幽世 1-4
諦めたように口を開いた銀は立ち上がると全身についた砂埃を払って落とす。そして、オレンジ色の光に包まれた、バケモノが行き交う町を見つめる。
「人の住む世界を現世と呼び、その現世と鏡合わせのように存在するのが《幽世》だ。人と同じように暮らし、人と同じように縁を結ぶ。だけど、所詮はバケモノだ。人の道理は通じないし、理屈も通じない」
ぴくりと銀の耳が震える。指さされた先を篤志も追いかけるように見つめると、そこにはたしかに人と同じように生活をする妖たちがいた。
出店の店主が大きな声で呼びかけ、通りを歩く異形の者たちは笑い合いながら先を急ぐ。その時、篤志の足元を狐の面をつけた子供たちが無邪気に笑いながら走っていく。
その姿に、昔、銀と祭りに行った時のことを思い出す。あの時もたしか、篤志はここと同じ景色を見たはずだった。
美しく、儚い、夢幻の世界を――。
「《幽世》に住む妖たちは、縁を大事にしているわ。その縁が、自分という個の存在をたしかなものに変えてくれるの」
百燐の説明がよく理解できず篤志は首を傾ける。
「よく見てごらん。アタシたちには影がないでしょ? それは、アタシたちの存在が曖昧で、いつ消えてもおかしくないことを表しているのよ」
再び周囲の妖たちに視線を戻せば、たくさんの提灯の明かりに照らされているのに、彼らの足元には影の一つもなかった。思わず自分の足元を見ると影がちゃんとあり、銀の方を見ると影がないことに気がつく。
「消えないために俺たちは、縁を求める。誰かが『お前はここにいる』って認めてくれたら、ここにいてもいいんだって思うことができるから」
懐かしい記憶を思い出すように遠くを見つめながら銀は呟く。その様子に、篤志は目を見開き、咄嗟に銀の手を握る。銀は驚いたように勢いよく繋がった手を見つめると、「本当に、お前は……」と言って寂しそうに微笑んだ。
「それなら、俺と縁を結べばいい。一人でも多くの縁が必要なら、俺でもいいんだろ」
「妖と縁を簡単に結ぼうとするな。篤志の気持ちは嬉しいけどな」
じっと見つめる篤志に銀は笑って額を小突く。百燐も同意するように首を横に振っていた。
「俺たちの存在は曖昧かもしれないけど、縁がなくてもすぐにどうこうなるわけじゃない。それに、こう見えて俺もちゃんと縁を結んでるんだぜ」
「だけど……」
「まぁ、この話はもういいだろ。それよりも《幽世》から出る方法を探さないとな」
あからさまに話を逸らした銀に篤志は不満そうに口を尖らせる。妖と縁の関係性をもっと詳しく知りたかったし、何よりも銀が結んでいる縁について問いただしたかった。だけど、強く握られた銀の手を見て、篤志は口を閉ざした。触れられたくないことに触れてもいいのかと、一瞬戸惑ってしまう。
いつもなら気にせずに聞けたことも、この異様な空間にいるからか、それとも銀が人ではないと知って動揺していたからか、うまく言葉にする自信がなかった。
「百燐、ここから出る方法とかって知ってるか?」
「あらぁ、それはあんたの方がよく知ってるんじゃないの?」
目を細めて笑う百燐はスッと手を持ち上げて銀の方を指差す。
「あんたは、ここから出ていったじゃない」
「…………俺が出るのはそんなに難しいことじゃなかった。俺には辿るべき縁があったから――でも、こいつは違う」
提灯の灯りで煌々と照らされた淡く星が滲む空を見上げる。まるで星々の向こう側に、元の世界への道があるかのようだった。篤志も銀に倣うように空を見上げるが、そこには当然道なんてものはなかった。
「人が《幽世》に落ちること自体、稀な話だものねぇ」
百燐の澄んだ声に惹かれるように視線を戻すと、彼は何かを思いついたように小さく声を上げる。
