アジサイのロウソク
僕の目の前に幽霊が現れた。
それは小さな少女の姿をした幽霊だった。
幽霊なんて存在を信じるものなどどこにいようか。
普通の人なら幽霊なんて信じないか、除霊でもしてもらえと言うことだろう。
「どうせ寝ぼけてたんじゃないの?」
部活の帰り際、自転車を押しながら歩く佐々木の答えはありきたりなものだった。しかし、僕にはそれがはっきりと見えたのだ。目を開けた向こうで、扉を背にして確かに立っていた。
どうしてそんな確信がもてるのか、自分でも不思議だった。
それでも僕はこの目で見たのだ。
「そこに居るはずのない少女」の姿を。
そこに居るはずは決してないと分かっているものがそこに居るとき、それを幽霊と呼ばずして何といえばいいのだろうか。
僕にとって幽霊という存在は現実のものだったのだ。
「そうはいっても信じられないな。」
何度も強弁する僕の前で佐々木はそう顔を歪ませる。
当然信じてもらえるはずなどないだろう。
自分自身だって信じ切れていないのだから。
いつもの分かれ道の小さな交差点に来た時、別れ際に佐々木は立ち止まって僕にこういった。
「やっぱり疲れてんだよ。明日は部活も休みなんだからしっかり休んでみたら?」
「そうかな。」
僕は少し笑ってとぼけて見せた。疲れてなんかいない。そう外面では取り繕っておきたかったのかもしれない。
「だって今日でちょうど二週間だろ?ほら、妹さんの、さ。」
そう言われると僕は押し黙った。何か話そうと思っても妹のことが頭に入ってくると途端に何も考えられなくなる。
「部活も休んだって誰も責めはしないんだから。あれだったら俺から先生に言ってやってもいいんだぞ。」
佐々木はそういって僕の肩に手を置いた。僕は小さく「ああ。」とだけ言って下を向いたまま強くこぶしを握り締めた。僕と佐々木の間には夏のうるさい熊蝉の声だけがシャーシャーとわめていた。
家まで帰ってきてドアを開けようとしたとき、横にピンク色のキックスクーターが倒れていた。そういえば二週間前のあの日の朝も倒れたままだったような気がする。もし、これを起こしてから自分が家を出ていれば何かが変わったのかもしれない。横目でそんなことを思いながらドアを開けた。
「お兄ちゃん、おかえり!」
玄関からリビングに入ると、右手のキッチンの下から弟の梓が勢いよく顔を出した。母さんが寝込んでしまってからは、僕と梓のふたりでご飯の支度を分担するようになった。ただ、僕は部活で遅くなるのでどうしても梓の負担が大きくなってしまっている。ニコニコと文句も言わないでやってくれるのでつい甘えてしまっているが、そこは申し訳ないと思う。
「ただいま、今日は何を作ってるん?」
「今日はカレーだよ。ちゃんと教科書みながら作ってるから今回は大丈夫だよ。」
梓は家庭科の教科書を片手にそう言った。前回はシチューだったが、水が多かったのか、ものすごく薄い牛乳味のスープが出来上がっていた。まあ、僕も炊飯器を開けたらパサパサのご飯が出てきたことがあるので人のことは言えない。
僕は笑って「楽しみにしてるよ。」といってそのままリビングの奥に進んだ。そこにはこぢんまりとした勉強机があり、その上にはお椀に盛られたご飯と、真っ赤なロウソクの火、そして真っ白い布に包まれて、四角く、小さくなった妹の藍がいた。
藍が死んでから今日でちょうど二週間経った。あの日の朝、藍は「図工の時間で作った版画があるの。お兄ちゃんのも持って帰ってくるね。」なんて言っていた。僕は「それは、どんな出来なんだろうな。」と苦笑いをした。その日、藍が自分でここに戻ってくることはなかった。無論、僕にその版画を見せてくれることもなかった。
「あの時、もっと褒めてあげればなあ。」
僕は真っ白な布になった藍の前でそうつぶやいた。何をすればこの結末を変えられたんだろう。何を見ても、何を聞いてもそんなことばかり考えてしまう。
「二度とは変えられない」
そんなものは所詮言葉でしかない。
人はどこかで「なんとかできる」と思っている。でも、この世には本当にどうにもできないことがあるのだ。現実っていうのはなんと残酷なのだろうか。目の前で小さく揺れるロウソクの火だけが、藍の存在を示していた。
「はあ。」
僕は大きくため息をついてから振り返って、二階へ続く階段に向かった。
「着替えてくるよ。」
キッチンに向かってそういうと、「わかった~。」と声だけが聞こえてきた。
細い階段を上がった二階には、左右にそれぞれ木製のドアがある。
右側が僕と梓の部屋、左側が母さんと父さんの部屋だ。といっても父さんは仕事で大阪にいて毎週土曜にしか帰ってこないので、実質的には母さんの部屋だ。今のところ、母さんは葬式に出て以来、ずっと部屋の中のベッドの上で寝込んだままである。
階段を上がって、固く閉ざされた母さんの部屋のドアをみながら、右の部屋に入る。電気をつけると、そこには僕と梓の机やタンス、そして藍の布団だけが引いたままになっていた。前はここで川の字で三人一緒に寝ていたのに、今は二人だけだ。藍の布団を見ると、いろんなことを思い出してしまう。藍の柔らかいほっぺに頬ずりしたこと、僕の脇腹をつつかれたこと、寝ている時に足が顔にかぶさってきたこと。いろんな思い出がここには詰まっていた。片づけてしまったらそんな思い出も全部なくなってしまいそうだった。だからそんなに広くない部屋なのに、藍の布団だけはどうしても片づけられなかった。
服を着替えてから、階段を下りてリビングに降りると、ダイニングテーブルの上にはカレーの器が二つ湯気を立てて並んでいた。
「お兄ちゃん、できたけど。お母さんは?」
梓はスプーンを二つ手にもってカチカチといわせながら聞いてきた。
