11話 守る者たちの葛藤
居城の静寂を切り裂くように、突風と共に風の精霊が駆け込んできた。
羽根を震わせ、透き通った声に切迫が滲む。
「ラナスオル様、シード様! 至急です! とある地域で大規模な争いが発生しています。双方の勢力の被害が甚大で、命の失われる音が止みません!」
広間に漂っていた穏やかな空気が一瞬にして張り詰めた。
ラナスオルの紫の瞳が大きく見開かれ、シードは冷静な視線を向けた。
「何? 一体、何が原因だ?」
ラナスオルの声には、すでに女神としての威厳と焦燥が混じり始めている。
風の精霊は羽音を震わせながらシードをちらりと見た後、苦しそうに答えた
「シード様を信仰する者たちが……あなた様の力を恐れるレジスタンスと衝突しています。このままでは、街そのものが滅びます!」
その報告を聞いた瞬間、ラナスオルの胸に重い鉛が落ちる。
何度止めても、争いは繰り返される。
信仰と恐怖――シードという存在がもたらす二つの極端な感情が、いつまでも人々の間に亀裂を生む。
そして、その代償はいつも大地と命だ。
ラナスオルはシードを見つめた。
彼の横顔はいつもと変わらず冷静だったが、銀の瞳の奥には淡い憂いと諦念が滲んでいるように見えた。
「またか……。シード、このまま放っておくわけにはいかない」
彼女の重い一言に、シードは立ち上がりながら低い声で答えた。
「放っておけない、ですか。ならば僕が行って彼らを粛清しましょう。信者もレジスタンスも等しく力でねじ伏せれば、争いの火種を完全に潰せるでしょう」
その声は死神の刃のように振り下ろされた。
何の迷いも、揺らぎもない。
シードにとって、力で制圧することはただの「解決手段」に過ぎなかった。
しかし、ラナスオルは強く首を振り、彼をなだめるように返した。
「君の力は確かに絶対だ。だが、力で抑えつけるだけでは次の争いを生むだけだ。私が行く。二勢力の間に立ち、争いを止めてくる」
彼女の決意の込められた返答に、シードは冷ややかに彼女を見つめた。
「あなたが行っても、彼らが話を聞くとは限らない。無用な危険を冒すだけです」
「……それでも、これが私の役目だ。この争いの原因は、君を恐れる者と崇める者。すなわち、君という存在そのものだろう? それを君自身が力で制圧すれば、結果として『恐怖』がまた広がるだけだ。ならば、その恐怖を和らげるのは、この女神の使命だ」
シードは目を伏せた。
その一瞬、一万年を超える罪の棘が心臓に突き刺さるような痛みを覚えた。
そして、長い沈黙の後――。
「……好きにしてください。僕には止める権利もありませんから」
低く押し殺した声で告げた。
* * *
戦火に染まる街の外。
荒野に降り立ったラナスオルの前には、信者たちとレジスタンスが剣を交え、血の海を作り出していた。
荒れ果てた大地には命の絶叫が響き渡り、争いの火はますます激しさを増していた。
信者たちが彼女を見つけ、大声で叫ぶ。
「女神ラナスオル様! お力をお貸しください! シード様の神威を恐れる愚か者たちを討つために!」
対するレジスタンスも怒りに満ちた声を上げる。
「死と恐怖の神シードは怪物だ! 人を弄び、力を振るう存在を、俺たちは決して受け入れない!」
――この争いの中心には、シードの影があった。
ラナスオルは目を閉じ、両陣営の憎しみをその身に受け止める。
そして、創造の左手フェルジアを高く掲げた。
柔らかな光が溢れ出し、荒野全体を包み込む。
「やめるのだ!」
ラナスオルの声が天地に響き渡った。
怒りではない。深い慈愛に満ちた女神の一喝。
「お前たちが奪い合い、争うたびに、ラナスの大地が悲鳴をあげている。この土地は、お前たち全員のものではないか。なぜ共存を忘れ、力を振りかざす?」
フェルジアの光に触れた瞬間、剣を振り上げていた者たちの手が震え、次々と武器を落としていく。
まるで、神の温もりが怒りと憎しみで凍てついた心をゆっくりと溶かしていくようだった。
それが、彼女――女神ラナスオルの力だった。
破壊ではなく、救済。
ラナスオルは、シードの影で燃え上がる憎悪すらも癒やしていく。
たとえ、自分が傷ついたとしても――。
* * *
争いは次第に鎮まっていくが、信者たちがなおも声を上げる。
