恋心を消す薬が思ってたのと違い過ぎて、失恋とかどうでもいい
恋心を消す薬×劇物
恋に全力でも、浮気者のために学生生活ドブに捨てない令嬢。
但し救済イケメンは優等生スパダリではない。
カフェテリアで昼食を済ませ教室に戻る途中、通りがかった渡り廊下から見える中庭には、いつものように婚約者様の姿がありました。
暖かい昼の日差しの下とはいえ今日もお友達である女生徒と二人きり。
相変わらず大変親しげなご様子ですこと。
毎度のことながら、それまで穏やかな空気を打ち破るかのように、凍てついた目で睨みつけてくるのは何故なのかしらね。
「何をチラチラと見ている?」と言いがかりをつけられなかっただけ、今日はマシだと感じてしまった自分が虚しい。
学生の多くが利用するカフェテリアと教室棟を繋ぐルートなのよ。ここを普通に通っただけで、覗き魔扱いされていては困ってしまうわ。
頂いたばかりのデザートのアップルカスタードパイの口福感も消えてしまう。
昼食後は毎回これ。
食後すぐに胃が痛くなるようなストレスを浴びるなんて、いやな習慣。身体に悪いに違いないわ。
まったく、いい加減にしてほしいものよね。
当たり屋モドキの彼らには、ウンザリだわ。
そもそも人目に付くところで、親密さを露わにしているあなたたちの方が問題ではなくって?
以前頂いた手紙では、学園では身分にかかわらず親交を深め、人脈を広げたいとおっしゃってましたが、あなたが広げているのは醜聞ではないのかしら?
やっぱり、この先に未来はない。婚約を見直すしかなさそうね……。
入学してまだ三カ月……。
いいえ。もう三か月が立ちました。
様子見には、充分な時間でしょう。
◇◇◇◇
今ではただの浮気者の当たり屋のマガイ者でも、わたくしの一つ歳上の近隣の伯爵家の次男の彼を、ずっと慕っておりましたのよ。
一年早く領地から遠く離れた王都の学園へと進学した彼からの連絡は、途切れがちとなりました。
慣れぬ都会、勉強、鍛錬、社交にと忙しいと言われれば、無理は言えず……。
不安や不満、寂しい気持ちは己が胸に潜め、便りが無いのは元気な証拠と信じ、ひたすらに安寧を祈りました。
そうして一年後に入学したわたくしを出迎えてくれたのは優しい婚約者様の姿ではなく、同級生の女生徒と親密になっていた彼の醜聞で。
それは正しく、裏切りの光景でした。
◇◇◇◇
幼馴染同士で結ばれた縁ですから、それまでの彼を慕う心には刷り込みのようなものもあったのだと思います。
同じ痛みを知る彼こそが、わたくしの相棒で、未来の夫。そう、信じておりましたから。
支え合い、励まし合い、仲良く過ごして参りましたもの。
初めて刺繍したハンカチを送った返礼に頂いた、彼自らが手摘みしたという8本のガーベラの花束とメッセージカードを受け取った日のことは、今でも忘れられません。
『花言葉と言うものを初めて知りました。いろんな意味があるんですね。大きくなったら100本のガーベラの花束を届けますね』
その日手にしたのは、感謝を意味する8本の花で。
いずれは、プロポーズを意味する100本の花を贈るという約束。
わたくし、そんなにもたくさん、抱えきれるかしら……。
きっと伯爵家のお庭だけでは足りないでしょうから、街中の花屋からガーベラを集めなくてはならないわね。
きっと大騒ぎになるわ。
うち中の花瓶がいっぱいになってしまいそう。
メイドたちも倉庫をひっくり返しててんてこ舞いね。
何だか大変そうだけれど、とっても素敵!
きっと爽快な気分が味わえるわ!!
