10話 交渉
居城の広間に沈む静寂は、嵐の前触れのようだった。
月光が長く伸びた柱の影を床に落とし、冷えた空気が石床の上を満たしていた。
そんな静寂を破ったのは、歪んだ空間から滲み出る神性の気配。
次元が切り取られように引き裂かれ、一柱の使者が降り立つ。
神界の使い――。
威厳を纏ったその姿は堂々としており、整然と流れる白い長衣が月明かりに照らされ闇に浮かび上がる。
しかし、その黒い瞳の奥には冷たく計算された悪意が隠されている。
「ラナスの神々よ」
低く落ち着き払った声が広間に響き渡る。
「貴公らに、神界から交渉を持ちかける」
シードとラナスオル、そして神界の使いがテーブルにつくと、空気がいっそう重く張り詰めた。
使者の言葉は丁寧だったが、そこに含まれる冷たさ、傲慢さ――その思惑。
異形の神の鋭い視線は何もかも見通していた。
* * *
長い沈黙の後、シードがゆっくりと立ち上がる。
彼の銀色の瞳は神ですら凍りつくほどの威圧感を放っていた。
「……なるほど」
使者の話を聞き終えた彼は淡々と口を開いた。
使者とラナスオルは息を呑み、神妙な面持ちを向けている。
「つまり、あなた方の意図はこういうことですか」
シードは僅かに首を傾げ、底冷えするような冷徹な声で告げる。
「僕を神界の最高神として迎える代わりに、僕たちの罪を不問にし、以後ラナスに干渉しない……。一見、条件としては悪くない」
彼は一歩ゆっくりと前に進む。
そのたびに、石畳がひび割れそうな程の霊気が滲み出した。
「……ですが、そんな話に乗ると思いましたか?」
冷たい侮蔑のような一声が落ちた。
使者の顔が一瞬硬直するが、僅かに喉を強張らせながらも落ち着いた声で応じる。
「断るのか? 最高神という栄誉の座を得て、ラナスに平和をもたらせるのだぞ?」
「……栄誉ですか」
シードのは微かに口元を歪め、蔑むような視線で使者を見下ろした。
声も瞳も人間的な感情が欠け落ち、まるで亡霊が佇んでいるようだった。
「確かに『表向き』はそうでしょう。ですが、あなた方の目論見は別にあるはずだ」
その瞬間、広間の温度が低下した。
見えない刃が一斉に切先を向けたかと錯覚さえ覚えるほど、シードの魔力が濃密に膨れ上がった。
無言のまま使者を見下ろすその眼差しは、もはや神の慈悲とは程遠い。
答えを間違えれば、即座に殺される――。
使者はじっと息を呑み、縛られたように銀の瞳を見据えていた。
二神の間に滲み出る殺気に当てられ、ラナスオルは息を詰まらせた。
空間に張り詰めた緊張に胸が締め付けられる。
何か、言わなければ――
「……シード、君の言葉には一理あるが、もしかすると本当に平和が訪れるかもしれないのではないか?」
ラナスオルは僅かな希望を求めてシードを見つめた。
しかし、彼女のその優しさは彼の冷酷な炎を滾らせるだけだった。
平和などあり得ない。
神界は何度でも干渉してくる。
そしてそのたびに、ラナスオルが狙われる。
それがどれ程許しがたいことか――。
シードはゆっくりと彼女を振り返る。
「それが真実であれば、僕は選択肢として考えました。しかし、あなたは気づいていないようですね」
銀色の瞳が、冷たく彼女を射抜く。
「この使いの言葉は、誠実さに欠ける。あなたが気づかないのは、彼がその気配を巧みに隠しているからです」
その言葉と同時に、使者の背後から不可視の鎖が音もなく伸びる。
おそらく最初から空間に忍ばされていたものだろう。
完全に気配が絶たれているが、シードは見逃さなかった。
鎖は蛇のようにうねりながら、ラナスオルへと迫っていく。
「……!?」
異変に気づいたラナスオルが驚きの声を上げる。
鎖が輝き、彼女を捕えようと迫る瞬間、シードが軽く指先を動かした。
すると鎖は宙で捻じ曲がり、操られたかのように使者自身へと絡みついた。
「……無駄な足掻きでしたね」
その声が響いた瞬間、広間の空気が完全に凍りついた。
