女騎士と世界の歴史、の続き(1)
魔王ギュンターの手により統合なった魔王軍は、『断絶の壁』のレンサル、アチェルビス、リアットの3つの峠から国境を越えて聖法王国へと侵入した。断1746年5月のことである。
その数15万。ほぼ5万ずつの軍集団に分かれた魔王軍は各地で聖法王国軍を撃破しつつ、当時としては異常な速度で国土を蹂躙した。聖法王国軍が最良の状態で兵を走らせ一日に14km行軍できるかどうかというところを、魔王軍は最悪でも一日に平均30kmも行軍したのである。
基礎体力の違いもさることながら、糧秣を現地調達に求めたことが魔王軍の神速を生み出した。彼らは食べるために進軍したのだ。
いくつかの大規模な会戦のすべてに勝利し、その年の7月までには国境から400kmも侵入した魔王軍だが、大陸南端の聖法王国皇都まであと数日という距離で進撃を停止している。
聖法王国側の史家の研究では戦線および兵站線が伸びすぎたためであるとしており、それは事実でもあるがすべてではない。魔王ギュンターの名をもって出された布告に直接の原因がある。
「ヒトの民を守れ。
ヒトの民に学べ。
ヒトの民を助けよ。
この布告を守らぬものは本人のみならず一族郎党まで処罰する」
聖魔大戦の期間中、魔王軍は聖法王国の国土を最大で半分占領したが、その経営は実際のところ現地住民が魔族に指示して行っていたといっても間違いではない。4000万の人口を誇る聖法王国の国土の半分、人口の3分の1を分捕ったのはいいが、軍どころか経済まで『撃破』させてしまったのでは征服した意味がないからだ。略奪しようにも略奪するものすらなくなってしまう。
そこで魔王ギュンターと、副王となった魔導士コーは魔族の人員を使って現地ヒト族に経済を運営させることにしたのだった。
魔族たちは大いに困惑した。無理もない。彼らのほとんどは聖法王国への復仇を胸に従軍したのであって、その民がどうなろうと知ったことではなかった。彼らのほとんどは農村と言わず都市と言わず、略奪の限りを尽くすつもりだったのだ。
侵攻に際して「民を殺すな」という布告こそ出ていたものの、ここまで占領地の人民に下手に出ることはほとんどの魔族は予想しておらず、不満は急速に膨れ上がった。
魔王に対し反旗を翻そうとする者も出てくるほどだったが、その動きはほどなくして抑えられる。
魔王の使者が虐殺王の手の者、時には虐殺王ザボスその人だったからだ。
彼は魔王への反逆を企てた第2軍集団司令・暴喰王ンゴワを自ずから処罰し、ついで関係者の一族をも魔王領に残した彼の部下に殺させると、その事実を全軍に触れ回った。
こうして世にも奇妙な光景が誕生する。
聖法王国の農村で少なくない数のヒト族を殺戮した魔族たちが、魔王の恐怖と現地農民の指示にしたがって麦の収穫を行ったのだ。
何しろ彼らには食料がない。
ないものは奪うか作るしかない。
しかし奪おうにも奪う相手は彼らが大いに減らしてしまい、奪うべきものを作る者がいない。
ならば戦線を超えて、あるいは押し上げてさらなる略奪を試みるべきだったが、戦線を超えてよいのはごく少数の斥候だけであり、一般の魔族将兵は渋々ながら農業に従事することになる。
なにしろ略奪行為を働いたその日のうちに、それが戦線の外であろうが内であろうがマンネルハイムの空軍とザボスの騎兵と憲兵隊によって八つ裂きにされてしまうのだ。
否も応もない。
こうした中で部族としての性質を変えていった者たちも存在する。
部族のほぼすべてが従軍したゴブリンとオークたちが、そのもっとも顕著な例といってよい。
天地再興のころにはヒトと仲良くしていたゴブリンたちは、もともと小器用で忍耐強く、汚れる仕事も苦にならないたちであったが、ヒト、なかんずくヒト至上主義者に追われ住処を追われた彼らは残忍な森のごみあさりとして種族の性質を変化させた。
