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零次機関 ジグルス  作者: Z4n
ZX ジグルス
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第1話 天上ト地獄

 ある森の中、鬱蒼として人の気の一切しなそうな深緑の中で暗澹とした雰囲気に似つかわしく、正気の抜け切った人間たちが今日も汗水を垂れ流す。そんな頬を伝って零れ落ちる雫もまるでなかったかのように飲み込んでしまう土の上で、ある少年が腹を抑え蹲っていた。


「オラ!とっとと立てよ!こんな所でへばってサボってんじゃあねぇぞ!」


 腹を下から蹴り上げられ、地面を跳ねるように転がり木の幹にぶつかる。

 最早消え掛かっている意識の渦の底で、それでも少年は抗っていた。決して心の奥底に灯した火を消すまいとして。


「相変わらず気色悪い。どうせ抵抗もできねぇくせに一丁前に睨みつけやがって」


 何度踏みつけられても、何度罵声を浴びさせられても決して潰えることのない意志が少年を生きながらえさせる。地獄の果てで抱いた一縷の野望。


「ッペ!お前は後で罰則だ。後で俺の部屋に来い。タップリと可愛がってやるからな!」


 唾と共に捨て台詞を吐き掛けられ、再び静寂が訪れる。このような横暴を目の前にしても、変わらず淡々と薪を運んだり鋼鉄を荷台に詰め挽き続ける子供達。誰もからもその一部始終を目にできたはずなのに、聞こえていたはずなのに誰も助けようとはしない。自分も同じ目に遭うことを恐れているからだ。日常茶飯事の厄介ごとに誰がわざわざ首を突っ込もうか?


 少年は二束三文もしないボロい布に付着した泥を、払いのける。周囲はまだしも自分も大して気にした様子ではない。自分が運び、そしてあの大人のせいで箱から打ち捨てられた大量の石炭を傍目に、誰もいない森の奥地へと歩き出す。


 不気味な草木や枝を払いのけた先。そこにはまるで夜空のに輝く星のように堂々とした佇まいで、水面を煌めかせる泉がある。

 少年は何やらその神秘的な雰囲気と対照に無表情でなんの感慨もなく、その泉を覗き込んだ。両手で水を掬い出すと手のひらから抜け落ちる前に何度も自分の顔をゆすいだ。


 ただ水面に映る自分を眺める。じっと向こう側の自分を見つめ続ける。艶の失われていない黒い髪、全てを飲み込んでしまうかのような黒い目。そしてその奥に宿る黒い意志。

 少年は周りの奴隷たちと違って心の奥に、微かに昂り燃える意志があった。


「絶対に……絶対に」


 か細く小さく。ただ決して揺らぐことのない決意を口にする。


「生きるんだ。家畜の糞にも劣るヘドロどもを叩き落として這い上がる。この豚箱を出て……」


 少年の目の奥に確かに漆黒が揺らいだ。


「自由を。誰にも奪われない自由を手に入れて見せる。俺はこんなところで終わらない」

 

 少年の意志を燃やす薪は、その理不尽への反骨精神にあった。これは少年が自由となる為に未知と苦難を乗り越え、人間へと向かっていく冒険譚である。

 


 

「こちらが今月分の上納品となります」


 恭しく頭を下げながら、手を擦る小太りの中年。そばの青年たちに指示して鉱石を持って来させる。青年たちは息も絶え絶えで、今にも崩れ落ちそうだ。しかし担いでいた麻の袋や籠を取り付けた二輪のついた手押しの運搬車を運び終えても、決して膝に手をつき休む事なく、息を整えながら中年の後ろに下がり姿勢を伸ばす。指の先まで動かす事なくきっちり整列していた。


「ふむ」


 対して腕を組み頷くのは、モーニングコートを着て中のシャツまで皺一つない服を着こなした髭を整えた若い男性。この野生的な場に限っては浮いて見えるも、それでも上品さがいたる部位が漂っている。


