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元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える  作者: パラレル・ゲーマー


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第15話 なんでも買います、思い出の買戻し交渉

 内閣府特異事象管理連絡室・都内支部の最地下。


 幾重もの防護結界が壁の内部で脈動する会議室は、外界の喧騒だけでなく、都市の霊的ノイズを完全に遮断していた。


 デスクの上に並べられたのは、前回の探索で命懸けで持ち帰った「戦利品」の数々だ。


 黄ばんだ福引券、記憶紙魚から剥ぎ取った銀鱗、そして虹色の光を放つ小型欲望結晶。


 さらに、ヤタガラスの金庫から一時的に貸し出された『空の指輪箱』が、特級封印布に包まれたまま鎮座している。


 烏丸蓮司は、いつも通り仕立ての良いスーツの袖口を整えながら、ホワイトボードに描かれた作戦図を指し示した。


「御門様、ならびに皆様。本日の目的は、あの『なんでも買います』との正式な買戻し交渉です。繰り返しますが、今回の作戦に正面衝突(交戦)のフェーズは含まれません。相手の店舗構造を把握し、取引のロジックを読み解くことが最優先です」


 烏丸の声音は、事務職としての徹底的な冷徹さを保っていた。


「第一に、佐久間悠介様と宮野灯里様が、それぞれ何を売却したのかの特定。第二に、その契約を部分的に解除ロールバックするための条件変更の提示。そして第三に、彼女が現世へ帰るための『最小限の参照先』を買い戻すこと。……以上の三点を、安全に処理していただきます」


 炎堂朱音は、黒い耐火ジャケットのジッパーを喉元まで引き上げ、革手袋を嵌めた両手を椅子の背もたれに預けていた。


 彼女の周囲の空気が、かすかに陽炎のように歪んでいる。


「交渉ねぇ。まぁ、あっちが大人しく座って話を聞くならいいけど。もし約束を破ってこっちの逃げ道(退路)を塞いできたら、あたしのサラでその『店』ごと消し炭にしてやるから」


「炎堂様、必要最小限の火力でお願いいたします。店舗そのものを破壊すれば、内部に保管されている記憶のデータが熱で融解し、二度と復元できなくなります」


 烏丸が釘を刺すと、朱音は「分かっているわよ」と不満げに鼻を鳴らした。


 デスクの傍らでは、記憶系補助員の真柴環が、銀の鈴と幾枚もの『記憶栞』を丁寧にポーチへ収めていた。


 彼女の顔色は、昨日見た時よりもさらに白い。


「記憶を買い戻す、その瞬間が最も危険です。……失われていた『接続リンク』が復旧すれば、現世の因果に灯里様の存在が再登録される。それは同時に、彼女を狙っている『赤い傘の女』にとっても、絶好の誘導灯マーカーになるということです。買戻しの成功そのものが、次の襲撃を呼び込むトリガーになる」


「……だから、一気に全部を戻すんじゃなく、必要最小限のパーツに絞るんだ」


 悠真は、ポケットのスマートフォンをホールドしながら、静かに画面を起動した。


 画面には、極限までシンプルにリファクタリングされた『SRM Ver 1.5』のフロントエンドが表示されている。


 余計なパラメータやグラフィックはすべて非表示にし、退路の維持、危険度のスパイク、そして契約個体の異常ログだけが、巨大な文字で描画されていた。


(情報の過負荷ストームは完全に防げる。前回のバグは修正した。今回は、画面を見る時間は最小限。目の前で起きる取引のロジック(規約)だけに集中する)


 悠真が内心でシステムをチェックしていると、影の底からジャグラズが顔を出した。


「相手は店だ。商品を奪い返すなら、殴り合う前に徹底的に値切れよ、悠真。あいつらはな、帳簿の数字と取引の整合性にだけは異常にうるさいんだ。悪魔の俺が言うんだから間違いないぜ」