「そういえば、神様が降りてきてるらしいわよ」
「神様……?」
神様、という単語に一瞬、銀は憎悪にも似た感情を滲ませる。無意識に逆立った銀の尻尾が、絶対に許さない、と言っているようで篤志は思わず口を閉ざす。
「神様……神様ねぇ。どこの誰が、ここに降りてきてるんだ?」
「ふふ、縁花神……なんの因果か、縁を結ぶ神様がここにきてるらしいわ。そうね、神様ならここから出る方法も知ってるんじゃないかしら」
よっぽど神様を頼りたくないのか、銀は口をへの字に曲げると険しい表情を見せる。なぜ銀が神様に頼りたがらないのか、理由はわからなかったが篤志はその神様に会ってみたいと思った。
「その神様に会って話を聞けばいいんだな」
「篤志?!」
「誰もここからの出方を知らないなら、その神様とやらを頼るしかないだろ。いつまでもここにいるわけにもいかないし」
篤志の正論に銀は「それはそうだけど……」と視線を彷徨わせながら、決心がつかない様子を見せる。篤志ほどではないが、銀も即決即断タイプだからこそ、神様に会うことを躊躇う様子に少しだけ新鮮さを感じる。
篤志は銀の手を取って、強く引く。驚いた銀はその勢いで数歩前に出ると、町を覆う提灯の灯りが、彼を照らす。
「行こう、銀。大丈夫だ、俺がいる。神様とやらが銀を傷つけるようなら、俺が守ってやるから」
銀の瞳が大きく見開かれ、きらりと光が宿る。
「……なんだ、それ。はは、俺ってば、そんなに弱っちく見える?」
「いや、銀は頼りになる男だと思ってる。だけど、ずっと完璧でいる必要もないだろう」
戸惑いながらも握り返された手に篤志は優しい笑みを浮かべる。そして、視線を合わせようとしな銀の目の前に立ち、挑発するように、堂々と笑う。
「お前が前に進むのを躊躇うなら、俺がその手を引いてやる」
迷いのない篤志の手に銀は何かを思い出すように唇を噛み締める。そんな弱気な銀ですら篤志は許すように、包み込むように握った手に力を込める。
「だから、行こう!」
「……っ!」
その瞬間、町の喧騒が消える。銀の世界から篤志以外の全てが遠ざかっていく。
「あぁ、もう! わかった、わかったから!」
握られていない方の手で顔を覆った銀の首筋はほんのり赤く染まっている。見られたくないのか、顔を逸らしていたが照れているのは鈍感だとよく言われる篤志にもよくわかった。
正直、自分の発言のどこに照れる要素があったのかはわからなかったが、銀が前に踏み出す後押しができたのならいいかと考えることをやめる。
「その代わり! 俺が危険だと思ったら、すぐに帰るからな。俺の言うことを聞くのが条件だからな!」
「あぁ、それでいい。それで、銀が安心するなら、銀の言う通りにする」
「……今回こそは、マジでその言葉、守れよ」
過去に何度も銀の言うことを聞かなかった前科を持っている篤志は、相当銀からの信用を失っているようだった。そっと篤志が視線を逸らすと、銀は諦めたように肩を落とす。
篤志はいつもの調子が出てきた銀を見て、嬉しそうに顔を綻ばせる。その様子に、銀は本当にわかってるのか不安になっていたが、その気持ちは篤志には届いていなかった。
「いいわねぇ、青春! ……って感じがして」
二人のやりとりをそばで見守っていた百燐が口元を手で隠しながら妖艶に笑う。百燐は反対の手で大通りのはるか先を指差すと、二人に目配せをする。
「神様はこの先の大社にいるはず。神様にちゃんと出会えたら、よろしく伝えておいてね」
パチンっと片目を閉じると、百燐は薄い笑みを浮かべたまま、人々の波に飲まれるように姿を消す。
「それと、言うのが遅くなったけど……おかえり、篤志。ぜひ《幽世》で素敵な縁を見つけてねぇ」
耳元で囁かれたかと思うと、百燐の気配は完全に消えてしまう。




