9話
魔物の出現数が大幅に減ったこともあり、森には教会の聖職者や聖騎士、あるいはゴミ回収のために派遣されてきた町の人々がひっきりなしに訪れるようになった。流石に潜って拾ってくるのはアッシュにしか出来ないが、陸から網を投げて拾い上げる人員が大幅に増えたのでスピードは格段に上がっている。浄化もまた、ボスールと派遣されてきた者達で手分けをして進めることで浄化範囲が広がって来ていた。アッシュが時折打ち上げてくる魔物には悲鳴を上げて逃げ惑うので、それだけはすかさずボスールが対応している。おかげでボスールに集まる尊敬の眼差しが増えているのだが、本人としてはまだまだ下っ端根性が抜けないためなんともむず痒い思いをしているようだった。
そうしてアッシュやボスールをはじめとした人々は、ゴミ拾い、ゴミの運搬、魔物の退治、泉の浄化をひたすらに繰り返す。泉の広さゆえに途方もない状況だったが、それでも着実に、泉の浄化作業は進んでいった。
一週間後、川に流れる水の濁りがだいぶ抜け、下流での魔物の発生報告が完全になくなる。
二週間後、水中の魔物の自然消滅、あるいは瀕死状態になっている姿が散見されるようになった。
三週間後、水中の魔物が完全に姿を消し、水の透明感が格段に上がる。
四週間後、最後のゴミが、回収された。
「――確認終了だ。間違いなく、こいつで最後だ」
風呂から上がるような水音を立てながら泉から上がったアッシュが片手に持ち示したのは、ボロボロになった鉄の斧。それが今回の騒動の発端である、最初に女神の機嫌を損ねた代物である、と誰もが言葉にせずとも理解する。
誰もが言葉を発せなかったのは、あからさまにアッシュが怒り心頭な様子だったからだ。泉の中で粉々にするわけにはいかない、とそれまで我慢していたのか、皆の視線が斧に集まった瞬間握りしめていた柄が埋め込まれた鉄の部分諸共粉々に粉砕された。力だけならいつものアッシュなのだが、怒れる様は鬼のような迫力がある。今ヘタなことを言うと「女神侮辱罪」とでも言いだしてこの斧の主を処刑しに走りだしかねない。そうなれば誰も彼を止められない。教会関係者の間で静かな緊張が走った。
その時だ。不意に、泉の上から輝きが溢れる。アッシュを含めた全ての人々が思わずといった様子でそちらを見れば、泉の上、アッシュから程近い場所で光が集まり形を作っていた。それが徐々に晴れていくことに気付き、まずアッシュが、続いてボスール達教会関係者が、遅れて町の者達が波のように跪く。
そして人々がこうべを垂れた先で、泉の女神フォンテーヌは降臨した。
【皆さん、顔を上げてください】
清涼なる声音が耳を打ち、光栄と歓喜が人々の胸を揺す振った。ついに、ついに! あるいは震え、あるいは涙ぐみ、あるいは強張りながら、人々は恐る恐る顔を上げる。そうして彼らの視界に映ったのは、水面に反射する日差しのように輝く金の髪を流し、白い肌が光を弾く麗しい女神。
穏やかな笑みを浮かべる女神は、スカートを軽く広げたおやかに頭を下げた。
【この度はわたくしの泉を綺麗にしてくださってありがとう。もう二度と、こんなに輝く泉を見られないと思っていました】
「そのような――っ! 頭をお上げください我が女神! 此度のことは卑しくも女神の慈悲を無理に乞おうとした我々人間の不敬の始末をつけただけのこと。謝意をいただけるようなことではありません。むしろ我々が謝罪すべきです。御身の領域を穢したことをここに謝罪申し上げます。大変申し訳ございませんでした!」
勢い込んで叫ぶようにフォンテーヌを留めたアッシュは、その流れで鈍い音がするほど強く地面に頭を叩きつける。直後聞こえた何かが割れる音に不穏を感じつつも、他の人々も揃って謝罪を口に頭を下げた。ゆえに彼らの内の誰一人として気付かない。泉の女神が声もなく悶えていることに。