「……ああ。商売相手なら、ビジネスの論理で返すだけだ」


 *


「最後に、今回の作戦における『絶対防衛ライン』を共有します」


 烏丸が、デスクの上に一枚の赤い警告書を広げた。


 そこには、ヤタガラスのガバナンス(安全基準)において、いかなる場合でも取引の対価リソースにしてはならない品目が列挙されていた。


【禁止対価リスト:御門悠真】


 ・御門悠真、ならびに同行者の本名、および寿命。


 ・宮野灯里、佐久間悠介に関する追加の記憶データ。


 ・御門宗一郎(祖父)に関するすべての記憶、および遺産。


 ・御門悠真が保有する『召喚術のシステム(プログラムのロジック)』そのもの。


「御門様。相手は、あなたの特異な召喚運用能力や、お祖父様の遺した万能召喚術の秘密に、強い興味を示す可能性があります」


 烏丸の眼鏡の奥の目が、鋭く悠真を見つめた。


「『それらを売れば、二人の記憶を今すぐすべて返してやる』と、甘い条件エサを提示してくるかもしれない。……絶対に、その取引ディールに応じてはなりません」


「……分かっています」


 悠真は、迷うことなく頷いた。


「俺の大事なリソース(記憶)を切り売りして、彼らのエラーを補修する。……そんなのは、ここで起きた悲劇バグを別の場所で繰り返すだけです。誰かが楽になるために、別の誰かの大切なものを犠牲にする。そんな不健全な仕様(取引)は、俺のプライドが絶対に認めない」


 悠真の言葉に、隣の朱音が「いいじゃない。言うようになったわね、新人」と、嬉しそうに口角を上げた。


「よし。プロビジョニングは完了よ。……行くわよ、悠真。あたしたちの『仕事』を始めましょう」


 *


 旧商店街地下通路の小異界。


 階段を降りきった先、そこに広がっていた地下街は、前回よりも遥かに激しい「豪雨の残響」に侵食されていた。


 天井のコンクリートからは不自然なほどの水滴が滴り落ち、通路のあちこちに深い水たまりを作っている。


 地上の小雨とは明らかに同期していない、窓ガラスを叩き割るような激しい雨音が、通路の奥から轟音となって響いていた。


「また、雨か」


 悠真は、スマートフォンのケースの側面を軽く握り、異界探索モードをアクティブにした。


【境界環境:旧地下街・浅層】


【雨音ノイズ:最大値を検出。空間の歪みが発生中】


【塵霊隊(DS-001〜005):索敵巡回を維持。……退路の固定ピンを確認】


 今回の塵霊たちの役割は、前回の反省を踏まえ、情報収集ではなく『退路の物理的な維持』に完全に限定されていた。


 彼らは悠真の足元に影のように張り付き、現世の階段へと続く座標の糸を、その小さな身体で必死に繋ぎ止めている。


 さらに、遠隔でバックグラウンドに常駐している空き家精霊のすみかからも、短いシステムシグナルが届いていた。


『ゆうま、すみか、今日は絶対にふざけないよ。お家の中に勝手に入ってくる悪いやつは、守護精霊のすみかが全力で威嚇ブロックしてあげる。だから、灯里さんの帰る場所、ちゃんと守ってきてね』


(頼むぞ、すみか。君の『家を守る』という仕様ロールが、今回の防壁のファイヤーウォールだ)


