まだ知らない味
六十年前、私はあの終着駅で汽車を降りた。
今、孫はその駅を遠くに望む洋菓子店でマカロンを選んでいる。
桃色、黄色、薄緑。ショーケースの前を行ったり来たりしながら「これと、これ!」と指を伸ばしては引っ込めていた。
「三つまでよ」
娘に言われ、孫は唇を尖らせた。
「えー! でも、ひとり三つだよね? ――おじいちゃんのも選んでいい?」
「……私はいらないよ」
「じゃあ、これにしてあげる」
薄紫色のマカロンを指され、私は笑った。
「好きにしなさい」
そう言って窓際の席へ戻る。建物と街路樹の隙間から古い駅舎の屋根が見えた。
あそこへ着いたとき、私は十八だった。汽笛が鳴り、白い蒸気がホームを流れていた。荷物は鞄一つ。働き口も住む部屋も親戚が決めてくれていた。
今なら、もっと調べるのだろう。別の仕事はないか、家賃はいくらか、駅からどれくらい離れているのか。
あの頃は、選ぶ前に決まっていることが多かった。
それを不自由だと思う暇もなく、汽車は止まり、私は降りた。
それから何十年もこの町で暮らしている。
娘が小さかった頃、あの駅の近くには玩具屋があった。百円玉を渡すと、娘は店先の丸い機械にそれを入れて両手で取っ手を回した。
何が出るかは選べない。
それでも、透明なカプセルが落ちてくるまでの娘はいつも楽しそうだった。何が出たのかはもう覚えていない。しゃがんだまま顔を上げたときの笑みだけは今も記憶に残っている。
「おじいちゃん、買ったよ」
孫が薄紫色のマカロンを差し出してきた。手を伸ばしかけて、止める。
「――待った」
「なに?」
「やっぱり自分で選ぶ」
孫が目を丸くした。
ショーケースまで戻り、端から順に眺める。どれも味の見当はつかない。それでも少し迷って、さっき孫の手にあったのと同じ薄紫色を指した。
「同じじゃん」
「そうだな」
孫が「へんなの」と言いながら笑った。
窓際へ戻り、包みを開く。遠くには、あの日の終着駅が見えている。
マカロンをひと口かじると知らない味がした。
すぐには飲み込まず、舌の上でゆっくり転がす。甘さのあとに酸味が広がり、その奥から覚えのない香りが鼻へ抜けた。何の味なのか分からず、もう一度舌で探る。
――六十年前も、似たようなものだった。
汽車を降りた私は、知らない町を歩いた。教えられた道を進んでは立ち止まり、角を間違えて引き返し、それでも鞄を提げて先へ進んだ。そうして、ここでの暮らしが始まった。
私はもう一口かじり、終着駅から視線を移した。窓の外を見ると、高い建物の間を車が流れ、歩道には人が行き交っている。六十年も暮らした町なのに、知らない店があり、歩いたことのない道もまだ残っていた。
「次はどれにする?」
孫がショーケースを振り返る。
私は立ち上がった。
「今度は、あれにしようかな」
口の中には、まだ知らない味が残っていた。




