14話 静かな使命
シードは今日も、何も告げずに人間の世界へと足を運んでいた。
淡い朝霧が葉の先で煌めき、柔らかな陽光が木漏れ日のように差し込む。
そんな穏やかな光の中を、彼は静かに歩いていた。
若い人間の姿に変わり、神の気配を完全に消したシードの佇まいは、どこにでもいる平凡な旅人のようだった。
しかし、銀の瞳の奥には拭いきれぬ影が差している。
(なぜ僕は……今日も外を歩いているのだろう)
特に目的があるわけではない。
かつて幻のラナスオルと共に過ごした街並みの面影を追うように、彼は無意識に人々の営みへと足を向けていた。
* * *
立ち寄ったある街。
雑踏の中に漂う異様な空気を、シードは敏感に感じ取った。
精霊の力が乱れ、見えざる瘴気となって街全体に広がっている――そんな違和感が、彼の神としての感覚を通じて伝わってくる。
――街は、静かに死にかけていた。
商店街の扉は閉ざされ、行き交う人々の顔には疲れと怯えがこびりついていた。
通りには消え残った薬草の匂いが立ち込め、病の名残が色濃く残っている。
そんな中、彼は通りかかった老人に声をかけ事情を尋ねた。
「最近、この街に奇妙な病が広がっているんです……」
シードに声をかけられた老人は重い足取りで立ち止まり、沈んだ声でそう語った。
「医者たちもお手上げだとか……。噂では、精霊たちが怒っているんじゃないかと……それに……」
老人は言い淀み、怯えた目でシードの顔を見つめた。
「死の神様がこの地に来たんじゃなかって噂する者もいてね……」
その瞬間、シードの胸に昏く憂いが広がる。
表情には何の変化もなかったが、銀の瞳の奥に揺らめく影は消えることなく深く沈んでいく。
(またか……)
――「死と恐怖の神」
それは、ラナスの世界で彼が背負わされた忌むべき名だった。
人々がそう呼ぶたびに、彼は自身の存在がいっそう世界から切り離されていく感覚に陥った。
街を見渡し、精霊力の乱れが街を取り囲む大地から来ていることを察知したシードは、街外れの丘へと歩を進めた。
* * *
丘の上。乱れた精霊の力の中心に、荒れ狂うような魔力の渦があった。
近づくほどに、気が触れそうになる程の悲鳴が空気を蝕んでいる。
周囲の草木は枯れ、土は穢れ、風が腐った臭いを運んでいる。
「こんな些細なことで力を使うべきではないかもしれないが……」
シードはため息混じりに手をかざす。
指先から放たれた創造の魔力が波紋のように広がり、精霊たちの怒りを静かに鎮めていく。
彼の魔力は精霊の乱れた鼓動に寄り添い、絡み合う苦痛を優しく解きほぐしていった。
まるで創造の神フェルジアの慈愛の光のように。
やがて暴れ回っていた精霊たちが静かに眠りにつき、大地の力が徐々に安定を取り戻していく。
だが――その安堵は、すぐに壊された。
「お母さん、あの人何かしてる!」
子供の無邪気な声が響いた瞬間、シードは振り返った。
街の住人たちが丘の下からじっとこちらを見つめている。
精霊力の乱れが修復されると同時に、街の空気は変わり始めた。
風は穏やかになり、荒んでいた街が僅かに明るさを取り戻していく。
しかし、シードが街へ戻ると、人々の反応は予想外のものだった。
「死の神だ……」
「病を広めたのもあいつだ!」
「追い払わないと、もっと恐ろしいことが起こる……!」
恐怖に染まった人々の目は、純粋な感謝ではなく「神」という存在への本能的な怯えで満たされていた。
彼は街を救ったはずだった。それでも、彼は化け物として恐れられる。
シードは立ち止まり、冷静に周囲を見渡した。
言い返すことも、弁明することもできた。
しかし彼はただ一言、低く呟いた。
「……話しても無駄だろうな」
そう言うと、シードは街を背にして歩き出した。振り返ることもなく、誰かを責めることもなく。
その背中には神の威厳ではなく、深い悲哀と疲労だけが漂っていた。
* * *
居城に戻ると、ラナスオルが心配そうな表情で待っていた。
「どこに行っていたのだ、シード。君がいないと心配するではないか」
ラナスオルの優しい声に迎えられ、シードは安堵したように表情を緩めた。
しかし、心は冷たい灰のように沈んでいた。
「少し……外の空気を吸っていただけです」
彼は目を伏せ淡々と答えたが、ラナスオルは彼の微かな沈痛をすぐに察した。
「また、何かを一人で背負いこんできたのではないだろうね?」
彼女の問いにシードは一瞬だけ躊躇したが、やがて静かに口を開く。
「いえ、何も。ただ……外では、僕の名前がよく響いているようです。『死と恐怖の神』という名が、ね」
ラナスオルは小さく眉を寄せ、そっと彼の背中に手を置いた。
「君がこの世界を守ってきたことは、誰よりも私が知っている。だが、君自身がそれを信じられなくなったのなら、それはとても寂しいことだよ」
彼女のは置いた手の隣に頬を寄せ、心音を確かめるように耳を当てた。
「どうか忘れないでほしい。私は君を、ただの『死の神』などとは見ていない。君はラナスを守り、私を守る、唯一無二の存在だ」
シードもまた、彼女の温もりを感じるように目を伏せる。
背中を伝い胸の奥に染み込んでいくラナスオルの優しさが、彼の深い孤独をそっと癒していくようだった。
「……僕はただ、ラナスの安定を求めていただけです」
「それならば、私の言葉も信じてほしい。君の力が、恐怖だけでなく希望ももたらしているのだということを」
ラナスオルは、彼の顔を優しく見つめて微笑んだ。
彼女の微笑みは、シードにとって唯一の救済だった。
(僕のこの手が、恐怖以外のものをもたらせるのか……)
シードは何も言わず自らの両手を見つめると、そっとラナスオルの手に自分の手を重ねた。