 純喫茶すばるの扉を開け、店内に入る。


 緑色のベルベットの椅子も、カウンターのサイフォンも、すべてが激しい湿気で濡れ光っていた。


 そして――カウンターの最奥、前回の探索で特定した、あの赤いネオンがにじみ出る『スタッフルームの扉』の前に立った時、悠真のスマートフォンが強く震えた。


【接続先:概念売買店舗『なんでも買います』】


【アクセス:承認されました。……ゲートを開放します】


「行くわよ」


 朱音が手袋の手で扉を力強く押し開けた。


 扉の向こうに広がっていたのは、悠真が想像していたようなドロドロとした怪異の巣窟ではなかった。


 そこは、どこか懐かしい、昭和の質屋と、平成初期の百貨店の裏倉庫を混ぜ合わせたような、不思議に整然としたリサイクルショップのような空間だった。


 木製の頑丈な棚が幾重にも並び、その上には無数の「商品」が、整然とディスプレイされている。


 小瓶の中に閉じ込められた、誰かの楽しそうな『笑い声』。


 赤いリボンで厳重に結ばれた、一枚の『約束の書状』。


 ラベルの貼られた古い写真の束、錆びついた鍵、使い古されたランドセル、結婚式の招待状、割れた手鏡。


 それらはすべて、物でありながら物ではなかった。


 人間の生活から切り離された、「思い出」そのもののデータが、物理的な形を得て棚に並べられているのだ。


 そして、それぞれの商品(記憶)の下には、小さな値札が丁寧に添えられていた。


 そこには金額ではなく、こう刻まれていた。


『寿命:三年』


『母親の声の記憶』


『初恋の温度』


『帰る家の匂い』


『明日の希望』


「……最悪ね。きっちり価格(値札)をつけてる分、余計に悪趣味だわ」


 朱音の声音が、激しい嫌悪で低くなる。


「悪魔の俺たちでも、ここまで品揃えをカタログ化(システム化)しちゃいねえよ。人間の後悔ってのは、本当に金になるんだな」


 ジャグラズが吐き捨てるように呟いた、その時。


 棚の奥の暗闇から、ザッ、ザッ、と静かな足音が響いてきた。


「いらっしゃいませ。……ようこそ、当店へ」


 姿を現したのは、非の打ち所のない上品な黒いスーツに身を包んだ、性別の判然としない『店員』の怪異だった。


 顔のパーツは霧がかかったように曖昧だが、その手には、汚れ一つない真っ白な手袋が嵌められている。


 口元と思われる部分が、営業スマイルの形に歪んでいた。


「本日は、お売り(売却)でしょうか。それとも、お買い戻し(ロールバック)のご相談でしょうか。当店は、お客様が不要と判断されたお荷物を適正価格で買い取り、大切に保管ストレージする、由緒正しい商人システムでございます」


 *


 悠真は一歩前に出ると、スマートフォンの画面を店員に向けたまま、冷徹な声で告げた。


「買戻しの相談だ。……佐久間悠介、ならびに宮野灯里の取引記録ログを開示してくれ」


「承っております。当店は、お客様の意思を何よりも尊重いたしますので」


 店員は慇懃にお辞儀をすると、カウンターの奥から、分厚い革張りの『帳簿』を取り出した。


 白い手袋の手が、パラパラと無限に続くページを捲り、ある一頁を指し示す。


 そこには、佐久間悠介のサインと共に、最悪の取引明細が刻まれていた。


【取引記録:佐久間悠介】


 ・売却資産:結婚にまつわる精神的苦痛のすべて(中核データ)


 ・付随品:宮野灯里に関する記憶、顔、声、名前への接続ポート、指輪を渡す約束の消去。


 ・買取価格:日本円にて現金『百五十万円』、および重圧の一時的な軽減(安楽パッチ)。


「……本人は、灯里さんを売りたいなんて一言も言っていなかった」


 悠真は、奥歯を鳴らしながら店員を睨みつけた。


「彼はただ、仕事や将来の苦しみから楽になりたかっただけだ。君たちはその苦痛の根に彼女が含まれているのを知っていて、強引にセットで買い叩いた(デリートした)んだろ」


