55 私は『死神』ですから
「まぁ、アッシュヴィル侯爵閣下!」
さすがは「死神侯爵」とでもいうべきか、その場にいた人々はすぐにユベールの存在に気づいたようだ。
「お会いできて光栄です!」
「この前のお話は考えていただけましたか?」
「是非とも新しい事業へお力添えを――」
(うわ、すごい人……)
ユベールがその場に姿を現した途端、あっという間に殺到した人々に囲まれてしまう。
だが狼狽するシュゼットとは対照的に、ユベールは落ち着き払っていた。
「……すみませんが、少し抑えてはいただけませんか。我が婚約者が怯えておりますので」
ユベールがそう口にした途端、人々の視線が一斉にシュゼットへと突き刺さる。
好奇の視線もあれば、あからさまに値踏みするような視線もある。
彼らは見定めようとしているのだ。
「死神侯爵」の婚約者として現れたシュゼットに、どのような利用価値があるのか……もしくは、なんとかしてその立場にとって代われないかと。
(怖……閣下はいつもこんな世界に身を置いていたのね)
ユベールの婚約者となってからいろいろと彼に対する不満は尽きないが、それでもシュゼットはユベールの一部分しか知らなかったのだと思い知らされる。
こんな胃がキリキリするような場所で、彼は生きてきたのだ。
「まぁ、とても可愛らしいお嬢様ですこと。確か……マリシェール子爵家のお嬢様でしたわね」
(ひぇっ! もう私の素性まで知られてるの!?)
しばらく社交界から遠のいていたシュゼットは意識していなかったが、ユベールとシュゼットの婚約は既に皆の知るところとなっていたようだ。
吹けば飛ぶような貧乏子爵家の出身、しかも「男を手玉に取る悪女」の汚名を着せられたシュゼットを周囲がどう思うかなど想像に難くない。
(耐えなきゃ……。こうやって悪意に晒されるのだって、「死神侯爵」の婚約者としての仕事のうちなんだから……)
シュゼットは浮かべた笑みが引きつりそうになるのを必死に耐えた。
「以前婚約されていた方とお別れしたばかりだと伺っておりますが……良い方に巡り合えたのですね」
そう口にした貴婦人の目には、あからさまに蔑みの色が宿っていた。
「男好きがたたって婚約破棄された女が、なんとまあ厚かましい」とその顔は物語っている。
心臓が嫌な音を立て、口内がカラカラに乾いていくのがわかった。
……これは仕事だ。どれだけ嫌なことを言われても、にこにことユベールの隣で笑い続けるのがシュゼットの役目だ。
そう、わかっているのに……早くも心が折れそうになってしまう。
その時、気落ちしたシュゼットの肩に温かい手が触れた。
「えぇ、私にとってはこの上ない僥倖でした。ずっと前から思い慕っていた彼女が、今はこうして隣にいてくれるのですから」
まるで愛しい者であるかのようにシュゼットの肩を抱いたユベールそう口にしたのだ。
「私は『死神』ですから、略奪愛も厭いませんよ」
彼はにやりと笑ってそう続ける。
冷淡な「死神侯爵」らしからぬその言葉に、周囲の者の一部は驚いたようにぽかんと口を開け……また他の者は愉快そうに目を輝かせた。
「まぁ侯爵閣下……! 閣下がそんなに情熱的な方だったなんて存じませんでしたわ!」
「ほしいものを手に入れるためなら手段は選ばない。私はそういう人間ですから」
ある意味自虐とも取れる言葉だが、ユベールに声をかけてくる者は彼の悪評も承知の上なのだろう。
面白そうにああだこうだと言いあっている。
だがシュゼットは、おそらくはこの中で一番彼の言葉に驚いていた。
(だって、そんな風に言ったら……)
まるで、シュゼットの悪評すらユベールの手の上で、ニコルとメラニーの浮気すら彼が仕組んだように――シュゼットの汚名ごと、彼が泥をかぶるように聞こえるではないか。
「……いいんですか、あんな風に言ってしまって」
ユベールにしか聞こえないようにそう囁くと、彼は何でもないように告げる。
「既に僕の評判は地に堕ちていますから。今更悪事が一つ積み重なったことで大した影響はありません」
ユベールは何でもないことのようにそう告げる。
だが、その言葉でシュゼットの心が軽くなったのは……まるで、ずっと心のどこかに残っていたしこりが取れたような気がしたのは確かだった。