魔王軍の雑兵として集められた彼らは、当初かの虐殺王の部下ですら顔を青ざめさせる行為を平然と行ったが、聖法王国で農業に従事するうちに元の性質を急速に取り戻していった。10月の末には第一軍集団のあるゴブリン分隊12名が火災で家屋・畜舎の半数以上を失った村落の復旧に従事し、わずか3日で家屋7棟、2階建て畜舎4棟を再建している。しかも逃げ散った家畜を集め、当座の食肉家畜として猪を集めるおまけつきである。
都市部から集められた娼婦の間でも残忍なゴブリンは当初嫌われていたが、子供をあやすようにしてやると途端におとなしくなり値打ちものやヒトの食料を捧げ持ってくるようになった。
この事実が伝わるとむしろ上客として好かれるようになり、ますますゴブリンたちはその性質を変質させていった。
暴喰王ンゴワとともに部族丸ごと参陣したオークたちについては紆余曲折がある。
オークは種族の成り立ちからして根っからの簒奪者であった。畑に入ったところででかい図体を持て余すだけで、ヒトの子供ほどの働きもできない。
それは単なる思い込みであったのだが、ンゴワ自身がオークという比較的下等な魔族から諸族の一強へと登りつめただけあって、我ら戦士にして簒奪者なり、という意識は変えることができなかった。
であるからこそンゴワは魔王への反逆を企てたのだが、彼はザボスと一人の内通者によって命を落とすことになる。ンゴワに遠ざけられていた異端のオーク、リンゥエである(資料によってはリヌゥエ、あるいはリンヌェ)。
リンゥエは魔王領首都ピオニールのスラムで生まれた。親はわからない。彼はオークとしては異常なまでに論理的思考に優れており、また、攻城兵器などの開発や語学においても才能を見せた。12歳のころいっぱしの盗賊団の頭目になっていた彼は、悪魔もかくやという戦術眼と作戦能力を用いて当時平原オークの王となっていたンゴワを大いに苦しめた。
その後ンゴワに降った彼がンゴワを補佐してなした業績は多数あるが、森オークと平原オークの王位を統合させたことは注目してよいだろう。しかしンゴワがほかの魔族に暴喰王としてその地位を認められたころから、二人の関係は冷え込んでいった。
ともかくザボスはンゴワを誅したその場でリンゥエの小指を刎ね、オーク諸族の統領に据えさせた。関係は冷えていたとはいえ、第2軍集団作戦参謀(兵站参謀兼任)だった彼が代理指揮権を発動させることに、生き残りのオークたちは文句を出せなかった。
小指を刎ねられ戦働きはできなくなったというのにリンゥエは眉一つうごめかせず、残りのオークを見据えてこう語ったとされる。
「東の海を越えた島より来る鬼族の伝えるところに、百姓という言葉がある。
農民を表す言葉であるが、百の姓、すなわち生き方を示すものである。
農民、狩人、鍛冶、細工師、そして戦士。百姓はそのすべてである。
魔王は民を見習えとおっしゃった。
我らの守護するこの地にいる民はみな百姓である。
ヒトの百姓おのこ衆は我らに臆することなく立ち向かい、死んだ。
百姓たちは、野良仕事の片手間に槍を携え我らを苦しめたのだ。
その彼らにできたことが、どうして我らにできぬことであろうか。
オークの戦士よ。田畑を耕すことはかの百姓たちの誇りなり。
彼らの誇りをないがしろにすることは、戦士の恥と知るが良い」
戦士としての名誉に目覚めていたオークたちに否応はなかった。
かくしてオークの諸族は農業、のちには諸産業へ従事することになるのだが、彼ら自身にも意外なことがあった。
彼らの可能性は戦士と簒奪者にのみ開かれていたわけではないことが実証されたのだ。
こうしたことが断1746年の夏から冬にかけて、占領地域全域において発生した。
秋口以降は農業だけでなく商工業にも『研修』として従事しており、農作業に向かない種族の者たちの大多数が参加している。
魔族たちは交代で1週間の前線勤務、2週間の諸産業研修、1週間の休暇を行うルーティンに入り、そのなかで集団農作業や商工業、物流、貨幣経済と為替と信用取引、そしてなにより聖法王国語を学んでいった。