「先月より随分と量が多いな」


「ええ。豊作も豊作。最近手をつけた露天掘りで一山当てまして……へへ。是非とも御領主様に献上させていただきたいと思った次第でございます」


「殊勝な心構えだな。しかしこれでは馬車につぎ込むのも一苦労だ」


「無論その仕事は我々がそこに居られる騎士様たちのお手を煩わせるまでもなく、請け負いますゆえ」


 おい!と先ほどまでの謙った態度から急変し後ろに控えていた、青年たちに上納品を運ぶよう指示をした。


「丁重に扱えよ。これは領主様への献上品だ!傷一つでもつけたら……分かってるな?」


 青年たちが怯えた様子で、口ごもりながら返事をすると癒えきってない身体に鞭を打って、鉱石を持ってヨロヨロ歩き出す。

 領主側についていた騎士たちは、黙って後ろについてくるように促すと青年たちもその案内に従い、歩き出す。


「かなり奴隷を使い込んでいるみたいだが大丈夫か?若手の労働力は値も張る上有限だ。使い潰して過労死されてもこちらから補填は出せんぞ」


「ハハハ。ご心配なさらず。彼らは教育者たちにより日々鍛えられていますから、この程度で倒れるほどやわじゃないです。元は士官学校に在住していた際、犯罪を犯してここにいる者もいますしタフなんですよ。それにここは他の区画に比べまだ生ぬるいもんです」


 領主に対し、冗談混じりに忠告を笑い飛ばす男。不敬極まりないが領主は気にした様子は見せずただ仏頂面で男を見つめている。


「私がこの鉱山の採掘及び開拓の監督責任者となったからには、全力で領主様に献身を尽く所存であります。この志を成就させるにはやはり彼らは必要不可欠なのですよ。彼らは罪を悔い改める機会を与えられ私は、夢を具現化できる。こう見えて丁度いい間柄なのです、彼らとは」


 領主は男の貼り付けた笑みの下に垣間見えるドス黒い感情が見え透いているようでフンと小さく嘲笑する。


「確かにここ最近の鉱山資源は我が領地の収入源として破竹の勢いで財源が潤ってきている。だが私はこの運営を長期的に行っていくために労働力は欠かせないと思っている。貴様の私腹を肥やすために労働力を分け与えたのではない。もう少し先を見据えたまえ」


 領主は襟元をなぞるように整える。


「一つ忠告しよう。爆発的な勢いというのは人間に於いては燃え尽きるのを早めるだけにすぎない。長続きしないんだよ。それでいて最後はあっけなく灰と風しか残らんのだ。心しておけよ」


「ご忠告痛みいります」


 両者はそれだけ言い残すと踵を返しこの場を去ろうとする。ふと立ち止まり領主は振り返る。


「そうだ。私自らがここに態々来た要件を伝えねばな。私はこれより第12区画の中継地点へと向かう。ここ以外にも通告してきたが、一週間後にはそれぞれの区の成果に応じて、鉱山の収益の正式な再分配を巡った会議がある。その責任者として貴様らも召集するつもりだ。場に即した服装はこちらで用意しよう。心の準備をしておくように」


 そう言うと今度こそ兵士を引き連れこの場を後にした。


「フン。若造風情が。だが今はこれでいい。あいつの下で甘い汁を吸わせてもらう。搾り尽くしたところで今度は俺らの反撃だ」


 領主御用達の荷馬車に荷物を積み込み終え、戻ってきたと思われる青年たちは休む間もなく、中年の男に檄を飛ばされまた仕事に戻って行った。



「いいこと聞いた。2日後にあのでべそがどこかに行くのか」


 それを陰ながらこっそり覗いていた少年。密かに計画を企てていた少年にとってこれはまたとないチャンスだった。

 鉱山に危険はつきもの。落盤や粉塵爆発、天然ガスによる中毒。今までいろんな奴がそれらを原因として死んでいった。


「今まで待ち続けた甲斐があった。舞い降りた時の運。決行は二週間後」


 そう呟き残して少年は急ぎ足に仕事は戻って行った。



「聞けお前ら」


 太陽も山から登っていない早朝。奴隷達はいつものように現場に召集される。今日はあの小太りのおっさんではなく、いつもそばで記録をつけている監督の補佐役が目の前に立ち朝礼を行う。