ロマンチックというよりは、新しい悪戯を思いついたような。
そんなふうに感じたわたくしたちは、ひさびさに声をあげて笑い合いました。
そのちいさな非日常への誘いは、肝試しや真夜中のお菓子パーティーなんかと違って叱られないのです。何とも愉快なヒラメキではないかしら。
これまでの大人に言われるままに用意していたそれっぽい贈り物たちも、それからの二人には、特別な意味を持ち始めました。
どこよりも空に近い国で一番高い山の頂上、冷たく澄んだ深い海の底、神秘的な冷えた空気の薄暗い洞窟、兄たち含め同じ地方の貴族の子供たちと一緒に楽しんだ物語や冒険家の体験記から思い描いた様々な景色。
庭や近くの森を駆け回りごっこ遊びで楽しんだりもしましたが、それらの本物を目にする機会はやってこないでしょうが、わたくしでも手の届くような『非日常』を、彼は贈ると言ったのです。
季節の花に彩られた茶会、よく手入れされた庭園、貴族ならばいくらでも、多くの花を目にする機会にだって恵まれているかも知れません。
ひょっとしたら、貴族社会では有りがちなプロポーズの儀式と言えるのかも知れません。
そうであれ、当時の幼いわたくしには特別なことだったのです。
抱えきれないような大きな花束。
自分のためだけのたくさんのお花で家中がいっぱいになるという光景のイメージに、激しく心動かされたのです。
冒険に憧れても、もはやどこにも行けず。
持つもの、背負うものの重さを考えれば、無茶など許される余地がなく。
ワガママ悪戯好きで甘えん坊だったわたくしは、大人になろうと必死で足掻いておりました。
領地を守る上で保守的な思考も重要ですが、時流を読み新しいものを取り入れることも欠かせません。
けれど責任の重さにがんじがらめになって、上手く折り合いが付けられずにおりましたの。
流行り病で兄たちが続けて亡くなり、家の中の空気はどこか暗く、そんな中で後継者としての教育を受け始めたわたくしは、彼らの背負ってきたもの、託されたものの重さに、慄くばかりでした。
急に静かになった家には一緒に遊ぶ相手もおらず、これからを考えると遊んでいる時間すら惜しくて。
そんな中で、もともと兄の友人だった彼が婚約者となったことには肯定的に受け入れておりました。けれど今更婚約者らしい交流だのと言われても、何だかお互いにぴんと来なくて。
『恋をしようというのはよく分からないから、親友になろうよ。兄君の代わりではなく、君が背負うものを一緒に背負えるように、僕はなりたいんだ。婚約者として、背中を預け合える相棒にしてくれる?』
そう言ってくれた彼に、わたくしは救われたのです。
兄たちの代わりに跡取りになったわたくしが背負うのは悲しみや責任だけではなくて、そこで自分たちの喜びを望んでも良いのだと。
『僕らでたくさん楽しい計画を建てて、色鮮やかな景色を一緒に作っていこう。これからの輝かしいものを、ここで育てて行くんだ。どこか遠くの特別を探しに行くよりも、足元に幸せを築いていこう』
そう誓ってくれた彼の日常を非日常にしてくれるような、背伸びしない地続きの約束が、嬉しかったのです。
そんな未来への夢があればこそ、わたくしは頑張れたのです。
よくある婚約者同士の細々としたやりとりも、大人に言われるがまま熟すものではなく、積極的に繋がりたい相棒との交流となりました。
そうしてたくさんの時間と共に淡く初々しい思いも深々と積み重ねるように、育んできたつもりでしたのに。
けれどそれは、独りよがりなものだったのでしょうね……。
今ではただただ虚しさが募るばかりなのです。
あの日、約束したじゃない?
どうして? どうしてこんなふうになってしまったの?
あんなに一緒にいたのに、どうして?