「お客様が『この苦しみを手放したい』と望まれたのでございます」


 店員は、困ったように首を傾げてみせた。


 その仕草には、悪意ではなく、ただ規約通りに処理をこなしただけだという、不気味なシステムとしての正当性が満ちていた。


「当店は、お客様の願望のボリュームに従い、最適化(最適化)を行ったまでにございます。……そして、こちらがもう一方の、宮野灯里様の記録にございます」


 店員が別のページを開く。


 そこには、彼女の丸っこい文字で、震えるサインが残されていた。


【取引記録:宮野灯里】


 ・売却資産:佐久間悠介の人生タイムラインから、自分という存在を外す権利。


 ・付随品:現世への帰属権インデックス、彼に見つけてもらうための帰り道の放棄。


 ・買取価格:彼のお荷物(負担)にならなくて済む、という一時的な自己満足(安楽)。


 会議室で立てた仮説が、完璧に証明された瞬間だった。


 二人は、お互いを嫌って別れたわけではなかった。


 佐久間は重圧の中で彼女を幸せにできない自分に苦しみ、灯里は自分が彼の負担になっているという罪悪感に押しつぶされそうになっていた。


 二人が、お互いを想い合うがゆえに、自分の痛みを店に差し出し――その結果、お互いを繋ぐ『プロトコル』そのものを、この店に買い取られてしまったのだ。


「二人は、互いを守ろうとなさった。……ただ、その手段として、お互いへの道を当店にお預けになった。結果として二度と出会えなくなる(バグが固定化される)ことを除けば、誠に美しい、合理的な取引でございました」


 店員は、本当に素晴らしい美術品でも褒めるかのように、両手を合わせて微笑んだ。


「その言い方、本気で神経を逆撫でしてくれるわね」


 朱音の低い声と共に、彼女の肩のサラが激しく火花を散らした。


「……朱音さん、まだです。まだリソースの交渉(取引)が終わっていない」


 悠真は朱音を制し、店員に向き直った。


「構造は理解した。……ならば、価格(買戻し条件)を提示しろ。彼らが置いていった付随品を、こちらに引き渡してもらう」


 *


「もちろんでございます」


 店員は微笑み、帳簿の余白に新しい「数字」を書き込んでいった。


「全買戻しをご希望の場合、価格は……左様でございますね。佐久間悠介様の『寿命:十年』、あるいは、宮野灯里様の『残りの現世のすべての記憶』を対価として頂戴いたします。……あるいは」


 店員の顔のない視線が、スッと悠真のノートPC、そして彼のスマートフォンへと向けられた。


「御門様。あなたのその、神秘を新しい論理コードで管理する『召喚プログラムのソースデータ』。あるいは、お祖父様から受け継いだ『万能召喚術の本質に関する記憶』。これらを当店にお売りいただけるのであれば、お二人の記憶も、彼女の存在権も、今すぐすべて無償で(ノーコストで)お返しいたしますが?」


 ジャグラズが即座に影を伸ばし、悠真の前に立ちはだかった。


「断れ、悠真。あいつ、お前のコアシステムをハッキングして奪う気だぜ」


「……分かっているよ。取引は拒否(アクセス拒否)だ」


 悠真は、ポケットからジップ付きの小袋を取り出し、デスクの上にドン、と置いた。


「俺の記憶を売って、彼らの記憶を直す。……そんなのは、ここで起きた悲劇のロジックを繰り返すだけだ。俺は、全買戻し(フルリカバリ)は希望しない。……部分買戻し(セクショナル・リペア)を要求する」


「部分、買戻し……でございますか?」


 店員が、不思議そうに首を傾げた。


「ああ。全部の記憶を一度に戻せば、二人の脳の精神負荷が耐えきれずにシステムダウン(発狂)するのは分かってる。だから、今回は『二人がもう一度、自分たちの意志で選択し直せるための最低限の参照先インデックス』だけを買い戻す。……宮野灯里という『名前』を佐久間が保持する権利。純喫茶すばるでの『待ち合わせの記憶の輪郭』。そして、灯里が現世に帰るための『マッチ箱(退路の端)』だ。これらを、この素材と引き換えにしてもらう」


