水の記憶 その5
彼女の知らない記憶。
その場に残ったのは未だに目を覚まさない六番目のムーサだった。
「いやぁ、どうやらあの造られたムーサの体を移動し続けていたようなんですよ。でも、これでムーサはあと一人。つまりそこにケツァルクァトルの秘法があるというわけです、では失礼して」
宙に漂うムーサに手を伸ばそうとするヴィランの前にハンフリーが立ちふさがる。
「いやだなぁ、私とあなたでは戦う理由がないですよ」
「理由ならある。君は私の妻を殺した」
「死体卿の妻ならば死体を娶ればいいのですから、落ちていったムーサを起こせばいいじゃないですか。あなたはゼールビスよりも遥かに腕が立ちそうですし」
「そういう問題ではない、君は妻の魂を汚した!」
ハンフリーの激昂に答えるように、月が陰りヴィランの顔を半分隠す。
顔の一部を髑髏姿にした少女は、その半身に劣らないほどの悪魔的な笑顔を見せる。
「意外と熱い心の持ち主なのですね、嫌いじゃないですよ、そういうの。仕方ない、お付き合いしましょう、ですが私は強いですよ?」
ヴィランが告げると同時にハンフリーは船の浮いた水面を球状にし、その巨大な球体の中にヴィランを閉じ込め、自身も球体の内側に入る事によってヴィランと対峙できる環境を整えた。
縦横無尽に球体の表面を滑り様子を伺うハンフリーをあざけるように髑髏の少女はスカートをヒラリとはためかせた。
すると嵐さながらの強風が球体の中を吹き荒れる。
水を自在に操るといっても風の抵抗をまともにうけてはハンフリーも太刀打ちができなかった。
「ほらほら、不死卿といってもバラバラになったら死んじゃいますよ?」
いつの間にか眼前に迫ったヴィランに殴りかかられ、ハンフリーは咄嗟に水球の外に飛び出してそれを避ける。
打ち付けられた水面は、そのヴィランの拳を外に出すに至らなかったものの激しく波立ちハンフリーの乗るゴンドラを大きく揺らした。
「さすが世界最悪の海賊の娘ともなると良いものを持っているね」
その破壊力を目にしても動揺せずにヴィランに皮肉めいた言葉を投げる。
「ええ、バショウセンの羽を使って織られたスカートに巨人族ミミールのガントレットの欠片で造られた指輪。他にもまぁいろいろ有ります。多分、これらの破壊は不可能ですよ。さしずめ父が黒髭チィーチでしたら、私の場合は高級仕立てヴィランですかね?」
「なるほどね、素晴らしい二つ名だ。私の死体卿よりもよっぽど趣きがある」
そしてハンフリーは考える。
中と外にいる限り決着は着かない、聡明なハンフリーは直ぐに結論に達した。
大きなため息と同時にハンフリーは球体を元の水面に戻した。
「あれ、どうしたんですか?」
「加えて君はそのアステカの神の呪いのおかげで不死身ときている。君をあのまま痛めつけるのは確かに簡単だが、肝心の君は痛みを苦にしないだろうし。例え粉みじんにいても復活するのだろう」
「ご明察の通りです、あの一瞬の攻防でそこまで見抜くとはあなたはやはり強い魔術師ですよ」
「それは褒めすぎだ、私だってムセイオンと同じ小規模な永遠の幸福を願う三流だよ、おまけに妻の行動を予想もできない駄目な夫ときている」
落ち込んだ様子を見せるハンフリーにヴィランは笑って見せる。
「まぁ、それは年月を重ねておいおいではないですか? さて、と。葵藤さん出てきてください、私はあなたの確保も仰せつかってるんですから」
ヴィランがそう言うと、呼ばれるのを待っていたかのように空間にぽっかりと穴が開き、そこから和装の坊主の姿が現れる。
その姿と、あまりにも強大な力を感じ取ってハンフリーは大きくため息をついた。
「なるほど、幻の城が実態を持っていたからどういう事かと思えば。こんな凄まじい方が城を隠していたとはね」