「今日は監督は会議に呼び出され不在だ。よって代理として現場監督の指揮は俺が取る。言っておくが俺は監督ほど甘くない。少しでも足を止める奴がいたら制裁を加える。心しておくように」


 計画は完璧、アレもある……いける。今日から俺は自由になるんだ。


 少年はそう意気込んで一足先に鉱山へと向かった。


 森の外に出て数は歩いた先に木の枠組みで縁取られた高山の入り口に辿り着いた。


 左右の壁面に等間隔にランプが並べられており中は明るく、高山の中のゴツゴツとした岩や黒光りする鉱石などが所々に埋め込まれているのが分かる。道中の壁や天井は切羽とそこに繋がれた木製の柱で支えられていた場所から抜けると、


「おら!弛んでんぞ!この腰抜けが!」


 喧騒と共に甲高い音が鳴り響いた。視界に皮膚が裂ける肌の勢いで振るわれた鞭が痩せ細い少年の背中に振るわれるのが収まる。

 その少年は呻き声と共に血に蹲る。そこに容赦なく次々と追撃を加えるとその少年は、悶絶の表情を浮かべながら力尽き失神する。


「この!役立たずが!!」


 そんな様子に怒りを相好に滲ませながら、指導者が少年を蹴り飛ばした。少年は気を失ったまま奥の岩肌にくの字にぶつかり、無機物のように転げ落ちた。指導者はその少年のそばにいた次の少年にターゲットを移し始め、そちらに叱咤を飛ばしに行く。

 何があったのかわからないが、この班の指導者は随分と機嫌が悪そうだ。目に入る全てに八つ当たりする勢いである。


 同情するわけでもなく、かと言って馬鹿にするわけでもなく、一瞥だけすると少年はその横を平然と通り過ぎた。

 

「お前も何休んでやがる!奴隷風情が役に立ちたければ身を粉にして働かんか!」


 後ろで聞こえる怒鳴り声や悲鳴を聴きながら、持ち場に急行。


 持ち場にやってくると手押しの荷台を自分の隣に置きツルハシで石炭を砕き次々と荷台に放り込んでいく。



 時も忘れるほど一心不乱に働き続けていると、やけに坑内が騒がしくなり始める。


「腰を入れろ!クズども!そんなんで飯が食わせてもらえると思うな!」


 奥から響く怒声。それもあちこちから木霊し、反響したものが重なり合う。現場の監視人が仕事を交代しにきたらしい。朝昼での五人交代制でこの場には休憩から戻ってきたやつと今から上がる奴で丁度10人。どうやら役者は揃ったようだ。


 少年は荷台にこっそり隠していたある物を見る。


「遂にこの時が来た」


 荷台を転がし一旦鉱山の入り口にまで戻る。外の石切場にも大勢人がいて、あくせく荷物運びをしたり掘り出した石炭や希少な鉱物を、分別している班もいる。誰もこちらに気を留めてなどいなない。


 それなら僥倖だと、入り口のそばでポケットからライターを取り出す。カチッとスイッチを入れ火をつけるとそのまま荷台の中に放り込んだ。


「これでよし、と」


 入り口から現場までは下り坂で勾配がある。三輪の荷台も奥深くまで進んでくれる事だろう。


 入り口から遠く離れて数秒後、空気が震えるほどの爆発音が轟いた。それと同時に鉱山の中で岩が砕ける音や、岩盤が崩れ落ちる音、硫黄などの天然ガスが漏れ出す音などが加わる。

