと反応するので、アンネリーゼは後で自分も挑戦してみようと思った。
「大殿はお好みがはっきりしておられるゆえ、割と好き勝手なさる」
透明で芳醇な香りのコメの酒を舐めながら初老の半魔、旗本組年寄でザボス旅団独立第1大隊司令のエドゥアルド・ヨシフ・プチャンスキーが、低い声だが親しみを込めてそういった。
言外に、そうでないものは、だとか、好みの基準は複雑だ、という含みがある。
彼は刀傷で潰れていない方の目でアンネリーゼとエミリアを交互に見やり、それからニッと笑った。
「お嬢さんがたは大殿に随分気に入られたらしい」
プチャンスキーがそういうと、食卓に好意的な笑いが広がった。
アンネリーゼは今ひとつ釈然としない顔をしたままだったが、エミリアはうつむいて顔を隠してしまった。
「そんなひとなのに、法執行の権威でいらっしゃるというのは、よくわかりません」
アンネリーゼが思ったことをごく素直に言うと、皆が一様に頷く。
「殿下の今現在の地位と、殿下のあられ様については、歴史と密接に絡み合った話になります」
使用人ではなく純粋に教師として雇われた、竜人のゲオルグ・ステファン・テオドールが厳かにつぶやいた。
最も、厳かにつぶやいたとは彼自身だけがそう思っていることで、実際にはなんとかそう聞き取れる程度にむにゃむにゃと何か言っただけにすぎない。
歴史学者である彼は、竜人にあるまじきことに、凄まじく酒に弱い。
竜人は蒸留酒を樽一本平らげて平気な顔をしているのが一般的だが、彼はコップにコメの酒2杯で酔いつぶれてしまう。
未成年のアンネリーゼよりも酒に弱いのだ。
そんなわけで厳かな見た目の竜人がふにゃふにゃになっているその姿はいっそおかしく、アンネリーゼはつい微笑んでしまった。
「ねぇ、ユルゲン様。大殿様のことをお客様にお話してくださいません?」
マダム・エリカが端の方にちょんと座った、枯れ木と見間違うばかりのノームの老人に声をかけた。隣に子供のようなメイドが腰掛け、スプーンを口元に運んでやっている。
彼は下駄番だが、ザボスに仕えている期間はこの中で一番長い。
名をユルゲンという。
ユルゲン老人はしわくちゃのまぶたをゆっくりと持ち上げ、これまたゆっくりと言った。
「んん、おお、ばあさん、こらまたえらくわかがえったのう」
それを聞いた瞬間に女中と料理人達は一斉に吹き出した。
プチャンスキーら旗本どもは遠慮なく声を上げて笑う。ヤナギダですら顔を背けて背筋を振るわせたほどだった。
これに対してほんの少し頬を染めただけのマダム・エリカの自制心たるや、まったく凄まじいものである。
「ユルゲン様」
「んー。ん? ばあさんかとおもうたら、エリカちゃんか。色っぽくなって。こりゃ目に毒じゃな」
「ユルゲン様、おふざけが過ぎます」
流石に声を荒げそうになったマダムエリカに、ユルゲンは肩を(すごくゆっくりと)すくめてみせた。
「まじめにそうおもったんじゃがのう。さて、ザボス様のはなしか。とても、とても長くなるが、良いのかの?」