音もない深呼吸を数度繰り返すだけの間を空け、フォンテーヌは再び人々に顔を上げるように声をかける。人々はそろりと顔を上げるが、アッシュがまだ頭を下げ続けていたので互いの顔を見合わせた。女神の言葉に従うべきか、女神に謝罪を伝え続けるべきか。迷いが静かなざわめきに変わる中、フォンテーヌは口元に手を当てるふりをし、さりげなく唾を飲み落とす。
【アッシュ、っ我が騎士。顔を上げてください】
名を呼ばれ、神に仕える人間の最大の栄誉である称号を呼ばれ、アッシュは虚を突かれたような表情を浮かべた顔を跳ね上げた。周囲の人間たちは滅多にない貴重な場面に同席出来た栄誉に先程とは違う意味でざわめく。女神の声がひっくり返りかけていた事実に気付いた者もいたが、それは彼らの頭から一瞬で消え去った。それだけ、続いた言葉は衝撃的だったのだ。
神から加護を与えられることは、稀ではあるがない話ではない。だが、神が加護を与えた人間を「我が騎士」と呼ぶのは今では滅多にないことなのだ。事実はただの「我が騎士乱立防止」のためなのだが、そんなことを知らない人間たちはそれを「神の目に留まれるだけの人物がいなくなったから」と考えていた。
そして今、そんな彼らの前で、女神が騎士を定めたのだ。
【確かに始まりは人々の欲でした。ですが、ここまで綺麗にしてくれたのもまたあなた方人間です。――それに、わたくしも行動を誤りました。わたくしが初めの頃に応じる者と応じぬ者を出さねば、このように悪化することもなかったでしょう。神殿を通し来ぬように求めることも出来たのに行いませんでした。これはわたくしの怠慢でもあるのです。ですので、お互い様、ということでよいですか?】
微笑む女神。アッシュをはじめとした人々は彼女の言葉をその慈悲だと受け取る。人間を許すため、あえて自身を下げて言っているのだ、と。実は本当に怠慢が原因だと知っている森の女神は姿を消したままけらけら笑っているのだが、フォンテーヌ以外にそれに気付く者は当然いない。
アッシュは唇を震わせ、再び頭を下げた。
「慈悲深き女神のお言葉、確かに頂戴いたしました。このアッシュ、ご恩に報いるためにも一生をこの泉の守護に尽くすことをここにお誓い申し上げます」
泉の女神の加護を受け、泉の女神に「我が騎士」と呼ばれた以上、それはある意味当然の選択かもしれない。それでも人々は驚きにざわめき、視線が彼に集まる。同時に乙女が漏れ出そうになったフォンテーヌだが、周りの姿を消したままの神々から「威厳を保て」と口々に言われ何とか表情を保った。
【まあ、もったいない】
驚いたような表情で、フォンテーヌは口元に手を当てる。意外な反応に、人間たちの視線はアッシュの物も含め女神に注がれた。その視線の中、フォンテーヌは腰の脇の辺りで両手を広げる。
【そのようにもったいないことを言ってはいけません、アッシュ。あなたの気持ちは心から嬉しく思いますが、あなたほどの神の徒がこのような場所で一生を終えるなど、人間にとっても神々にとってもあまりな損失です】
本当はずっとこの地にいて欲しい。ずっとそばで祈りを捧げていて欲しい。けれど、曲がりなりにも神格の高い神の一柱として、祈りを捧げられ慣れているボワすら驚くほどに祈りの強い人間を一生囲い込むのは気が咎めた。祈りが無くなって神が消滅するかは分からないが、人間の祈りが神の存在を補強するのは事実だ。いくら箱入りな自覚のあるフォンテーヌでも、そのように幼い行動はとれない。
フォンテーヌは水に流れるような動きで、両膝をついたままのアッシュに近付く。敬意は変わらず注がれるが、表情が少し硬い。フォンテーヌの言葉が拒絶のように聞こえたのだろうか。そんなことないのに。そう思った瞬間、フォンテーヌは身を屈め、勢いのままアッシュの額に口付けていた。人々からも姿を消している神々からも「おぉ」という声が上がる。
その瞬間に正気に戻るフォンテーヌだが、今更取り乱すなど出来るはずもない。内心では大混乱で真っ赤になりながら、女神の威信にかけて表情は柔らかく穏やかなそれを貫いた。