 中は言うまでもなく見るも無惨に崩れ落ちていく。あちこちから火の手が上がり坑内が真っ赤に染まる。


「な、何だ!?」


「爆発!?」


 まるで操り人形のように言葉を発さなかった奴隷たちも、声を上げて驚いている。作業の手を止めて慌てふためき奴隷同士で、騒ぎあったり、呆然としている者もいる。


 先ほど投げ込んだのはダイナマイトの束だ。数年前に掘削用に持ち込まれた火薬とライターをコッソリ盗み出し時が来るまで隠しておいたのだ。

 中では可燃性の石炭や天然ガスなどにも引火し、この威力なら奥地にも誘爆しているだろう。


「これで邪魔者は消した」


 長い計画だった。でも思った以上に呆気なかったな。


 爆破で原型を失った遺体により身元調査は不可能。そして自分もこのままこの不運な事故の一員だと見せかけて逃亡する。

 奴隷という名の呪縛から解き放たれ夢が広がる。それと同時に実感の湧かない達成感が心をすり抜けるようにも感じる。


 少年はふと怒りで顔が人間のようではなくなっている、まるで鬼に憑依されたのかと思うほど顔をグシャっと歪めている監督を想像した。

 頭を掻きむしり眼球をひん剥いて、苦悩している。そんな姿を。


 それはそうだ。鉱山の廃坑化は鉱石による加工、製造、輸出、この地区の採集計画が頓挫することを意味する。上の貴族に献上することで得られた利益も損なわれ、最高責任者にも大目玉を喰らい最悪監督不行き届きで処罰されるかもしれない。この事故を未然に防げなかったのはお前らのせいだと。

 今や知る由もないあの領主が寝耳に水と言わんばかりにこの事態を、聞いたらどんな反応をするだろう?やはり他の大人のように怒り狂うのだろうか?


 そこまで考えて少年は軽く首を振る。少年にとってはどうでもいい事。このまま姿をくらまして、どこかに旅に出る。先行きの決まらないあやふやな目標であるが、今までの生活よりはずっとマシなはず。


「さよならだ。永遠に」


 少年は、先程まで怯えていた奴隷達の様子を見る。腰を抜かしながら慌てて後ろを向き走り去る一人の奴隷を皮切りに、他の奴隷達も慌てふためいた様子で我先にと駆け出し逃げていった。


 取り敢えずいつもの泉に行くか。


 最初に訪れるべきはやはりいつものあそこだと、他の奴隷達とは違う方向に歩き出したその時だった。


「ま、待て」


「ん?」


 今声が聞こえた気が……気のせいか?


 少年が声のした方向を探す。


「ここ……だ!はやく……たす…けろ……!」


 細く掠れるような声。まるで死にかけのようだ。まさかと思い鉱山の入り口に目を遣るとそこには崩落した岩に押しつぶされた、大人がいた。入り口付近まで逃げてきたが中途半端に落石に巻き込まれたせいで、生き延びてしまったようだ。


「頼む。はやく……この……ままで…は、死ぬ!」


 ───まだ生きてる奴が……


 しかし下半身が潰されて見える限りの体表も顔や腕にも、火傷がある。爆破によって焼け爛れて片目を塞いでいる。出血もひどいしほっといても死ぬ。そんな瀕死状態だ。


「ガキ!聞こえて…んのか……おまえ……だ!」


「無理だよ。そんな芋虫状態じゃどうせ助かんない」


「殺すぞ……!いいから、早く……」


「だから無理だって。しつこいよ」


「ふざけ……んな!クソ!なんで……こんなことに……俺の……俺の人生……が、こんなことで……」


「不幸だなんて言いたいわけ?違うよ。因果応報。そして今まで下に見てた脅威からの逆襲に備えられなかったアンタらの油断」


「あ?ま、まさかお前────」


 そこまで言いかけたところで頭上から轟音が鳴り響いた。奴の頭上からガラガラと音を立て巨岩が転がり落ちてくるのが見えたと認識した時には、それは既に地面に衝突していた。そして真っ赤な液体が岩と地面の隙間から漏れ出すのが見える。


「なんだろう。この気分」


 少年は初めて大人達が余裕を失っているのを見た。奴隷である自分に命乞いし、縋る。結局変えられぬ運命の道を自分が強制した。味わったことのない気分に少年は困惑するも、いつまでもこんなところに居られないと気持ちを切り替えて泉に向かった。



