不如帰、雲の上まで
フィクションです。時代考証とかは忘れてください。
足利義輝がその剣の師である塚原朴伝に出会ったのは、父義晴に伴って近江坂本へと身を寄せていた頃の事であった。
この朴伝と言う男は平時こそどこにでもいそうな好々爺で通っていたが、ひとたび剣を握ればその人格はがらりと変貌し、将軍家の嫡男たる義輝に対しても容赦のない行を課すほどの剣鬼として、世に広く名の知れた武芸者だった。
しかし、その確かな実力と曲がりのない人物、何より他の徒弟と分け隔てることのない公平な指南を義輝はたいそう気に入っていた。朴伝の方もまた、幼い義輝の将軍家嫡男だと言うのに気取らない闊達さや、一を聞いて十を知る剣術家として他に並ぶ者のない才気に多大な期待を寄せていたようだ。
朴伝はある日、義輝ただ一人を呼びつけると、木剣を握らせ相対した。曰く、
「どこからでも打ちかかって来られませ」と。
義輝は言われるままに剣を構え、両腰に長短一本ずつの木剣を差したまま構えようともしない師に向けて真っ向から躍りかかった。
刹那、朴伝の両の手がわずかに残像を残し、思わず身構えた義輝はその手の動きを無意識に目で追っていた。一瞬の間に掲げられた左手は、そのまま流れるような動作で右手に抜き放った木剣の柄頭を支える。何のことはない、朴伝はそのまま正眼に構えるといささかの逡巡もなくゆっくり義輝との距離を詰めてきた。
微かな違和感に数瞬たじろいだ義輝だったが、見る間に近づく師の剣気に圧され、勢いに任せて飛び掛った。そしてその直後、義輝は彼自身も知らぬ間に木剣を取り落としていた。不意の鈍痛が彼の手から木剣を放させてしまったのである。
長短の木剣が音を立てて地を転がるのと、朴伝の構える剣先が義輝の首筋にぴたりと止められたのは、まさに同時であった。義輝は己が手を襲った鈍痛が初手で投じられた師の小太刀である事にそのとき初めて気づいた。
困惑する愛弟子の様子に相好を崩すと、朴伝は自ら投じた短い方の木剣を拾いながらさらりと告げた。
「これこそが我が朴伝流の奥義、一の太刀にございます。上様、この奥義、如何ようにご覧になられましたか?」
「これが……一の太刀」
問われた義輝はそう呟くことしか出来なかった。朴伝が軽々とやってのけたこの一連の技は、常人はもとよりこと剣の道において類まれなる才能を持った義輝をもってすら理解に苦しむ、まさに至極の神業だったのだ。
朴伝は当てもなく小太刀を放ったのではない。義輝が師に斬りかからんと一歩を踏み出したその刹那にはすでに、義輝がどのようにして動き、何歩で近づいて、どこで切り結ぶのかを、寸分違わず予測していたのだ。
もし仮に、義輝が小太刀の存在に気づいていたとしたらどうだろうか。奥義は成らず、義輝は敗北を免れたのだろうか。
否。おそらく結果は変わらない。もし、義輝が小太刀の存在に注意を払っていたなら、朴伝は即座に間合いを詰め、戸惑う義輝を一刀の元に切り伏せていた事だろう。
おそらく、勝負は義輝が一歩を踏み出した瞬間、朴伝が両腰の指物に手をかけたその瞬間すでに決まっていた。朴伝は相手の動きを警戒してたじろいだほんのわずかな瞬間、それすらも見越して小太刀を投擲していたのだ。義輝がどのような策を講じ、如何に立ち回ろうとも義輝の敗北は必定だったのだ。
義輝はそのまま絶句した。そのような芸当が果たして人間に可能なのか。一体どれほどの研鑽を重ねれば、人はその境地に至ることが出来るのだろうか、と。
「……師よ、今一度、今一度だけ見せてはもらえぬか。この余に、奥義、一の太刀を」
ようやく搾り出した義輝の声は震えていた。それは興奮のためであり、憤りのためであり、悔しさのためであり、そして喜びのためであった。
義輝の願いに半ば予想通り、朴伝は頭を振った。
「秘伝中の秘伝なれば、先の一太刀にて御勘弁を。なれど」
朴伝は懐から一振りの脇差を取り出すと恭しく義輝に捧げた。
「上様ほどの才をお持ちならば、いずれ遠くない日に、奥義を御覧になることも出来ましょう。どうか、お励み下さりませ」
義輝は脇差を受け取るとその刀身に蒼穹を照らした。ちょうどその折、雲間に映える蒼穹を一羽の鳥が羽ばたいた。
義輝はどこまでも広く遠い青空を真っ直ぐに駆けるその鳥を、視界から消え入るその時まで、いつまでも見つめていた。
月日は流れ、とうとう義輝は奥義の完成を見ぬままその日を迎えた。
永禄八年、五月も半ばを過ぎた頃である。
その日は払暁より降り始めた雨が嫌に耳障りな一日だった。加えて、この雨のため日課としていた剣の稽古が出来なくなり、義輝はいささか気が立っていた。
