9 そんなの聞いてないんですけど!?
「でも、こうして来てくださったのが奥様のような御方で嬉しいです! とんでもない悪女だって聞いていたからどうなることかと……あ! 今のは――」
「別に構わないわ。ただ、念のため言っておくとあれは根も葉もない噂よ。私は一度だって男性を手玉に取ったりしたことはないんだから」
あからさまに「口を滑らせた!」と蒼白になるレアに、シュゼットは軽く笑ってみせた。
「でも侯爵閣下が雇ってくださって助かったわ。いつお役御免になるかはわからないけど、それまでよろしくね」
「えっ、ずっといてくださいよ奥様ぁ……」
「それは侯爵閣下の判断次第ね。案外すぐにクビになるかもしれないわ」
「私がやっていけてるので大丈夫ですよ!」
「あら、なら『奥様』をクビになったら次はメイドとして雇ってもらおうかしら」
そんな軽口を叩き合いながら、二人は屋敷の庭園へと足を踏み入れた。
「すごく綺麗ね……」
「はい、ここは……先代の侯爵夫人が大切にしていらっしゃった場所ですので」
そう口にしたレアの声は、深い悲しみを湛えているようだった。
シュゼットも静かに周囲を見回す。ガーデニングと家庭菜園がごっちゃになった実家の雑多な庭とは違い、きちんと手入れされた美しい空間だ。
先代の侯爵夫人亡き後も、残された者たちがこの場所を大切にしているのがよくわかる。
いくらユベールが許可したと言っても、シュゼットは何となく自分がこの場所にいるのが申し訳ないような気分になってしまう。
そんな時だった。
「くらえっ!」
そう声がしたかと思うと、べちゃ、と足に何かが当たった感触があった。
慌てて視線を落とすと、そこには――。
「なっ!?」
シュゼットがこの日のために必死に用意した一張羅のドレスが、無惨にも泥にまみれているではないか!
「な、なによこれ……!」
「ここから出てけ! 悪女め!!」
「ぎゃ!」
更に何球か玉のようなものが飛んできて、シュゼットは慌てて背後に飛び退いた。
美しい石畳に落ちたそれは、どうやら泥団子のようだ。
一体誰が……と視線を上げれば、まだ十歳にも満たないような小さな男の子がこちらを睨みつけているのが目に入る。
「帰れ! お前が悪い奴だってことはわかってるんだからな!!」
「坊ちゃま、おやめください!!」
慌てて、レアがシュゼットを庇うように立ち塞がる。
そんな彼女の白いエプロンにも、次々と泥団子が命中していく。
(え? 坊ちゃま……?)
まるで野生の猿のように躾のなっていないこの態度。
てっきり使用人の子どもかと思っていたシュゼットは、レアの言葉にぽかんとしてしまった。
坊ちゃま……ということは、おそらくあれはアッシュヴィル侯爵家の子どもなのだろう。
つまりは――。
(侯爵閣下の、隠し子!?)
ちょっと待て。隠し子がいるなんて聞いていない……!
「かーえーれ! かーえーれ!」
「奥様になんてことをおっしゃるのですか! いくら坊ちゃまといえども――」
「うるせぇババア! 帰らないと次は馬の糞をぶつけてやるからな!」
そう言い捨てると、小さな少年はたたっと走り去っていった。
……ユベールが決して近づくなと言った、別館の方へと。
「申し訳ございません、奥様! すぐにお部屋に戻りお召し変えを――」
「そうね、でも……」
レアと視線を合わせ、シュゼットにやりと笑う。
その顔を見たレアが、ひっと息を飲み顔をひきつらせた。
(いくら雇われ妻だからといっても、さすがにこれはないわ……!)
別に本物の妻になろうとは思っていない。
愛人を囲っていたとしても構わない。その愛人との間に隠し子がいたとしてもそれはユベールの勝手だ。
だが――。
(そのくらい、最初に言っておきなさいよ! 説明不足にもほどがあるわ!)
「侯爵閣下に、お話をお伺いしたいのだけど……!」
据わった目でそう要求するシュゼットに、レアは怯えたようにこくこくと頷いた。