思ひ
〈黑々とした部分さへ女かな我が身を愛し汝が身を愛す 平手みき〉
【ⅰ】
もぐら國王の掘つた「思念上」のトンネルは、開きつ放しになつてゐた。
それでも、「シュー・シャイン」に魔界探訪を要請したのは、自分、たち、が出張ると、大事になつてしまふからに、他ならない。無益なチャンチャンバラバラを演ずるには、カンテラは疲れ過ぎてゐた。(全く、何が黑ミサか。何が「人間の女を孕ませる」だ。何が「東京制覇」だ。鰐革よ、貴様のヴァイタリティは何処から湧くのだ?)
疲れたヒーロー、確かに見つともない。疲れたヒーロー、例へばマーヴェル・コミック版の『スパイダーマン』には、都會の喧騒の中、一人の異装の男としてのスパイダーマンの孤獨感が描かれてゐた、と思ふ。映画版ではだうだつたか。映画と云へば、俺のフェイヴァリット、テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』。髙度情報化社會の中で、目眩ましをされてゐる人びと。惡夢に継ぐ惡夢の中で、ロバート・デ・ニーロが、その中を蠢く、ヒーローともアンチ・ヒーローとも取れる男を怪演してゐて、見事だ。
【ⅱ】
カンテラが風呂に入つてゐると、「カンテラさん、いゝかしら」と、君繪を抱いた悦美が入つてくる。「お脊中流しませうか?」-一児の(自分の腹を痛めて産んだ子ではないと云へ)母でありながら、何と見事なボディ。この美しい女を、妻としてゐる自分。情慾が湧かぬ事は、アンドロイドとしてこの大東京を彷徨ふ、自分の姿と云ふものを暗示してゐる- 俺は詰まらぬ男だな。「よしよし、君繪。パパが洗つてあげるよ」「だあだあ、パパ、パパ」「君繪ちやん、パパはお疲れなのよ」「いゝんだ。たまにはスキンシップしないと、子供が可哀相ぢやないか」
「悦美さん、俺はこれから竜宮城に行かねばならない」「?」「暫しのお別れだ」「?」と、妻に謎掛けのやうな口を利く、俺は一體、何がしたいのか。鰐革のやうに、自分の立脚點をはつきりと持ちたい、カンテラではあつた。
【ⅲ】
魔界。黑ミサの熱氣。鰐革は自分が一番なら、何をしていやうと構はないのだ。例へそれが黑ミサであらうと、人間界遊泳だらうと。カンテラが慾しいのは、その自己中心的な、自己の取り方だつた。或る意味、彼に憧れてゐた。彼、と云ふか、彼の現在、と云ふか。
腹を膨らませた女が「祭壇」として、鰐革の前に横たはつてゐる。【魔】どもは、彼の一挙手一投足に熱狂してゐる。ハイル・鰐革!! カンテラも自分が一介の【魔】であつたら、どんなに樂チンだらうかと思つてゐる。そんなカンテラに斃される、鰐革ではなかつた。
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〈やがて晴れ澱みの消えし春の町 涙次〉
【ⅳ】
或ひはじろさん。俺の大切なビジネス・パートナー。俺はカネが慾しい。自分の人間でありたいと云ふ慾求を、それで補つてゐる。或ひは、此井晩秋と云ふ、詩人...
〈ビイル〉此井晩秋
晴れ空を見て快哉を叫ぶ
このスモッグの充滿よ
私は頭のいゝ男とは云へない
待つてゐる人たちをほつたらかしにして
「思念」を支へる事が出來ない
春も終はりだ
何をか謂はんや
ビイルでも飲んだらだうだ
苦みが現實を見せてくれる...
カンテラも詩が書けるものなら、書いてみたかつた。
そして、カンテラはじろさんと、黑ミサの渦中に突つ込んだ。
【ⅴ】
カンテラは斬つて斬つて斬りまくつた。「祭壇」となつた人間の女さへ斬つた。じろさんは、いつもの通り、カンテラを見事補佐してゐる。【魔】は騒然。黑ミサ場は滅茶苦茶になつた。
何も考へたくはなかつた。自分が「殺人マシーン」時代に戻る事さへ願つた。「しええええええいつ!!」雄叫びが虛ろに谺する魔界。糞喰らへ、だ。思ひと云へるものは、それしかなかつた。カンテラは斬つた。自分を、もしくは、三十六計に走る鰐革を。俺たちは、ヤヌスの鏡。鰐革の遁走は、またしても捉へきれなかつた。逃げ足の早い奴だ。
【ⅵ】
呆然としてゐるカンテラを、じろさんが氣遣つた。「大丈夫だよ。鰐革を斬るのは、後に回さう」-杵塚がハンディキャメラでその模様、【魔】たちの緑色の血飛沫と、カンテラの冷たい汗とを、撮つてゐた。その内『ザ・魔界』なるタイトルで販売される筈の映像。それで我々は口に糊するつて寸法だ。
自分は竜宮城の破壊者。浦島太郎のやうな腑抜けではない。さう自分に云ひ聞かせた。
そして、彼が帰る處と云へば、人間界しかなかつた。どつと疲れが出、カンテラ外殻の外で、初めて眠りに就いた、カンテラではあつた。
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〈思ひには緑茶成分たる物が含まれてゐると私は思ふ 平手みき〉
こゝに來て、「魔界壊滅プロジェクト」なる部署が、警察組織の中に出來たと云ふ(仲本氏に聞いた)。余りに遅い。だがカネはふんだくれるな。人間、アンドロイド、共に愚かであれ。共存などは二の次だ。薄れゆく意識の中で、カンテラはさう思つた。
お仕舞ひ。特に作者が付け足す言葉はない。ぢやまた。