 少年はいつもの泉に手を突っ込む。どこから水が湧き出ているのか?今更ながらこの森の奥深くで随分と不思議だと思った。


 ついでに服についた汚れも落とすと、少年はどの方角に向かおうかと、思案する。


 あの崩落から逃げ出した奴隷たち。鉱山の入り口とは逆方向に扇状に逃げ出したのを思い浮かべる。群としてまとまりがあり目立つ。異変を嗅ぎつけた何者かが来るとして目撃されやすいのはあいつらだろう。単体で動いた方が紛れやすい森では便利だと、少年はと向かうことに決めた。


「この光景も見納めか」


 物心ついてより奴隷として生きてきた、かつての少年や他の奴らは、自分の生き方に何の疑問も抱かなかった。ただ苦しい思いと、いつ自分が壊れるかも分からない恐怖に支配されていた。でも生存本能に従って、働けば生き残れると幼いながらルールは飲み込めていた。

 動物としての本能を武器に飼われることを受容するだけの存在だった。


 そんなある日、この泉を見つけた。行くあてもなく出歩き彷徨っていた日。まるで一筋の光明のように少年のあるべき道を照らしてくれた。

 自由になればこんな美しい光景も見れるのかと。

 神秘への好奇心、自然から得られた芸術性の先を見越す想像力。心が晴れやかになる清潔感。

 色だと知った。目の前にあるなんて事ない深い青色、身の回りでいくらでも見たはずの生い茂った緑。それらがいつもより鮮やかで心に風が透き通るようで心地よかった。


 少年は表情こそ変えなかったものの、活力が湧いてきたようだった。不思議と自分の意志の在処が何処にあるのかも理解した気がした。

 

「俺の生まれた場所」


 疑問を抱くようになり始め、知りたいと思うようになり始め、少し人間に近づいたあの日。そして今日。これからも自分は変わろうとしている。

 

 知らないことが多すぎると苦難した日々。不可解で未知。少年は生きる上で、いろんなことを知ったつもりだった。身の回りの環境。森や山の生態、鉱山でのノウハウ。食用の植物と毒物の見分けや採取、掘削、道具の扱い方、組み立て型、整備の仕方、安全な場所の確保、身を守る方法、病気や怪我に効く薬。でもそれだけじゃ圧倒的に足りない。敵わない。


 ここから抜け出すにはまだ時間がかかる。今の自分の強みだけではここから抜け出したことなんてすぐバレて捕らえられる。そうなったらおしまい。完璧に消息を断ち手がかりも無くす。そのためには────


 こうして計画を企て慎重に準備し2年を経て今に至る。長かった。とてつもなく。忍耐力と体力、度胸、運。その全てが兼ね備えられてないと一人でやるなんて、無理だった。


 一瞬の記憶が須臾にして駆け巡り蒸発していく。


「今となってはどうでもいいこと」


 俺は俺のあり方を見つけた。


「行くか」


 そうして少年は思い出の場所に背を向けて歩き出した。



 

 歩き始めてどれくらいだっただろうか。変わることのない景色を通り過ぎる中少年は、先程までの騒動と打って変わった静寂さにある種の緊張感を感じていた。


 ついにここまできたんだ。一歩間違えたら死ぬ。今までよりも更に実感できる。理不尽と鉢合わせたら問答無用で、喰われてしまう世界。


 少年が改めて自分のしでかしたことの重大さを実感していると、その思考を打ち破る出来事が起こる。


 足音が複数?二足歩行のテンポでそれも靴と砂利が擦れるような音だ。動物じゃない。人間のものだ。


 少年は咄嗟に草むらに伏せてその足音の出所を探る。


 ザッザッと段々と近づいてくる足音と共に、今度は話し声まで聞こえてきた。


「どこに逃げやがった?あのガキ……!」


「そう殺気立つな。怒りっぽくなると視野が狭まるという」


「うるせー!あの奴隷風情にあんなに好き勝手やられた挙句に逃げられたんだ!許しちゃおかねぇ!」


「ならその怒りはそいつを捕まえるその時まで、とっときな。こう喧しいと僕まで気が滅入る」

 