シードの魔力が蝕むように拡散し、使者の身体がぎちぎちと音を立てて軋む。
「う……ぐぅ……!」
「あなたは本気で僕を欺けると思ったのですか?」
一歩ずつ歩み寄るシードの姿は、死そのものの化身のようだった。
その手が触れた瞬間、存在そのものを消し去られる――。
使者は本能的にそう悟った。
「……それともラナスオルを狙えば、僕が揺らぐと考えた?」
シードの足音が広間に重く響く。
彼の周囲の空気は歪み、身に纏う亡者たちが悲鳴を上げていた。
異形の魔力が膨張し、石床には無数の亀裂が走る。
その中心で、光の鎖に縛られた神界の使者が歯を食いしばりながら震えていた。
表情には怒りと恐怖が入り混じり、額からは冷たい汗が滲んでいる。
「くっ……まさか、この鎖を操るなど……い、異形の神め!」
使者が声を振り絞った瞬間、シードの瞳が鋭く光を帯びる。
「その通りです。ですが、あなたの最大の過ちは――」
シードの手がゆっくりと上がる。その指先に青白い魔力が集まっていく。
それはまるで、死そのものを凝縮したかのような冥府の炎。
「――僕を怒らせたことです」
その言葉が最後の宣告のように響くと、広間に闇の帷が降りた。
肌を刺す霊気が、使者の身体をじわじわと蝕み始める。
光の鎖がさらに締め付けられ、使者の体内の神性がひび割れていく。
骨が軋む音が響き、苦痛に悶え、必死の形相で叫んだ。
「や、やめろ……! わ、私はただ……」
「ただ?」
シードがさらに一歩踏み出す。
使者とシードの距離が縮まるにつれ、死の足音が近づく。
「ラナスオルを傷つけようとした者に、何の弁解が必要なのですか?」
彼の内に渦巻く激情が、使者の魂をじわじわと侵食していく。
しかし、その時――
シードの背後から温かな手が伸びてきた。
細くしなやかな指が、そっと彼の手を包み込む。
「シード、待ってくれ! 殺す必要はない。彼を神界に送り返そう」
シードは彼女の言葉に一瞬動きを止めるが、すぐに銀の瞳に冷たい光を灯す。
「彼はあなたを傷つけようとした。それを見逃せと?」
シードの声音には、まだ怒りが滲んでいるようだった。
それでも、ラナスオルは微笑みすら浮かべながら、静かに首を振り訴える。
「そうだ。君がまた命を奪えば、それは君自身を傷つけることになる。そんな君を見たくない……。お願いだ、私のために」
彼女はそっと歩み寄り、シードの胸に額を当てる。
彼の鼓動が速く脈打っているのを感じながら、彼女はぎゅっと手を握り締めた。
(僕が……傷つく?)
その瞬間、シードの体が硬直した。
まるで何かが砕け落ちたように、指先の青白い魔力が少しずつ消えていく。
(僕はあなたを守ろうとした。でも、そのことであなたが悲しむなら――僕のしていることは本当に正しいのか?)
シードは目を閉じた。胸の奥で絡みついた怒りの棘が、彼女の声でゆっくりと融けていく。
問いかけるような葛藤に満たされ、やがて彼は息を吐いた。
「……あなたの望みを優先します。彼を神界へ送り返す」
光芒が使者の足元に浮かび上がり、身体が光に包まれる。
シードが軽く指を鳴らすと、その光は淡くなり、使者の姿は完全に消え去った。
しかし、消えゆく間際、使者の瞳には憎悪の色が焼き付いていた。
使者が消え広間に静寂が戻ると、シードは疲れたように目を伏せた。
「ですが、次はありません」
低く冷たい声で告げる。
「彼らが再びあなたに手を出そうとするなら、容赦はしません」
その言葉にラナスオルは小さく微笑み、再び彼の腕に手を添えた。
「それでいい……。君と共にいられるのなら、それで十分だ」
彼女の指先が触れるその瞬間、居城の中に漂っていた緊張感がゆっくりと消えていく。
広間の窓からは柔らかな月明かりが差し込み、二人の姿を優しく包み込んでいた。
こうして再び、居城の空には穏やかな静寂が戻った。
しかしその静けさの中に、二人がこれから向き合うさらなる試練の影が潜んでいるのを、彼らはまだ知らない――。




