ある日、森のなか
うっそうと生い茂る木々の合間に、脚を折った馬の悲痛ないななきが木霊する。
馬の持ち主であるアンネリーゼは、長剣を構え鋭い視線を周囲に群がる狼達に放った。
大きな荷物を鞍に括りつけたまま倒れこんだ愛馬を守るため、長剣を振り回し始めてもう一刻。
すでに疲労の色は濃く、ゼイゼイと肩で大きな息をしていた。
アンネリーゼは聖法王国教会騎士団に所属する騎士だ。
はるか南の皇都の教会より魔王領単身潜入の任が与えられ、2ヶ月の旅路の果てにここまでやってきた。
国境を秘密裏に越えたのは、ほんの昨晩のことである。
過酷な任務であるとは聞いてはいたが、なるほど、これではいくら人を送り出しても帰ってこないはずだ。
彼女の馬は足あと僅かな山道を行くうちに、ぬかるみに足を取られ転倒、その際に足を折ってしまったのである。
運悪く、そこは狼達の縄張りの真っ只中であった。
空には夕闇が迫り、気温も低下し始めている。
汗に濡れた肌着は容赦なく体温を奪う。
長旅に耐えるため重い鉄の防具は胸甲と首当て、籠手のみにしているが、ぬかるむ地面となにより数に勝る狼達に翻弄され体力の消耗は著しい。長旅の疲れもたたっている。
日が沈むまでの間に、アンネリーゼは5頭の狼を切り伏せた。
それでもアンネリーゼは休むことなく愛馬の周りを駆けまわり、長剣を振るい続けた。
戦場では立ち止まった者から死ぬ。
彼女はまず自分のために剣を振り続けねばならなかった。
しかし狼達はあと7頭も居る。
体力も限界だ。加護魔法を行使するほどはの力ももう残っていない。
今は精神力のみが己が身体を奮わせているに過ぎない。
飛びかかってきた一頭を横薙ぎに斬り倒そうとし、躱され、バランスを崩した刹那に、それまでとは調子の違う馬の悲鳴が響いた。
見れば、愛馬のまだ折れていない脚に一頭の狼が食らいついたところだった。
「やめっ――」
太い枯れ木を折るような音が響き、彼女の愛馬は一段高くいなないた。
もうだめだ。
彼女の馬はここで死んでしまう。
違う、それはわかっていた。最初から希望など抱いていない。
だがせめて、自分の手で楽にあの世へ送りたかったのだ。
「くっそおおおおお!!!」
アンネリーゼは咆哮し、立ち上がった。
手近な狼に向かって剣を構えた直後、横合いから別の狼に突き飛ばされる。
ぼきりと折れたのは、彼女の心もだったのか。
3度。
5度。
7度。
アンネリーゼはろくに反撃も行えず、冷たい大地に倒れ伏した。
群れの中でも特段に大きな雄が背中に乗り、彼女の動きを封じる。
長剣を引き寄せ、立ち上がろうとしたが無駄だった。
他の狼達に手首や前腕に噛みつかれてしまった。
馬を喰うのに邪魔な人間にとどめを刺そうというのだ。
「がぁっ!!うっぐぁ、」
アンネリーゼはたまらず呻いた。
のたうち回る彼女の顔に、ぱしゃりと泥混じりの水しぶきがかかる。
はっと見やると、傍らに額に大きな傷のある狼が立っていた。
深い碧の瞳の、銀灰色の狼。
お前が私の死か、と、アンネリーゼは小さくつぶやいた。
感情が薄れていく。
もういいか、とも思った。
「はっ……はははははっ」
乾いた笑いが自然にこみ上げてくる。
教会騎士となってはや5年。
見習い期間を含めてもわずか7年のうちに、アンネリーゼは平民、いや孤児出身者としては異例の速度で昇進し続けた。
あるいはそれがいけなかったのか。
教会命令でとある領地を査察したところ、そこでは違法で過酷な税の取り立てが行われていた。
それを取り締まったところまでは良かった。
そこは表向きうらぶれた小貴族の領地でしかなかったが、あろうことか実際には教会主流派幹部の隠し財産といえるものだったのだ。
皇都に帰還した彼女を待っていたものは、厳しい査問と地位権限の剥奪、そして今回の潜入任務。
つまりは体のいい口封じというわけだ。
自分のような孤児を増やさないための彼女の政治的な戦争は、そこで終わってしまったのだ。
「くっくっくっ……はぁ……殺せ」
全てに疲れきった彼女は額を地につける。
銀灰色の狼は一歩近づき、牙を光らせた。
その時だった。