たとえ、それが愛とは呼べなくとも、わたくしたちが重ねてきたものはどこに行ってしまったの。
他に好きな方ができたとしても、彼がもっと器用に振る舞ってくれていたら、こんなふうに傷つかずに済んだのかしら。
わたくしを愛せずとも、せめてあんな風にみっともない振る舞いをやめて真っ当になってくれさえしたら……そうなれば安心出来るのに。
いえ、それも戯言。手放せない言い訳。ただの無いもの強請りでしかないのでしょうね。
◇◇◇◇
学園に入って再会した彼は、お友達になった男爵家の庶子の娘とばかりいるようになっておりました。婚約者のいない令嬢とばかりいるのはお互いのためにならないと言ったわたくしの言葉は気に入られず疎まれるようになりました。
「僕のすることに、いちいち口出しするな」
「彼女を睨みつけるな。穿った目で覗くな」
「みっともない真似をするな」
「被害妄想で彼女に当たるな」
そうやって騒ぎ立てて行動を改めないあなたと、縁を繋ぐ意味がはたしてあるのでしょうか。
貴族になって間もない娘を、教師や同じ下位貴族の女生徒ではなく、なぜ異性が、それも婚約者のいるあなたが、世話する必要があるのか。
人目を憚らず侍らせる彼の振る舞いは、既に衆目の的です。
ただの友達だなんて言葉は、もはや誰も信じておりませんが「睨まれた……。怖いわ」なんて被害者のように訴える彼女のお言葉は、十年来の婚約者の言葉よりも、あなたにとっては重いものなのでしょうね。
いっそのこと、本当に虐めてやろうかしら。
思いっきり罵ってやりたいもの。
無礼な略奪女に、思い知らせて分からせてやりたい。
そう思う反面「どうして裏切ったの?」と彼に縋りついてしまいそうで。
「わたくしの一体何が悪かったの?」と自分を責めてしまいそうで。
ハラワタがグラグラと煮えるような怒りに飲まれたかと思えば、胸が苦しくて切なくて、涙がとまらなくなったりもするのです。
いつまでも情緒不安定な自分が恥ずかしくとも、繰り返すばかりで。
今のあなたは、被害妄想の強い破落戸です。
かつてのわたくしの婚約者様とはまるで違います。
都会の荒波の影響か、思春期のゆえの反発心のせいか、恋の魔法ゆえの盲目か、目が醒めていつか健気に信じて待っていれば、昔のあなたが戻って来るのでしょうか?
包み込むような愛を示し尽く続ければ、いつかは悪い呪いも解けて、あの頃の優しい彼が帰ってきてくれるのでは?
愚かな願いが、まだ捨てきれません。
あり得ないと分かっているのに。
あぁ、もっと強くなれたらいいのに。
すっぱりと、割り切れたらいいだけなのに。
小うるさい烈女呼ばわりされ、煩わしい虫を追うような仕草までされ、顔を顰めるような相手に、期待したって無駄なのに。
わたくしは、いつまで下らない夢を見ているのでしょうか。
仮にあの時の約束の先があったとしても、もはや明るいものとはなりえないに決まっているのに。
学生時代の火遊びなどと耐えて許そうと、彼のあの様子では改心どころか、婚姻後も愛人ばかりを優遇するようになることでしょう。
このままでは家を乗っ取られ、爵位のためのお飾りの妻にされるのがせいぜいのところ。
そんな事態を許してはいけません。
いくら彼がかつてわたくしを救ってくれた恩人であろうと、もはや信頼できない相手であることには、違いはありません。
あの頃の王子様は死にました。
彼とわたくしの道は交わらない。
今の彼は背中を預けられる存在ではないのです。
思い返してみれば、約束の花束の意味だって、結婚を申し込むものであって、愛を誓ったものではないのですから。
◇◇◇◇
様子見の三カ月を終えてわたくしは、両親に彼の動向について相談しました。
婚前で領地間の共同事業などが発生していない今ならば、さほど大きな問題もなく解消できるそうです。
「さっそく婚約を見直すことにして良いか?」と問われましたが、わたくしはまずは噂の魔女様の所に行かせてからにしてほしいと願い出たのです。
即座に解消を決断出来ればよかったのですが、恥ずかしながら未だ執着が消えてくれません。
家門同士の対立は望んでおりませんが、彼の改心を期待して待ち続けることは、我が家の体面に傷をつけられる屈辱を許容するのと同じなのです。