「さあ、さっきは通った時は特に何とも。」
僕も梓の前に立つと、スプーンを受け取る。
「そっか。じゃあ、トレー出さないとね。」
梓はそう言って食器棚の隙間に挟まっているトレーを取り出した。
ここのところ夕食と朝食は母さんの部屋にトレーで持っていてから置いておくことにしている。母さんだって寝込んでいるとはいってもお腹は減るはずだ。実際、梓が帰ってきたときにはシンクに食器が置いてあるらしい。
「今日は持っていくよ。」
僕がそういうと、梓は鍋からお玉でカレーをよそいながら、「ほんと!?ありがとう。」と笑っていた。
カレーの器とコップの水をトレーにのせて、ゆっくりと階段を上る。足元を見ながら上がっていくと、さっきとは反対に左側の部屋の前に立った。今日こそは何か言ってくれるんだろうか、それとも怒られるんじゃないだろうか。
そんな考えが頭を一瞬駆け巡った。
一度大きく深呼吸をする。
「母さん。ご飯持ってきたよ。」
少し大きめの声でそう呼びかけた。
だが、向こうからは何の音もしない。
「じゃあ、入るよ。」
そう言ってから床にトレーをおいて、ドアを開けた。屈んでもう一度トレーを持ち直して、ゆっくりと部屋に入る。部屋の中はオレンジ色の常夜灯がついていて、母さんは僕に背を向けてベッドの上で横になっていた。なんの反応もないと、寝ているのか、はたまた死んでいるのかがわからなくなる。どうせなら「うるさい」とか言ってくれる方がまだ確証がもてるのに。
僕は数秒立ち止まって母さんの方を見つめる。そして、母さんの上にのっている毛布が上下するのを確認して奥の化粧台の方に歩いていった。
「ご飯、置いとくよ。」
トレーを化粧台の上においてから、振り返ってそう言った。
でも母さんは何も言わない。死んではいない。
それはさっき確認した。きっと寝たままなんだろう。
そのまま起こさないようにゆっくりと部屋を抜けてドアに向かうと、静かにそっとドアを閉めた。
階段を下りてリビングに戻ると、梓はすでにテーブルの前で座っていた。
「あ、お兄ちゃんありがとう。お母さん、なんか言ってた?」
こちらに気づくと、振り返ってそう尋ねてきた。
「いや、何も。たぶん寝てるんじゃないかな。」
僕は椅子を引きながら首を横に振った。
「そっか。じゃあ、しょうがないね。」
梓はそう言ってスプーンを持ち直した。
どうしてそんなに簡単に納得できてしまうのか、僕にはわからなかった。
僕だって苦しいし、梓だって苦しいはずだ。
母さんの気持ちも痛い程わかる。
わかるからこそ何も言えない。
だけど、母さんには早く部屋から出てきてほしい。
別に家事を代わってくれと言ってるんじゃなくて、負担を下げてほしい。
僕も何もしたくない。
もっとゆっくりと考える時間が欲しいのに。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
梓は怪訝な顔をして僕の方を見つめていた。
「あ、いや、なんでもない。」
僕はそう言って目の前のカレーの器に目を移し、コップに入ったお茶を一気に飲み干した。
でも、今は動ける僕と梓でなんとかしないといけない。父さんがいない以上僕たちがなんとかするしかないんだから。そう頭の中で繰り返して自分に言い聞かせた。
***
そろそろ日付をまたぎそうな頃合いだが、暗くなった部屋の布団の中で、僕はまだ寝付けていなかった。夜が怖い、なんて思ったことはないけれど、最近夜になると胸が苦しくて仕方がなかった。まるで心臓が木枠に押し込まれているような、神経症的な苦しさがずっと続いている。じっとしてれば寝れるだろうと思って、目を瞑ってみてもすぐ暑くなってタオルケットをはぎ、今度は寒くなってそれをかぶる、というのを永遠と繰り返していた。明日は休みだからいいけれど、こんなのを毎夜ごとに繰り返してたら月曜から大変だ。
「ああ、もう。」
そうつぶやいて上半身を起こして布団の上で座り込んだ。
しんどいのに、まぶたは寝てくれと叫んでるのに、いうことを聞かない自分の体に対してイライラする。
水でも飲めば変わるだろうか。
そう思ってリビングに行こうと部屋のドアの方を見た。
すると、部屋のドアが開けっぱなしになっているのに気づいた。
廊下の電気は消えているので梓が締め忘れたのだろうか。せっかく冷房を入れているのにこれでは意味がないじゃないか。そんなことを思いつつ立ち上がろうとしたところで、ドアの向こうで何かが動いているのが見えた。部屋も廊下も真っ暗なので、目を細めてじっと開いたドアの奥を見つめ続ける。目が慣れてきてだんだんとその姿が見えてくると、真っ暗ではっきりとではないが、そこには小学校の制服のスカートと通学帽子をかぶった少女が立っていた。
『また藍の幽霊が現れた。』
先週現れてから今日で二回目だ。
人形では決してない。
小刻みで自然な揺れ方は、人間そのものだった。
顔は全く見えないし、その少女が藍であるかどうかなんて確証はなかった。でも、この家で小学生の姿をした少女なんて「藍の幽霊」以外で説明なんてできない。
「藍、なのか。」
僕はそうその影に向かって問いかける。
それでもその影は何も答えない。
じっと僕の方に向いたまま、動くことはない。
そこに居るのが誰なのか、今すぐこの場からダッシュで追いかければはっきりするのかもしれない。でも僕にはそれはできなかった。足が、体がまるで固められたみたいに動かなかった。
目の前に藍がいる。
それなら、何かできることがあるんじゃないか。
何か言うことがあるんじゃないか。
そう思っても僕の体は何一つ動こうとはしなかった。いや、正確に言うなら僕は動く気がなかったのだろう。追いかけると消えてしまう気がした。正体がわかるのが怖い。それが藍であってほしい。そう心の中で願い続けているんだ。