「しかし、女神様……!」
ラナスオルは紫の瞳を鋭く光らせながら雷鳴のような声を上げる。
「シードの名を冠するならば、彼の言葉を思い出せ! 『無益な争いは非効率だ』と彼はいつも語っているではないか! 争うためではなく、共に生きるための知恵を持て。それができぬなら、神の名を口にする資格もない!」
彼女の厳しくも優しい説得により人々は膝をつき、疲れ切ったように肩を落とした。
信者たちも、レジスタンスも、互いに傷つき倒れた仲間たちを見つめ、ようやく争いの無意味さに気づき始めていた。
ラナスオルもまた、荒れた大地に膝をつき静かに目を閉じる。
(これで、少しでも彼の心の負担が軽くなるのなら……)
彼女の胸には、安堵と同時に言葉にならない重さがのしかかっていた。
何度止めても、この争いはまた繰り返されるだろう。
シードという存在が生み出す「畏怖」と「崇拝」――それは、女神の光でも完全には拭えない深い闇だった。
(シード……君を守るために、私は……)
* * *
居城に戻る頃には、夜の静けさが辺りを包んでいた。
扉が開きラナスオルが疲れた足取りで室内に入ると、そこにはすでにシードが待っていた。
彼はいつものように窓辺に立ち、月明かりを背にして佇んでいたが、ラナスオルの沈んだ表情を見て僅かに眉をひそめる。
「どうにか争いは止められた……だが、君の信者が、君の力を恐れる者たちがいる限り、また同じことが起きるだろう」
彼女の声は落ち着いていたが、悲しみの色を隠すように瞼は伏せられていた。
シードは彼女を一瞥し、窓の外に目を向け淡々と答えた。
「……それが僕という存在の影響ですか」
その言葉は、まるで自分自身を深く抉るような痛みを伴っていた。
しかし、ラナスオルは頷かざるを得なかった。
「……否定できない。君の力は、ラナスを守る盾であると同時に、剣にもなり得る。君を守る者も、恐れる者も、いずれは君に試練を挑むだろう。君はそのたびに彼らを力で退け、命を奪うのか?」
ラナスオルの声が震えた。
それは、彼女自身が最も恐れている未来だった。
シードが、破壊の象徴としてしか存在できなくなること。
「死と恐怖の神」として世界から畏れ続けられること。
それだけは、どうしても避けたかった。
しかし、シードは静かに目を伏せ低く答えた。
「その方が早い。それに、あなたが罪を背負う必要もなくなる」
その瞬間、ラナスオルの瞳から涙が零れ落ちた。
「それを君一人にさせるのが、私には耐えられないのだ。君が傷つかないように、私も共に罪を背負う。君と共に歩むと決めた以上、どんな痛みも分け合いたい……」
涙が頬を伝いながらも、彼女はシードに駆け寄り震える腕で強く抱きしめた。
シードの身体が僅かに強張るが、ラナスオルは離さなかった。
「シード、私は君を独りにしない……」
彼がどれだけ冷たく突き放しても、彼の胸の奥にある痛みを無視することなどできなかった。
彼女の体温が伝わり、シードに絡みついていた氷が少しずつ溶けていくようだった。
ラナスオルの涙が彼の黒衣に染み込んでいく。
その涙は、彼の手にかけられた無数の命の重さよりも何倍も心を揺さぶった。
シードはゆっくりと目を閉じ、震える指で彼女の髪にそっと触れる。
「……勝手にしてください。ですが、これだけは覚えておいてください。僕はあなたのように、誰かを許すための手段を持っていない。僕は、僕にしかできないことをするしかないのです」
あまりにも悲痛な言葉。しかしそれは拒絶の声ではなかった。
シードは自分の中の愛情の重さをどう受け止めればいいのか、まだわからなかっただけだ。
彼はそのまま何も言わず、ラナスオルの背中を撫で続けた。
その腕の強さだけが、言葉以上に彼の心を雄弁に語っていた。
ラナスオルは微笑み、涙を流したまま彼の背を撫で返した。
(それでいい……。君が君でいる限り、私は君の側にいる。それだけで、私は十分だ)
ラナスオルは彼の胸に顔を埋めながら、彼の震える心音を聞く。
その音に、彼女もまた覚悟を新たにする。
血塗られた道を進む夫とともに、女神としての使命を全うする決意を――。
再び訪れた静寂の中、居城の空は一層深い夜の色に染まっていた。