 悠真が小袋を開けると、中から、昨夜回収した『記憶紙魚の銀鱗』と、淡く光る『小型欲望結晶』、そして『黄ばんだ福引券』がデスクの上に滑り出た。


 店員の白い手袋が、その素材に触れようとした瞬間、悠真が冷たく釘を刺した。


「……待て。その銀鱗をあなたの帳簿データベースに投入する前に、条件を追加する。この銀鱗は記憶の保護素材だ。これを帳簿に適用すれば、あなたの店の取引記録の耐久性は劇的に向上する。……その代わり、今回の部分買戻しのログを絶対に改竄しないこと。そして、買戻し成立後、同じ品を再度こちらから徴収(二重決済)しないこと。これを規約ポリシーに組み込め」


 店員は、しばらく悠真のスマートフォンと素材を交互に見つめていたが、やがて、くつくつと低い笑い声を漏らした。


「……お客様、当店をそこまで信用しておられないのですね」


「信用していない。だから、厳密な契約(仕様)を定義してるんだ。……それに、あなたの店にとっても、この二人の記憶は『不良在庫』のはずだ」


「不良在庫、でございますか?」


「そうだ。佐久間悠介の記憶と、宮野灯里の存在権は、お互いを参照し合っている相互依存(密結合)のデータだ。片方だけじゃ他の人間に売り物として転用できない。棚に置いたまま、処理に困っていたんだろ? 売れない在庫なら、買戻し価格(市場価値)は暴落する。……違うか?」