山の手の猟師が献上して来た不如帰が鳥かごの中でむなしく見当外れの鬨を告げる。その声はまるで自由を求めて哀願するようでもあり、囚われの身を呪う怨嗟の声でもあるように聞こえた。
そしてそんな時、物々しい空気がにわかに二条御所全体を取り囲んだ。小姓の一人が許しも得ずに義輝の居室へと飛び込み、主への非礼もその詫びも忘れ、震える声でこう告げた。
「三好義継殿、御謀反」
義輝は目を怒らせて立ち上がると割れんばかりの声で下知を発した。
「余の刀を持て! 皆を集めよ!」
折しもとどろく雷鳴が、義輝の声に応えるかの様に二条の御所を揺らした。
どれほどの時が過ぎたのだろう。鳴り止まない怒号に耳を圧され、寄せ手の声以外は聞き取ることが出来ない。返り血と屍から沸き立つ臭気が鼻を麻痺させ、雨が作り出した薄霧が敵に囲まれた視界をなお悪くする。
分厚い雨雲が天を覆い、日の位置すらも判然としない一間で、義輝は秘蔵の名刀最後の一振り、鬼丸国綱を畳から抜き放つと中庭に躍り出た。
大将首に目のくらんだ亡者たちがすぐさま後を追い、その端から斬って捨てられる。中庭はたちまち半死半生の人の山で溢れた。
義輝には分かっていた。その場に自分を斬ることの出来る者などいないと言うことを。そして、どれだけの数を斬り捨てたところで自分が生き残る道などないということを。
後悔も遣り残したことも山とあったが、何より気がかりだったのは師より授けられた奥義を完成させることが出来なかったことだった。このような形で師の期待を裏切ってしまったことを、義輝は何より悔いていた。
その時、突然一羽の鳥の声が義輝の耳に届いた。鳥は激しい喧騒の中なお負けじと甲高い鳴き声を辺りに響かせた。
義輝は、その澄んだ声に耳を奪われ、次の瞬間不意に視界も失った。雑兵が畳を盾にして四方から義輝を押し潰したのだ。兵たちはここぞとばかりに殺到すると、囚われの敵将を畳越しに槍で滅多刺した。
不思議な感覚だった。視界を断たれ腹を幾本もの槍で貫かれようと、その鳥の声はしかと耳に届き、どこに居ていつ鳴き声を上げるのかすらも手に取るように分かるのだ。そしておそらく、この場でその声を聞いているのは己ただ一人であるだろうということに、義輝は気づいていた。気づいて、血の溢れる口角を上げた。
「……奥義を、見たり」
つぶやくと義輝は畳越しに国綱を振り抜いた。正面から畳を押さえていた数人が畳と同じ切り口でぱっくりと体を分断され、たちまち亡者たちは恐怖におののき飛び下がった。
義輝は大きく息を吸い、大量の血と共に空気を吐き出した。雨足はいつしか弱まり、恐慌に口をつぐむ取り巻き達のおかげで鳥の声はなお鮮明に義輝の鼓膜を震わせる。
沈黙がその場に流れる時間を完全に支配していた。声を発するものは斬られ、身動きするものは死んでいたであろう。人語を解さぬその鳥だけが決まりを逃れ、キョキョキョと悲しげな声を響かせる。
しかし、その沈黙を易々と破る者が居た。男は槍も持たず、抜刀もせず、義輝の間合いの一歩外まで近づくと一切の顔色を変えず、告げた。
「上様、御覚悟召されい」
義輝は相手の顔を見てふっと笑った。
「やはり、貴様か……松永弾正。よかろう、余の首……くれてやる。これをもって、末代までの手柄とせよ。……そして」
義輝は左手で脇差を抜き放つと天高くそれを放った。弾正をはじめその場に居たものは皆放り投げられたその一振りに目を奪われた。一振りの小太刀は規則正しい円を描きながら義輝の後方を舞い、御所の縁側に吊るされていた鳥かごの一角を、斬り捨てた。
「辞世じゃ、しかと書き置いておくがよい。
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
鳥が空へと飛び立った。
義輝は己の腹に国綱を突き立てると刺し貫いている槍ごと真一文字に腹を切り、そのまま絶命した。
松永弾正は鳥の飛び立った空を見上げた。すると見る間に暗雲が薄まり、雲間から一筋の陽光が漏れ出して義輝の下に降り注いだ。
「見事」と一言つぶやいて、弾正は義輝の首を落とした。
不如帰は天高く飛んだ。雲を越え、山を越え、日の光の差す方へ、真っ直ぐ、そして迷い無く飛んで行った。
不如帰はキョキョキョと鳴いた。天下に響くその声は、あるいは「奥義を見たり。奥義を見たり」と告げているのかもしれない。
そしてその鳴き声は、遠く近江の地にいる朴伝の元にも届いていたかもしれない。
《終わり》
2012年2月18日 指摘を受け一部修正。