ドドド、と、騎馬隊の突撃のような地響きが地面を通して伝わってくる。
狼達も地響き、いや、その爆音に気がついたようだ。
いやに調子の揃った騎馬突撃だな、と、のんきにもアンネリーゼが思った、その直後。
突如として爆音は大きく高まり、谷底からその姿を現した。
夜目にも鮮やかな銀と黒の疾風は、その鼻面から強力な光を放ちながらアンネリーゼの馬を飛び越え、彼女の右腕に噛み付いた狼を跳ね飛ばしながら着地した。
そのまま泥を蹴上げて尻を振り、彼女の周りの狼達を一掃する。
それは陣太鼓のような音を発しながら彼女の傍らに止まった。
よく見ると、黒と銀の馬のような物の上に立派な体格の人物が跨っている。
兜と手甲、黒い革の陣羽織はしているようだが、顔は暗くてよく見えない。
と、アンネリーゼを押さえ込んでいた大きな狼が、その人物の首根っこに向かって飛び上がった。
危ない、と声を発する間もなく狼は馬上(?)の騎士に食らいつく。
が、断末魔の悲鳴はおろか、苦悶のうめき声すらその騎士は発しない。
左腕に狼を噛みつかせたまま、ややもったいぶった動きで右手を腰に伸ばす。
食らいついた腕を食いちぎろうと狼は踏ん張り、身悶えしたが、血のしたたる様子もない。
ややあって騎士が右手に持った鉄の筒を狼の頭にそっと当てると、ばんと太鼓の割れるような音と閃光が生じ、狼の頭は吹き飛んだ。
それを見てアンネリーゼは息を飲んだが、狼達は散開したまま低い唸り声を上げ続けるばかり。
馬上の騎士は腕に食い込んだままだった狼の顎を外すと、銀灰色の狼に向かって2~3度唸り声を出した。
銀灰色の狼は騎士とアンネリーゼを交互に見つめ、それからあぶくを吹いて倒れているアンネリーゼの馬を見つめた。
それからようやく短い唸り声を出してから、低く小さく吠えた。
それを聞いた騎士はこっくりと頷くと馬から降り、アンネリーゼに肩を貸す。
「大丈夫か」
低く豊かな男の声。発音がなまっているが、聞き取れないことはない。
「あ、ああ。すまない。……あの、あなたは?」顔を見ようとするが、兜のバイザーとドッグ・ノーズの影に隠れてよく見えない。
「話は後だ。取引した」
騎士は妙なことを言う。
「取引?狼と?」
「俺とお前の安全と引き換えに、お前の馬を残す。そもそも連れて行くのも無理な話だが、楽にさせてはやれる。早くしよう。可哀想だ」
反論は無論、出来なかった。
「しっかりしろ。隙を見せるな。やられるぞ」
騎士はアンネリーゼの長剣を拾い上げると、どんと彼女の胸に押し当てた。
「あ、ああ、わ、わかった」
彼女はそれだけ言うのが精一杯だった。
馬は10歩ほど離れた谷側の斜面に、痛々しい姿で倒れていた。
騎士は大股で馬に近づき、しゃがみ込むと何事かをぼそぼそと馬に語りかけた。
馬は最初こそ怯えと痛みでパニックを起こしていたが、次第に落ち着きを取り戻したようだ。
荒い呼吸が整っていく。
騎士は馬の鼻面を優しくなでてやると、アンネリーゼを手招きした。
「最後に挨拶してやれ」
騎士の言葉に、彼女はこっくりと頷いた。
おずおずと愛馬の頭を抱き、ふるえる手で愛馬ののどをさすってやる。
その間、騎士はできるだけ馬に痛みを与えないように鞍から荷物を外し、散らばった荷物を手早く拾い集めた。
「もう、いいか?」
荷物をまとめた騎士は油断のない様子で周囲に視線を巡らしながら、アンネリーゼに尋ねた。
彼女はそっと愛馬の頭を地面に横たえると、胸の前で小さく四方を切り、手を組んで短く祈った。
騎士の手伝いは、必要なかった。
騎士が自分の馬に荷物を括りつけ、自らもまたがるとアンネリーゼに同乗を促した。
「どこへ行くのだ?」
「俺の住む村だ。ごく近くだ。腕の良い魔法使いも薬師もいる。少しの間ゆっくりしていくと良い」
「わかった」
それだけ言うと、アンネリーゼは騎士の背中に抱きつくような姿勢をとった。
緊張が薄れたため、眠気が雪崩のように襲ってくる。
それを感じ取ってか、騎士は紐で自分とアンネリーゼを結わえた。
薄れゆく意識のなか、馬のようなものの取っ手に付けられた鏡に写った騎士の顔を彼女は見た。
騎士の顔は、豚鼻のオークだった。