 悠真の論理的な「値切り(ハッキング)」に、店員の営業スマイルが一瞬だけピキリと固まった。


 横で見ていた朱音が、声を殺して痛快そうに笑う。


「いいじゃない、悠真。戦う前に、ロジックで商人の首を絞めるなんて。最高に御門の召喚師らしいわよ」


「……トリヒキ、成立でございます」


 店員は、観念したように白い手袋でカウンターの上のベルを鳴らした。


 チリン。


【部分買戻し(セクショナル・リペア):成立】


【対価リソースの消費を確認。……帳簿の隠蔽領域の開放デコードを開始します】


 銀鱗の魔力が帳簿に吸い込まれた瞬間、閉ざされていたページが発光し、棚の奥から四つの「商品」が、悠真の目の前へと滑り出してきた。


 文字の滲んだ『宮野灯里』の名札。


 雨音の残響が閉じ込められた、コーヒーカップ型の小瓶。


 輪郭だけが復元された、小さな指輪箱。


 そして――表に『純喫茶 すばる』、裏に『待っている人がいるなら、帰れる』と歪な文字で書かれた、古びたマッチ箱。


「こちらが、お買い戻しの品にございます。……どうぞ、返品は受け付けておりませんので、お気をつけて」


 店員が微笑んだ、その瞬間だった。


 キィィィィィィン!! という、鼓膜を引き裂くような激しい霊的スパイク音が、スマートフォンの画面を真っ赤に変色させた。


【緊急警告:赤い傘反応、最大値を検出!】


【宮野灯里のオブジェクトの再捕捉を確認! 買戻しのパルスを感知して、敵のハッキング(強制連行ルーチン)が開始されました!】


「来ます!」


 真柴環が叫び、銀の鈴を乱打した。


「灯里様の名前が戻ったことで、現世のラインが繋がった! それを嗅ぎつけて、あの赤い傘の女が彼女を完全に拉致しに実体化してくるわ!」


「おや、迎えの方がもうお越しのようですね」


 店員は慇懃にお辞儀をしながら、一歩、暗闇へと後退していった。


「悠真! 商品を引っ掴んで出るわよ! ここからは、あたしの『仕事(炎)』の時間ね!」


 朱音の叫びと同時に、悠真は四つのアイテムをリュックへと叩き込み、スマートフォンの退路インジケーターをホールドした。


 *


 ガシャァァァン!! と激しい音がして、店の出口の扉が歪み、空間が猛烈な速度で書き換わり始めた。


 棚と棚の間から、現世の雨が滝のように流れ込み、床のコンクリートの下から、顔のない黒い髪の毛の束が、蠢きながら一斉に這い出てくる。


「みーつけた……」


 店の全方位から、あの赤い傘の女の、優しくも冷酷な囁きが響き渡る。


「灯里ちゃんの名前を戻しちゃったんだね。……ダメだよ。あの子はもう、あたしの傘の中の迷子なんだから。……お家に、帰ろうね」


「サラ! 商品棚には絶対に触るな! 床の『水たまり(雨のロジック)』だけを焼き払いなさい!」


 朱音の命令で、火蜥蜴のサラがまばゆい金色の炎のラインを展開し、床を這う黒い髪の毛と雨水を瞬時に蒸発リファクタリングさせていく。


 だが、空間の歪みは収まらない。


 出口の扉が、まるで蜃気楼のように遠ざかっていく。


【退路マーカー:赤色(警告レベル最大)。空間の完全ロックを検知!】


(くそっ、これじゃあ出口に辿り着く前に、異界の深淵にシステムごと引きずり込まれる……!)


 悠真が歯を食いしばり、スマートフォンの側面を握り締めようとした、その時だった。


『――勝手に入ってこないで!!』


 スマートフォンのスピーカーから、割れんばかりの、すみかの怒声が響き渡った。


 次の瞬間、純喫茶すばる側の扉が、ガガガガガッ! と激しい音を立てて前後に震え始めた。


 誰もいない廊下を激しく疾走する足音。


 勝手に閉まる無数の窓。


 古い柱が軋み、家全体が侵入者を拒絶するように鳴動を始める。


 空き家精霊『すみか』の、本物の家屋守護のパーミッション(権限)の強制発動だ。


『ここは灯里さんのお家じゃない! 悠真の家でもない! 赤い傘の人、ノックもできないなら、今すぐお外へ出ていって!!』


「……な、に? この、家……。……邪魔、しないで……!」


 空間の奥から、赤い傘の女の、初めて動揺したようなノイズ混じりの悲鳴が聞こえた。


 すみかの『侵入者を拒絶する』という厳密に再定義された防衛プログラムが、赤い傘の女の『勝手に滑り込んでくる』ハッキングの挙動を、正面から完全にブロック(アクセス拒否)したのだ。


「よし、すみかの防壁ファイヤーウォールが効いてる! 空間のロックが解除された! 退路マーカー、緑色に復帰!」


「走るわよ、悠真! 喫茶店に戻るわよ!」


 朱音の先導で、一行は歪む扉を強引に突き破り、純喫茶すばるの店内へと滑り込んだ。


 *


 すばるの店内は、現世の豪雨に半分浸食され、壁紙がベリベリと剥がれ落ちていた。


 しかし――窓際の、あの二人用のボックス席(席B)の周囲だけは、カウンターの奥から漏れる老店主の残響の光によって、奇跡的に現世の位相を保っていた。


 その席の片側に。


 昨日までは存在しなかった、薄く、半透明に透き通った『一人の女性の幻影オブジェクト』が、静かにそこに座っていた。


 宮野灯里。


 まだ完全な復元インポートではない。


 顔のパーツはぼやけ、身体の輪郭は雨のノイズで今にも消えそうに明滅している。


 だが、彼女はあの赤い傘を持たず、ただ濡れた肩を小さく震わせながら、窓の外の暗闇をじっと見つめていた。


【オブジェクト:宮野灯里 の一時的な顕現を確認】


【ステータス:極めて不安定(現世帰属権:5%)】


【外部汚染:強。……速やかな名前の呼びかけ、ならびに待ち合わせ記憶の提示を推奨します】


「灯里様……!」


 真柴環が、銀の鈴を強く鳴らしながら叫んだ。


「御門様、今です! 買い戻した『名前』を彼女に認識させてください! 名前は、彼女を現世に繋ぎ止めるための、唯一の配線ポインタになります! ……ですが注意してください、名前を呼べば、彼女の魂の輝きが強くなり、外の『赤い傘の女』にも、彼女の正確な座標が完全に同期バーストして伝わります!」