葵藤と言われた男は何も答えようとしなかった。
「協会から出頭命令です、それも十年前からね。まったく、半端な人しか協会が派遣してくれないからいろいろと大変でしたよ」
ヴィランのその発現にハンフリーは苦笑いを見せる。
「なるほどヴィラン、君はムセイオンとニコライとそして私を利用せしめた。魔術協会からの三重スパイだったわけか」
「まぁ、そういう事になりますね。葵藤さん、強いし優秀だからってあんまり勝手に研究してると駄目ですよ」
そのヴィランの言葉が耳に届いているのか、葵藤は一言答えた。
「我の求む道の一つ、今まさに見えり」
ヴィランは興味が無さそうに「そうですか」と答えて、葵藤と共に去ろうとする。
「待て、二つだけ聞きたい」
「普通、一つだけじゃないですかこういう時に聞くのって。欲張りな気がしますがいいですよ、仕事を手伝ってもらったので二つだけ答えましょう」
そしてハンフリーは残った疑問を尋ねた。
「一つ、協会からの依頼は重複しない。君の使命が彼の連行だとするならばニコライとムセイオンを殺すのを頼んだのは誰だ?」
その疑問にヴィランはしれっと答えた。
「依頼者は二人、ムーサとムーサ本人ですよ。十五年前に逃げ出したムーサとこの間、亡くなった以前のムーサです」
そうか、と納得しつつ続けてもう一つ聞こうとしてハンフリーは口を閉じた。
そして思いついた事とは別の、最初から聞こうとしていた事を質問した。
「君はムーサに特別な感情を持っていたのでは?」
思いがけない質問にヴィランは少し戸惑った。
「その質問の答えは私も探しています、友情なのか哀れみなのか。それとも死にたくても死ねない私と違って何度も死ねる彼女に嫉妬していたのか……好意を持っていたのは確かですね」
そう言っている間、月が陰り髑髏からヴィランの人としての表情が見える。
その表情は今にも泣き出しそうな、友達を失ったような少女の悲しそうな貌だった。
「それをムーサは知らなかったのだから、君を恨んで死んで行った。それは君にとってあまりにも辛い事ではないか?」
「質問は二つです、答えられません」
「ケチめ」
ハンフリーの不満の声を無視するようにヴィランはムーサの体からケッツアルクァトルの骨を取り出す。
「これで良しと、あと何個あるのやら……では、行くとしま……僕も一つだけ質問いいですか?」
「一つだけだぞ」
「……自分は二つなのにっどっちがケチなのか。あのまま戦っていたら、どっちが勝ってました?」
「言ったろう、君を殺す事はできないと」
「裏を返せば殺せないだけで、勝つ事はできたと」
「さぁ、わからないよ。それに君の質問は一つだろう?」
「やっぱりケチだ……」
愚痴を溢すようにヴィランは呟くと、疲れたというような顔でこの場を去ろうとする。
そこで思い出したように最後に一言だけ残した。
「ああ、そうそう。ケチではない僕は一つだけ教えておきます。知らない方がいいと言っていなかったんですが、今のムーサは……」
夜の街を一人の酔いつぶれた男が歩いて行く。
千鳥足ながらも意識はしっかりしているのか、鼻歌を口ずさみ上機嫌でヴェネツィアの歓楽街を歩いて行く。
この男の名前は……いや、名前などもはやどうでもいいものだ。
その男の前に白い貴族服の男が立ちふさがった。
「おや貴族様、娼婦宿はこっちじゃないですぜ」
「ふむ、貴族宿に落とさなかったのは貴様の良心か。いや、そんな温情は持ってはいまい。阿片漬けにされて早々に死なれては困るから。そんなところだろうな」
男はその白い貴族服の言葉とその顔で、貴族服の男の静かな言葉の裏に隠れた意味を理解し、血相を変えて脅えだした。
「い、いや……誤解だ。アレが働きたいって言うから! 薬だって与えてるし! アレを今まで育てたのは俺だぜ!」
