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8話 静寂の贈り物

 ラナスの夜。

 

 遠くの森の精霊たちの微かなさざめきが、まるで夜の調べのように響いてくる。

 涼やかな風が居城の廊下を通り抜け、透き通るような静寂が広がっていた。

 

 バスローブ姿のラナスオルは、濡れた長い白髪を無造作に肩へかけ、裸足のまま廊下を歩いていた。

 しなやかに伸びた脚が月光に照らされ、湯上がりの火照った肌に触れる風が心地良い。


「……忘れ物とは、私らしくないな」


 小さく呟き、彼女は自室へ戻ろうとしていた。

 お気に入りのバレッタを置き忘れたことが、なぜか妙に気になってしまったのだ。

 ほんの些細なことであり、精霊に任せてしまっても良かったが――

 

 そんな時、不意に背後から温かな腕が回される。


「……!? シード……?」


 驚きに瞳を見開き、振り返った彼女の視界に映ったのは、寝衣姿のシードだった。

 

 バスローブ越しに彼の体温が伝わり、ラナスオルの心臓がぴくんと跳ねた。

 

 いつもとは違う距離感に戸惑いを隠せず、身体はその場に縫い留められたかのように動かない。

 まるで拘束の魔術でも受けたかのようだが、彼にそんな様子は見られない。


「……な、何のつもりかね?」

 

 威厳を保とうとできるだけ冷静な声を作るが、自分でも気づかぬうちに頬が熱を帯びてくる。

 

 シードは濡れた白髪を指先でそっと梳きながら、静かに囁いた。

 

「あなたには少し反省していただく必要があるようですね」

 

「反省だと……?」

 

 ラナスオルは眉を寄せて見上げるが、心臓の鼓動はさっきより早くなっている。

 彼の腕の力は決して強くない。それなのに、逃れようとする気持ちよりも、この距離の近さに甘えたくなってしまう。


「人の楽しみを奪うだけでなく、挙げ句の果てには作り直しを命じるとは……まさに横暴そのものです。これ以上のいたずらは許しません」

 

 シードの声は冷静で、口調だけ聞けば皮肉めいてすらいる。

 しかし、髪を撫でる指先も、抱き寄せる腕も、まるで繊細なものを壊さないように気遣うかのように柔らかい。


「まさか君が、こんな手段に出るとはね……」

 

 ラナスオルは小さくため息をつくが、胸の奥に広がる熱いものが振り払えない。

 触れられるたびに心臓が高鳴り、唇から吐息が漏れる。

 

「君の方が……ぁ……っ……」

 

 彼女の抗議が言葉になる前に、シードがその額に口づけを落とす。

 触れた瞬間、彼女の瞳が一瞬大きく揺れた。


 それでもシードは迷いなく、髪に触れていた手で肩を優しく引き寄せ、今度はゆっくりと唇を重ねる。

 

 呼吸が止まる。

 心臓の音だけが耳をつんざくように響く。

 

「……っ……」


 ラナスオルはやがて静かに瞳を閉じ、そっと肌を重ね彼の体温を受け入れた。

 

 

   * * *

   

 

 その後、二人は居城のテラスに並んで腰掛け、夜空を静かに見上げていた。

 空には無数の星々が煌めき、夜風が白髪と銀髪を撫でる。  

 

 二人の間には、星明かりに照らされたプリンが小さなガラス容器の中で輝いていた。

 

 シードはスプーンでプリンをすくい、口に運びながらぽつりと呟いた。 

 

「星空が綺麗ですね。長閑やかで……まるでこのラナスそのもののようだ」

 

 ラナスオルはスプーンを手に取りながら彼の横顔をちらりと見やる。

 

「君が、こんなにも気配りのできる人間……いや、神だとはね。これも、君の成長の一環か?」

 

 冗談めいた口調の中に、柔らかな愛情が混ざった微笑みを浮かべる。

 シードは一瞬だけ言葉を止め、静かにラナスオルを見つめた。

 

「さあ、どうでしょう。少なくとも、あなたのいたずらに耐え続ける術は身に付きましたが」

 

 彼の冷静な返答に、ラナスオルは肩を揺らして笑った。

 二人の姿は、長い孤独を知る神とは思えないほど穏やかだった。

 

「もっとも……こうして夜空を眺めながらあなたと話す時間を持てるのなら、些細なことで怒る気にはなりませんね」

 

 シードは星空を仰ぎながら、淡々とした声でそう告げた。

 その言葉の裏には、長い孤独の果てにようやく手に入れた、かけがえのない安らぎがあった。

 隣にラナスオルがいる。ただそれだけのことが彼にとっては何よりの救いだった。

 

 ラナスオルは、星空を映し出す冷たく澄んだ銀色の瞳を見つめた。

 

「ふふ……君は不思議だよ。言葉は冷たいのに、その行動は、まるで全てを包み込むような温かさを感じる」


 ラナスオルはプリンを食べ終えたスプーンをそっとテーブルに置き、彼の隣に寄り添うように肩を傾けた。

 

「これもまた、愛の形のひとつなのだろうか……?」

 

 彼女の言葉にシードは口元を緩め、軽く肩をすくめる。

 

「……また何か企んでいないといいのですが」


 シードは寄りかかるラナスオルの肩口に触れ、肌の名残を感じるように指先でなぞった。

 ラナスオルは満足げに瞳を閉じ、その感触を受け入れていた。

 彼の指が髪を滑るたび、胸の奥のこわばりが少しずつ解けていく。

 

「ただ、僕があなたに付き合う間だけは、好きにしていただいて構いませんよ。……あなたらしい方法で、僕を楽しませてください」

 

 夜空には無数の星々が輝き、静寂の中で二人の心は寄り添っていく。

 言葉がなくとも、そこには確かな愛情があった。


 温かなな幸福に包まれながら、ラナスの平和な夜はゆっくりと更けていった。

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