何もできないままじっとその影を凝視したままでいると、一瞬「ふふっ」と笑ったような声が聞こえた。そして、フラッとドアから離れて廊下の奥に消えていった。
「ま、待って。」
僕はすぐに立ち上がってその影を追いかけようとした。しかし、タオルケットが足に絡まってバランスを崩す。
「いった!」
布団の上に肘をついて着地したので、ぶっちゃけ痛くはなかった。でも衝撃がすごかったので少し右ひじをさすりながらもう一度立ち上がる。もしあれが人間ならば、そう遠くはいけないはず。そう思って廊下に顔を出した。真っ暗な廊下には人影も物音もしない。恐る恐る廊下の電気のスイッチをつける。
「うっ」
一瞬目がくらんで顔をそむける。でも慣れているのを待っている暇はない。どうにか目を細めて、白飛びした世界の中で少女を探した。
「いない。」
だんだんと色を取り戻した視界でもう一度見まわしてみても廊下には何もいなかった。
ここにいないとなれば、じゃあ、下に降りたのか。
真横の階段を見下ろすと、真っ暗なリビングの影が階段の踊り場まで忍び寄っていた。
「はあ、はあ。」
心臓の波打つような鼓動が全身に響きわたって、呼吸が苦しくなってくる。頭の神経がジリジリと焼かれている感覚があった。
ゆっくりと一段ずつ、手すりを握り締めながら階段を下りていく。
もし、ここで誰かが出てきたら腰を抜かしてひっくり返ってしまう。それでも僕は進んでいった。手や足の裏からじんわりと汗が出てくるのを感じた。
階段を降り切ってあたりを見回す。
耳をすましてみても何も音はしない。
部屋の方をむいたままリビングの電気のスイッチを押すと、一気に部屋が真っ白な照明で照らされた。ダイニングテーブルやテレビ、キッチンを一通り眺めても何もいない。別に何かが潜んでいる気配もなかった。
「誰か、いるわけないか。」
一応藍の勉強机の方にも行ってみたが、特に変化はなく、藍は変わらず机の上にいた。あの少女はどこにもいない、となればあれは一体何だろうか。あれは確実に人間だった。いや、人間だと思いたい。それでも現に、ここには誰もいない。
「消えた、か。」
やっぱりどう考えても幽霊としか説明できない。それとも僕がおかしいのか。佐々木が言うように疲れてるのか。
本当に藍が幽霊になって出てきているのか、心の中でそんな問答を繰り返す。藍の机に右手を添えて見下ろしていると、突然後ろから声がした。
「何してるの?」
「うわあ!!」
僕は大声を上げてバランスを崩す。
足の踏ん張りがなくなったと同時に藍の机に頭をゴンッとぶつけた。
「いったぁぁ。」
僕は頭を押さえながら声のした方を見上げた。
「お、お兄ちゃん、大丈夫?」
そこには寝間着を着た梓が立っていた。梓は屈んで手を差し出してくる。
「あ、梓か。脅かさんでくれよ。」
僕はそう言って頭を押さえたまま、梓の手を握る。
梓は「ご、ごめん。」といって少しよろめきながらも僕を引き上げてくれた。
「梓は何をしょったんな?」
僕は冷凍室から保冷剤を取り出しながら尋ねる。
「何って、トイレいってただけだよ。」
梓はそう言って後ろの廊下を指さした。確かにトイレは玄関の横だからここにいてもおかしくはないか。
「そっか。それはまあ、そうか。」
保冷剤を頭に押し付けながら僕は返事ともいえない返しをした。
「お兄ちゃんは何してたの。」
「えっと、それは。」
そこまでいいかけて我に返る。はたして幽霊がいるなんていっていいものなのか。梓に馬鹿にされるぐらいならいいが、梓の中学校で広められても困る。始まったばかりの中学生活で友達に「お兄ちゃんは幽霊が見えるんだよ。」なんて言いふらされたらたまったものではない。
「ちょっと藍がいる気がして。」
嘘はついてない。最大限誤魔化してるけど。梓は「ふーん」といってから「さみしくて帰ってきてくれたのかもね。」と藍の机の方を見ていった。藍の方を見る梓の顔は笑っていた。いつもの僕に向けるようなものよりも、もっと嬉しそうな顔をしていた。
「そう、かもね。」
僕はそんな梓を見ながらそれだけ言った。
****
翌朝、ドタドタと階段を上がってくる音がして目を覚ます。どうにか片目だけでも釣り上げてから、頭の横に置いてあるスマホを手に取る。タオルケットを巻き込みながら体を横向きにしてスマホのホーム画面をつけると、デジタル時計はちょうど九時半を表示していた。
「お兄ちゃん!もう九時過ぎてるよ!」
時計を確認したのと同時ぐらいで、勢いよく梓がドアを開け放つ。
「わかっりょるって。」
そう言いながら首を上げると、梓が僕の布団の上で仁王立ちしていた。
「パンとヨーグルト置いてあるから、早く食べてね。」
「わかったって。」
そういって僕がしぶしぶ体を起こし始めると、梓はフイッと背を向けて階段を下りていった。なんでお前はそんなに元気なんだよ。日付こえてから寝たんじゃないのかよ。そうぶつくさ言いながら、僕はゆらっと立ち上がる。前は藍とこういうことを言い合っていたんだが、まさか梓に言われるようになるとは想像していなかった。
でかい口を開けてあくびをしながらリビングに向かうと、テーブルの上には無造作にパンが数個と、四つから切り取りとるタイプのヨーグルトが置いてあった。梓はすでに食べ終わったのか、キッチンの流しで皿か何かを洗っているようだった。
「あ、飲み物が要るね。」
梓は僕に気づくとそう言って水を止める。
「いいよ、それは自分でやるから。」