他家からも侮って良い家と見くびられることでしょう。
物語では、卒業するまでの数年間ひた向きに忍び難きを忍び、周囲にまで見縊られようとも一途に尽くし堪え難き耐え抜くなんて表現もありますが、よほどの弱みでもなければそんな事態は起こり得ません。
配偶者ではなく婚約者ならばお互いにとって破談にした方が良いのです。流せるうちに流しておけば大きな傷になりません。相性というものもありますし、拗れている縁を無理に繋いでもいいことはありません。
あちらのおうちにしても息子の問題点を不真面目な生活態度と、妙な女との交遊、婿入り予定の婚約者との不仲という三点に切り分け、個別に対応するほうが容易いでしょう。
ゆえに解消しか道はないのですが、その後彼の甘い言葉にわたくしが絆されて即座に復縁を願い出るなどということなれば、我が家は恥の上塗りになります。
日薬なんて言葉もありますが時の流れに身を任せている間に、ぶり返した執着に吞まれ、家門に砂をかけてはなりません。
恋煩いゆえの愚行なんて、同じ罠に堕ちたくはないでしょう。
若さゆえの潔癖か、次期当主としての責任か、どちらにしてもわたくしの選択に理解を示してくれた両親のためにも、この思いは終わらせなくてはなりません。
そのためにわたくしは恋心消す薬を求めたのです。
侯爵家の娘として、未来の当主として、家を守らねばなりません。
この心残りは、ランプに付着した油汚れのように、いつまでもしつこくこびりついて消えてくれません。
ベタベタとした不快なものに囚われたままでは、先に進めないのです。
◇◇◇◇
恋心を消す薬。
それは甘くてほろ苦い、どこか切ない大人の味。
ちょっぴりビターな、ホットチョコレイトのような、そんなものを想像しておりました。
ええ、夢見がちな乙女の妄想ですね。
せめて綺麗な思い出で終わらせたいだなんて。
学園の錬金科の方から教わった噂の薬師の魔女様のお店にたどり着きました。
問屋街のメイン通りから2本入った細い道の突き当。
聞いていた通り青みがかったアイアンで出来た薬瓶を象った飾りが目印。大きな樽のような扉のお店。
恋患いという病はどうしたって治せないけれど、ここには病の元となる恋心そのものを消す薬があるそうです。
但し、消してしまった恋心はもう二度と取り戻せない。
苦く苦しく辛い思いを乗り越えて、体の中から全てを掻き出し吐き出さなくてはならないのだとか。
同じ派閥の令嬢たちのお茶会でも、何度か耳にしたわ。きっと彼女たちの中にもそんな切ない思いを越えてきた方がいたのでしょうね。
清潔そうで穏やかな店内。暖炉の温もりとその上の鍋から漂う爽やかな薬草の薫り。
温かみのあるマロンブラウンの家具は飴色の光沢で手入れが行き届いていそうね。
お茶を出してくれた店主である老婆は薬師の魔女。
魔女を名乗るだけに高齢に見えても所作に無駄がなく、その瞳には叡智の輝きが確かに見えます。
投薬とその後の処置を行う施術室には付き添いの入室はできないと、護衛や侍女はここで待機を命じられました。抵抗が無いわけではないのですが、施術を望む以上指示に従うことにしました。
「結局のところ、報われぬ恋心っていうのは……ただの老廃物なのさ。お嬢ちゃんがこれから生きてく上で、いらないもの。しっかり外に排出しなくちゃ心にも体にも負担を掛けるだけの余計なものなんだよ」
ドヤ顔で語る魔女様から勧められたのは、薬湯でした。
「えっ……えっぷぅ。うぇ、うええ、うっぐぐぐうぇぇ……、あうぅ。ぐっえ」
程良く暖められたスープのような温度の滋味深き味わいは、自然が育んだ素材そのものの味。
ツーンと漂う薫りは、目にも鼻の粘膜にも大変刺激的で。
先ほどから、涙と鼻水が止まりません。
お肌が何やらヒリヒリしてきます。
天然由来の健康的なこの煮汁は、薬草本来の風情を余すことなく訴えてきます。
ぬめり・えぐみ・何とも言えぬ不快感。
生薬の苦みと青臭さ、とろみ、それらが受け付け難いほどに配合された……あまりにもマズくてエゲツナイ忌々しいこのお汁。
顔よりも大きなどんぶりにいっぱいの薬湯、試しに一匙口含んだところで、臆病なわたくしの舌は震えが止まらなくなりました。
(飲み込めと? これをすべて、ヌルっと飲み込めと?)