 少年は一瞬自分を探しているんだと思い背筋が凍った。それでも冷静に彼らの会話を聞き取り、状況の分析に努める。


 いや、違うな。こんな奴らの顔なんて見たことがない。他班の連中だ。それもあの怒りよう。向こうの奴隷達と奴らの間に何かがあったんだ。


「見つけたら絶対にボコボコにしてやる。この先生きていきたいと思えない程の苦痛を味合わせてやる」


「まぁ、この先今まで通りに生きていけるわけないのは確かだね。あーあ。どうして僕たちに反旗を翻そうなんて思うかねぇ」


 少年は、尚も軽口を叩きながら通り過ぎる奴らをじっと観察する。冷や汗を拭うことなく凍った肝を溶かして冷静さを取り戻すと、身体の震えも次第に収まっていく。


 俺と同じように脱走の計画を練っていたか、それともこの日をチャンスと捉えた者による突発的なものか。

 彼らの会話、態度から恐らく後者だと少年は後者だと推測した。


 いずれにしろ面倒になった。予定では一人で何事もなく、別の領地に逃亡を図るつもりだったのに。監視の目が厳しくなると途端に行動が制限される……どこの誰だか知らないけど面倒なことを……!


 少年は彼らの背中が見えなくなったのを確認して、ゆっくりと立ち上がる。


「ここ周辺を彷徨いているんだとしたら、このまま進むと誰かと遭遇する可能性が高い」


 少年は隣地区を避けるように進路を変更したいのだが、生憎自分の生活してきた周辺の知識しかない。彼らの拠点がどこにあるかなど知らないのだ。下手に動き回っていつの間にか、奴らに囲まれてしまう事態は御免だ。しかしそれ以上にこんな所で引き返して計画を丸潰しにするわけにはいかなかった。

 

「慎重に進むしかない」


 少年は時間をかけてでもこの場から脱することが最優先だと判断し、周囲の警戒をしながら進むことに決めた。




「最悪」


 少年はそう一言呟き前方を見据える。


 少年の選んだ進行方向は不幸にも断崖へと繋がるルートであった。橋もなく反対側の切り立った崖までおよそ50メートル。崖の下を覗けば気が遠くなる程の深淵が待ち構えていた。


「……一旦戻るか」


 今まで費やしてきた時間が無駄になっていくことと、いつ誰に遭遇するか分からない危機感が噛み合って少年に感じたことのないほどの、焦燥感を募らせていた。


 そしてついに最悪の事態が重なってしまう。


「おい。見つかったか?」


「いや全然。本当逃げ足だけは速い」


 先程あった二人組とは別の気配。少年は歯噛みして運命を呪った。


 なんでこんな時に限って……!


 少年は飛び移るように、木の幹に体を隠して声のした方向を見る。二人組は首を左右に振って噂の人物を探しながら堂々と闊歩している。


「うわ!ここ崖だよ!」


「本当だ!あっぶな!」


 二人組のうち一人が何気なく出した左足を急いで引き戻し、尻餅をつく。


「深っか……落ちたらひとたまりもないぜ」


「ほんとに気づけてよかったな。下手したら二人揃ってお陀仏だった」


 一人は顔を青ざめて、もう一人は心臓に手を当てフゥと一呼吸し安堵する。


 二人の警戒心が解けた。今のうちに───


「あ」


 ドサッ


 少年は兎に角この場を離れようと急ぎすぎたあまり、足元が不注意になっていた。地表に露出した太い木の根に足を引っ掛け、こけてしまったのだ。


「ん?おい今の音」


「ああ。俺も聞こえたぜ。いるんだろ、そこにあのガキが」


 やらかした……こんな場面で!


「はあ〜。こんなところにいやがるとは。おおかた逃げ切れたと思ってたんだろうが、俺たちが来て焦ったな」


 ジャリと少年の後ろから足を踏み締める音が近づいてくる。


 十中八九この居場所がバレてる。

 どうする。

 逃げるか。

 それともアイツらを崖に突き落とすか。

 伏せたままじゃダメだ。

 考えろ。 

 来てる、足音が。

 立ち上がってそれから……

 足音がすぐそこまで。

 ───考えてる暇はない!