【どこにいても、あなたの祈りはわたくしに届きます。だからあなたは、たくさんのことを成してください。あなたの活躍が、わたくしの誉れです。我が騎士】
屈めていた身を戻して見下ろせば、アッシュは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で片手を額に近付けている。触れられないようで、額の直前でその手はぷるぷると震えていた。嫌だっただろうか、と不安がよぎるが、「祝福……女神の祝福が……俺に……」と呟くのが聞こえたので、嫌がってはいないようだと内心ほっとする。
ややあって、アッシュは居住まいを正し、フォンテーヌを真っ直ぐな視線で見つめた。女神の胸がドキリと高鳴るのと同時に、たくましい拳がたくましい胸板を叩く。
「承知いたしました。泉の女神フォンテーヌが騎士アッシュは、我が女神の御為、神々に尽くし人々を守り抜くことをここにお誓い申し上げます」
叫ぶでも怒鳴るでもないのに、良く響き場を満たすような声は、誓いを捧げられた女神の、見守る人々の、姿を消している神々の耳朶を打った。
フォンテーヌは軽く目を瞠り、次いで嬉しそうに微笑む。この笑みは演技ではなく心からのものだ。彼が自身の願い通りに今後も聖騎士として働いてくれるのが嬉しく、また誇らしい。
【――期待しています、我が騎士。またいずれ、会いましょう】
言下、フォンテーヌは泉の上に戻り、光と共にその姿を消した。場に残された人々は少しの間静まり返り、ややあって、興奮が抑えきれない様子で互いの顔を見合い、最後には爆発したように歓声が上がる。女神の降臨を、神の騎士が選定された瞬間を、そして女神の祝福が与えられる光景を、目の当たりにした奇跡的な現実が、まるで信じがたい夢のようだった。
「アッシュさん凄いです! ここ数年――いや数十年での聖騎士一番の快挙じゃないですか!? ねえアッシュさん! ……アッシュさん?」
他の人々と同じく興奮した様子のボスールが跪いたままのアッシュに駆け寄る。だが、アッシュは微動だにもしない。不思議に思い肩に触れたところ、その身はぐらりと傾ぎ、あっけなく地面に倒れ伏した。
「アッシュさーーーーーーん!?」
「えっ、死んだか!?」
「魂取られた!?」
「いや気絶してるだけですよ! 不敬なこと言わない!」
恐らく緊張しすぎたのだろう。ざわざわする人々に訂正しつつ、ボスールはアッシュの頑張りを褒め称えながら介抱しようと手を伸ばした。するとその瞬間、アッシュがかっと目を見開き、突然跳ね上がるように起き上がる。ボスールが安心したのは束の間。無言のアッシュが据わった目で見たのはまず周囲の人々。次に自身の巨大な相棒。
気付いたボスールは、見る見るうちに青くなった。直後、最早反射のような速度でアッシュを羽交い絞めにする。しかしアッシュは止まらない。ボスールを引きずったままずしずしと進んでいく。これはもう無理だ。悟ったボスールは力の限りに叫んだ。
「ぜっ、全員逃げろー! 特に今死んだとか魂取られたとか言ったやつとそれちょっとでも信じたやつーーー!!」
その叫びでアッシュが自身の得物であるハルバードに向かっていることに気付き、該当する人々は我先にと逃げ出す。忘れがちだが、この男は神のためなら一般人にも平気でハルバードをふるう男だ。
あるいは逃げ惑い、あるいは止めるためにボスールに助成し、あるいは人々を逃がすために協力し、あるいは姿を消した女神に心底からの祈りを捧げ、泉の周りは阿鼻叫喚に包まれる。
そんな中、ボスール達の抵抗むなしくアッシュはハルバードに手をかけた。
「女神を疑う不敬者はまとめて打ち首じゃああああっ」
「ご認識のことと存じますがフォンテーヌ様は死の神でも戦の神でもないんですからお求めの活躍はそうじゃありません!! あとつい今さっき人々を守り抜くことをここにお誓い申し上げたばかりなの思い出していただいてもいいでしょうか!?」
怒りと悲痛の声が、平和を取り戻した泉と森にこだまする。