良薬口に苦しとはいいますが、身体が訴えてきます。
いやだよ。摂取したくない。取り込みたくない。絶対に無理だよと。
鼻が、喉が、粘膜が、味覚が、触感が、わたくしの全身が悲鳴を上げております。
全力で拒絶しております。
あぁ。恋心の前に、五感を無くしたい。
今すぐに。
舌と目と鼻を、いいえ、全身を隅々まで洗浄したい。
何でもいいから、帰りたい。
やだよ。もうやだよ。無理だよ。無理無理。
おうちに帰りたいよぉ。
あちこちヒリヒリするし、ショボショボするのです。
お願いだから、勘弁してよ……。
所詮わたくしは甘っちょろい貴族の小娘。
世間知らずの特権階級の箱入り。
もう、もう、許してよ……。お願いだから。無理だから。
そんな思いでいっぱいでしたがどうにかこうにか無理矢理流し込んだものの、十五分後には待機していた助手の方の手によって、魔鶏の羽で喉の奥を巧みに擽られ、用意されていた木桶に向かって今度はひたすら吐き戻しているのです。
(恋心を消すって……、吐き出すって……、こういうことだったの? イメージと違いすぎますわ)
「イッヒヒヒッ。恋の病は医者でも湯治でも治せんというけれど、こうして吐き出しちまえば、どうにかなるものさね」
魔女様が良いこと言った風に語りますが、今はそれどころではありません。
ドブ水の方がまだお上品なフレーバーでしたわ。まさか侯爵家の娘が噴水のような振る舞いを……。
え? もう一回? こちらの水を飲んでから、まだ出しますの?
心残りもしっかり排出と。
あっ、はい。分かりました。やります。
出して出して、空っぽになるまで出し尽くし、ようやく吐き気が収まると口を漱ぐ水を渡されました。
まだお口の中が苦くてマズいし、目と鼻に違和感が……。
胸の奥が胃酸の影響か、やたらとスースーします。
この無駄な爽やかさが憎いらしいですわ。
口直しのお白湯を頂いても収まりません。
「イッヒッヒ。ほらごらんよ。お上品な貴族のお嬢ちゃんとは言え、みーんな一緒さ。いらない恋心なんて、吐き戻したものをこうして客観的に見てみれば、もはや囚われる価値もない、つまらんものでしかないだろう?」
そう言って、どどめ色の汚らわしい桶の中身を指さされましてもねぇ……。あまりマジマジと見つめたくはありませんが、これだけ出せば胸のつかえがとれたような気がしてきます。
むしろ恋心以前に乙女として大切なものまで、放出してしまったような。
「……本当にこれで、恋心が消えますの?」
それどころではないという意味では、今は心底どうでもよいのですが、非常に胡散臭い。学園で彼の姿を目にした途端にぶり返すようでは困ります。
「あぁ。吐き出しちまえば消えてなくなるのさ。物理的に。悪酔いするだけの恋と分かっていようが、続けちまう愚か者だって多いものだけれど、お嬢ちゃんの場合はそうはいかない。背負うものが多すぎる……。手早く酔いを醒ますにはこれが一番さ」
「えぇ。わたくしは貴族の娘ですもの。報われず幸せになれない、先のない恋に酔っ払っている時間なんてありませんわ」
いつまでも独りよがりな恋に、夢を見てはいられません。
領地や国のためならば、汚名を背負う覚悟ならありますが、不実な婚約者如きに振り回されて、家門の名誉を損なう訳には参りません。むしろ婚前で良かったのだわ。
先ほどの怪しげな施術の効果は分かりませんが、ここまでした以上、意味があったと信じたいもの。
「イッヒッヒ。病は気から。信じた方があんたのためだよ、お嬢ちゃん。不要物を出しきったら、美肌効果だってあるんだからねっ! 新たな恋を楽しみな。フラれてキレイっ! いいねぇ。きっと次はうまくいくさ!!」
「施術後の心身のバランスを保つためにも、他の老廃物の排出作用があるお薬を処方させて頂いております。この機会になるべく出し切ってしまいましょうね。3週間ほど朝晩服用してくださいねー。なお便や尿での排出が主となりますので、色が濃さや量の多い物に最初は戸惑われるかと思いますが、特に問題ありませんのでご安心を。では小まめに水分を取って、適度な運動、入浴を心掛けてくださいねー」
助手の方に薬を渡されました。
まるで正規の真っ当な薬師のようです。
いえ、有名な薬屋でしたわね。一応。
それにその場で即終わりでなく、普通の風邪やらと一緒で一定期間の服用もするものなのね。なんだかすごくマトモっぽいわ。
え、待って。
下から普通に出せるのなら、今日上から無理矢理出さなくても良かったのでは?
