74 たった一人の生き残り
「あの日……両親と兄夫婦、それに僕は父――先代当主の知人の屋敷に行く途中でした」
ゆっくりとユベールは語りだした。
例の事件の経緯について、公になっている部分に関してはシュゼットもよく知っている。
「ユベールは身内殺しなどではない」と自分に言い聞かせるために、何度も何度も記事を読み返したのだから。
「……本当はアロイスとコレットの二人も連れて行く予定だったのですが、直前にコレットが風邪をひきアロイスにも移っている可能性があったため、留守番になりました。……二人を連れて行かなくて、本当によかったと思います」
そう語るユベールの表情は悲痛に満ちていた。
……きっとこれから彼が語る話は、彼の心の中の傷を抉るものになるはずだ。
だがそれでも……シュゼットは真実を知りたかった。
ただの好奇心じゃない。少しでも、彼の痛みを分かち合うために。
「両親と兄夫婦がそれぞれ二人部屋に、僕は一人部屋に泊まることになりました。……建物の構造上、階が分かれていたんです」
ぐっと拳を握り締めながら、ユベールはそう口にする。
きっとそれが、運命の分かれ目だったのだろう。
「……ユベール閣下は、下の階だったのですね」
「えぇ、そうです。夕食が済むと、僕は一足先に自室へ戻りました。僕は父や兄のように社交的な人間ではないから、その方が気楽だったんです」
彼の声色からは、はっきりと後悔がにじみ出ていた。
もしもあの時、違う行動を取っていれば……そんな彼の叫びが聞こえてくるような気がするほどに。
「両親や兄、義姉は他の宿泊客と交流をしていたようでした。……その後の彼らの行動は、他者からの証言でしかわかりませんが、夜半過ぎに自室に戻ったそうです」
シュゼットもぎゅっと手に力を込めた。
いよいよ、あの夜に何があったのかが明らかになるのだ。
「……異常な熱さを感じ、僕は深夜に目を覚ましました。急いで廊下に出ると、既に煙が充満していた。他の宿泊客も着の身着のままで逃げようと階段に殺到していた」
その場の情景を想像するだけで、息苦しくなるような気さえした。
手足が汗ばみ、シュゼットはごくりと唾をのむ。
「そんな中を、僕は……上へ向かいました」
彼は逃げなかった。
残された家族の下へと向かったのだ。
何故か……なんて、問わなくてもわかる。
(きっと、私だって同じことをするわ)
ロジェ、ファニー、ソニア……シュゼットの大切な弟や妹たち。
もしも彼らが燃え盛る建物に取り残されているのだとしたら、己の身の危険など顧みずに助けに向かうだろう。
ユベールも、同じことをしたのだろう。
「上に向かうほど炎の勢いは強くなっていった。両親や兄夫婦が宿泊していた階にたどり着いた時……そこは既に火の海でした」
そう言って、ユベールは大きく息を吐いた。
彼の脳裏には、あの日の光景が今も焼き付いているのだろう。
◇◇◇
燃え盛る炎の中を、ユベールは必死に進んだ。
大声で両親や兄夫婦を呼ぼうとしたが、口を開けた途端焼けた空気が入り込みせき込んでしまう。
持っていたハンカチで口元を押さえ、それでもユベールは足を進める。
そして、奇跡的に探し人を見つけることができた。
「兄さん!」
熱気が喉を焼くのも構わずに、ユベールはそう呼びかける。
その場に座り込んでいた人影――ユベールの兄が、驚いたようにこちらを振り返る。
「ユベール……」
「兄さん! 父上と母上は?」
「……二人の部屋はこの奥だ」
「っ……!」
その一言で、ユベールは察した。
……両親はもう駄目だと。
廊下の奥は業火に包まれている上に、落ちてきた梁が廊下を塞いでいる。
だが、それなら――。
「だったら、早く逃げないと!」
ユベールがそう促しても、兄は静かに首を横に振るだけだった。
