8話
水中は、本当に元々女神の領域だったのかと疑いたくなるほど濁り切っていた。ボスールの支援がなければ何も見えなかったことだろう。野生の勘でいくつもりだったが、十全に女神に尽くすのであればこれこそが最良だと今なら理解できた。
とにかくまずは底を目指そう、と、アッシュは水をかき分け潜っていく。途中浮いていた軽いゴミをいくつか拾い、腰にかけた網に放り込んだ。そうする内に動きの鈍い魔物が出てきたので、がしりと鷲掴み回転の勢いで地上に投げ飛ばす。勢いよく水面を超えた音の後、ボスールの悲鳴が聞こえた。
『ボスール、それ頼んだ』
『せめて投げる前に言えません!?』
叫ぶボスールを尻目にアッシュはさらに奥へと泳いでいく。同じようにゴミを拾い、同じように魔物を拾い投げ、あるいは殴り飛ばし、ようやく泉の底に辿り着いたのは体感で10分程が経過したころだった。
そこには人々が沈めた沢山の物が転がっている。ペン、時計、斧、剣、矢、机、椅子、ソファ、荷車、ぬいぐるみ、クワ、のこぎり、ノミ、皿、鍋、グラス、服、装飾のついたベルト、籠、ナイフ、謎のオブジェ、その他諸々。よくもこれだけ投げ込んでくれたものだと怒りが湧いてきた。
全てではないかもしれないが、女神の慈悲を侮辱したのであればどれもこれもが敬意の欠片もないただのゴミの山。とにかく全部回収してやる、という気概でアッシュはどんどん網に、あるいはひっくり返っていたのを戻した馬車に詰め込んでいく。網と馬車に入るだけ詰めこんだら、馬車を斜め下から押して持ち上げた。泥が巻き上がり視界がさらに悪くなる。するとその瞬間、何かがアッシュの右足を飲み込むように食いついてきた。何だ、と下を見るが、まだ泥が舞っていて影しか見えない。ややあって泥が晴れ、アッシュはようやく巨大なドジョウのような魔物が自身の右足を口に含んでぶら下がっていることを確認する。喉の奥の歯ですり潰そうとしている感覚が布越しに伝わってくるが、元の頑強さに加え加護も受けた身には何のダメージもない。
面倒だからこのまま一緒に連れていくか。視線を前に戻し、アッシュは水の中でも重量のあるゴミの山を押し足に魔物をつけたまま水面に向かって泳ぎ続けた。視界は馬車で埋まっていたが、清浄な気配のする方向はちゃんと分かる。
水面近くまで来ると、アッシュはまずボスールに「今から大量にごみ投げるから離れとけ」、と声をかけた。それから少しだけ待ち、もうボスールも離れただろうと判断を付けると全身に力を入れ、大地の神力に守られた両足に力を込める。運んで来た荷物は、すぐさま陸地に倒れるように押し出された。次いで、腰にかけていた網も陸に上げる。常人であれば持ち上がるはずもない重量なのだが、アッシュは当たり前のように片手で上げていた。近付いてきたボスールはこれくらいなら最早驚きもしない。
「――ふう、1回でこれだけしか取れなかったな」
「お疲れ様ですアッシュさん。馬車いっぱいに加えて網が膨れ上がるほどの量なら十分すぎますよ」
手を差し出されたので取ったが、アッシュを引き上げようと力を入れたボスールは想像以上の重量に顔を引きつらせる。
「……アッシュさん、急に太りました?」
「ん? ああ、そういえばこいつのこと忘れてたな」
この泉は縁から僅かな距離はなだらかだが、その後は急に段差がついて深くなる形状をしていた。水が濁っているのもあり嫌な予感の正体が見えずにいるボスールの言葉に、その存在を思い出したアッシュが右足を勢いよく振る。激しい水しぶきと共にドジョウが空を舞った。キラキラと場違いな眩さを放つ光景を見上げて、ゴミの量は平然と受け入れたボスールも叫ばずにいられない。
「どこに忘れられる要素あります!?」
言下に光に包まれ消えるドジョウ。見ればいつの間にかボスールの両手が組まれて祈りの姿勢になっていた。流石である。
「よし、まだまだ山のように沈んでたからな。とりあえず今日は夜までやるか」
「夜じゃなくて暗くなるまでにしてくださいよ危ないんでちょっと聞いてくださいよ!」
またもボスールの言葉を半ばにアッシュは泉の中に姿を消した。ゴミ回収の依頼もしなくてはいけないというのに。嘆きながら、ボスールは再び泉に向けて浄化の光を降り注ぐ。