「手間かけさせやがってガキ───」


 少年は急いで立ち上がる。不安定でよろけたままの前傾姿勢で振り返ると、左足を思いっきり振り抜いた。


「うるさい。落ちてろ……!」


 少年は足音から既にこけた木のそばに来ていることが分かると、思考を強制的に中断する。振り返りざまの過ぎゆく嵐のような景色の中で無理矢理対象を視界に入れて、後は勘で蹴りを繰り出したのだ。


 大木から回り込んで顔を出したばかりの、奴は腹の衝撃と共に吹っ飛んでいく……が、体重を乗せた蹴りでも体格に差がある。流石に崖に落とすことはできなかった。


「ぐぉ……!痛ってぇな!クソガキ!!ってテメェ誰だよ!?」


 苦痛と怒りに顔を歪めた奴は、少年の顔を目に入れると面食らった顔をした。


「おい誰だ、こいつ?」


「知らねぇよ!あのガキの騒動のどさくさに紛れてこの奴隷が、逃げ出してきたんじゃないか?」


 後からやってきたもう一人も合流し、訝しげに少年を見る。


「だが決定的なのは」


 少年に蹴られた男が腹を押さえながら、再度怒りの表情を露わにした。


「コイツがこの俺に刃向かったことだ」


 ぶっ殺してやる!と襲いかかってくるのを察知した少年は全力疾走でこの場から逃走した。


「余計な事しちゃったみたい」


 奴らとの間合いをとりたかったという思いが勝ってしまったのか。反射的に奴の腹に直撃した蹴りは大したダメージにならず、かえって怒りを買ってしまう結果となってしまった。


「待て!お前!」


 少年は振り返る事なく足を動かすことのみに集中させる。


「ハア……ハア……」


 なんでこんなことに……いやそんなことよりこのままだと埒が開かない。アイツらは必死で俺を捕らえに来るはず。どこか巻けるところはないか?


 少年と奴らとの間の距離はそれほどない。加えて身を隠せる場所もなければ、奴らが少年からから視線を外すとも思えなかった。


 ていうか、このままこっちに逃げてたら逆戻りじゃん。他の連中とも遭遇して挟み撃ちになったらいよいよまずい。


 その時少年は見た。眼前に人影を。


 嫌な予感が当たった……!


 その人影は猛スピードと近づいてくる。だが、あの切羽詰まった要因は少年ではなく噂の───


「誰?アイツ」


 大人よりも小さい人影が一つ。彼らが追いかけていたのは、少年とはまた別の子供であった。


「え?」


 向こうの少女も同じことを思ったのだろう。驚いた顔で少年を見ていた。


 少年は挟み撃ちになる前に方向を切り返し真横に走り始めた。


 追いかけられた奴隷が俺以外にも……アイツがこの状況を作り出した元凶か。


「おいお前ら!一体あのガキはなんだ!?何を追いかけてやがる!?」


「俺たちだって知らねぇよ!お前らが追いかけてたガキを探してたら違うやつ見つけたんだよ!それも野郎……俺のどてっ腹を蹴りつけて崖に落とそうとしやがった……!」


「なるほど。脱走した奴が他にもいたか。仲良く捕らえてやるぞ」



 少年は兎に角走り続けた。こんな所で捕まってなるものかと。ただ必死に何も考えず走った。


「ハッ……ハッ」


 だが決して逃げ切れるという明るい未来は見えなかった。


「おいそこの!あのガキがいたぞ!お前らも手伝え!」


 走る時間が増すごとに追っ手の数が増えてゆくのだ。四方を囲まれてはまずいと、なんとか急旋回で舵を取るがそれも限界の時が来た。


「くっ!」


 少年は慌てて足を止める。崖だ。先程の崖まで追い込まれてしまったのだ。


「しめた!アイツら崖を背負った!」


「よし!左右にも広がれ!完全に袋の鼠にするぞ!」


 どうする。アイツら広がりきったぞ。後ろには崖、前方は扇状に展開する追跡者。包囲網を一点から強行突破しようにも他方から雁字搦めされて結局は捕まる。


 万事休すかと少年は後ずさる。踵を擦らせ砂利が崖の壁面を転がり落ちる。

 少年は引き攣った顔で後ろを見る。

 何か打開策がないか、最悪崖の壁面をロッククライミングの要領で降っていくことも考慮していた。一か八かかける価値があるか意を決して崖の下を見ると、


「は?」


 少年はありえない光景を目にした。


 な、なんだ。崖の下が……幻覚か?