最近の梓はずいぶん積極的に家事をやるようになった。むしろ積極的過ぎて怖いぐらいだ。前も僕が洗濯を干そうとかごをもっていたら、「やるよ。」といって笑って半ば奪うように持っていったことがあった。なぜそこまでしてなんでも自分でしようとするのか、ほとほと謎だ。ご飯もある日帰ってきたら突然キッチンに立って作っていたし、掃除も「僕がやるよ」といっておいたのにいつの間にか終わっている。ここまでくると「お兄ちゃんがやってよ。」と半ギレで言ってくれる方がまだ安心できる。一言でいえば奇妙だった。
テーブルの上にのっていたグラスをとり、キッチンの方に回り込む。そういえば牛乳って残っていたかな、なんて考えながら流しの前に立つ梓の後ろを通ろうとした。その時、ふと梓の後ろ姿が気になった。
「なあ、梓。エプロンなんて付けるのか。」
僕はコップを持ったままそう尋ねる。すると、梓は「いいじゃん。お母さんもしてたし。」といって水を止めてからこちらを向いた。
「いや、そういうことじゃなくて・・・。」
僕は梓の姿を見たまま言葉を詰まらせる。別にエプロンをつけるのを悪いといってるんじゃない。むしろ家庭科の時間に作らされるので眠らせておくよりは活用した方がいいだろう。問題は、梓が着ているのは梓のものではないことだった。
「どうして、藍のを着てるんだ?」
梓が着ていたのは、イチゴの柄がプリントされた淡い桃色をしたエプロンだった。これは僕が藍に誕生日に送ったものだ。
「だってお母さんの大きすぎるから。」
手元をタオルで拭きながら梓はそう答える。
「自分のだってあるんだろう?そっちじゃダメなのか?」
僕がそう尋ねると梓は少し言葉を詰まらせる。梓だって当然自分のものがあるはずだ。それをしないでわざわざ藍のを着てくる理由がわからない。
「悪い?」
「え。」
「藍ちゃんのつけることってお兄ちゃんにとって悪いことなの?」
梓はそういって僕の顔を見上げる。鋭い目つきで僕をにらみつけ、まるで僕が藍を死なせた犯人だといってるようだった。
「別に責めてるんじゃなくて、単に聞いてるだけじゃんか。」
僕は左の眉毛を少し釣り上げる。
「だったら何しようが勝手でしょ。」
「そうだけど、怒るなよって。」
想定外の梓の反応でこぶしの下ろしどころを見失う。いや、そもそもこぶしを振り上げたつもりすらなかったのだが。
「そう、じゃあほっといてよ。」
梓はそういってプイッと流し台の方に向く。そして水を出してまた手を動かし始めた。
「ご、ごめん。」
僕はそれだけ言って梓の後ろを通り抜けた。何か気に障るような言い方をしただろうか。単なる疑問を口に出しただけでキレられるのは理不尽なのではないか。そう心の中で自問していた。
牛乳をグラスに注いでから冷蔵庫の扉を閉めて、テーブルに戻る。キッチンにいる梓を背にして座ると、テーブルの上にある菓子パンを一つつかんだ。
朝からなんでこんなに心の負担が大きいんだよ。
菓子パンの開かない袋を両手で引っ張りながらそう思った。イライラするというよりも不思議だった。梓が何を考えて、何を思っているのかわからなかった。
その後数十分の間、僕と梓の間には何の会話もなかった。僕は梓に背を向けたまま、知りもしない東京のスイーツのお店を紹介する朝のテレビ番組を眺めていた。前ならこういう番組を見ながら母さんと藍が「行ってみたいね~」とかいって笑いあっていたのに、今ではそれもない。いるのは脱力しきった顔をして一人で飯を食べる男だけだった。陽気にレポートするアナウンサーと笑うスタジオが写るテレビとは対照的に、ここには何の刺激も、会話もなかった。
「一人、か。」
思わずそんな言葉が口から出てきた。
一人は嫌いじゃないけれど、何気ない会話すらする人もいないのか。でも僕は兄なのだ。誰かに助けを請われることはあっても僕が助けを求めることはできない。誰にも相談はできない。自分が支える側にならないといけないんだ。こんなことで「さみしい」なんて言っていられないのだ。
***
いつの間にか梓もいなくなり、リビングで一人朝食の片づけをしていた。片づけといってもプラスチックの包装を捨てて、グラスを洗うだけだ。夕飯の時と比べれば大した負担でもない。僕は台拭きを四角くたたんでテーブルの上に置いた。その時、玄関の方からガチャという音と風が吹き込む音が聞こえた。
もう、そんな時間か。
僕はそう思って壁にかかった時計に目を移す。
時計の針は十一時前を指していた。毎週土日は父さんが大阪から帰ってくる。大阪からここまでだいたい二時間ぐらいかかるが毎週欠かさずに帰ってきてくれる。以前は少し鬱陶しく思っていた節もあったが、今の僕にとってはそれが待ちきれなくなっていた。
「ただいま。」
そう言ってスーツを着た父さんが入ってくる。
「おかえり。早かったね。」
僕は台拭きを持ったまま頬を緩ませる。
「今日は二本ぐらい早めの新幹線に乗れたんだ。ああ、はい、これ。」
父さんはそう言って黒い仕事カバンから小さな赤色の箱を取り出した。表には大きく「赤福」と書いてあった。
「いつも新大阪に売ってるんだけどね。持って帰ったことはなかったなと思って。」
「これってあれじゃない?賞味期限二日しかないやつ。」
僕は箱を受け取りながらそう言った。
「そうだね。まあ、梓と二人で分けたらちょうどいいんじゃないか。ほら糖分は勉強にもいいらしいぞ。」
「また勉強の話ばっかり。ありがとう。」
僕はそう言って箱をテーブルの上に置き、赤い包みを破く。
「ところで梓は?」
父さんがテレビ台の横にカバンを置きながら尋ねる。
「たぶん上でスマホいじってるんじゃないかな。呼んでこようか?」
「いや、いいよ。お母さんはまだでてこないか。」
「うん。出てきてないよ。」
包みを全部外して木目調の内箱を開けながらそう答える。箱の中には真っ黒なあんことお餅が一面に並んでいた。
「そうか、また後で話をしないとな。」
