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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

中原師光勘文について

作者: 西堂有規
掲載日:2025/12/15

『鎌倉遺文』六八一五

中原師光勘文

(○『葉黄記』宝治元年四月二十七日条)


勘申 文章得業生菅原在匡與同公長坐次相論事

一 依兼國可被定上下臈哉事


天武天皇五年春正月甲子(廿五日)詔曰、凡任國司者、除畿内及陸奥・長門國以外、皆任大山位以下人、

寛平五年二月四日、癸酉、以隆孫正六位上菅原朝臣高見為文章得業生、同六年八月十六日、任参河掾、從七位上相當、

治承三年正月十九日、戊辰、文章得業生藤原教季任能登大掾、件國除目略、相當正六位上、而菅原在匡任加賀掾、上而除目略、相當從七位上、


同四年正月十六日、教季・在匡兩人於策、在教季於在匡之上歟、

今案、求兼國相當之位、決秀才坐次之論、是依為新儀、


一 養子事


大寶元年七月戊戌、勅曰、功臣封應傳子、若無子勿傳、但養兄弟子者聴傳、其養封之人亦無子、聴更立養子而轉授之、其計世業、同正子、但以嫡孫為繼、不得傳封、又五位以上子、


依蔭出身、以兄子為養子、聴叙位、其以嫡孫為繼不得也、


建久九年五月四日、辛丑、菅原淳高補文章得業生、為祖父在茂朝臣男之由載學狀、而有勅許、


建永二年正月十八日、甲午、藤原範宣・菅原長貞兩人給學問料、範宣者、養父從二位範光卿學之、長貞者、父從四位下為長朝臣學之、


建暦元年三月十二日、範宣・長貞等補秀才、


同三年正月十日、範宣・長貞等献策、坐次範宣在于長貞之上歟、


上裁、同十二日、菅原公長給學問料、公輔朝臣為子學之、有勅許、


今案、養子之法、昭穆有限、出身之儀、格制已許、然猶天下衆人殊恐諸道儒士、凡古今之間、學猶子之時、雖違法意、不及彈議矣、


嘉禄元年閏十二月七日、己酉、穀倉院學問料可給二人之處、三人競望之中、藤原忠輔國光卿男、大菅原輔男久朝臣二統為信宿願等也、而以在衡卿孫忠輔被給之、輔昭・篤信等之


間、宣定申有才學問之者、而為信隨召奉試、頗免疵瑕、諸儒曰進學狀、仍為信・忠輔共給之、至輔昭、年齒尤幼、相次可定補、


嘉禄三年二月九日、己丑、藤原資之蔵七、藤原俊國蔵十六、

兩人給穀倉院學問料、資之者參議從三位左大辨家光卿學之、

安貞三年正月廿九日、補秀才、俊國者、父散位從四位上俊親朝臣學之、


寛喜二年正月廿五日、補秀才、(證フラン)


今案、六位已下隨年齒定坐次、雖有准據、依蔭孫立次第、

已為恒典歟、


右、文簿所載、管見如斯、縱有舊制、難棄常例者哉、政貴有

血之謂也、仍勘申如件、


寶治元年三月二日

掃部頭兼大外記周防權守中原朝臣師光勘申



現代語訳(中原師光勘文)


文章得業生・秀才の任用や坐次について、養子・依蔭(門閥的出身)との関係をめぐり、前例と制度を検討した上で意見を申し上げる。


文章得業生菅原在匡が、同じく文章得業生である菅原公長と、坐次をめぐって争った件について検討する。


まず、国司任用については、天武天皇五年の詔により、畿内・陸奥・長門を除く諸国の国司は大山位以下の者を任ずることとされている。


寛平五年二月四日、菅原朝臣高見が正六位上として文章得業生に補任され、同六年八月十六日には参河掾に任ぜられ、位階との相当も整っている。

治承三年正月十九日には、文章得業生藤原教季が能登大掾に任ぜられ、正六位上相当とされた。一方、菅原在匡は加賀掾に任ぜられたが、その相当は従七位上であった。


治承四年正月十六日、教季と在匡の両名が策問を受けた際、教季が在匡より上位に置かれたのは妥当であるかが問題となった。


これについて考えるに、兼任国の相当位を基準として秀才の坐次を定めるのは、新しい慣例に基づく判断である。


次に養子の問題について検討する。


大宝元年七月の詔によれば、功臣の封は本来実子に伝えるべきものであり、実子がない場合は兄弟の子を養子として継がせることが認められる。ただし、養子にした者にも子がいない場合、さらに養子を立てることは許されるが、その場合も嫡孫をもって継承とすべきであり、封を他に移すことはできないとされる。


建久九年五月四日、菅原淳高が文章得業生に補任された際、祖父菅原在茂朝臣の孫であることを学状に記し、勅許を得ている。


建永二年正月十八日、藤原範宣と菅原長貞の二人が学問料を給され、範宣は養父である従二位範光卿に、長貞は父である従四位下長朝臣に学んでいた。


建暦元年三月十二日、両名は秀才に補任され、同三年正月十日の献策においては、範宣が長貞より上座に置かれた。


さらに同月十二日、菅原公長が学問料を給され、公輔朝臣を父として学んでいることが勅許されている。


これらを総合すると、養子制度には昭穆の制限があり、出身(依蔭)に基づく取り扱いも法令上は認められているとはいえ、天下の儒者たちは必ずしも一様ではなく、古今を通じて、学問においては「子のように扱われる」ことが多く、法意に多少反しても、強く問題とされない場合があった。


嘉禄元年閏十二月七日には、穀倉院の学問料を給すべき二名の枠を三名が争ったが、最終的に在衡卿の孫である忠輔が給付を受けた。


以上のように、六位以下の者については年齢によって坐次を定める原則があるとはいえ、依蔭による孫の立て方によって順序が定まることが、すでに恒常的な慣例となっているように見える。


右に述べたことは、文書類を検討した私見である。たとえ旧制が存在したとしても、長年の慣例を捨てることは難しい。政治においては、血統が重んじられるからである。


以上の理由により、ここに勘申する。


(宝治元年三月二日

掃部頭兼大外記周防権守 中原朝臣師光)



中原師光勘文は、文章得業生・秀才の序列をめぐる具体的争論を通じて、鎌倉期官人登用の実態を示す史料である。


本来、秀才や文章得業生の坐次は、位階や年齢、任官歴といった形式的基準によって定められるはずであった。しかし師光は、養子や依蔭による出自、すなわち養父・祖父の官位や家格が、実際には坐次や学問料給付に大きな影響を与えていた事例を具体的に列挙する。


法令上、養子制度には昭穆などの制限が存在したが、学問・官途の場面では、こうした制限は緩やかに解釈され、門流に属する者は「実子同様」に扱われることが少なくなかった。師光は、こうした運用がすでに常例として定着しており、旧制があっても変更は困難であると指摘する。


この史料は、鎌倉後期の官僚社会において、制度的規範と実務慣行が乖離しつつも、門閥秩序によって調整されていた実態を示している。

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