そんな風にうっすら考えてしまいますが……、いいえ。これで良かったのです。
ここまでしたからこそ、恋に酔っぱらった頭も醒めて、しゃっきりしたのでしょう。
何とも怪しげな施術ではありましたが、きっと素晴らしい効果があったのでしょうね。
ならば、これで一区切りと致しましょう。
◇◇◇◇
(なんてこと、ゲロ吐きそうですわ)
例の薬の、副作用でしょうか……。
胸に抱くは、トキメキよりも、ムカムカ。
覗き魔扱いを避けるため、昼食はランチボックスを発注して裏庭のベンチで取るようにしていたら当たり屋との接触も無くなったのですが、本日は購買が休業のためひさびさに友人とカフェテリアに向かっていた所で、元婚約者様に話しかけられました。もちろん例の女生徒も一緒です。
「僕との婚約を解消したのは本当?」
しおらしげに話しかけてこられても、こみ上げてきたのは切なさや甘い思いの残り香などではありません。
あの日のクソマズな薬湯の味を薫りを、あの羽の感触を、思い出してしまいます。
湧いてきたのは、嘔吐感……。
事前にこういう状況で無駄な憐みの心を発揮して、絆されてなるものかという覚悟はしておりましたが、それどころではなくなっております。
だって気持ちが悪いのです。
「……えぇ。家同士の話ですので、詳しくはご両親にご確認下さい」
「どうしてそんな?」
あぁ、無理。本当に無理。気持ち悪いわ。
あの方以外でも浮気者や軽薄な方を目にすると、あの薬湯をほんのり思い出しまうのです。
面倒事を避けるには良いことなのかもしれませんが、表情に出さないよう取り繕うのが大変なのですよ。
さすが元婚約者様。本体は一味違いますわね。
これまでより一層強烈。
うぷっ……。うぐぐ……。吐き気が。ムカムカが止まりません。
扇で隠すふりをして、口元を押さえます。
お願い……、あまり寄らないで。
「そちらの彼女との関係の名称が、友情か愛情かどういったものであれ婚約者よりも、我が家門よりも、そちらとのご縁を重視されるとのこと。その旨両親に報告いたしましたところ、両家での婚約は解消されました」
「あ、あたしたちそんなつもりじゃ……」
「そんな、もっと早く言ってくれれば。ちょっとした誤解なんだ」
「……そちらの意図は存じ上げませんが、家門としての判断です。こちらでは受け付けかねますので、何かご意見があればわたくし個人ではなくそちらの家を通して我が家のほうまでお願い致しますわ」
すっぱり言い切って駆け足にならない程度の速度で立ち去る。
なんとかお別れできてよかった……。
険しい表情を隠せずとも仕方がないとされるでしょうけど『臭いのよ。吐き気がするの。近寄らないで』とハッキリ口に出して言ってしまったら、さすがに角が立つものね。
長々とあなたがやらかすまで待って決定的な瑕疵を突きつける羽目になる前に終わらせたかったのです。
わたくしにとってかつてのあなたが恩人であることに変わりはないので。
来季からの全寮制の寄宿学校への留学は急だと思いますが、ご両親の情けでしてよ。
彼の経歴も『今ならば、学生時代にちょっと荒れていた時期があった』だけで済みますもの。
お二人の友情だか愛情を貫くのに、間に挟まる婚約者なんて不要だし、勉学や礼節はきちんと身につけておいた方が今後の為にもなるでしょう。
あなたの中の燻っている何かに向き合うべきは、あなた自身でしょう?