父さんはそう言ってから「はあ」とため息をついた。そして、視線を奥の方に移すと、僕の前を通り過ぎて藍の机の前に向かう。
藍が写った写真立てを手にとると、「二週間か。」と父さんはそうつぶやいた。肩の力を抜いて立ち尽くす父さんの後ろ姿にはおよそ父親の威厳は感じられなかった。
「そう、だね。」
僕はそれだけしか言えなかった。
前に進み続け、後ろを振り返ることは許されない。うずくまってはいけない。強くなくてはいけない。このゴールのないレースをみんな走り続けるしかないんだ。
「お土産、梓に見せてくるね。」
僕はそう言って開いたままの箱を持ち上げる。
「わかった。」
父さんは横目でそう言うと、また藍の机の方に視線を落とした。
階段を一段ずつ上って二階にたどり着くと、梓がいるであろう部屋に向かう。どうせスマホの動画でも流し見してるんだろう。そう思って特にノックもせずに、箱を持ち替えてもう片方の手で取っ手をつかむ。そのままドアを開けると、自分の机の前に座る梓がみえた。
「なあ、梓。」
そういいかけたところで、突然梓は机に突っ伏して、ずいぶん焦った様子でこちらを向いた。
「な、なに?」
梓はそうきいてきた。その顔はずいぶん引きつったものだった。
「あ、ああ、父さんがお土産くれたけど食べるかって話なんだけど。」
何をそんなに焦っているんだ。それにその体で覆い隠しているものは何だ。
「そ、そう。ありがとう。えっと、食べるから下に置いといてよ。」
梓はそのままの姿勢でそう答えた。早く僕を下に行かせたいんだろうが、そんな状態で「はい、そうですね」で済ませられるわけないだろう。
「なあ、何してんだ。」
僕は持っていた箱を梓の隣の自分の机に置く。
「何もないよ。」
「だったらなんで机に伏せてるんだよ。」
「これは、えっと、その。」
梓がそう言葉を濁しているとき、ふと机の棚の中に金色をしたプラスチックの四角い袋があるのが見えた。
「これはなんだ?」
僕がそれをさっと手に取ると、それに気づいた梓はそれを奪い返そうと座ったまま僕の腕をつかむ。
「待って!勝手にとらないでよ!」
そんな梓の怒鳴り声を無視して、腕を上に持ち上げる。よくよくその袋の表を見ると、『フェイスパック』と書いてあった。フェイスパックっていったら顔に張り付ける保水用のやつのことだろうか。こういうのって女が使うもんじゃなかったっけ。
「フェイスパックって、お前これ使ってるのか。」
「みんな使ってるって!」
「みんな使ってるわけないだろう。どこのみんなだよ。」
確かに世の中、男女で色々あるとはいえこれが流行ってるなんて話は聞いたことない。
「お兄ちゃんには関係ない!返してよ!」
梓はそう言って立ち上がると、僕の手元からパシッとその袋を奪い取った。
「なあ、お前、どうしたんだよ。」
僕は梓の真意が知りたかった。しかし、そこでいきなり部屋の入口から怒鳴り声が聞こえた。
「あんたたちうるさいのよ!」
僕と梓は一瞬体をビクつかせる。そして二人してゆっくりと声のする方に顔を向けた。そこには、横に髪の毛が跳ねて目の下にクマができた母さんが立っていた。
「ぎゃあぎゃあうるさいのよ。いいわね、そうやってできるくらいあんたたちは元気で。」
母さんは内向きに開いたドアにもたれかかってそう言い放ち、僕の方を睨みつける。
「藍がいなくなった苦しみなんか、私の苦しみなんか、あんたたちにはこれっぽっちもわかんないでしょうね!」
母さんはそう言ってドアを力任せに殴りつけた。ドンッという大きな音とともに、ビリビリとした空気の振動が耳の鼓膜を揺らした。
苦しいのは別に母さんだけじゃない。
それで動けない母さんを支えてるのはこっちじゃないか。
僕はそう言いたかった。でも今の母さんに向かってそんなことをいうわけにはいかなかった。
「ご、ごめんなさい。自分で、もっと頑張る、から。」
僕の横から梓の震える声がした。
「お、おい、どうしたんだ。」
そこへちょうど父さんが下から上がってきた。
僕と梓は何も言わずに母さんの方を見つめたまま黙っていた。母さんも何も言わないで僕たちの方を向いていた。
「とりあえずお母さん、戻ろうか。僕からも話すことがあるから。」
父さんはそう言って母さんの腰に手を回してから廊下へ出る。そして、ゆっくりと僕と梓の部屋のドアを閉めた。
ドアが閉まると、さっきの喧騒は嘘のようにエアコンの音だけが響く静かな空間になった。
「僕らが全部やってるんだから、あんなこと言わなくてもいいのに。」
僕はそう梓に言った
。苦しいのはみんなそうだ。
父さんだって、僕だって、梓だってそうなのだ。
僕は言い返したかった。「母さんが何もしないから僕たちがこうしないといけなくなってるんでしょ。」と。でも母さんだって苦しいんだ。そんなこと言ったところで何も解決にならない。
「きっとお母さんも辛いんだよ。」
梓はそう言って、さっきの半透明のボトルをもってドアの方に向かった。僕が「どこ行くんだよ。」と聞くと、チラッと僕の方を見てから「トイレ」と一言だけ言って部屋を出ていった。
絶対トイレじゃないだろ。
僕は一人でそう思って「はあ」とため息をつく。
今日は朝からなんでこんなにバタバタしてるんだ。休日なのに何も休まらない。
「佐々木、そううまくはいかないみたいだよ。」
僕は梓の机を見ながらそう言った。
それにしても、梓はどうして顔パックなんてしてたんだろう。別にそういうのを否定するつもりはないしやるなら勝手にやってくれたらいいのだが、あそこまで僕に隠す必要あるだろうか。何も後ろめたいことがなければ自信をもって堂々としてればいいのに。
でも、もし女になりたいとかそういうのだったら。