交通税や河川税などが撤廃され、税の取り立てが極端に低く抑えられたため現地民の反応も悪くはなく、ヒトの7割程度の給金でよく働く魔族は商工業地域においても急速に受け入れられていった。
当初通じることがまれだった言語についても、時を経るにつれ大した問題ではなくなっていった。なにしろ魔王軍将兵は人民からの略奪を禁じられており、研修期間、あるいは休暇中に現地の衣食や宿泊、風俗遊興などのサービスを受けるには現地流通の貨幣を用いるほかなく、ついてはしっかり稼ぐしかないとなれば、研修の時に指示を出すヒトの言葉を間違いなく解釈するよう努力するほかなかったからだ。
魔王軍による占領統治は10年続いた。
最初のうちこそ重要拠点を巡って一進一退の攻防が繰り広げられていたが、時を経るごとに巧妙かつ大胆になる魔族の防御作戦によってそのことごとくが撃退された。
何しろ攻めることしか知らなかった魔族たちが徹底した連携と統制のもとで遅滞戦闘や戦術的撤退からの迂回包囲をするのは当たり前。侵入した聖法王国側の部隊が一合も刃を交えないまま包囲され、一週間水と食料を絶たれて全員捕虜になることさえザラにあった。
なかでも断1749年8月4日から10日間続いた『マディフォックスの戦い』と呼ばれる一連の戦闘は、完全にそれまでの戦争を覆すものとして有名である。
魔王軍にとって重要な交通結節点となっていたアラヤ市を奪還することが作戦目標であったこの戦いは、8月4日払暁、魔王軍第2軍集団と第1軍集団の担当地域境界を天馬騎士260騎のエアカバーを受けた聖法王国軍重騎兵2000を先鋒とする4万が突進することによって幕を開けた。
再編に3年を費やした聖法王国軍はあっけなく戦線を突破すると、魔王軍に協力していた村々や町を焼き払い、略奪し、『魔族に与した』として住民を虐殺しながら45kmを突進。先鋒に立つ重騎兵を含む8000は4日後にアラヤ市近郊のマディフォックス丘陵へ到達した。
そこで彼らを待ち受けていたものは、林立する馬防柵や巧妙に隠された罠、そして魔王ギュンター親率の第1軍集団3万4000による火力の嵐であった。
地形をうまく使って構築した陣地に潜む魔王軍は竜騎兵500騎の集中投入によって航空優勢を奪い、弓矢と魔法、バリスタやカタパルトといった攻城兵器、さらには火縄銃や石火矢による制圧射撃を加え、聖法王国軍が混乱したところを鷲獅子騎兵と龍が空爆するということまでやってのけた。
この戦いでよく注目されるのは、火縄銃と石火矢(大砲)を運用したのが現地住民からなる志願兵部隊だったことである。
もとは捕虜、あるいは魔族によって徴発された聖法王国人からなる戦奴隷の部隊であったが、聖法王国側の部隊が戦線を越えて侵入してくるたびに近在の村々を略奪・焼き討ちしたため、自ら魔王軍へ志願し聖法王国軍への復仇を願うものが主流となってしまったのだ。
その数1万にも及ぶ訓練の足りない彼らを戦力なさしめたのは、『遺跡』から掘り出した『忌物』たる鉄砲と大砲と、寛大なる魔王軍の将帥であった。つまり現地住民たちは魔王軍の指揮を受けることに躊躇しないほどには、魔族の統治を受け入れていたことになる。
1万のヒト族兵のうち4000は輜重(輸送)部隊となったが、残りの6000はすべて火力装備であり、4000もの火縄銃と100もの石火矢の前には精強を誇った聖法王国軍重騎兵といえど、火にあぶられた淡雪のように溶け崩れざるを得なかった。
実際のところ、魔王軍第1軍集団3万4000のうち、実に1万2000ほどは兵站部隊、つまるところ食糧や武器弾薬の輸送・管理を行う部隊であったことは後になって明らかになったが、こうなってしまうともうあまり関係がない。
聖法王国軍先鋒はパニックに味方を巻き込みながら壊走していった。
