1話 女神の死
「ラナスオル……」
シードは、まるで砂を噛むような乾いた声で呼びかけた。
千年を超えて冷徹に生き、幾万の命を手にかけてきた異形の神とは思えぬほど、弱々しく、痛みに満ちた声音だった。
彼の腕の中には、命を燃やし尽くした一人の女神が横たわっていた。
ラナスオル――ラナスの地を創り、守り続けてきた女神。
彼女の白いドレスは血と焦げ跡に染まり、肌には無数の傷痕。
輝くはずの白髪も灰にまみれ、その神々しさは色を失っていた。
敵である最高神の最期の一撃からシードを庇い、傷ついた彼女。
その身体はすでに滅びの段階に入っており、もはやどのような奇跡をもってしても癒せなかった。
ラナスオルは覇気のない眼差しでシードを見上げ、血に染まった唇を震わせて言う。
「心配しなくていい……私は神だ。永遠の命を持つ存在……ほんの少しの間、眠るだけ……」
宙を彷徨う白い手が、彼の頬にかすかに触れた。
その指先には、もはや血の気も残されていない。
わずかな温もりが、指先から静かに消えようとしている。
「数千年……数万年かかっても、私はきっとまた、このラナスの世界に生まれてくる……神の掟のない、本当に自由な世界で……また、君を愛せる……」
ラナスオルの声は掠れ、途切れながらも、懸命に彼へと言葉を紡ごうとしていた。
呼吸は浅く、目の光は弱々しい。
それでも彼女は、決してシードから目を逸らさなかった。
「けれど……私はせっかちだからな……君の答えを、そんなに待てない……」
その言葉が胸を抉る。
シードの内に潜む異形の魔力は今や沈静しているはずだった。
それでも、ラナスオルの一言一句が彼の心を切り裂き、胸の奥に熱く鈍い痛みをもたらす。
「最期に……君の気持ちを……聞かせてほしい……そうすれば、安心して……逝ける……」
彼女の手から、ついに温もりが消えかけていた。
それが完全に失われる前に、彼は答えねばならなかった。
シードは目を閉じ、静かに息を吐く。
「……あなたは、本当に愚かだ」
その声は震えていた。
感情を押し殺していたはずなのに、どうしても痛みがにじみ出る。
「使命だと、自らを追い詰め……掟だと、自らを縛り……それでも最期には、すべてを捨てて愛を選んだ」
彼女の手をそっと頬に当てる。
その感触を、彼は一瞬たりとも忘れまいとするかのように。
「ラナスオル……あなたがいなければ、僕はここまで来ることもなかった」
女神の紫の瞳に涙が浮かぶ。
シードの銀色の双眸映るのは、幻影でも、神でもない――
彼にとって唯一無二の存在である彼女。
「僕は答えを見つけられなかった……けれど、あなたがいてくれたことで、探し続ける意味があった」
彼は彼女の額に唇を落とし、低く囁いた。
「あなたは、僕のすべてだった」
その一言が、ラナスオルの望んでいた答えだった。
彼女はほっとしたように微笑み、ゆっくりと瞳を閉じていく。
最後に落ちた一滴の涙が、彼の指先をぬくもりと共に濡らした。
「次に会う時も、あなたがどんな姿であっても……僕はきっと、またあなたを愛するだろう」
シードは、彼女の手を胸元に戻し、そっと抱き締め続けた。
その身体が光となり、彼の腕の中で静かに消える、その瞬間まで――
* * *
ラナスの地から、女神ラナスオルが消えた。
その後、神なき大地に現れた新たな守護者――シードは、破壊と創造の力をもって世界の均衡を保った。
果てしなく広がる緑の平原、風に揺れる森、命を育む水辺。
それらすべては、彼の力によって守られていた。
だが、短い銀髪と黒衣をなびかせその中心に立つ彼の姿は、限りなく孤独だった。
人は彼を畏れ、精霊は彼を避け、神々はその存在を忌避した。
異形の神となった彼に近づく者はなく、女神の遺した存在として彼を見る者すらいなかった。
それでも、彼はただ一つの願いを胸に、生き続けていた。
「……ラナスオル」
その名を呟くたび、痛みと共に蘇るのは、かつて交わした約束と、あの微笑みだった。
世界を守る理由など、もはや義務でも使命でもない。
彼女と再び出会うため。
ただそれだけのために――
どれほどの時を越えても、彼女がこの世界に還る場所を、守り続けるのだと誓った。
* * *
神界――自らの領域を持たぬ神々が集う、次元の彼方の地。
そこは、かつての最高神を失い、秩序が崩壊し混沌の只中にあった。
神々の掟を司る存在が消えた今、残されたのは力の空白と、奪い合いだけだった。
そして、語られていた。
ラナスを守る二柱の神――掟を破り、愛の名の下に最高神を滅ぼした禁忌の存在。
「ラナスの守護者・異形の神シードを斃した者には、最高神格が与えられる」
その噂は瞬く間に広まり、飢えた神々は一様に狂気を帯びた。
人間から神へと至った異形の存在・シード。
彼を倒すことは罪ではなく、むしろ正当な「権利」とされるようになっていった。
やがて、神々がラナスに襲来する。
無数の神が次元を超えて舞い降り、彼に刃を向けた。
だが、シードはそのすべてを滅ぼした。
彼の銀灰の瞳には怒りも憎しみも宿らず、ただ冷徹な無表情で、淡々と神々を破壊していった。
魔術が空を裂き、大地を穿ち、神々の肉体を容赦なく引き裂く。
幾百年もの時を超え、ラナスにはおびただしい数の神の屍が積み重ねられた。
その魂さえも、シードは死霊術によって縛り上げ、自らの力とし、使役した。
今や神をもってしても、彼の支配に抗える者はいない。
ラナスは守られた。
だが、もはや「祝福」は失われていた。
「死と恐怖の神」――それが彼に与えられた名だった。
人々は祈らない。
ただ遠くから見上げ、畏れ、沈黙のうちにひれ伏すのみ。
神々の骸を従え、孤独に歩むシードの姿に、女神ラナスオルが愛した「人間らしさ」はもはやなかった。
愛を知った者が、今や愛なき守護神となり、孤独と罪の深淵に沈む。
それでも彼は歩みを止めない。
この力は、もはや世界のためでも、人々のためでもない。
――ラナスオルが、還る場所を守るためだけに。
何千年でも、何万年でも。
ただそれだけのために、彼は戦い続ける。
ラナスの地に、再び愛が芽吹くその日まで――