一瞬、そんなことが頭をよぎる。そうだとしたらなんだか悪いことをしてしまったかもな。学校でも散々尊重しろと言われていることなのに、あんなに根掘り葉掘り聞くもんじゃなかったかもしれない。そう思いなおすと、急に申し訳なさが勝ってきた。自分の独りよがりで梓を苦しめていたのだとしたら自分もさっきの母さんと同じだ。
僕は「難しいもんだな。」とつぶやき、目線を最初に持ってきたお土産の箱に移す。結局、これをどうするか梓に聞けなかった。でも急ぐもんでもないし、ラップしておいとけばいいだろう。
とりあえずリビングに戻るか。
そう思って部屋の入口の方を向いた時、ふと部屋の奥にある藍の布団が目に留まった。ずっと置きっぱなしになってるその布団はあの日の朝から何も変わっていない。本当は触りたくないのだが、いい加減片づけないとこっちの気持ちの整理もつかない。藍が自分で片づけてくれたらこっちも楽なんだけど。それこそ昨日みたいに幽霊でもいいから、いつの間にか片づけてくれたら。
「幽霊・・・。」
そこまで考えたところで、ふとそんな言葉が口から出てくる。そう言えば昨日幽霊が出た時、最終的にそこには梓がいた。前に幽霊が出た時も布団に梓はいなかった。そして、今日の梓は藍のエプロンをつけていて、さらに女みたいなことをしていた。
「いや、まさか。そんなこと。」
僕は梓の机の方に向きなおす。
確かに真っ暗な中でよく見えていなかった。けれどさすがに男女の判別ぐらいつくはずだ。この目で見たあの幽霊が藍ではないとしたら、そうだとしたら僕はどうしたらいいんだ。
そんなはずない。
あれは藍のはずなんだ。
頭の中でそう繰り返す。
でも状況証拠的にはそうであるとしか言えなかった。僕はその場で中腰になると、梓の机の引き出しを勢いよく開けた。とにかく「幽霊」の正体がそうではない証拠が欲しかった。もし顔パックだけなら梓の言うように流行りなだけかもしれない。そう信じたい一心で引き出しの中身をひっくり返した。しかし、そこにあったのは、藍が使っていた黄色い通学帽子と、ピンク色の布だった。通学帽子はわかるとしてこれはハンカチか何かだろうか。そう思ってその布きれをとりだすと、それは藍が使っていた、下着だった。
「嘘だろ。」
僕はその場から動けなかった。
帽子や下着なんて、なんでそんなものを隠しておく必要があるんだ。いや、理由はわかっている。こんなものがここにある理由は、梓が使っていたのを隠しているから、以外にはない。
それでも僕の頭は理解をすることを拒んだ。
「いや、でも、まさか、そんな。」
どうにかして合点のいく別の理由を探してみる。それでも逃れることはできなかった。わかっているけどわかりたくない現実がそこにはあった。
「あれは、幽霊じゃなかったのか。」
僕はそう言ってその場に膝から崩れ落ちた。幽霊が出ることを悩んでいたはずだったのに、この喪失感はなんなんだ。失望、疑問、後悔。実に様々な感情が胸の中で渦を巻く。僕の希望は何度へし折られないといけないのだろう。夢を、希望を語るのはそんなに悪いことなのか。
「僕が一体何をしたっていうんだ。」
床に正座したまま痛くなってきた鼻を何度もこすっていた。
しばらくしてからリビングに戻ると、梓はテレビをつけたまま、スマホを眺めて寝転がっていた。梓は一度僕の方をチラリと見たが、何も言わずにまたスマホに視線を移す。僕は後ろから話かけようと口を開く。しかし、声が出てこない。呼吸はできるのにまるでお風呂の栓がされたみたいに喉の奥がつっかえていた。
あのことを聞いていいのか。別の自分がそう尋ねる。幽霊のことは、僕にとって一刻も早く何とかするべきことだった。でも今この場でそれを聞いて本当にいいのだろうか。上には父さんも母さんもいる。梓と僕のことで、ここで揉めても何もメリットはない。それに結局のところ「幽霊」が梓だという確実な証拠はどこにない。面倒事になっても誰もいいことはない。
「どうしたの、ずっと口開けて?」
梓はスマホをもったまま聞いてきた。
「あ、いや、なんでもない。」
僕は口元を手で覆うと、そのまま回れ右して階段の方に戻った。これは僕と梓の二人の時に解決するべきことだ。今はまだその時ではない。そう言い聞かせて二階に上がっていった。
***
最後に「幽霊」がでてから一週間が経った。
長いようで短い平日が終わり、また休日が戻ってくる。相変わらず母さんも出てくることはなく、そういう意味でもみんなにとっては特に変わらない週末になるだろう。しかし、僕にとってはいつもと全く違っていた。「幽霊」は今のところ一週間おきに出てくる。だとすれば今日また出てくるはずだ。つまり、「幽霊」の正体をつかんでこの問題を終わらせる時。今日が、その時なのだ。
風呂から出てリビングに行くと、梓はテレビのクイズ番組を見ながら笑っていた。
「じゃあ、先に寝るからね。」
僕が髪の毛をタオルで拭きながらそういうと、梓は「わかった。おやすみ。」といってまた視線をテレビの方に戻した。
「お前も早く寝なよ。」
「わかってるって。」
梓はこちらを向くことなくそういうと、テレビに向かって「ああ、間違えたぁ。」と膝を叩いていた。
「そう。」
僕はそれだけ言って二階へと向かった。
電気を消し、ドアを締め切ってから布団に入る。これで何かが入ってくれば廊下の明かりが漏れてくる。そして、僕の手元にはこの部屋の明かりのリモコンが握られている。もし「幽霊」がここに入ってきたらこのリモコンですべてを明らかにすることになるはずだ。でも、僕自身はまだ迷っていた。本当に「幽霊」の正体をつかむべきなのか。それは梓だけでなく、自分自身にとっても、だ。このまま何も起きなければ、もし万に一つでも現れた「幽霊」が明かりをつけて消えてしまうようなら、僕は藍の存在を保つことができる。いなくなったはずの藍がいてくれている。そう思えるだけで僕は平常でいられる。