「アレ、アレとは誰の事を言っている?」
「それはお前、ム……」
「黙れ、お前如きが口に出す事もおこがましい名だ」
溢れ出す貴族服の男の殺意。
そこでやっと男は後悔した、彼女の状況をきっと知っていて何も言ってこないのだろうとタカをくくり、酷い仕打ちをしてきた事を。
もっとも、ここういう後悔が来るという事を想像しなかった彼に全ての責任があるのだが。
「確かに、お前がここまで彼女を保護していたという事実は組んでやろう。褒美に葬式の手間はかけないでやろう」
男は貴族の顔を見た。
そして、人生の最後にこんな事を考えた死神公爵と。
死神公爵が男に手をかざす、同時に男の体が宙に浮いた。
「人の体の大部分は水分だ、故に私は水を完全に理解し操る事が出きれば人を作り出す事が出来ると考えた。その副産物は私にいろいろな力を与えてくれたよ、このようにね」
男の血液の全てが別の生き物のように男の中を不自然に蠢く。
最低限、人体の内臓機構が致命的なダメージを受けないように調整されたその血液の動きは内臓活動だけでも痛みで気が狂いそうになるほどの激痛を男に与える。
しかし変流する血液の流れは場所によってはそれにとどまらず、激しく逆巻き、流れ、うねり。
男の指先から、その骨を砕いていった。
「彼女を取り巻いた者は形はどうあれ愛で溢れていた、友の頼みを裏切ったお前は彼女の周りの唯一の汚点だ」
血液の流れは男に口を開ける事も、悲鳴も、呻き声さえも許さない。
ただ、骨を砕く音とポンプが水を汲むゴボゴボという音だけが夜の街に響き渡っていく。
そんなゆっくりとした死に至る責め苦も、時間にしては長くはかからず、うねり出した血液はやがては皮膚を突き破り。
それでもなお流れ続け、宙を描く血の流れは最終的には赤い水球となって宙に浮かび上がり。
何の感慨もないように、死神公爵はその赤い水球をベネツィアの水路へと捨てた。
少しだけ赤く染まった水路だったが、死神公爵が無言で去った後、十分もしないうちにヴェネツィアの水へと混ざって解けて、そして消えた。
「こんばんはお嬢さん」
「あら、今日は死神さんはとても素敵な紳士です事」
彼女の寝室に入った死神公爵はそんな彼女の言葉に驚き、どのように話を切り出そうと数々の会話のシミュレーションを潰されて言葉を失った。
それもそのはずである、死神公爵は彼女が既に病状の進行により目が見えないという事をしっていたし、彼自身も並外れた医術の知識から一目で彼女の目が見えない事を把握していたからだ。
そもそも、このように快活に声を出せるだけで奇跡とも言える状況で、死神公爵の驚きに追い討ちをかけるように彼女は言葉を続けた。
「やっとお会いできました……間に合ってよかった。あなたに会って……一言どうしてもお礼が言いたくて」
さしもの死神公爵も驚きの声をあげる。
「陳腐な言葉だが、どういう事なのだろう?」
死神公爵の言葉にゆっくりと彼女は応えた。
「あなたが私を自由にしてくれた。私とあの娘達は繋がっていた……って言えばいいのかしら? 皆の短くも幸せな同じ記憶と同じ思い出をずっと共有していた。ずっとあの娘達を見ていた。もう、私にそれは叶わないから。でも、あの娘達が幸せならそれでいいと思っていた。そして、あなたのおかげであの娘達は幸せのままに自由になれた。本当に、ありがとう」
間際に死神公爵に自分の口で礼を言えた事を本当に幸せそうに笑って、元より光を映さない瞳をそっと閉じた。
瞑られた瞳とほぼ同時に死神公爵は、まるで一連の動作のように彼女の手を取って言った。
「やった会えた高潔な魂よ、私の后になってはくれないか?」
「ああ……なんて嬉しいお誘い……もしも、目覚める事があるならば……その時は喜んで……」
「約束しよう、その蜜月の時は程なく訪れる」