5 王太子ウィリアム
図書室で勉強しているリサリーは、開いた書籍の文字を目で追いながらも、この事態をどうするべきか、ずっと考えていた。
実害が出始めてから数日、リサリーはそれでも、一人で耐えながら授業を受け続けていた。
教科書を教室に置いておくと盗まれるので、一人だけ大荷物を持って移動した。
失った教科書をすぐに入手することはできない。
ノートに聞いた内容をメモするだけの時間。演習問題も、教科書がないので解くことができない。
グループワークは、もはや当然のように一人だけ取り残される。
その時間を過ごす苦しさ。
そろそろ、親に頼るべきなのだろうと、リサリーはそう思う。
けれども、何故かそれができない。
いや、その理由はわかっている。
恥ずかしいのだ。
笑顔で送り出してくれた父に、助けを求めるのが恥ずかしい。
いじめられるような娘であることを告げるのが、申し訳なく、なによりも惨めで。
リサリーが一人ですべてを耐え忍んでいるのは、ひとえにその思いがリサリーを動けなくしているからだ。
「こんにちは、勉強熱心なんだね」
声を掛けられて、それが自分に対するものなのだと、しばし認識することができなかった。
ゆっくりと顔を上げると、そこに居るのは、金髪碧眼の男子生徒だ。
色が白くて、柔らかい笑顔が魅力的な、割と背の高い人だ。
その顔を、リサリーは事前に知ることができていた。
けれども、だからこそ、声を発することができない。
「前、座ってもいいかな?」
「……」
「そんなに驚かなくても。君は僕が誰なのか、知っているんだね」
答えないリサリーに構わず、彼はリサリーの向かいの席に腰を下ろした。
一体なにをしに、こんなところに――リサリーに、声を掛けに来たのだろう。
彼はウィリアム=フォン=ヴィクトリア第一王子。
このヴィクトリア貴族学園に通う生徒の一人だ。
「君を中心に、学園の様子がおかしいと聞いているんだ」
口を開ず、表情も動かさないリサリーに、ウィリアムは一瞬眉を動かしたものの、すぐに柔和な笑みに戻る。
「困っていることがあるんだったら、相談に乗るよ」
「……」
「僕じゃあ頼りないかな?」
苦笑する王太子に、リサリーは自分が意外にも、弱い人間であることに驚いていた。
こんなあやしい声掛けに折れてしまうような自分が、信じられなかった。
けれども、思いが溢れて、自分を止めることができない。
「……みんなに、いじめられていて」
「……そう」
「なにも、していないんです。私、なにも……」
「……」
「誰も、話を、してくれなくて」
気が付くと、心に浮かぶままに、今まで起こったことを並べ立てていた。
時系列も何もなく、ただ辛かったことを、頭に浮かぶことが、口から漏れ出てくる。
言葉が一つ漏れる度に、目から熱いものも零れ落ちていく。
涙でぐしゃぐしゃになった頃に、リサリーの話は終わった。
「そうか、そんなことが」
もう、リサリーはなにも言わなかった。
しとどにぬれたハンカチで口元を抑えながら、濡れてしまった図書室の本を見つめる。
そうして暫く静かに時が過ぎた後、ふう、と一つため息が聞こえた。
「ふうん。イザベラの言ったとおりだ」
リサリーは、背筋が凍るような悍ましさを感じる。
ゆっくりと、顔を上げると、そこには自分を見下し、軽蔑したように歪んだ男の顔があった。
先ほどまで、張り付けたような笑顔を浮かべていた、その顔。
サラサラの金髪で、美しい碧眼で、けれどもそれは、リサリーの目に、とても醜い色に映る。
「君は、第一王子である僕に対して嘘をでっちあげるんだね。それは許されざることだよ」
嘘。
一体なんのことだろう。
どの部分が、どのように、どうして、嘘だと判断されたのだろう。
「人の悪口で、男に取り入ろうとする。我が国の名を冠する貴族学園で、そのような一方的なことをする者がいるはずがないだろう。虚言もたいがいにしたまえ」
リサリーは、もう口を開かない。
ただ、涙にぬれた海色の瞳で、王太子を真っすぐに見つめている。
その視線に耐えられなかったのか、王太子は舌打ちをした後、ふい、と顔を逸らした。
「君のやり方はよくわかった。君が反省し、心から従順で誠実になるまで、君と話をすることはないだろう」
それだけ言い捨てると、ウィリアム第一王子はその場を去って行った。
リサリーは、その場から動くこともなく、ただあらぬ方向を見つめていた。
心に浮かぶものがある。
けれども、今はそれを考えることができない。
そんなリサリーの背中を押す出来事は、その日の夜に起こった。