梓、頼むから普通に寝てくれ。そうすれば暴く必要もなくなるから。
そう心の中で祈りながら僕は体を横に向けていた。
二時間ぐらいたっただろうか。体を常に張り詰めた状態で保つのは疲れる。そろそろ梓には戻ってきてもらわないとこっちがもたないのだけどな。そう思っていると、突然僕の後ろから一筋の光が差し込んできた。その光はだんだん面積を大きくしていき、床一面を照らしていった。
梓が入ってきた。
僕は目をつぶって寝たふりでやり過ごす。やがてカサッという絨毯に体重を乗せる音が聞こえてくると、その音はだんだんこちらの方に近づいてきた。
頼むからそのまま布団に入ってくれ。
心の中でそう何度も、何度も繰り返す。しかし、いくら待っても梓が隣の布団に入ったような音は聞こえなかった。
戻ったのか、いや、でもかすかに服のこすれる音がする。それも僕の真後ろ。背中側から聞こえる。確実にこの部屋にいる。
今、僕の真後ろにいる。
電気をつけるなら今だ。
だが、本当にいいのか。もしこれが藍だったらもう二度と現れてはくれないかもしれない。そんなことはありえないってことはわかっている。でもそう信じたかった。誰にも頼れない僕の唯一の支えがこの幽霊だったんじゃないのか。
そうだ、梓だと確証なんてどこにもないんだ。だからこのまま寝入ってしまったっていいじゃないか。梓のことはこれとは別でゆっくり解決していけばいい。
体中から汗がにじみ出てきて急にお腹周りが寒くなってくる。今じゃなくていい。このままこの後ろにいる何かが去ってくれればそれで終わりでいいんだ。
「お兄ちゃん。」
そう思い込もうとしていた矢先、小さく、はっきりした声がした。
「幽霊」がしゃべったのだ。
その声はとても聞きなじみのある声だった。
「なんでなんだよ!!」
僕はそう叫ぶとリモコンのボタンをおして、一気に布団をめくりあげた。そして後ろにいた何かの腕をつかんでこちら側に引っ張り込んだ。つかんだ腕は血の気の通った人間そのものだった。数秒遅れて電気がつき、そのままそれを布団の方に押し倒す。このときはじめて「幽霊」の顔を見た。それはスローモーションのようにゆっくりとはっきりとしたものだった。
「きゃ!」
そんな声を出して「幽霊」は布団の上に尻もちをつく。僕はその上から馬乗りになって大声を上げた。
「梓、お前何してるんだよ!」
僕の見下ろす先にいたのは、藍の小学校の制服をきた梓の姿だった。
「何って、会いに来てあげただけだよ。お兄ちゃん。」
梓は澄ました顔をして僕を見上げる。
「会うって、今更なんの話だよ。」
「それに、私は梓くんじゃないよ。藍だよ。忘れちゃった?」
意味が分からない。今目の前にいるのは梓じゃないか。確かに梓と藍は、身長はあまり変わらなかった。でも、目の前に見えるのは梓のはずだ。声だってそうだ。服装だけ藍を真似たって、藍なんかじゃない。
「藍って、藍は死んだんだ。ここにはいない。」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。
「藍は死んでないよ。ここにいるじゃん。」
そういうと、梓は体を起こして僕に抱き着いてきた。かつて藍が何度もしてきたように。僕はもう意味が分からなかった。僕がおかしいのか。僕の目には梓の姿しか映っていない。でもその梓は、自分は藍だと主張する。それも自信満々に、なんの曇りもない目で。
「そんな、こと。藍が・・・。」
もしかして本当に藍なのか。梓に幽霊として入り込んでいるのか。そんなことがあり得るのか。自分の確信と、梓の前に置かれたロウソクの火がゆらゆらと揺らぐ。言われてみれば梓のあの女のような行動も、あれが藍自身だったとしたら合点がいく。梓の体を藍がいわばのっとっていたのか。
今ここで僕が梓を受け入れれば、梓を抱きしめれば、僕が梓のもつ小さなロウソクの火を消してしまうことになる。
それは梓が、藍だと受け入れること。
「どうしたの。お兄ちゃん。」
梓はそう言って僕の方に顔を上げる。
藍が仮にここにいるのならそれはうれしいことだ。しかし、そうだとすれば梓はどこに行ったんだ。
僕が接してきた梓は一体誰なんだ。
「梓はどこ行ったんだよ。」
「えっ。」
「お前が藍なら、梓はどこに行ったんだよ!」
そう叫ぶと僕は体にくっついていた梓を無理やり引きはがす。藍が梓を上書きしているのだとすれば、それは梓が死んだのと同じじゃないのか。
藍が梓を殺したようなものじゃないか。
「なあ、梓なんだろう。そうだといってくれよ。」
正座でちょこんと座る梓の前で、僕は呼吸を荒くする。藍がいなくなって今度は梓もいなくなったら僕はどうしたらいいんだ。そんなこと許せるわけがない。これ以上家族を失いたくなんかない。梓が藍のふりをしているのなら、もうこの際それでいい。梓がいてくれる、もうそれ以上は何も望むものはない。
「僕は梓だよ。」
そう言ってくれ。
これが僕の、裏切られ続けた中での最後の願いだった。
「違うよ。私は藍だよ。お兄ちゃん。」
それは短くそう言った。
その瞬間、僕の視界には何も映らなくなった。目の前の幽霊は僕の願いを、希望をいとも容易く打ち砕いた。どす黒い何かが自分の奥底から湧き上がってくるのを感じた。そのヘドロはやがて僕の胸のあたりまで上がってくるとぐるぐると渦を巻きながら加速する。そしてその渦の通った黒い跡は大きな崖となって僕の胸の中に刻み込まれていった。それは今まで感じたこともない、経験したことのない峻烈な衝動だった。僕自身に何かしようという意思はなかった。体自体にも力は入っていなかった。それでも自分の耳には風を切る音が聞こえていた。まるで獲物を狙う豹のように自然に、素早く、的確に食らいついていた。