わたくしは遠くで、ご多幸をお祈りいたしますわ。
◇◇◇◇
泥沼の愁嘆劇を演じる前に婚約を見直したことで、釣り書きを複数頂いた。
拗らせて長々引き摺らなくて本当に良かったわ。
弱みに付け込むような訳ありや厄介者じゃない、侯爵家の次期当主に相応しい婿が欲しいのよ。
あら、この方。見覚えがある方の書類に思わず手を止めてしまいました。
経歴も面白いし、何よりいろいろ伺いたいこともあるもの。
今回お話頂いた中で一番に会ってみようかしら。
「やぁやぁ、お久しぶりです」
「やっぱりあの時の助手さんね? 薬屋の助手さんじゃないですか?」
「あの店は祖母の店なんですよ」
施術室でお会いして以来。派手さはないけれど、ラクダのようにビッシリと長いまつ毛と重い瞼が印象的なお顔立ち。この国で言う美男子とは違うけれど端正な顔立ちではある。
「実は密かにあなたを愛してましたとか、あの日一目惚れしましたなんて大嘘は言いませんが、前々から知っていて好感を持ってました。なので今回婚約を希望したんです。噴水姿まで目撃してますので、大概のことは受け入れられます。僕でよろしければ気楽にやって行きましょう」
「……乙女心を打ち砕くのがお上手なのは、お婆様譲りなのね」
例の薬湯ばりに強烈過ぎで正直が過ぎますわ。
伯爵家の三男である助手さんは、あの羽根のような、錬金術系の医療器具を作りたいそうです。
恋心を消す薬とは魔法薬。単純に経口摂取するだけではなく、人前でそれを排出した後で排出したものを目視確認するところまで含む流れを正しく熟すことで発動する魔法なのだとか。……なんてこと。
そして、これまではまさかの下からだった。
そのため、いくら経験豊富な魔女様とは言え、若い娘たちに目の前でアヒルちゃんを使用させるには、なかなかに骨が折れたらしく、非常に困難な治療だったらしい。
それがあの羽根によって施術の負担が激減。
非常に画期的なアイテムなんですって。
詠唱とか儀礼の一種ってことよね。
なんと言ったらいいか……。
乙女として大切なモノを失うから恋心とかもはやどうでもよくなるみたいな、そういう要素が絶対にあるに違いないわ。
「もう覚えてらっしゃらないかもしれませんが、実はあれ以前にもお嬢様とはご縁ありまして、お兄様方が元気だった頃に、お会いしていたんです」
「あら、そうだったの」
「侯爵家に近隣の貴族家の子供たちで集まってのお泊り会。面白かったな。裏山の探索行く年長組の冒険班と、近くで植物採取する炊事班に分かれたりして。綺麗な季節の花だけでなく、遭難した時に食べる草、飢饉の時に重要な手間がかかる山菜、薬草についての知識を教える教師がついていて、あの時は本当に楽しかったよ」
「……そんなこともありましたわね」
「焼き林檎をみんなで作ることになって、内蓋ごと蓋を開けてしまった子がシナモンをダバッーと一瓶入れた時の、お嬢様の対応が本当によかった。追加で林檎を百個ぐらい用意して今日は林檎パーティーにすればよいのですわって。失敗した子を責めるより、リカバリーの発案をすぐにしてみんなの気分を変えてくれたでしょう」
そうはいっても、町中の林檎を買い占めさせようとしたわたくしは先生にこっぴどく叱られた。
そんなにたくさんたくさん食べられないし、シナモンは薬でもあるから過剰に摂りすぎたら、逆に身体に悪いんですって。
代わりにみんなでレシピを考える課題が出た。
その日のおやつの焼き林檎とミルクチャイ。
晩ごはんはキーマカレーとハイビスカスティーの子供サングリア。
次の日はシナモンシュガーのフレンチトーストの朝食。