 目線を前に戻せば追跡者たちもジリジリと詰め寄ってきてるのが分かる。


「ちょっと、アンタ」


「何?こんな時に」


 少年は同じく追いかけ回され自分と同じように、追い込まれてしまった少女に話しかける。


「崖の下に何が見える?」


「一体どういう……な、なにこれ……!?何この光景……!」


 少年の言うことの意図が理解できず、なんとなしに首を捻りその光景を目の当たりにした少女は驚愕に表情を染めた。


「ふーん。アンタも同じように見えてるのか。じゃあ幻覚じゃなさそう」


 少年と少女が見た景色はあまりにも摩訶不思議なものだった。少年も少女も状況が状況なら思考が停止してもおかしくないほどの。


 それもそのはず。崖の下には先ほど見た奥行きが無限にも感じる深淵ではなかった。


「崖の下に……また別の世界が見える」


 目を見開いて言う少女の言葉通りであった。崖の下にはなんと大陸が見えていたのだ。誰かがキャンパスを描いたものではない。それはその精巧さと妙な現実感が物語っていた。奇妙という他ない現象。それも先ほどと違うのはこの危機に至って現れた景色なのだ。


 少年は、目の前の近寄ってくる大人を見据えながら思考する。


「おいおい。コイツらビビってるぜ!前には俺ら。後ろに進めば言うまでもなく死に直結。まさに崖っぷちに立たされてるわけだからな!」


「ハッハ!あまりの絶望感に声も出さないみたいだな!死にたくなければ大人しくしてろよ……最も俺たちに捕まったらどうなるかわからないけどな!地獄の二者択一だぜ!」


 長い時間かけてやっと少年たちを追い詰められた大人たち一味は、非常に愉悦な表情を露呈する。このまま恐怖心を弄ぼうと嗜虐心が目に見えている。

 その一瞬が永遠にも感じる少年と少女の間の沈黙。


 重苦しい顔を上げた少年は、迷いはもうないと閉じていた目を見開いた。


「どうせ追い詰められたまま考えてたって結果は変わらない」


「……どうするつもり?」


「俺たちに選択の余地なんてある?今の状況見たら分かるでしょ」


 少年は崖の方へと振り返った。


「飛び降りる気か!?あ、あいつ正気か!?」


「へん!ハッタリだろ!そんなことしたらどうなるか分かんだろ!」


 少年は改めて下を見る。先刻見た時と変わらない光景。血管が破れそうなほど心臓が鼓動し、嫌な緊張感と恐怖心が入り混じる。


「本気なの……!?」


「じゃあ、俺は行くよ。アンタはあの追跡者(ストーカー)共の相手でもしてな」


 少年はそう告げると、今感じてる全ての気持ちを置き去りにするかのように勢いよく崖に飛び出した。


「やりやがったあのガキ!」


「自殺を選んだか……ある意味賢い選択かもしれんな」


 他人事であるが故の大人たちの面白がった騒ぎが耳に入らないほど、取り残された少女は思い悩んでいた。


 嘘でしょ……彼、本当に……


 ───俺たちに考える余地なんてある?


 少年は確かにそういった。あの生死をかけた平凡とは切り離された短い時間の中で、少年は自分の答えを出し、示してみせたのだ。


 違う。私も決断しなきゃいけないんだ。この状況での最適解がないなら、もう後は奇跡に賭けるしか……!


 足が竦む。だが腰は引けてない。少女は足を引き摺るように崖の端に足をかけると少年と同じように宙に身を任せた。


 なんとでもなれ!!


「ふぬっ……クッ!」


 こうして少年と少女は空気抵抗により打ち付けられる風を一身に受けながら、別世界の入り口へと飛び込んだのであった。

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