12話 神を殺す者
居城の広間に冷たい空気が漂っていた。
高い天井から垂れ下がる燭台の火が揺れ、影が壁にゆらりと揺蕩う。
シードは、広間の中央で膝を抱えて縮こまる一人の少女を無言で見下ろしていた。
銀色の瞳は感情の波を一切表に出していない。
しかし、その奥底では微かな違和感が燻っていた。
――この居城は、人間が辿り着ける場所ではない。
無数の神術による結界と精霊たちの守護をすり抜け、傷一つないままこの地に踏み込んだ存在――それは、偶然や迷いでは説明がつかない。
「君がここへたどり着いた理由を問うべきだろう」
シードの冷ややかな声が低く響いた。その声音は問答無用の圧力を伴っている。
少女は怯えた瞳でシードを見上げ、肩を震わせながらか細い声を絞り出した。
「わ、私はただ……迷い込んでしまって……」
――嘘。
シードの本能が警鐘を鳴らしていた。
しかし、ラナスオルは少女に歩み寄り慈悲深く語りかけた。
「道に迷ったのなら、ゆっくりと休むといい。君の空腹も満たさねばなるまい。少し待っていたまえ」
ラナスオルは柔らかく微笑み、少女の髪を優しく撫でた後、食事の準備のために部屋を後にした。
彼女の足音が消え、扉が閉まると――広間には、再び氷のような沈黙が満ちる。
シードは、まるで標本を見据えるように少女を観察していた。
彼女の息遣い、微細な身体の震え――そのすべてを無言で読み取る。
「君の言葉は……いささか信じ難い」
そう呟くと、彼は目を細め指先に魔術を編み出す。
――精神干渉。
少女の記憶の奥深くへと、シードの意識が沈み込んでいく。
程なくして、鮮明な映像が流れ込んできた。
不気味に笑う神界の死客の神々。そして、少女に手渡される一本の短剣。
それは――神殺しの剣。
神の輪廻を断ち切るためだけに鍛えられた、禁忌の武器だ。
――少女はレジスタンスの一員であり、神界から「神殺しの剣」を託された刺客だった。
シードの銀の瞳が、鋭く冷たく光る。
「死の神め!」
その瞬間、恐怖に揺れていたはずの少女の表情が突如として憎悪の色に染まり、悲鳴のような叫び声を上げた。
隠し持っていた短剣を引き抜き、ためらいなくシードに襲いかかる。
「ほう……」
その一言を漏らす間もなく、剣の切っ先がシードの手を掠めた。
赤い血が一筋、彼の白い肌を伝う。
彼はいっさいの動揺を見せることなく、即座に指を鳴らした。
まるで自分が傷ついたことすら取るに足らないとでも言うかのような迅速さだった。
空間が歪み、無数の魔力の鎖が少女の四肢を絡め取る。
そのまま少女は床に縛りつけられ、身動きが完全に封じられた。
神殺しの剣が、冷たい音を立てて床に転がり落ちる。
広間の空気が凍りつく中、足音が響いた。
ラナスオルが食事の乗った盆を手に戻ってきたのだ。
しかし、彼女が目にしたのは――魔法で拘束された少女と、血の滲むシードの手。
「……何があった?」
ラナスオルの声には驚きと動揺が滲んでいた。
シードは彼女を一瞥し、淡々とした声で事実を告げる。
「この少女が僕を殺そうとしたのです。彼女は神界の死客と接触し、神殺しの剣を持ち込んでいました。明らかに、あなたを利用するための罠です」
それを聞いた瞬間、ラナスオルの顔から一瞬血の気が引いた。
しかし、すぐに歩み寄ると、拘束された少女をそっと抱き締める。
「……君がこんなことをするなんて、本当に悲しいよ」
シードの瞳が一瞬冷たい青に染まる。
自分を殺そうとした者を、こうも容易く抱きしめることができるのか、と、
しかし、ラナスオルにとってそれは自然なことだった。
彼女は少女の髪を優しく撫で、慈愛に満ちた声で諭す。
「もうこんなことをしてはいけない」