ランチは屋敷中のみんなでバーベキュー。
お土産にシナモンティーに漬け込んだローストポークを配ったのだったかしら。
あぁ。お兄様たちが元気な頃のわたくしは本当に考えなしのお転婆だったわね。楽しかった時間、もうずっと忘れていたわ。
闘いは数と聞きかじった影響からか、あの頃は何でも100個あればいいと妄信していたのだわ。
綺麗などんぐりやセミの抜け殻をたくさん集めて備えようとしては侍女に捨てられてたわね。
翌年の夏に大型の台風によって、多くの水害が発生してから全てが変わったのよね。
そんな中での流行病。
いくら薬の備えがあっても、橋が流れ崖崩れや浸水した街の中では助けられない命も多かった……。
あれから堰や水門、堤防を大型の新しい様式で再建したり複数の避難所の設営をしたり、さらに多くの備えと計画性、そして決断力が求められるようになったのだわ。
「失ったものは取り戻せなくてもあなたは立ち止まらずに進む力があるし、前の婚約者の家との不和を招かないように立ち回る力もある。家の名誉を守るのために、敵に容赦しないことも重要だけど敵を作らないための努力を惜しまないっていう姿勢も好感が持てたんだよ。裏でゲロ吐いてでも、リカバリーするって、カッコイイ女性だなって」
「……物すごく褒められているのに、こんなに嬉しくない褒め言葉も珍しいですわね」
元婚約者様の家もあの時に苦楽を共にした仲だからこそ、大事になるまでに解消したかった。それがわたくしなりの彼とあの家への誠意。
分かってくれている方がいるのは嬉しいのだけれども、このラクダ……。
顔立ちも喋り方もおっとりしているのに…………。
「そっかぁ。難しいなぁ。人体や医療器具には興味があるけれど、メンタルの方面には詳しくないせいか、どうにも口下手なんだよね。なんだか申し訳ないな」
「悪意は感じませんから、言い方次第では? 少なくともわたくしはあなたの真摯な思いと善意のようなものは感じました」
「そっか、ありがとう。あなたは誠実な方だ」
ラクダさんはさらに目を細めゆったりと微笑みます。
「こちらこそお褒め頂きありがとうございます。侯爵家の時期当主としてはなるべく誠実でありたいとは思いますが、時に手段を択ばない決断に迫られる時もありますわ。その点はどうお考えで?」
「あはははっ。あなたはおもしろいうことを言うね。ゲロ吐いてる所も見てるし今更かな。人間どうしたって汚いものを抱えているものだよ。領地はあなたの血肉でしょう。必要なら僕が桶を用意するし、治療方針に疑問を感じたらその都度声を掛けるよ」
「またあの件を……。やっぱりあなたのお口はいらんこといいで問題があるようですが、誠実な方には違いないと思いますわ。これから信じさせていただけます?新しい婚約者様」
「了解しました。婚約者様」
ラクダさんは呑気であけっぴろげでありながらも、貴族的な感性と嗅覚も持ちつつ、周囲に対する優しい目線がある方のようにも思えます。
個性が強すぎる方ですが……、何だか嫌いではないです。
お見合い初日から恋煩いをするほど慕う気持ちまでは沸いてはきませんが、これだけ個性的な方とお会いすると、これまでグルグルため込んで悩んでいたことが馬鹿らしくなりますね。
この方とだったら、はっきりきっぱりお互いの思いを口に出していけそうです。
信じてみたい、いつかは恋をしてみたい、そんな魔法をかけられた気分です。
お婆様譲りでだいぶ刺激の強い方のようですが、お互いにゆっくりと馴染んでいきましょうね。
さて、このご縁は、良薬口に苦しとなってくれるのかしら。