おなじころ聖法王国軍後衛1万2000は、第2軍集団より抽出されたリンゥエ率いる第21混成旅団8300により退路を遮断されパニックに陥った。第21混成旅団はオークを中心にゴブリン、獣人、ヒト族によって編成された重装・軽装歩兵と石火矢・可搬式カタパルトを装備した混成部隊である。限定的ながら戦闘航空警戒、近接対地支援を行うために鷲獅子騎兵を編制に組み込んでさえいた。
獣人に切り刻まれ、ゴブリンとオークに蹴散らされ、ヒトにさんざんに撃ち掛けられた聖法王国軍後衛は味方部隊を混乱に巻き込みながらマディフォックス方面へと『撤退』し、壊走中の先鋒とサイモト付近で合流。続くサイモト包囲戦では直接的な戦闘による被害よりも、パニックで押し倒され踏みつけられて死傷した人員のほうが多いという哀れな結果となった。
結局、聖法王国残存将兵2万は3日後に投降。
捕虜となった彼らは現地住民の感情も考慮し、装備と金品を没収されたうえで解放された。
捕虜としての労務期間はわずか1週間で、それも戦場遺骸の回収と埋葬がほとんどだったという。
彼らは徹底して現地住民から隔離されたのである。
この戦いにおけるキーポイントは4つある。
1.魔王軍にヒト族による志願兵部隊が創立されたこと
2.異なる言語体系を持つ諸族が、ほとんどタイムラグなしに連携して機動したこと
3.優秀な火力装備の戦場における優位性が示されたこと
4.魔王軍の急速な近代化
1.についてはすでに示したとおり、魔族の占領統治が成功した証拠であるとみてよいが、近年明らかになりつつあるように、聖法王国内部にあった民族問題が影響していたとも推測される。
2.については魔族が聖法王国語という共通語を得たことと、新型の遠距離通話魔法の開発に成功したことがあげられる。エルフの秘術とされていた遠距離通話魔法に諸族の魔法使いでも使用できる汎用性を持たせたこと、それで交わされる命令と報告が共通語でなされたことは、軍事史における指揮統制の革命とも評された。事実、こののち220年ほどは魔王軍よりも指揮統制の優れた軍隊は全世界に存在しえなかったのである。
3.については魔族と聖法王国で評価が分かれた。さらなる火力装備の充実を決意した魔王軍に対し、聖法王国軍は火力装備を呪物としてとらえ、戦中は一部装備化したものの、戦後徹底的に破壊し鋳潰して回ったのである。しかし未来におけるそういった評価はともかく、訓練未了で文字も読めない農奴出身のヒト族の小銃小隊35名が貴族子弟とその郎党で編成された重装騎兵100人隊(1個中隊)をさんざんに撃ち破ることができたのも、また事実である。
そして4.こそがこの戦いの命運を分けた差であるといってもよい。占領地域のヒトの営みに教訓を得た魔族たちは、『目の前の仕事に打ち込むには、十分な支援が必要である』ということに気が付いたのである。商人が包丁を売るには包丁を生産する者とそれを運ぶ者どもが必要であるし、鍛冶師が包丁を打つには鉄鉱石と燃料を運んで来る者たちが必要なのだ。こうして2.における遠距離通信の実現とともに、『兵站』についての包括的な概念(社会経済システム全般に対する意識革命)を得た魔王軍は魔王ギュンター、というよりも副王コーの号令のもと軍制の近代化を急速に進めた。具体的には輜重(輸送)部隊、物資集積・管理部隊、通信部隊、衛生・保健部隊(慰安所管理を含む)、そして何より各部隊ごとの指揮統制部隊の創立である。
結果として1749年6月の段階で魔王軍はヒト族志願兵を加えて18万の大軍に膨れ上がったが、そのうち純粋な戦闘人員は12万人へと逆に減少している。しかしそのおかげで軍の急速な展開・方向転換に追随する兵站組織を整備することができ、2か月後のマディフォックスの戦いを大勝利で終えることができたのである。
ディミトリ・シュガポフ著『魔王領の興亡』第1巻「第1次聖魔大戦」より抜粋(水軍編は今夏始動)