「返せよ!梓を返せよ!」
僕はそう叫んでいた。梓の体に馬乗りになり、梓の首に手を掛けていた。全天に広がるぼんやりとした映像の泡の中に包まれた僕は、VRの世界のように中心で浮かびながら茫然とその様子をみていた。
「や、やめて。」
梓はそう言って僕の手を首元から引きはがそうとしていた。何度も僕の手の甲をひっかき、顔を真っ赤にする。
「梓までいなくなるなんて冗談じゃない!梓がいなきゃダメなんだよ!」
そう言って僕は、目を大きく見開き、歯を食いしばって腕に力を入れていた。僕の小さかったロウソクの火は、今では焚火ぐらいに大きくなり、さらにどんどん膨張していく。
「返せよ!」
僕は梓の首に手を掛けたままそう何度も繰り返す。梓の顔は真っ白になり、口を開けたまま頭を左右に動かしていた。
『ああ、このままじゃ死んじゃうよ。』
ふわふわと泡の中で浮かぶ僕はそう思った。でも止めようとかは思わなかった。今の僕はテレビの画面を見ているようなものだった。画面越しで起きていることは僕にはどうしようもない。見ているだけで触れない。僕は僕自身がしていることを神にでもなったように、どこか他人事のように、上からただぼーっと眺めていた。
だが、その時だった。フワフワと真上からこの光景を見ていると、ふと梓が僕の方を向いているのに気づいた。首を絞めている僕ではなく、泡の中で浮いている方の僕に、である。歪めた顔の中でも口角を上げて苦しさを隠そうとしていた。そして、首元から手を離して僕の腕をつかみ、出ない声ではっきりこういった。
「ありがとう」
一つも声なんか出ていなかった。
本当にそう言ったのかもわからなかった。
でも僕には聞こえた。
泡の中で浮かぶ僕にもそう聞こえた。
その瞬間、僕の視界がいきなり梓を見下ろすものになった。
真っ白な顔をして苦しむ梓。
その世界は三人称ではなく一人称の、僕自身の世界だった。
「うわあ!」
そう叫んで後ろにはね飛んだ。
僕はなんてことをしていたんだ。
今、僕は梓を殺そうとしていたのか。
自分の両手にはじんわりとした不気味な熱が残っている。
「がはっ、げほっ。」
そんな咳のようなものが聞こえて顔を上げると、梓が体を横に向けて喉元を押さえていた。
「梓、大丈夫か。」
僕はそう言って梓のもとに駆け寄った。梓は顔を真っ赤にしながら布団の上で何度も空咳を繰り返す。
「梓、ごめん。まさかこんなことを自分がするなんて。」
そういって梓の背中に手をやろうとすると、梓はその手をたたき落とした。そして、じりじりと腕を使って腹ばいで僕から離れると、壁を支えにして起き上がった。
「だ、だい、じょうぶ、だから。」
梓はかすれた声でそういうと、よろよろと部屋から出ていった。スカートをはいてフラフラと歩く後ろ姿は、藍にそっくりだった。そこで僕は気づいた。梓だけじゃなく、藍のことも殺してしまうところだったのだと。
布団の上にはポツポツと水の跡がついていく。
「ごめんなさい。」
僕はそうつぶやいてその場でうなだれていた。
***
翌朝、僕は針で刺すような肩の痛みで起きた。いつ寝たのかはもはや覚えていないが、起きた時には布団の中ではなく硬いフローリングの床の上で横になっていた。ゆっくりと体を起こし、薄暗い部屋の中を見回す。
隣の布団に梓はいなかった。
僕は両手を開き、黙って手のひらを見下ろした。
昨日のことは驚くほどはっきりと覚えている。これが夢だったらどんなに安心できたことだろう。
梓のためだった。
梓を助けたいと思った。
でも僕はこの手で梓の首を締めあげたのだ。
梓を殺そうとした。
それはまぎれもない事実だった。
梓の苦しみと比べれば、僕の肩の痛みなどまったくもってどうでもいい。
「どうしたら、よかったんだろうな。」
僕は天井を見上げてそう言った。
あの「幽霊」に教えてほしかった。
僕はどうしたらよかったんだ。
ゆっくりと階段を下りてリビングに入る。いつものなら右手のキッチンに梓が立っていて「遅いよ。」なんて言ってくる。けれど今日はそこにはいなかった。
改めてリビングを見回すと、奥の角にある藍の机の前で、立っている人影が見えた。一瞬だがその後ろ姿になつかしさを感じた。しかし、すぐにいつもの見慣れた後ろ姿に戻った。
「あ、あずさ。」
僕はどうにか喉元を開いて精一杯の声を出した。あんなことをした僕が、僕なんかが梓に向ける顔なんてない。一生許されないだろう。それでも僕は梓の前に出ていかなければならない。それが僕のできる唯一のことだった。
「昨日の、ことだけど。梓のことを、」
僕がそこまで言いかけた時、梓は背を向けたまま口を開く。
「お兄ちゃん、藍ちゃんって死んだんだね。」
「え。」
「藍ちゃんはもう帰ってこないんだ。」
梓はそういうと、机の上にあったロウソクの火をフッと吹き消した。そして、クルッと僕の方に振り返った。こちらを向いた梓の首元には青黒いあざが手の形に合わせてくっきりとついていた。でも梓の顔は笑っていた。目を潤わせて、たくさんの涙のかわいた跡をつけて笑っていた。
「謝ったらダメだよ。謝ったら藍ちゃんが戻ってきちゃう。」
「そういうわけには・・・。」
「いいの。これでいい。この跡は大きな間違いをした罰だから。」
そう言って梓は首元をさすった。青くなったあざの近くには、いくつもの赤いひっかき傷もあった。僕はもう見ていられなかった。ここまできてもなお、僕を責めようとはしないことが僕自身を苦しめていた。
「お兄ちゃん。」
床の木目を見つめる僕を梓が呼ぶ。
そしてゆっくりと足を進めて僕の前に立った。
「僕は梓だよ。お兄ちゃん。」