少女の瞳から、ゆっくりと憎悪と恐怖が消えていく。
「私は君たちの敵ではない。人々を守るためにここにいるのだ……。それでも、私の隣にいる彼が怖いなら、君が彼を知ろうとする努力をすることから始めてほしい」
ラナスオルの温かい言葉に、少女の怯えた顔が崩れ涙が溢れ出す。
「……ごめんなさい……」
少女は震える声で呟いたが、それが彼女の本心かは定かではなかった。
「……」
シードにはこうして許すことができない。
それでも、ラナスオルの光が少女の心を溶かしていく様子を見て、彼は何も言えなかった。
やがて彼女は転移の魔法を使い、少女を人間の土地へと送り返した。
光と共に少女の姿が消えていくが、ラナスオルはしばらくその場から動かなかった。
広間の空気が落ち着きを取り戻す中、彼女はようやくシードへと向き直る。
だが、ラナスオルと目が合った瞬間、シードは冷たく言い放った。
「また命を奪わずに済ませましたね」
彼は軽く手を振り、傷を治癒させながら冷淡に言葉を続ける。
「今回、あなたが命を奪わずに済んだのは単なる偶然です。この剣があと少しでも深く刺さっていたら、僕の魂すら傷つけられたかもしれない」
そう言って彼は床に落ちた短剣を無造作に拾い上げる。
感情を削ぎ落としたようなその言葉に、ラナスオルの瞳が微かに揺れた。
「もし僕が死ねば、彼女は『英雄』になったでしょう。神界はあなたを孤立させ、ラナスは再び混乱に陥る。そして、僕の死を知った者たちは、あなたの慈悲を逆手に取り、さらに多くの者が命を奪いに来る」
シードはラナスオルをまっすぐに見据えた。
「……それでも、あなたは彼女を赦すのですか?」
ラナスオルは、彼の鋭い視線を受け止めながら静かに息をつく。
瞳の奥には迷いはない。悲しみの奥に愛しさが絡み合い、いっそう強く輝いていた。
「赦すよ」
ラナスオルは一歩踏み出し、シードに近づいた。
「……その少女も、神界に操られていただけだ。彼女は恐れていたのだ、君の力を。そして恐怖のあまり、自分で考えることをやめてしまった。君を討てば救われると信じ込まされて……」
彼女の声は悲しくも優しかった。
「本当はみんな、救いを求めているだけなのだ。君が生きて、私とともにこの世界を守ることこそがラナスの平和に繋がると、いつか理解してもらえると信じている……」
シードは彼女の言葉を黙って聞き、ゆっくりと目を伏せる。
銀の瞳に滲むのは怒りでも冷たさでもなく、疲れ切ったような諦念の色だった。
「しかし、いずれ同じような者が再び現れるでしょう。僕の存在が、ラナスの平和を脅かしている……」
「君の存在が脅威だと考える者もいるだろう。だが、それ以上に、君がラナスを守ってきた事実は揺るがない」
ラナスオルはそっと彼の手を取った。
その手は今は冷たい。だが、彼女は彼が守るために流してきた血を知っている。
「君が背負う罪を私は知っている。そしてその罪を、君が独りで抱え込むのは許さない。私たちは神だ。誰にも裁かれることはない。ただ、この世界を守り続ければいいのだ」
* * *
その夜、居城の窓辺に立つラナスオルは穏やかな夜空を見上げていた。
「シード。君は十分にやっているよ。私は君を信じている」
静かに呟く彼女の横顔を、シードは無言で見つめる。
ラナスオルが何度も「ともに背負う」と言い続けるたび、彼の中の理性は少しずつ崩れていく。
もし彼女まで傷つくのなら、もし彼女まで壊れてしまうのなら――。
自分が存在する意味すら、失ってしまう。
「……信頼だけでは全てを解決することはできません」
シードの声は冷たく響いたが、夜空に広がる星々の光が彼の心に微かな安らぎをもたらしていた。