「分かっている!……宮野灯里さん!」


 悠真は、リュックから取り出したあの滲んだ名札を掲げ、彼女の幻影に向かって、はっきりとした声でその名前を打ち込んだ。


 灯里の幻影が、ビクッと身体を震わせた。


 彼女のぼやけていた顔の輪郭が、急速に焦点を結び始める。


 彼女はゆっくりと、現世の側に首を巡らせ、虚ろな瞳で悠真を見つめた。


「……だ、れ……? わたしを、よぶのは、だれ……?」


「あなたを待っている人がいます。現世で、自分の記憶を削られても、なお君への約束(指輪)を探し続けている人がいる」


 悠真は、さらにコーヒーカップの小瓶をデスクに置いた。


 中に閉じ込められていた、あの日二人が交わした雨音の会話が、店内に優しく流れ出す。


「……佐久間悠介さんです。彼は、今も君を待っている」


「ゆ、うすけ……? 悠介が、わたしを……?」


 灯里がその名前を口にした、まさにその瞬間だった。


 バリィィィィィン!!! という、凄まじい破壊音と共に、窓ガラスが完全に粉砕された。


 砕け散ったガラスの破片の向こう側。


 激しい雨が吹き荒れる現世の路地から、あの『真っ赤な傘』が、鎌首をもたげるようにして店内のボックス席へと突き出してきた。


 傘の下の暗闇から、裂けるような醜悪な笑顔と、らんらんと輝く黄色い双眸が、灯里をロックオンする。


「名前を思い出しちゃったんだねぇ、灯里ちゃん」


 女の声が、店内の空気を凍らせる。


「だめだよ。あなたはもう、お家を捨てた迷子なんだから。……ほら、現世に戻ったって、あなたはあの人の『お荷物』になるだけだよ? あなたが消えてあげたから、あの人は今、楽になれてるんだよ? ……さぁ、あたしの傘の中へお帰り。そこがあなたの、本当の居場所なんだから」


 灯里の瞳から、再び生気の光が失われかけ、彼女の身体が、引きずられるように窓の外へと傾き始める。


「……うん。わたしは、お荷物。悠介の、邪魔に、なるから……」


「違う!!」


 悠真は、一歩前に出ると、スマートフォンの画面を赤い傘の女に真っ直ぐに突きつけた。


「灯里さんは迷子じゃない! 君が勝手に仕様を書き換えただけだ! 彼女が彼の重荷になるかどうかも、彼が本当に楽になったかどうかも、君が決めることじゃない!」


 悠真の背後で、朱音が両手を前に突き出し、彼女の手袋から、これまでにないほど禍々しい、本物の戦う召喚師の紅蓮の炎が、轟音と共に吹き荒れた。


「選ぶのは、彼女本人だ。……俺たちは、そのために、失われた選択肢データをここに戻しにきたんだよ!」


「そういうこと! で、あっちの傘女が、本人の選択を力ずくで邪魔(アクセス拒否)しようって言うなら――」


 朱音の目が、捕食者のそれに変わる。


 サラが咆哮し、紅蓮の炎が、窓の外の雨水を一瞬で蒸発させながら、赤い傘の女の輪郭へと狙いを定めた。


「悪いけど、そのクソ高いプライドごと、ここで焼き尽くしてあげるわ!」


「……だめ、迷子は……あたしの、傘の中に……!」


 赤い傘の女が、初めて本物の「怒り」のノイズを放ち、その黒い髪の毛を一斉に触手のように爆発させた。


【最終迎撃シーケンス:アクティブ】


【対象:赤い傘の女(本体接続を確認)】


【判定:これより、帰路の選択権を巡る、確定的な戦闘フェーズへと移行します】


 買い戻された名前が灯里への道を繋ぎ、同時に、深淵の怪異を引きずり出すための導線となった。


 次に必要なのは、言葉による交渉ではない。


 迷子を強奪しにきた最悪の迎えを、彼女の帰り道から叩き出すための、本物の戦い(デバッグ)だった。

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