兄のすぐ傍まで近づき、ユベールはやっと兄がこの場から離れられない理由に気が付いた。
「義姉さん……」
火事の影響で倒れた柱の下に、義姉が力なく横たわっている。
ぐったりと目を閉じ、うめき声すらあげていない。
いつも穏やかで、優しく、口下手なユベールに対しても分け隔てなく微笑んでくれた彼女とはかけ離れた姿だった。
兄は投げ出された義姉の手を握り締めていた。
絶対に離すものかとでもいうように。
「リュシエンヌを置いてはいけない」
兄ははっきりとそう告げた。
「俺が……俺だけは置いていくわけにはいかないんだ」
「兄さん……!」
ユベールは義姉の上に倒れた柱をどかそうと力を込めた。
……本当は、試す前から分かっていた。
たとえ兄と二人で力を合わせたところで、どうにもならない状況だと。
「……やめろ、ユベール。お前は早く逃げろ」
「兄さん、何を言って……アロイスとコレットは!? 屋敷で待ってる二人はどうなる!?」
両親が死に瀕しているとも知らず、今頃はすやすやと眠っているであろう幼い兄妹。
兄夫婦はそれこそ目に入れても痛くないというほど二人を可愛がっていた。
アロイスとコレットの名を出すと、兄は悔しそうに唇を噛みしめる。
だが……ユベールの方を振り返り、彼は静かに笑ったのだ。
「……ユベール、あの子たちをよろしく頼む」
「何を――」
「お前には本当にすまないと思っている。だが……あの子たちと、アッシュヴィル家を頼む。お前にしか頼めないんだ」
その言葉を聞いた時、ユベールはぞっとした。
兄は生きて屋敷に帰るつもりがないのだ。
今ならまだ、間に合うのに。
ユベールと共に下へ降りれば、二人の子どもの下に帰ることができるのに……!
「そんな勝手な……! 僕に侯爵なんて務まるはずがない!」
「大丈夫だ、ユベール。お前は俺よりも頭がいいし、洞察力もある。きっといい当主になれる」
「そんなの……兄さんは勝手だ! 僕に何もかも押し付けないでくれ!」
「悪い、ユベール……リュシエンヌを一人にはできないんだ」
「なんでそこまで……」
ユベールには理解ができなかった。
兄が義姉のことを大切にしているのはよく知っている。
だが……もう助からない、もしかしたら既に死んでいるかもしれない義姉のために、次期侯爵の立場も二人の子どもも何もかも投げ捨てるのがわからなかった。
「義姉さんだってそんなことは望まないはずだ!」
「あぁ、そうだろうな……」
「だったらどうして……」
呆然と呟くユベールに、兄は義姉の手を握りしめたまま唇を噛む。
そして、悔しさをにじませた声を絞り出した。
「……俺のせいなんだ。父上も、母上も、リュシエンヌまでこうなってしまったのは……だから、俺が三人を置いていくことなど許されるはずがない」
「っ……!」
兄の言葉に、ユベールの頭に「まさか」という可能性が浮かび上がる。
ユベールにはわかってしまった。
兄が何をしたのかも、ここを離れられない彼の思いも。
「お願いだ、ユベール。あの子たちを孤児にはしたくない。だから、お前が……」
「…………わかった」
兄の言葉に頷き、ユベールは立ち上がる。
「兄さんのものになるはずだったすべてを、僕が貰う」
自身を鼓舞するようにそう口に知る。
その言葉に、兄は安心したように頷いた。
「……ありがとう、ユベール」
その場から立ち去るユベールには、確かに安堵したような兄の声が聞こえた。
それが、彼との最後の会話になった。
燃え盛るホテルから脱出したのは、ユベールが最後だった。
その後も炎の勢いは収まらず、やがて建物全体が崩壊した。
……何もかもが灰になってしまった。
たった一人生き残った青年に、重すぎる重圧を残して。




